夏戯け
前方に馴染みの姿を見つけたその瞬間、ちょっとした
悪戯を即座に思いついたこと自体が愉快に感じられて、よしやってみよう、と轟はためらいなく足を速めた。騎士甲冑を模した精白の鎧は、提灯のほの灯かり揺れる宵闇の下、人ごみに紛れていても良く目立ち、ぐるりと大回りをして歩いても、見失わずに追っていくのは容易だった。
「インゲニウム!」
曲がり角に差しかかる直前の出店と人の流れの切れ間で追いつき、斜め後方、相手の背まで数歩の距離から、うっかり本名を呼ぶ初歩的な失敗回避のため、二、三度口の中で練習した言葉を投げかける。それなりに張ったつもりの声は周囲の賑わいの中にすぐ吸い込まれてしまったものの、メットの内に備わっているという集音機構に助けられてか、無事目標へは届いたらしい。あたりへ警戒の視線を巡らせながらゆったりと進めていた足が止まり、長身がこちらへ振り向く。武骨な面当ての向こう側で、意外なほど大きな眼がぱちぱちと瞬いているのだろうと想像すると、自然と口に笑みが浮かんだ。
常のように目配せで済ませず、腰折って礼を示せば、一瞬の警戒がやわらぐ気配があった。今の自分はヒーローではなく、祭りを楽しむ一般客だ。演技要らずの姿になっているとはいえ、わざわざ普段と同じ行動をなぞる迂闊さも不要である。
都内随一の規模を誇るこの夏祭りの警備には転居初年から参加しており、今年ではや三回目となる。ごくありふれた任務だが、一年目の初日、特段の準備もなく会場巡視に
臨んだところ、東京で活動を始めて間もなくの事情も手伝って人だかりを呼んでしまい、軽い報道沙汰となる、という失敗の記憶が残る仕事でもあった。以降は運営側と協議の上、人目につかない持ち場に詰めるか、人目につかない姿を装う、という対策を講じ、概ね円滑な行動が叶っている。
昨年までは髪色などの特徴を隠す簡単な対応で済ませていたが、祭りの現場にいるという話が世間に広まり切ったこともあり、今年はさらに用心を深めておくべきやもしれないと、他の参加ヒーローたちも一緒になって、本格的な「変装」の実施が検討された。折良いことに、短時間だが人を異なる外見に見せかけることのできる、【幻姿】の個性を持つ人間が祭りの運営スタッフに在籍していたため、それを用いて警備要員の幾人かを客に紛れ込ませよう、という案が採択され、轟もその対象者となった。普段通りの姿を見せて巡視を行い、有事そのものの抑止力となる者。姿を隠して客近くに混じり入り、陰で行われる犯罪に睨みを効かせる者。役割をふたつに分けることで、表裏両面から警備を強化する結果にもつながる、一石二鳥の策である。制服警官と私服警官のヒーロー版、といったところだ。
今まさに轟が声をかけたところの、二代目インゲニウムこと飯田天哉は、プロデビューの年から、所属チームの話をするならばそれ以前の事務所創設の頃から、この警備任務の主軸を担っており、姿を隠しても今さら、むしろ不信感すら与えかねないとの判断がなされ、〝制服組〟に属していた。かちりと身を固める白のアーマーは、純和風な祭りの背景にやや不釣り合いな姿ではあるが、抑止力の発揮という目的の点では申し分のない見映えと言える。本人に似て礼儀正しいファンが多いためか、あまりにわかりやすく見つかるため逆に、であるのか、ひと目でそれと知れるヒーローへむやみに寄っていく者は少なく、四方から時おり名を呼びかけられては、手を振って応える程度のやり取りで終わっているようだった。
そうしたところへ客装って近付き、声をかけたならどうなるだろう、と、そんなことを考えたのは、ごく単純な思いつきでしかなかった。仕事とはいえ、久々に同じ現場にいられるのをひそかに嬉しく感じていたところに、浮き立つ人々の喧騒と、祭囃子に取り巻かれる非日常の空気が相乗して、子どもじみた悪戯ごころに拍車をかけた。
一礼から顔を起こし、さらに半歩近付く。やや「距離近」な振る舞いではあるが、不躾に思われるほどではない。同じ職に就いているからこそ、ここまでなら問題ない、というラインは自然と見出せる。
