Groom Groom : in dormitory
「お」
「オ」
何やら声が転がり、〝ザガク〟は詰マラン、と授業開始早々に昼寝を決め込んでいた半身がするりと膝上を離れるまではわかったが、あとの展開は常闇の広い視野の唯一の死角、すなわち真後ろで行われたため、感知できたのは引き続き声の断片のみだった。
「悪ぃ」
短い謝罪に、オウ、と同じく短い相槌。それから数秒の妙な間があり、またするりと膝に影が戻って昼寝を再開する。気がかりがあればたとえ授業中でも遠慮なく教えてくる
黒影であるので、何もなかったに等しいということだろうと納得してその場は終わり、昼休み、午後の演習と時が進む頃にはほぼ完全に忘れていた――そんな事情ごと記憶が掘り返されたのは、その夜、寮に戻ってからのことだった。
耳郎と上鳴との待ち合わせがあり、早風呂がてら先着した共用部のソファでネットニュースを眺めていると、横を轟が通りがかった。そのまま歩き過ぎていくかと思った足が止まり、声。
「昼はありがとな」
常闇が顔を上げるより先に、共にスマートフォンの画面を覗き込んでいた黒影が伸び上がって、オウヨ、と応える。
「すげぇ飛んだから焦った」
「俺ガイテ良かっタナ! デも全然フツーの顔シテタゾ」
トドロキは踏陰ヨリずっと〝ムヒョージョー〟ダナ、と笑うやり取りで、昼前の授業中の一件が思い出された。何事があったのかほぼ察しつつ、念のため訊き確かめると、常闇の後ろの席の轟が消しゴムを取り落としてしまい、それを黒影が拾ってやったのだと、予想通りの説明があった。
「そうか、お前ら感覚は一緒じゃねぇんだよな」
「ああ。基本的に五感の共有はない」
だから何があったかも今の話で初めて知った。さらには、と続ける意思は常闇にはなかったが、半身は愉快げに言葉を足した。これも共有事項の少ないがゆえだ。
「ダカラ、トドロキが撫デルのが下手ナなのモバレて無カッタゾ」
「下手なのか……」
(撫でたのか)
轟は口に出して、常闇は内心でそれぞれ反応する。確かにあった妙な間のあいだの出来事だろうか。自分の手を眺めている轟の姿からしばし話の落ちの着かない気配を感じ、とりあえずかけてはどうだと促せば、ああと頷きながらソファを回り込んで横手に着席した。
「下手だったんなら感覚共有なくて良かったな」
「むう……?」
当人は冗談や皮肉の意図なく口にしたのだろう頓狂な言葉に、なんと返したものか迷う。轟の無用に騒がしくないところは好ましく思うのだが、しばしば物静かと言うより言葉足らずが勝り、饒舌以上に困惑を生じさせる場面があった。
「……下手、というのは黒影の主観だ。お前の感謝が伝わったのなら特に問題ないだろう」
「問題ナイ! 指がガサガサしたダケ!」
常闇のフォローの意図を汲んだらしく、黒影も隣でうんうんと頷く。そうか、と轟は納得を得た様子だった。
「俺、手がすぐ荒れちまうからな」
炎熱と氷結、一対の強力な個性を操るがゆえの反動。まあ美容を気にする年頃の女子でもなし、普段に支障が出ない限りは勲章のようなものだろう。
「手がガサガサだっタラ、ユックリ撫デルトいいんダゼ」
「わかった。次からそうする」
(次もあるのか)
黒影の教えにあっさりと頷く轟を横目で見つつ、常闇はまた口に出さずに思った。内面が露わになるにつれ、顔面はモデル、情緒は赤ん坊、などと口の悪い級友たちに親愛込めた揶揄を贈られるようになった轟だが、赤ん坊とまでは行かずとも、確かにクラスの末子扱いの黒影に並ぶ素直さが言動の端々に現れるようだ。
横合いからの観察をよそに、妙に無垢な二名の会話が続く。
