Fly with me, Fly with you.
「轟くん、こっちだ!」
先行していた飯田にぐいと腕を引かれ、わたわたと脚をもつれかけさせながらも、角を曲がってまたすぐに見えた狭い脇道へどうにか飛び込んだ。横並びに壁に背を貼り付け口をつぐんで数秒後、来た道にいくつもの足音と人の声が押し寄せてくる。
「ここ曲がったよね?」
「もう少しで追いつけそうだったのにー!」
「駅のほうまで行っちゃったのかも、近道しよ!」
口々に叫び交わし、アスファルトを蹴立ててそのまま前へ駆けていく十人ばかりの女子たちの姿が通りの向こうへ消えたのを確認し、さらにたっぷりの間を空けてから、はあ、と息を重ね落として元の道へ戻った。彼女たちは追跡捜査型のヒーローの素質があるな、と飯田が冗談か本気かわからない言葉を漏らし、こちらへ心配の視線を向けてくる。
「咄嗟に引っ張ってしまってすまない。どこかひねったり痛めたりしていないかい」
「ああ、大丈夫だ」
全力一歩手前の速度で走ったため多少息切れはしているが、それだけだ。飯田はと言えば呼吸どころか髪さえわずかにも乱していない。さすがと思う感心と悔しいと思う競争心が胸中で混ざり、もやつきに取りまぎれて、礼を言う機を逸してしまった。
「駅側へは行かないほうが良さそうだな」
「けど店はあっちの通りじゃねぇのか」
「うむ……確か一方は地下道からも入れたような記憶が」
嵐が去っていった先を眺め、携帯ですぐさま代わりの道を調べ始める飯田は常とごく変わらぬ様子で、轟への嫌味のみならず、追ってきた女子たちへの愚痴のひとつもこぼす気配がない。逆しまに後ろめたさが湧いて、内から広げられるように口を開いた。
「悪ぃ、面倒かけて」
「む? 君は何も悪いことなどしていないだろう。謝る必要なんてどこにもないぞ」
事もなげに返される。それだけ君が人に好かれているということだ、と笑いさえ重ねられたが、そうか良かったと鵜呑みにして流すことはできなかった。その言葉がただ言葉通りの意味だけでなく、だから気にするな、というフォローの意を含んでいるのだということに気付ける程度には、轟の心も多少は成長している。
二年に進級し、新一年生を迎えてすぐの「追っかけ騒動」は、飯田と学校側の注意、そして当の新入生たちの反省と謝罪により早期に沈静化に至っていた。しかしその後も雄英学外では人から名指しで声をかけられたり、周囲に集まられてしまったりすることが時折あった。今日は寮での夕食会の買い出し役に任じられて飯田とともに出てきたのだが、目的の店にたどり着く前に女子中学生とおぼしき数名に呼び止められ、応対しているところへまた人が加わり、輪ができ始めたのを見て何があるのかとさらに増え……という悪循環の末、最後には軽いパニックが生じてしまった。やむを得ず謝罪の礼を残してその場を去ることしたが、興奮状態の幾名かにあとを付いてこられてしまい、結局全力で逃走せざるを得なくなったという顛末である。
「初めに断っておきゃ良かったよな」
ほんの二、三人だからと呼びかけに応じてしまったのが誤りだった、と反省を述べるも、飯田はやはり気にせずの顔で首を振る。
「結果論さ。俺だって途中でもう少し強めに注意をするべきだったし、そんなに気にしないでくれ」
雄英の外でも率先して周りへ配慮を呼びかけてくれる飯田だが、やはり外部の人間には効果が薄い。そもそもそんなことを友人にやらせている状況がおかしいのだとわかってはいるものの、自分ひとりでああした混乱を回避できたためしがなかった。こう幾度も重なると気にかけないほうが難しいというものだ。きっと飯田もそんな轟の悩みを察しているから、あえて気付かぬ態度で「ああいった時の女性のバイタリティには逆に感心してしまうな」などとまた笑ってみせる。
「うん、やはり地下街から直接入店できるようだ。ただ地下への降り口は駅のほうだから、念のため慎重に向かうとしよう」
行こう、と言って歩き始める背中を追い、轟も前へ踏み出す。広い背だ。近頃は、いや、あの日の戦場からずっと、自分は飯田の背中ばかりを見ているような気がする。
また気遣いが返されるのをわかっていて謝罪や感謝の言葉を口にすることもできず、かと言ってのんきな世間話も出てこず、歩を速めて横へ並べないでいるまま、斜め後ろからもう大人に近い骨張った頬と顎の線を眺めていると、ほつり、飯田が呟くように言った。
「君がプロデビューをしたら、きっともっと沢山の人に注目されて、追いかけられたりするのだろうな」
