ラブキャットプリント
久々に連れ立つことのできた買い出しの帰路、おや、と呟いて足の運びをゆるめた飯田は、改築中らしき住宅の門のあたりを眺め見ていた。土間打ちされた地面に落ちる視線を追って轟も目をやると、生乾きの光沢の残る平らなコンクリートの上に、目立つ小さな窪みが数個、仮設の門扉を横切って庭の中へと続いているのが見えた。
「猫が歩いてしまったようだな」
「たまに見るな。足跡付いてんの」
既に固まった地面に模様のように付されているのを見たことは幾度かあるが、今まさに付こうとしている現場を見たのは初めてだ。固まるまではまだ日がありそうだが、施主かあるいは工事の人間は気付いて直すだろうか、などと、歩みの速度を戻しながら他愛もない話を広げる。
「見る分には愛らしくていいなんて思うが、まあ水や汚れが溜まってしまうような害もあるだろうし、普通は直すのだろうな」
「しかしまた堂々と通られたもんだな」
敷地の外から中へまっすぐ上がり込んだ窪みは、そう図ってわざわざ付けたと言われても信じられるような見事な線を描く足跡だった。まるで家主かのごとく門の中心を我が物顔で歩いた猫は、今頃どこでどんな顔をして過ごしているのだろう。
「セメントス先生のような個性の持ち主がいれば別だが、そうでなければ猫除けの工夫をしておくことも多いようだよ」
「そんなに寄ってくるもんか? やわらかいコンクリの上なんて俺なら歩きたくねぇけどな」
とは言え実際に固まり残った足跡を複数回見ているのだから、猫はそうしたところに頓着しないらしい。ふむと頷き、腕を上げ下げしながら飯田が語る。
「確かコンクリートが固まる時に生じる水和熱に惹かれてくるとか、硬化する前の匂いが好きらしいとか、新しいものへの興味本位だとか、単にいつもの通り道を歩いているだけだとか、様々な説があって、真相はわかっていないということのようだったぞ」
「ふうん」
相変わらず知識の多い人間だなと素直に感心して相槌を打ち、次の話題は腹の虫の乞う夕飯の中身に流れて、猫の足跡の話はそれぎりになった。
――といったような今日の夕刻の出来事を、まっすぐに伸びた骨に沿って三つめの赤を散らした瞬間に、不意に思い出した。水音立てて離れた舌と唇、そしてまだ轟の欲を浅く喰わせている後孔からの刺激に、んン、と濡れた声を漏らし、うつ伏せに組み敷く身体がかすかに動じる。
そうか、と記憶の中の疑問にひとり得心しつつ、今度は肩甲骨のあたりに口を寄せる。うつくしく鍛え上げられた広背筋の隆起を舌で辿り、皮膚の薄い場所を見つけては唇で吸い上げていると、やがて妙なしつこさに気付いたらしく、飯田が下から呼びかけてきた。
「……轟くん、ちょっと」
「どうした」
「背中が凄いことになって……と言うか、凄いことにしていないかい?」
怪しむように訊かれる。ちらと改めて眼下を見て、答えた。
「左に三つぐらいだぞ」
「右と中央は?」
さすがにこの程度で騙されてくれはしない。十まで数えてあとを諦め、言葉を曖昧にして丸め込みにかかる。
「……見えないから気にならないだろ」
「見えないのは俺だけじゃないか」
見えないから恐ろしいんだよ、などと剣呑な言葉を使うので、抗議の意を込めて
体側を掴み、掌底と五指の先を使って下腿から脇腹、胸の横までをそろりと撫ぜ上げてやった。ひゃあと裏返った艶声が上がり、すぐに小言に変わる。
「もうっ……真面目な話だぞ。見えないところに跡があるかもと思うと、外での着替えの時にとても気を遣うんだ」
「つってもお前のとこでは前からずっと知られてただろ」
「だから、知られてるから恥ずかしいんじゃないか……このあいだも気付かず脱いでしまってひと騒動だったよ」
ただでさえ昔からのメンバーにたびたび冷やかされているのに、ショートって意外に情熱的なんですね……なんて新人の子に言われた俺の居たたまれなさがわかるかい、と切々とした声で訴えられるが、確かその折は「インゲニウムに色目を使っている若いのがいる」というイダテン古参メンバーからの内報を受けてあえてそう仕向けたので、こちらとしてはしてやったりという感想しか出てこない。ようやく世へ報せた数年来の恋人を大事に可愛がって何が悪いんだという思いも当然にあり、訴えは右から左へ聞き流して身を伸び上がらせ、散々に暴いた奥を侵しながら盆の窪へ口付けると、感じ入った吐息が叱声を上書いた。