「誰が上手いとかあるのか、撫でんの」
「有ルゾ。クラスのヤツで一番ハ、コウダ!」
「ああ、動物とかで慣れてるよな」
「ウララカと梅雨チャンは、手がヤラカクて、優シイ! ジロはタマにシカ撫デテくれナイケド、器用で気持チイイ。キリシマはチョット雑。デモ気合イが入ルゾ。アト、ホークス!」
「んんっ」
級友たちへの評価が並ぶなか、不意に飛び出してきた師の名に思わず息が詰まって咳き込む。ホークスも撫でたりすんだな、と轟はさほど疑問を感じたようでもなく淡然と感を述べた。
「仕事終ワッたアト、お疲れ、ッテ俺ト踏陰ヲ一緒ニ撫デテクレル!」
「黒影!」
咄嗟に名を強く呼んで制止する。敬愛する師だが、そうした交誼について仲間たちへ暴露されるのはどうにも気恥ずかしい。聞いていたのが轟ひとりで良かったというところだ。ダッテ本当ダゼ、と首ひねりつつ、両名気にせずの調子で会話は先へ進む。
「アシドの手はタマにピリピリスル。バクゴーは撫デネーシ爆発キライだからロンガイ! オジロはフツー。アト、……ア、イインチョーも好キ!」
「イインチョー……飯田か?」
ふんふんと聞いていた轟が不意に口を挟んだ。オウ、と黒影が頷く。
「手がデッカクて、ぬくいシ、ケッコー丁寧ダゾ」
ガサガサもシナイ、という評価は手を戦闘に用いない者の特徴の現れなのだろう。A組の男子で手先をあまり攻撃に用いず、かつコスチュームに全指グローブの付属している者というと意外に少なく、飯田のほかは青山と峰田、それに二年から編入してきた心操ぐらいだろうか。青山と心操はともかく、峰田は女子に撫で回される黒影を血涙して見ている立場なので、評点はこれも論外となるだろうが。
にしても我が個性ながら、いつの間にやら周囲の構い気を集めてしまったものだ、と自分の持たない愛嬌豊かさに感心していると、折しも話題に上がったA組の委員長がソファの後ろから声を投げかけてきた。
「轟くん! ちょうど良かった、先日君に貸した参考書を……、おや、常闇くんとお話し中だったかい」
歩み寄る途中で背もたれの影になっていた常闇に気付いたのだろう、呼びかけの声量が一段下がる。規律にやかましく騒々しいばかりかと思いきや、情に篤く仲間へ適切な気遣いのできる男である。今や委員長と聞いて飯田の顔以外は浮かばない。
「黒影と話してた。本、あとでお前の部屋に持ってく」
「ああ、ありがとう。今回の演習を踏まえて確認したいことがあって……そうだ、演習と言えば、今日の常闇くんの活躍は実に素晴らしかったな!」
「ム」
思わぬ流れで話が向けられ、背もたれ越しに見上げる。いつもの機械仕掛けじみた手振りとともに、俺たちの班は君ひとりの動きに翻弄されて負けてしまったようなものだったよ、と飯田ははきはきと称賛を述べた。
「交戦時の立ち回りはもちろん、飛行による立体的なターゲットの移動と運搬、陽動のタイミングも見事だった! 俺は縦軸の機動と視野確認がどうしてもおろそかになりがちだから、見習わねばと思ったよ。それに全ての行動が実に迅速だった。あれも君の師の教えの賜物なんだろうな」
終わった直後は自分たちの反省に終始してしまったから、あとで伝えなければと思っていたんだ、と語る様は実に明朗で、一切の躊躇がない。その誠心に応え、常闇も余計な謙遜を挟まず賛を受けた。
「まだ道半ばだが、俺が師を追って目指すものが少しでも発露できていたなら何よりの結果だ。対戦相手からの評のフィードバックは有難い。感謝する」
ああ、と力強く頷く飯田の前にするりと影が伸び、声上げる。
「イインチョー、俺モ活躍シタゾ! 踏陰ダケ沢山褒めテずるイ!」