ごくなにげない調子で発された言葉は、そのやわらかな声音と裏腹、驚くほど鋭く胸を刺した。飯田、と呼んだつもりの名が口の中でむなしく消える。眼鏡の奥の赤い瞳が視線を少し上向きにして、遠く空向こうを見つめている。
いやだ、と聞き分けのない子どものように胸の中で首を振り立てた。
そんな離れた場所にいるみたいに言わないでくれ。俺はまだ、お前が見てくれているほど遠くへなんて行けやしない。
ここにいる。もっと近く、できるならずっと、その隣で――
「……轟くん?」
無言のまま足の運びを鈍らせた轟に気付き、飯田が気遣わしげに声をかけてくる。
「大丈夫かい? 気分が悪くなってしまったようなら、買い出しは俺に任せて君は寮へ帰っていてくれても問題ないぞ。ひとりで持てない量ではないだろうから」
言葉とともにしゅっと振り出される左腕。一年次に負った傷跡と後遺症の残るその手を、来春の休暇中に手術することを決めたと、数日前に教えられた。
『あのとき君と緑谷くんの前で誓った通り、自分が本当のヒーローになれるまで残そうと思っていたんだ。だが「それ」が一体いつなのかと……雄英を卒業した時なのか、公にデビューした時なのか、初めて事件を解決できた時なのかと考えて、どれも違うと感じた。形式や言葉にばかりこだわっていてはいけないと思ったんだ』
君のおかげで、俺は「なりたいもの」になれた。
あの日振り返って見ることのできなかった顔に笑みを浮かべて、飯田は晴れやかに言った。
『君がくれた勇気のおかげで、俺はスタートラインに立つことができたんだ。走り出すなら早いほうがいい。だから今、この傷を治そうと思う。……本当にありがとう、轟くん』
俺も来年からリハビリボーイズの仲間入りだな、と笑った飯田へ何を応え、どんな顔を向けたのか、轟は憶えていない。ただただその笑みを見つめ、揺れ立てられた心の鳴らしたかすかな音だけが、頭の片隅に残っている。
「――あるいは、そうだな、俺が先に買い物を済ませておいて、帰りの運搬だけほかの誰かに来てもらっても……」
なお並ぶやさしくも物堅い気遣いをさえぎり、
「いやだ」
聞き分けのない癇癪をそのまま口にした。えっ、と返った驚きの声で、はたと気を取り戻す。
「あ、いや……悪ぃ、違ぇ。別になんともねぇから、俺が一緒に行く」
慌てて取りつくろった言葉の不自然さに飯田は気付いたろうが、特に具合が悪くないことも同様に伝わったであろうから、大丈夫かとくり返された問いにああときっぱり頷けば、眉寄せて首傾げられつつも、それ以上の追及はなかった。
大通りへ抜けると、遠く横手に地下道への階段らしき影が見えたが、わあ、と前方で上がった高い声に足が止まった。
「見つけたー!」
「ほら言ったじゃん、やっぱり追い越してたんだって!」
横断歩道の向こうできゃあきゃあとはしゃぐ女子生徒たち。途中で集団が分かれたのか、姿が見えるのは数名のみだ。信号が青に変わるまでの数秒の間を迷い、
「飯田、俺はここに残るから、お前は先に――」
投じかけた案を今度は逆にさえぎって、呼ばれた。
「走ろう、轟くん」
手を取られ、ぐいと引かれて身体が前へ傾く。一歩、二歩、つられ動いた脚はすぐに自ら回り始めて、ターボヒーローの健脚を追う。
「君がいつも人に丁寧に応対するのは、とても良いことだと思う!」
轟の手を引いて器用に人を避け進みながら、飯田が叫ぶように言う。
「だが全てに足を止めていたらすぐに陽が暮れて、僕、……たちとの時間が、なくなってしまうだろ?」
だから今日は走ろう、と振り返り笑った親友の息と声が、これしきの疾走で途切れ得ないことなど、もう知っている。
飯田の走りはまるで全力ではない。だから少し気を入れれば、足を速めて隣へ並ぶことができた。そっと手が離される。離されても、まだ肩は並んでいる。
轟は飯田ほど走りが得意ではない。疾駆しながら悠々と話すことはできない。弾む息の中で紡ぐどの音もどの想いも声にはならなかった。ただ前を見、駆けて、駆けて、駆けた。
もう背中は見えない。飯田は隣にいた。誉れ高き個性の宿る足の運びを轟に合わせ、ずっと隣を駆けてくれた。
◇
「――轟くん、こっちだ!」
先行していた飯田の声かけに従い、どうにか走り込んだ脇道の横を、数秒後に集団の声と足が行き過ぎていった。たっぷりの用心の間を置いてから、ふうと息を重ね落とし、来た道へ戻る。
「どうにかやり過ごせたろうか」
いつもながら大変なバイタリティだなと笑う飯田へ、悪いと頭を下げた。
「連れがいること言って、初めに断っちまえば良かった。二、三人で終われるわけないよな」