「あっ……ン」
「多く付けた時は教えるようにする」
「んん……、もぉ」
返る声には既にやわらかな笑いがにじんでいて、言葉が先へ続いていれば、まったく仕方がないな、と甘やかしが出てきていたであろうことは明白だった。気を良くして首筋に頬擦りをし、また口付けを落とす。ゆるく敷布を掴む左手に自分の左手を重ね、一対の環のはまった指を絡めて握り、逆の手で背へ腹へと愛撫を施しながらゆるやかに腰を遣うと、枕のきわに埋めた口からあえかな息が漏れた。
そのままごく穏やかに動き、余すところなく重ねた身体を優しく揺さぶっては浅く深く
胎内を犯して、沁み入るような官能を分け合った。やがて、駄目、だめだ、と切れぎれにこぼれ始めた訴えをむしろ弾みとし、なお甘く責め立て引き出した快感に堪えかね、ひくんと淫らに震えて反り上がった背の彫刻のごときうつくしさに喉が鳴る。
ちゅ、と音立てて新たにひとつその上に赤を咲かせたのを聞き止めてか、熱い息を吐いて敷布に沈んだ飯田が首ひねって片目でこちらを見上げ、今度は純粋に訊ねてきた。
「……俺の背中、今日は何かあったのかい」
執心のきっかけでも見つけたのだろうかと考えたらしい問いに、
「いや、なんもなかった」
正直に答え、怪訝な視線を送られる。なかったことこそがきっかけであったので、何も嘘は言っていない。
「このあいだ付けた跡も、全部消えちまってたから」
若い肌は回復も早い。飯田の上半身に目立って残る痕は左肩の古傷が一番のもので、活動スタイル上無数の傷を得る脚に比べれば、胸も腹も背も綺麗なものだ。
「また一から付けて俺で埋めてやりてえなって」
足跡みてぇに、と言うと、ぱちくりと目瞬きが返り、やがて意が正しく伝わったのか、眦がじわり赤く染まる。
新雪の絨毯の上に子どもが競って飛び出し、一面の無垢に自分が刻んだ足跡を自慢するように、あの平らに均されたコンクリートの上を猫は胸張って歩いてみせたのかもしれない。そんな回答を「様々な説」のひとつに加え、普段喩えられがちな獣の様を演じるべく、広い背を撫ぜ、口付けを落とす。中で達したばかりで感覚が鋭敏になっているのか、水泳の折でもなければ外では滅多に晒さない肌に己の跡を刻むたび、下でそわりと身が震えて甘やかな声を漏らした。
この跡のうち朝まで残っているものは何分の一かだろう。消えては付けて、また小言と甘い許しを得て、笑い触れ合って。そんな幸いをくり返すうちにいつか背を愛でるだけで極めさせてやることもできるようになるやもしれない、などと俗なことを考えていると、絡めた指をくいと引かれ、焦凍くん、と名を呼ばれた。
「ん?」
「背中はもういいから……」
いやあまり跡が残るのは良くないんだが、と釘刺しは忘れずに挟みつつ、潤んだ赤の瞳がこちらを見上げ、
「そろそろ顔を見させてくれないか。……キスも、口にしてほしい」
含羞にかすれた声で甘え恋われて、否と答えられるはずもない。
性急につながりを解いてまた多少の叱声をこぼされながら、力の抜けた身体を仰向けに返させて、腕に囲って上下に向き合う。乱れた黒藍の髪を梳き整えてやった指でそのまま頬を撫で包み、望まれた通りに口付ければ、すぐに開いた裡へ迎え入れられた。触れ絡める肉の熱さとやわらかさを存分に味わってから一度離れ、通った鼻梁の先へ、眉間へ、額へと、徐々に伸び上がって唇を遊ばせる。腕に抱き込んだ恋人が心地よさげに息鳴らすのを聞き、上機嫌で体勢を下へ戻しかけた瞬前、ぴりと胸の上にかすかな痛みが走った。反射に落とした視線が悪戯っぽく光る赤とかち合う。
「お返しだ」
鎖骨へ喰いついた並びの良い歯をのぞかせ、ふふんと得意げに言って笑う様は、猫よりはやはり愚直な情の篤さを隠せない犬に似ている。
やったなと口角上げ返し、小言を落とす代わりにまれな悪戯を働いた口へまた自分の口を重ね、遠慮なしに喰いかかってやる。合間にくつくつくすくすと笑いが行き交って、日ごと新しく刻む幸福を奏でた。
この噛み跡が次の朝まで無事に残っていたなら、たまには胸元を少し開いた格好で仕事をしてもいいかもしれない、などと俗なことも考えながら、それよりも腕の中の無垢へ今ここで愛を証し伝えることを念頭に、まずは言葉で好きだと唱え贈るべく、穏やかにほほ笑む恋人の名を正面から呼びかけた。
Fin.