頑是なく訴える黒影がずいと頭を突き出すと、飯田は確かにそうだと笑ってその額に手を伸べた。なんとも自然な流れに、「君たちの頭って見るとつい撫でたくなっちゃうよねえ」などと、額から嘴へかけての曲線を空に描いて嘯いていた師の言葉を思い出す。おそらく昼前にも轟へ向けてこんな仕草をしてみせたのだろう。
つい先ほど好きだと評した手に満足げに撫でられている半身を、ほほ笑ましさ半分、呆れ半分で眺めていると、横から冷風が吹き流れてくるのを感じた。見やる前に、飯田、と低い呼び声が鳴る。
「……俺の班も勝ったぞ」
身を後ろへ向け、背もたれを両手で掴んで友人と影を見上げる顔に、いつもながらこれと名付けられる表情はない。が、その態度と仕草の語るところは明らかだ。例の情緒に関する揶揄が頭をよぎる。
外面如モデル内心如赤子の明々白々な甘えを見て、飯田は一度首を傾げたのち、はは、と笑って言った。
「あの試合は少々相手方の自滅の色が濃いようだったが……だがそこを逃さなかった勝利はやはり見事だ。轟くんもお疲れさま」
心なしか前へ出された頭に四角張った手が伸び、紅白の髪の天辺をぽんぽんと、撫でるというよりは宥めるようにやわらかく叩く。黒影評するところの丁寧な慰撫の指を轟は目を細めて受けた。大きな猫のようだ。もう少し近くに座っていたならころころと喉を鳴らす音も聞こえたかもしれない。
ほほ笑ましい、は今度は五割までは届かず七割程度が「何を見せられているのか」の感慨で埋まったが、初めて類似の光景を目にした時ほどの衝撃ではない。そう遠くない将来、確実にトップヒーローの並びに名を連ねるだろう半冷半燃の男は、日々着々と実力を伸ばすとともに、日々着々と親友(と、今のところはあと一名を交え互いに称し合っている相手)へ向かう心を伸ばしている。おそらくその名も知らぬまま。
難儀、と感じるところと善哉、と感じるところとはやはり五分五分と言ったところか。他の仲間と同じく善き友たちだ。明るいほうへ転がるに越したことはない。
やや達観に近い思量に入り始めた常闇をよそに、機嫌を上向きにさせた紅白猫、もとい轟が言う。
「お前も、班は負けたけど動き良かったと思うぞ。最後の回り込みとか完全に裏取ってたろ」
「そうだな。あと二分あればこちらも対処できずに逆転されていたかもしれん」
その講評はごく正しく思えたので、横から同意を投じた。結果は結果だからな、と飯田が頬をかく。
「判断が遅かったよ。だが、ありがとう」
柔和な笑いがまた成長途上の情緒を震わせたようで、轟がすくりと身体を起こし、ソファの上に膝立ちになる。おやと目を瞬かせる親友へ、そこにしゃがめ、と唐突の命を下した。
「しゃがむ? ここに?」
「いいから」
首傾げながら飯田はソファの後ろに片膝ついてしゃがんだ。背を伸ばした轟との対比で、先ほどとちょうど反対の上下位置になる。おおよそ試みようとしていることの察しは付いたが、轟は下へ伸べかけた腕を途中で止め、胸の前に浮かせた指を自身でじっと見下ろした。今日の演習でも存分に振るっていた、氷炎を統べる手。
轟が飯田とのあいだに割り込んだ時点でおとなしく戻り、常闇の肩に顎を乗せていた黒影が、またするりと前へ身を伸ばす。轟の顔横へ嘴を寄せ、何事か囁いたようだったが、五感を共にしない自分には聞こえなかった。
紅白の頭がこくりと頷き、律義にしゃがんで待つ黒藍の頭に再び手を伸べる。そっと指先が触れ、ゆっくりと髪を梳くように撫でていく。
「……どうだ」
「どうとは?」
「ガサガサして下手じゃねぇか」
