きみいろフレーバー
「読書かい、麗日くん」
不意にソファの横に現れた長身を見上げ、驚きを返す代わりにうんと力強く応えた。四六時中きびきびはきはきとした面白騒がしい言動を見せているわけではなく、そばへ立つまで気配の伝わらないほど静かに動くことも話すこともできる委員長。丸一年以上も共同生活をしていれば、クラスメイトたちの意外な一面にも慣れたものだ。
「梅雨ちゃんにお薦めされたんやけど、もう二週間も借りっぱなしやから集中して読も! と思って」
「ほう、昨年の本屋大賞だな! 俺も発売当時に読んだが大変良い作品だった。叙情的な筆致で魅せながら、中盤から息つかせず二転三転する展開にはうならされたよ」
開いた表紙を前へ示せば、さすがの多読家の頼もしい評が返る。常のボリュームになった声がふたりきりの共用スペースに響き渡って、そっかあ、と思わず笑ってしまった。
「今ちょうど半分ぐらいのとこやから、ネタバレせんといてね!」
「もちろん。楽しんでくれたまえ」
ふたりきり。つまりたった今までお茶子は広い共用部にひとりきりだった。そんな時、飯田は相手が誰であっても何をしていても必ず声をかけてくる。意識的になのか無意識になのか、そうしてそばで言葉を交わすことで、彼はクラスに「独り」の憂いが生じてしまっていないかを確かめているのだ。時にはうるさげにあしらわれていることもあるが、委員長らしい真面目さと根の優しさが表れた飯田のそんな振る舞いがお茶子はとても好きだった。
今はたまたま読書の趣味にかかる反応が出ただけで、問題なしと見ればすぐに確認終了となる。案の定、それではとそのまま脚が前へ動き出してしまいかけたので、飯田くん、と反射的に呼びかけた。
「む?」
「えっと、飴ちゃん食べてかへん?」
咄嗟にテーブルから取り上げた飴の袋を顔横に掲げながら、さすがに呼び止め方おかしいやん、と内心冷や汗した。実は自分の口にも入っている飴を苦く感じてしまいつつ、本のことで何か続ければ良かったと後悔するお茶子をよそに、飯田は少し首傾げながらも話に乗ってきた。
「懐かしいパッケージだな。ずいぶん大きな袋だが」
「なんかね、市販の飴を使って作るお菓子があるんやって。で、材料にいっぱい買い過ぎたから自由に食べてって砂藤くんが置いてくれたんよ」
「なるほど」
がさがさと大袋の中で色とりどりの飴が跳ねる様子に興を引かれたのかどうか、特に後の用もなかったらしく、足を返して隣へ座ってくれた。胸の中でガッツポーズを決める。お茶子とて飯田に特別の用事があったわけではない。それでも、最近話す機会のなかった仲の良い友達が、結果的に不要であっても優しい気遣いを寄せてくれたのだ。そのまま去らせてしまう手はなかった。
「飯田くん、どの味がええ?」
「お任せするよ」
同じメーカーの三種の商品が詰め合わせになった大袋には、六種類のフルーツの飴と、三種類のソーダの飴と、二種類のミックスフレーバーの飴がごちゃ混ぜに入っている。手の上で転がし、りんご、ぶどう、サイダー、カフェオレ、と順にはじいて、残ったひとつをつまみ出した。
「じゃあはい、これ!」
ありがとうと差し出された大きな手のひらにころんと落ちる、鮮やかなオレンジ。一度、二度と目瞬きして見つめ、飯田はふふっと噴き出すように笑った。珍しい。
「どしたん?」
問うと、いやね、と口を押さえて答える。
「皆なにかというと俺にオレンジ味を選んでくれるものだから」
「あっ、ひょっとして嫌やった? ひゃーごめん、取り換えるね!」
飯田と言えばエンジン、飯田のエンジンと言えばオレンジジュース。いつの間にやら切っても切れない連想になってしまったが、別に好物なわけでもないということだから、事あるごとにオレンジオレンジと押し付けられればうんざりもするだろう。慌てて謝罪したが、飯田は大きく腕を振ってお茶子の言葉を否定した。
「嫌だなどということはないぞ! むしろ嬉しいよ。皆が俺のことを良く知ってくれていて、気にかけてくれているということだから」
そう言って手の中の飴を見つめる瞳は燃えるような赤色で、それでもやっぱり飯田と言えば、もっと黄味の強い橙の