予想の通り、飯田は煙たがる様子も見せず(もとよりそんなあからさまな態度を取る人間ではないが)、常のごとく姿勢をまっすぐ正して、メット越しに視線を合わせてくれた。おそらく警戒を解ききってはいないだろうが、じっと見つめられても、こちらに慌てひるむ憂いは何もない。敵意や悪意などかけらも持っていないし、別れて本部を出たあとに【幻姿】の制限時間が来て一度姿を変えたので、今の顔と轟の顔とを結びつけることもできないだろう。
よしと決めて喉をととのえ、口を開く。さすがに声色は意識して変えねばならない。ヒーローたるもの演技力も多少は必要、とサイドキックに諭されて試みた練習の成果の見せどころだ。
「ずっと好きです。応援してます」
生涯を誓って久しいパートナーへの正真の言葉を、別人の姿で別の意のごとく伝えるのは、なんとも奇妙で愉快だった。家に帰ったらネタ晴らしをしてやろう、と頭の中の備忘録に書き留める。きっと仕事中に何をしているんだと呆れ叱られ、とは言え君のいたずらは貴重だなとすぐに許されて、もう一度同じ言葉を伝えてやれば、愛おしい照れ笑いさえ見せてくれるだろう。
浮かれた想像を描きつつ、祭りの客らしくしましょう、とサイドキックに渡されていたかき氷を小脇に挟んで持ち替え、空いた手を握手を求める形で前に差し出す。さてこれはどうかと再び巡らせた予想をこれまた裏切ることなく、飯田は一瞬躊躇を見せた。事情通ではないファンの行動としてはごくありふれたものだが、求められる側としては、しかるべき時と場所でなければ、接触発動型の個性を懸念して断る場合もある。自分は咄嗟に応じてしまいがちだが(そして周りに叱られることもあるが)、慎重な飯田が応えてくれるかは五分五分といったところだろうか。
と、勝手なことを考えるのも一瞬、飯田はこちらに首を傾げさせるまでの間は置かず、次の行動を起こした。マスクの内でくぐもった何やらのひと声のあとに、かすかな駆動音。音声認識でメットをフェイスオフモードにするという、ひそかにファンに好まれ轟も良く知る、かつ今この場では意外なアクションだ。
ヒーローはコスチュームごと素の姿であり正装であるとされ、人前で帽子やマスクを着けたままでいても礼を欠いているとはみなされない。こうした他愛ない交流に際してわざわざ素顔を見せるのは、まれなことと言っていい。
「ありがとうございます!」
普段よりは控えめな音嵩の、しかし誠実さのしかと伝わる声が返るとともに、整った顔に暑気を吹き払うような爽やかな笑みが浮かぶ。次いで差し出した手が取られ、ぎゅっと力強く握りしめられた。さらに半歩ぶん身体が近付き、鮮やかな赤い瞳にまっすぐ射抜かれて、くらりと頭の芯が回った。
(すげぇ。インゲニウムかっこいいな)
ただのファンの感想を浮かべ、ただのファンの勢いで両手を使って握り返す。若干のぼせつつも、「左右の手の温度差でばれる」という過去幾度かやらかした失敗に対策済みであることは憶えていた。直前までかき氷の容器を持ち続けて、左手の温度を余分に下げておいたのだ。飯田との握手はグローブ越しになるとは言え、念には念を、の効果はあったらしく、接触の瞬間に気付かれた様子はなかった。
惜しみつつ離した手を引き、まだ向き合ってくれているヒーローの姿をじっと見つめる。夜風にさらされた素顔は熱でほのかに上気し、額に汗の粒が光っていた。
「暑そうだ」
「ええ。さすがに応えますね!」
思わず漏らした言葉に頷きが返り、熱中症にはお気を付けて、と気遣いの言葉をおまけに贈られた。アーマー内に冷却装置は付いているが、真夏はそれでも頭部を中心に暑さが厳しいという。休憩時間にはと思っていたが、今すぐにでも撫ぜ冷ましてやりたい。しかしここで手を伸ばそうものなら一ファンの域を逸脱し、即座にばれるか、その前に後ろへ飛び
退られてしまうだろう。なんとももどかしい。