あまりにも言葉が足りない。頭から同席していた常闇でさえ推し量るのがやっとなのだから、中途から加わった飯田には全く謎のなりゆきだろう。だが我らが委員長は、親友の奇異の行動に首傾げつつもそれを邪険に振り払ったりはせず、眼鏡の奥の瞳を思案に揺らせながら、穏やかに言った。
「確かに少し髪に引っかかりはするな。しかし、基準を知らないからどう判別すればいいかもしかとはわからないが……少なくとも俺は下手とは思わないよ。君がねぎらってくれているのが伝わって、あたたかくて喜ばしいと感じるだけで」
たまには人からされるのもいいものだな、と頭上の無表情へ向けて明るく笑いかけてみせる。飯田は轟と同様に思考がやや常道をずれているところもあるが、こと仲間たちの真剣な心を拾い上げるにあたっては、どれほど混迷した状態にあっても決して匙を投げず、的を外した結論も出さない。その気質は言葉足らずの親友に対しても発揮され、常闇をたびたび感心させる。
おう、と落ちた短い相槌の裏で花が咲いたように見えた。大輪を背負って頭を撫で続ける男と、理解半分の様子で、しかし咎めず笑ってそれを享受する男。まずい光景とは言わないが、やはり何を見せられているのか、とひそやかに嘆息しつつ、我が半身へ囁き問う。
「轟に何を吹き込んだんだ、黒影」
「ン、『撫デルのガ下手デモ指がガサガサでも、チャンと愛ジョー込メたらダイジョブなんだゼ』ッテ。ナンデそんナニ撫デルノがウメーのかッテ訊イタラ、ホークスがソウ言ッテタ!」
「
師……」
知らぬ間に何を吹き込んでくれている、と頬が熱くなるのと全身が脱力するのとを同時に感じ、ふと思い起こして、手にしたままでいたスマートフォンを前へ構えた。かしゃり、軽い音とともに切り取られる一枚の画。
――平和だなって思うことがあったら、写真撮って送ってよ。常闇くんと黒影の写真も一緒にね。
「うむ……これはさすがに……」
手の中に納まったのは、言葉通りの事実としては、仲の良い級友ふたり。一見の印象では、主人に撫でられる忠犬。そして実態は、幼子に撫でられてやっている親犬。さらに中を割れば、恋する男と恋される男。
師のリクエスト通りの光景ではあるが、いささか奇矯の度が過ぎている。
「アッ、ジロ来タ!」
データの削除確認のメッセージに諾を返しつつ、黒影の声追って顔を上げると、ごめん遅れた、と女子棟側から耳郎が急ぎ足で近付いてくるのが見えた。飯田が立ち上がって轟の手を離れ、花がしょんとしおれる。
「って上鳴もまだじゃん。飯田と轟はどうかしたの?」
「午後の演習の話を少しね。常闇くんは耳郎くんたちと待ち合わせだったのだな。俺たちはそろそろ戻るとしよう。轟くん、先に君の部屋へ立ち寄って本をもらっていってもいいかな」
「おう」
うわ花咲いてる、と耳郎がぽつり呟いたので、あながち自分だけの幻ではなかったらしい。連れ立って去ってしまいそうな二人に黒影が待ッテ、と腕伸ばし、後ろから巻き付くように引き留めた。
「カミナリ来タらイインチョーとトドロキも一緒ニ写真撮ロ! 俺ガ皆ニ撫デテもらッテルトコ、ホークスに送ル!」
直前の常闇の行動を見ていたらしく甘えを発動させるのに、では少し待とうか、ええウチなんか恥ずい、とめいめい反応があったが、どうやら実現しそうなあたり、末子の存在は強い。ふっと微笑した常闇の傍らへ戻り、ソウダ、と黒影は声を上げた。
「全部ノ中デ一番の撫デ
上手ハ、ヤッパリ踏陰!」
愛ジョーが一番ダカラ、と笑う半身を目を瞬かせて見つめてのち、そうだな、と頷いて同じ形の額を撫でる。はたから見れば自分の後ろにもなにがしかの花が咲いて見えることがあるのかもしれない、とひそかに笑った。
Fin.