彩。
「中学時代も俺のガソリンのことは周りに隠したりしていなかったが、こうして菓子を渡してくれる級友は一人もいなかった。家ではむしろ純粋に燃料扱いだったしね。雄英に入ってからだ、こんなにオレンジを口にするようになったのは」
世にはこんなに沢山オレンジ味のものがあるんだなと感心してしまったよ、と浮かべる笑みに屈託はない。ほっと息ついて話題を続けた。
「そうなんよ、もうオレンジ見ると飯田くんの顔浮かぶもん」
「実を言えば俺も、お茶やお餅を見ると麗日くんの顔が浮かぶよ」
「えー、うら若き女子高生の連想としてどうなん」
「それを言ったら、たくましいヒーローを志す男子高生の連想としてオレンジもどうなんだい」
他愛ない掛け合いを交わし、くすくすと笑い合う。出会ってすぐの頃の態度からは想像もつかないぐらいに、飯田はやわらかく穏やかになった。いや、本当は初めから割とこんな感じでもいたのだけれど、より頻繁に、近しい人間の前以外でもこうしたやわさが前に表れ出てくるようになった。クソ真面目、石頭、ロボット、そんな評が聞こえるたびに、飯田くん惜しいなぁ、などと偉そうにも思っていたお茶子には喜ばしいことだ。その一方で、ちょっと出過ぎてきたかなぁ、なんて贅沢なことを思ってもいる(ついでに、ロボットみたいな動きは面白いから無くならんとええなあ、なんて思ってもいる)。
いただきます、と行儀よく唱えてから飯田は小さな包み紙を開け、オレンジの飴をころりと口に入れた。うん甘いな、とすぐに感想を述べる。食事中はものを口に入れたまま喋らない、を徹底している飯田だが、飴やガムはそうした作法の範疇外らしい。口が大きいから中で邪魔にならへんのかな、などと、豆粒大になった甘味料の塊を口中で転がしながら埒もなく考えていると、前方から人影が近付いてくるのが目に入って、本のネタバレに直面したように次の展開が読めた。
ネタバレの主は紅白の髪をさらさらと揺らしながら歩いてきて、こちらを認識したとおぼしき瞬間、素早く足の向きを変えた。まっすぐソファに向かってくる異色の目は、一瞬前までA組の誇る色男にあるまじくぼんやり眠たげにしていたのに、今は欄と輝いているようにさえ見える。見つかってしまった、とお茶子は愉快半分、残念半分に考えた。これこそまさしく「贅沢なこと」のひとつだ。
「何してんだ」
テーブル横に足止めておもむろに発された、抑揚薄い端的な言葉も、今やお馴染みのものと言っていい。クラスメイトに「仲良しごっこじゃねえ」などと言い放ち、何に対しても関心なさげでいた頃の姿は消え失せ、むしろ人の輪に積極的に加わりに挑む今の轟は、時に大人を目指して背伸びする幼児のようですらある。素直さと懸命さの伝わる努力をA組の仲間たちのほとんどはあたたかく見守っていて、お茶子も例に漏れず、当然、委員長であり彼の親友である飯田もそんな眼差したちの筆頭のひとりだ。
ただし、とお茶子は心中で註を挟む。
「飴を頂いていたんだよ」
君もどうだい、と自然に誘いかける言葉に、異色の瞳の輝きが増した。仲間たちの輪に入ろうとする轟は一生懸命な幼児だが、飯田の隣に座を占め、あわよくばそれ以上に近付こうとする轟は、クラスに好きな子がいるただの男子高生だ。輪の中に眼鏡の委員長の姿を見つければ十割確実に寄ってくる。冬にあたたかな日なたを見つけた犬や猫のよう、と少し含みのある喩えが浮かんでしまうのは、これまた「贅沢なこと」のひとつとして許してもらいたい。
「もらう」
好きな子が誘ってくれた、嬉しい、とまるで顔を変えずに顔に出すという器用なことをしながら、轟は飯田の反対隣りにそそくさと腰かけた。距離はお茶子と飯田の間と同程度、よりほんの少し近い、というあたりに真面目な心根がうかがえて、そんなところは単純にほほ笑ましい。
「沢山あるぞ。どれがいい?」
「なんでもいい」
