視線を感じて横へ首を振り向けると、ぱち、と赤い瞳と目がかち合った。
「……どうかしたか」
「あ、すまない!」
ついじっと見過ぎてしまった、と飯田が手を振って謝罪するのに、別にと気にせずの意で応える。赤の他人であればともかく、パートナーに見つめられて気を悪くする者などそうもいないだろう。だが飯田は普段不躾に人の顔を凝視する人間ではないので、理由は純粋に気になった。目で促せば、うむ、と経緯が述べられる。
「実は昼の休憩の際に、エンデヴァー事務所のスタッフの方から、君の表情の読み取り方を訊ねられてね」
「俺の表情?」
「ああ。なんで言いたいことや思っていることがそんなにわかるのかと……君はあまり感情が表に出ないから」
ああと頷く。昔から幾度となく指摘されてきた特性だ。改めたほうが良いのだろうと気にかけたこともあるが、なかなか改善に結びつかず、逆に周囲に困惑を生じさせたらしい一連などを経て、持って生まれたものなのだから無理せずとも、と友人たちに諭され赦免を受けるような形で今日まで至っている。
「なんでそんなこと訊かれんだ?」
ある種の今さらごとではあり、事務所内でも小さな話の種とはなれど深刻な問題とされたことはない。部外者の飯田にわざわざ振るとは、と疑念を湧かせて問うと、話題の通り少しの不機嫌も読み取ってしまう相手は、かばうように声急がせて答えた。
「決して君や俺に悪気があってされた質問ではないぞ! むしろ……ほら、昨年の秋口に、君が体調を崩して寝込んだことがあっただろう? その時にすぐ気付けなかったことを気にされていたようでね」
「ああ」
あまり良い記憶ではないが、頷き振り返る。十月に入り、飯田がある事件への協力要請で三週間ほど地方に遠征に出ていた時期の話だ。独りだからとあえて自堕落に過ごしたつもりはなかったが、帰宅しても誰もいない、と思うとつい仕事の時間が長くなり、食事や睡眠にも普段ほど気を遣わず、折悪しく急変した気候にも無頓着でいた。その結果、まんまと流行り風邪をもらって寝付いてしまったのだ。ある朝突然に連絡不通となった轟に事務所は一時騒然となり、遠征中の同居者へ急報が入って、飛んで帰った(詳細は聞けていないが事務所員いわく事実ほぼ「飛んで帰ってきた」らしい)飯田の看病と説教を懇々と受けることとなった。
九割どころか十割が自業自得と言っていい反省の一件であったが、所属ヒーローの心身両面の健康管理も仕事の範疇、と定める事務所スタッフからすれば我が失態であり、轟の思考や調子の把握しづらさは解決すべき課題なのだろう。
要らない世話を焼かせてしまっていることに少し落ち込みつつ、しかしこれすら読まれるとまた気を遣わせる、と努めて心持ちを切り替え、問いを重ねた。
「実際、お前どうしてわかるんだ?」
これは以前から思うところであったので、強いてごまかした響きにはならずに済んだ。ううん、と飯田が首をひねる。
「わかりやすいところはあるんだ。疲れている時や眠い時の癖とか……そういったところはお伝えしておいたよ。俺も事務所の方が君の不調に気付いてくださると安心だからね。だが、どうしてかわかるとしか言えない部分もあって……どう説明したものだろうと思って、今ちょっと見ていたんだ」
そう言ってまたこちらを見つめ、ふと笑う。
「もう付き合いもずいぶん長いからなあ。そこはさすがに一年や二年の相手に負けられないという思いはある」
らしくないとも言える優越感が声音ににじんで聞こえ、こちらも思わず笑みが浮いた。浮いた、と思うが、鏡がないので実際のところは定かではない。だが伝えるべき相手に伝わっているのは間違いないから、今はどちらでもいいだろう。
上向き調子のまま言葉を連ねる。
「けどお前、雄英の頃からずっとそうだったよな。付き合いの長さっつーなら、あの頃はほかのやつとそう変わりなかったろ」
自身で語っていたこともある通り、委員長という役職柄、飯田はクラスメイトたちに分け隔てなく気を配っていたが、根本の性質を言えば、良く気の回る察しのいい性格、というわけではなかった。やや場外れした思考や言動を見せることも多かったため(これに関しては轟もあまり他人のことを言えたものではないという自覚は薄々あるが)、逆に
真に気付きの良い人間からフォローを受けていたこともある。そんなところもなんだかんだと彼が愛されていた点であるし、得意不得意に任せず努力し責務を全うするという美徳の顕れでもあった。だが、そうした実情になんらかかわりなく、轟の変化に敏に気付いて声をかけてくるのはいつも飯田だったのだ。
「それは……気付くか否かというより君にすぐ声をかけるか否かの差もあったのだろうな。君や緑谷くんが黙っているのを放っておくと碌なことがないってことは、初めの二年までによくよく学んだからね」
だいたい君たちは少々秘匿や自愛の後回しが多いところがある、と馴染みの手信号が始まったので、これこそ放っておくと説教の流れだと気付き、そうだなと半ば無理やり口を挟んだ。
「お前はいつも丸出しだもんな」
「ま、丸出しとはなんだねヒワイな!」
「別に卑猥ではないだろ」
大仰な身振りや声と態度の抑揚、轟に比べれば何倍も豊かな表情、そして胸の内を臆せず発する裏表のない性格もあり、飯田は昔から「わかりやすい」部類の人間だ。今は少し言葉選びが悪かったために湯気を噴かせたが、お陰で当時の轟でさえ自身の経験に重ね合わせて彼の秘めた翳りに気付き、結果としてその身を援けることができたのだから、決して悪い性質ではない。