こちらも毎度のことながら、ファンサービスというのはどのあたりまでの按配でこなすのが正解なのか、いまだに掴めていない。駅前で数名から声をかけられ握手に応じるだけで済めば良かったが、それを見た若い女子学生の集団に大声で名を呼ばれ、なんだどうしたと人が集まり場が過熱して、謝して離れてなお幾名かに追いすがられたため、走って逃げざるを得なくなってしまった。
せっかくの休み、久方ぶりのふたりでの外出だというのに出だしがこれかと肩を落とすと、君が謝ることなど何ひとつないぞ、とすぐに首が振られた。
「学生の頃ならいざ知らず、今はちゃんとああした騒ぎの起こるような行動は控えてほしいと世間へ自分の考えを伝えているのだから、本当に君を想う人ならむやみに追いかけたり迷惑をかけたりしない。だから君が悩んだり胸を痛めたりする必要はどこにもない」
きっぱりと断じ、それに、と一転やわらかな声で続ける。
「初めのファンの方を無視せず応えようとしたのも、俺を気遣って離れていてくれたのも、君の思いやりだろう? そういう君の優しさが、俺は昔からとても好きだよ」
でも困ったら呼んでくれれば、すぐに駆け付けて周りへ注意でも説教でもなんでもするぞ、そうしたことは得意だからな、と胸叩いて明るく笑う顔を、感嘆とともに見つめた。自分こそ、いいものはいい、悪いものは悪いとためらわず口にし、好意をはっきりと言葉にして伝えてくれる優しさが、昔からとても好きだ。
ありがとな、と謝罪ではなく感謝を述べ、
「次からはお前とデート中だからっつって、ちゃんと自分で話して切り上げるようにする」
そう伝えれば、さっと頬に朱が昇る。
「デっ……、……うん。そうしてくれるといい。俺も胸を張って顔を出しにいくよ」
「おう。ちゃんと俺の大切で大好きなやつといるから二人で過ごしてぇって説明する」
「えっ、い、いや、そこまでの仔細は要らないのではないだろうか!」
しゅんしゅんと手振りの速度を上げる、今はもう当時の麻痺の感覚も忘れてしまったという腕の動きを笑って眺めていると、耳はゆい警告音が懐から鳴り響き、鏡映しの動作で携帯を手に取り出した。ヒーローネットワークのアプリが自動で起ち上がり、事件発生と緊急支援要請を伝えるダイアログを表示している。
手配中のヴィランによる施設破壊発生、周辺の人間に危害の及ぶ恐れ。単独犯行で協働者や人質は無し。攻撃型の個性保有者につき、戦闘対応可の人員を要する。場所は。
「ここから道をふたつ挟んですぐの通り、ほぼ直線上の位置だ」
「よし」
頷き合い、飯田が画面を操作してシステムへ応答を送る。
「本件、ヒーロー・インゲニウムとショート両名、三分で直行可能!」
一拍置いて受理のメッセージが表示され、現在地点からの経路を示す地図に画面が切り替わった。区域こそ同じ範囲だが、南北に走る数本の大通りの間に高層施設が並んでおり、東西へ抜ける道はほとんどない。ぐるりと大回りをするにも、両面に入出口のある施設を探すにも、大幅な時間のロスだ。
だが問題はない。飯田が三分で駆け付けると言ったのだから、その通りにたどり着くのだ。
「高さは?」
「このビルは新設がニュースになっていたな。確か七十メートルなかったはず」
「そんなでもねぇな」
頼む、と言う前に飯田は既にスラックスを折り上げて脚の調子を確かめていた。露出したマフラーから音立てて排気し、眼鏡を外してバッグにしまい入れ、準備完了を教える。
さあと伸べられた左手に、力強く羽ばたく翼を幻視した。
「走ろう、ショートくん」
「ああ、天哉」
呼び声に応えてその手を取れば、驚きと照れにまた頬が染まる。
「そっ……こはインゲニウムだろうっ?」
「焦凍っつったろ」
「違、」
「ほら天哉、あと二分」
「……もうっ!」
ともに相手の背へ腕を回し、一度膝を屈めて、次の合図で地面を蹴り、跳ぶ。ビルの側面をなぞるように上へ上へ、轟の左の炎と飯田のエンジンブーストによる初段推力で、一気に最上階の屋根を越えた。
「少し跳びすぎたな!」
「まあ着きゃ同じだ」
高度をわずかずつ下げながらの水平飛行も、着地に備える姿勢制御ももはや慣れたものだ。ふたつ先の道どころか、いつかは虹にすら手が届くと思っている。上から見る虹はまるい環の形をしているそうだ。飯田と並んで見てみたい。
脚下にヴィランの姿を視認し、前後二手に分かれるために手を離した。一切の怯みも竦みもない。残るのは触れ合っていた半身の熱と、休日を潰した多少の遺憾程度だ。またいずれ時間を合わせればいい。ずっとふたり肩を並べて隣り合い、ともに
翔けているのだから。
たとえば燃え盛る炎の中、逆巻く水の中、厚い雲に隠された、はるか遠い
天の向こう。
お前となら、どこへでも、どこまでも。
Fin.