先ほどの再現のようなやり取りをして、飯田がパッケージ裏に貼られた内容物の絵を検分する。先に目当てを決めてから取り出すようだ。こんなんにも性格って出るんやなぁ、と感心して眺めていると、うむと頷いた飯田は袋の口を開いて中を覗き込み、大きな手を差し入れて飴をかき回し始めた。決めた割には妙に荒っぽいと思う間もさほど長くはなく、ひょいとつまみ出された小さな飴が、じっと「待て」をしている轟の前に差し出される。
「君はこれだな」
ふふ、と鳴らす笑いにかすかな茶目っ気が混じり入っている。とても珍しい。浮かんだ表情も見たかったのに、身体が話す相手に行儀よく向かってしまっていて、お茶子の目に映ったのはそれを正面から直視した轟の驚き顔だけだった。ずるい。
「おう」
いつもの相槌。照れても驚いても態度にはほとんど表れ出ず、色男は色男のままだ。とてもずるい。
男子ふたりが動きを止めてしまったので、お茶子はええいと自ら身を乗り出して、飯田の大きな身体越しに、選び出された飴を見た。意外に男らしい形の手の上に乗せられた、特徴的な包みのひと粒。カフェオレと並んで袋の中の数が一番少ないミックス味。底に沈んだ残りをわざわざ探して贈られたのは、
「いちごみるく」
色男の口から聞くと少々けったいな、かわいらしい名、かわいらしい外装、
紅と白の融け混ざった、かわいらしい薄桃色の小さな飴。
「それでいいかい?」
「おう」
好きな子が手渡してくれた、嬉しい、と顔に出ている(出ていない)男子高生は、きっと飯田が選んだものならなんでも良しとしただろう。しかしお茶子は知っている。直前までまさにそんな話をしていたのだから。だから、さっそく包みを開いて取り出された愛らしい色形の飴と、傍らの親友の姿とを見較べる飯田の笑みが、やわらかくも少し面映ゆげに色付く気持ちをにじませていることにも気付けている。
「甘ぇ」
ころりと三角の粒を口に含んだ途端の感想に、お茶子と飯田の笑い声が唱和した。袋の中で一番に甘いフレーバーだ。恋する相手に手ずから選び渡されたのだから、きっと倍増しに甘いだろう。
「砂藤くんの手作り菓子も大変美味しいが、たまには市販のものも悪くないな」
「糖分補給しとるーって感じだよねぇ」
とは言え、今日は少しばかり過剰に摂ってしまった気がする。芦戸あたりがいれば人の分まで進んで消費してくれたかもしれないが、ほかの女子が同席していた場合に飯田がここまで無防備になったかどうかはわからない。
「飯田はなんの味にしたんだ」
「麗日くん推薦のオレンジだよ」
「それも欲しい」
「糖分補給は大事だが、摂りすぎも良くないぞ」
「部屋持って帰ってあとで食う」
言いつつじっと見つめるのはテーブルの上の飴の袋ではなく、隣り合う相手の飴玉のような赤い瞳。そうかいと返事してつと袋へ向き戻り、甲斐甲斐しく望みの色を探す横顔は、普段を良く知ってようやくわかるほどかすかに紅潮している。
緑谷と並んでクラスの誰より先に、委員長にすらなる前に、飯田の良さに気付いて親しくなった自負のあるお茶子は、少しの優越感と、少し贅沢な寂しさを胸に、ほわりとした甘色の空気にひたる二人を眺めた。全体がそう先ではないだろう未来のネタバレ、といった趣のある光景は、むず痒いけれどもほほ笑ましい、幸せだけれどもほんの少し悔しい、とりどりの色味が混ざり合ったような、なんとも複雑な想いを胸に抱かせる。
大事な娘をお嫁に出す父親ってこんな感じなんかなぁ、と埒もなく考えながら、こちら向きになったパッケージの裏を見る。三種類の炭酸入りの飴を口にしたら、飯田の個性はエンストを起こすのだろうか。訊いてみたいが、轟には答えを聞かせたくないかもしれない。また今度こっそり訊ねてみることに決める。
そういえば轟の左目はソーダ味の飴玉のようだ、なんてこともふと思いついたけれど、それは好きな子の内外に良く気が付く飯田がいつか自ら思い至ってしまうだろうから、今はネタバレを控えておこう、と残り半分になった本を膝の上に取り上げる。何味だったか忘れてしまった飴は舌の上でとうに溶けてなくなっていて、次はカフェオレ味を飯田に探してもらおうと、照れて会話を絶やせた青春男子二名のあいだに声を投じるべく、お茶子はそ知らぬふりで甘さの残る口を開いた。
Fin.