照れを隠すように眼鏡のブリッジを押し上げてから、まあ、と回想を同じくしたらしい飯田は語った。
「要らぬ秘匿をしたことで初めに人に迷惑をかけてしまったのは僕だから……それからは、できるだけ自分の思惑や明かすべき情報を開示するように心がけているところはあるよ。とは言え兄さんや両親にも昔からわかりやすいと言われてきたから、もうそういう性分なんだろう。君に少し分けてあげたいぐらいだ」
丸出しは本意ではないからな、と口尖らせる反応からしてわかりやすくまた愛らしいのだが、指摘すればさらに膨れさせるだろうと今度は差し出口を自重する。拗ねはいつもながら長く続かず、真面目なヒーローは数秒のうちに機嫌と話題を自ら元へ戻した。
「ともあれ、心身の不調が見過ごされてしまうのはやはり良いことではないから、君も何かおかしいと思ったら気兼ねせずに周囲に表明していったほうがいいと思うぞ。顔に出ないなら自分から口に出せばいい」
「そうだな、気を付ける」
助言もスタッフの気遣いももっともで、撥ね付ける理由はない。承知の頷きを返したが、飯田はむうと思わしげに眉を寄せた。
「ただなあ、君は自分でおかしいと気付かないことがあるからなあ……昨年の場合はまさにそれだったわけだし」
どうしたものか、とまたも大きく首をひねる様子に世話をかけて悪いと感じつつ、こうも如実に心配を表され大事にされていることが伝わると、多少嬉々としてしまうのも仕方がないのではないかと思えた。
「お前のコスチューム、フルフェイスで良かったな」
「え?」
唐突な話題の転換にぱちぱちと目瞬きが返る。構わず轟は続けた。
「顔が隠れてりゃ丸出しも少しはマシだろ」
「また君……別に俺のメットは表情隠しのためのものではないぞ! 空気力学を考慮した造りで、レシプロで全速力を出した際にも……」
「お前がずっと顔出ししてたら絶対惚れちまうやつが増えるから、隠れてたほうが助かる」
挟んだ言葉で手が止まり、口もぱかりと開いたまま固まる。
「そ、」
そんなことは、と否定を述べかけたのだろう声は、じっと見つめる轟の視線から何を読んでか続きを失い、じわじわと頬に朱が昇っていく。単純に飯田の顔は整っている。それがこうもくるくると純な反応を見せるのだから、常から晒される衣裳でないのは自分にとってはもっけの幸いだった。
二の句を継げずにいる顔へ、にっと笑いかけてやる。笑いかけた、と思うが、やはり実際のところは定かではない。だが伝えるべき相手に伝わればほかはどうであれ構わないのだ。結局のところ。
しばし無言の応酬があり、先に音を上げたのは飯田だった。赤い顔を手で覆い、はあ、と大きくため息をつく。
「あんまり表情が読み取れてしまうのも良くないかもしれないな……君を余計に甘やかしそうになる」
「俺は別にいいぞ」
「俺が良くないんだよ、もう」
雄英の頃から贔屓には気を付けねばならないと思って、と、そこまで言ってはたと声が止まり、手のひらにさらに顔を深く伏せてしまった。
「飯田?」
「ああ、うん……」
呼びかければ、珍しい不明瞭な声とともに、赤い瞳が指の間からそっとこちらを覗き見る。
「わかってしまったかもしれない」
「何が」
「雄英の頃、君の表情に良く気付いて……無用に贔屓しないように気を付けていた理由」
当たり前のことだった、と飯田は言う。
「だって、あの頃からずっと、俺は君ばかりを見てしまっていたんだから」
再び手に埋もれる横顔を不躾な強さで凝視した。表情は見えずとも、赤く染まった形良い耳、前へ倒れて襟から覗くすらりとした首筋、丸めた広い背、いとけなくもどこか婀娜めいた照れが全身から伝わってくる。おそらくは無表情のまま、轟は口を開いた。
「……メット」
「え?」
「メット被れ。今すぐ」
「えっ? いや、もう着替えてしまったからメットはないぞ?」
「じゃあジャケット被ってろ」
「いやいや、これではまるで犯罪者じゃないか!」
「丸出しだぞ。見せるな」
「露出狂のように言わないでくれ! だいたいここには君と君の身内のスタッフの方しかいないだろ」
「身内でも家族でもお前のエロい顔見せたくねぇ」
「エ……、とどろ、……ショートくん!」
咄嗟に名前を言い直したのは自身ともどもに場所と時間を思い出させるためだろうか。もはや遅きに失している感が強く、呼びかけが出てきた時点でもともと乏しい文句の語彙もさらに失っている。ひるまず見返せば逆に目がうろうろとさまよい、そうだ、とわかりやすく別の話題へ逃げ込んだ。
「遠征などで離れているあいだは、朝の連絡をウェブ通話で顔を合わせてするのはどうだろうか! もし君自身が気付いていない不調を感じたらその場で指摘もできるし、俺から君の事務所へ連絡させてもらってもいい」
「いいけど、俺お前がいないとたぶん寝起きの顔ひでぇぞ」
「あれよりさらに……?」
「できれば夜のほうがいい」
「うーん」
「駄目か」
「夜だとその、……会いたくなってしまいそうじゃないか」
「……メット」
「だからないと……ジャケットを引っ張るのはやめたまえショート君!」
「あのー、似た場面を昼にも見たような記憶が……」
「これが業界で言う天丼ってやつだぞ新人」
「手続きが押して待たせてる時の指標みたいなものだから」
「インゲニウムのアドレスゲットチャンスだな」
「直前のやり取りを想像する居たたまれなさでプラスマイナスマイナスじゃないですか」
――夕刻、活動報告手続き待ちのエンデヴァー事務所・東京支部(チームアップ with インゲニウム)にて。
完。