(けどやっぱ対応いいよな)
元A組仲間で言えば上鳴や切島のような全方位への気さくさや、蛙吹や瀬呂のような如才のなさともまた違うが、飾らない実直と誠心にあふれた立ち居振る舞いは、好意を持てば持つほど得がたさを感じさせるもので、ファン離れが少ないヒーローのひとりと評されているらしい。轟も同業者として大いに参考にしているし、実際にこうして正面から向けられれば胸が弾む。飯田がたびたび轟を相手取って言うのに負けず、自分も古くからの彼の大ファンなのだ。
だがしかし、ファンサ満点、と素直にはしゃぐ応援者の心の一方で、よもやここまで愛想が良いとは、とうなるかすかな嫉視の念が、唯一の恋人としての心の中に同時に生まれる。出来たパートナーを誇りたい気持ちと、そんなに大盤振る舞いされたらライバルが増える、自分相手に留めておいてほしい、としょうもない我が儘を言いたい気持ちがぶつかって、軽い悪ふざけが一転、妙なもやつきが湧いてきてしまった。
やはり慣れないことはするものじゃなかったな、と反省し、前を離れようとしたが、こちらが会釈をするより一瞬早く、それ、と次の言葉が投じられた。
「かき氷、美味しそうですね」
二の腕で支えていたプラスチック容器を指し、言う。我から雑談を続けてくるとは、ますますもって貴重なファンサービスだ。
すぐには反応できず、よほど暑いのかと再び目を向けた顔が、さらに一歩、吐息の触れなんばかりの距離まで近付いてくる。驚きの反応を返す間もなく、見つめる先の唇がぱかりと開き、熟れた口腔を覗かせ、よければ、と濡れた音でささやく。
「ひと口、いただけませんか?」
赤い瞳。赤い唇。赤い舌。騎士どころか悪魔に魅入られたように身が固まって、間抜けに開いた口から、へ、と間抜けな声が漏れ落ちた。器の中の氷がたちまち崩れて、苺シロップの冷水割りができあがる。
「……っはは」
三秒間の完全凝固を融かしたのは誘いの熱ではなくおかしげな笑いで、かき氷の末路が正体を教えたのではないことも同時に知れた。
「あ、お前。気付いてたのかよ」
「ふ、ふふ……、もちろん」
抱腹とともに認められる。もちろんかよと口を尖らせれば、なおも笑みが深まった。どうやら早い段階からばれていたらしい。
「
何でわかった?」
半端な場所とはいえそろそろ周囲の耳目を集めてしまいかねないと、ひとまず並んで歩き出しながら問うと、
「確実にこれ、というものがあったわけじゃないが……しいて言うなら、目と、気配かな」
何年一緒にいると思ってるんだい、と愉しげな答えが返り、もやつきも調子良く融け失せた。飯田も祭りの空気に多少あてられているのか、仕事中に遊ぶとは、のお叱りは受けずに済みそうだ。そも意趣返しをしてきた時点でほぼ同罪ではある。
「あせって氷溶かしちまった」
「それはすまない」
右に持ち替えて冷やしてみたが、ピンク色の氷塊がひとつ生まれただけだった。次の岐路までと決めて、隣へついでの冷気を送る。
「お前ものぼせねぇように気を付けろよ」
「ああ。ありがとう」
二度目の駆動音で顔が隠れ、マスクの内にくぐもった声が、ショートくん、と呼びかけてくる。
「休憩に入ったら、俺が買い直しておくから一緒に食べよう」
「おう。そうだな」
「それとね」
「ん?」
白い面の向こう、ひそやかに言葉が続き、
「君にじゃなきゃ、あんな悪ふざけしやしないよ」
婀娜めいてほほ笑む赤い瞳と赤い唇が個性も使わず幻視されて、なるほど自分もこの相手なら気配だけで気付くかもしれない、と納得した。
「ん、わかってる」
きっと互いに承知の上だが、念には念をで伝えてくれたのだろうこともわかっている。ささやかな悪戯にさえ誠実に向き合う真面目さが、十年前からいつもいつまでも好ましく愛おしい。
後方から一部始終を目撃していたはずのサイドキックに口止め料として何をおごろうかなどと考えながら、岐路までの最後の戯れに指先をそっと触れ合わせ、微酔を誘う祭り囃子の中をゆったりと並び歩いた。
了