Groom Groom : in lovers' home


「ああ、君もやられたか。お帰り」
 季節外れの驟雨に追われ、取るものも取りあえず鍵を回して滑り込むように玄関に入ると、寸間置かずに奥から飯田が駆けてきてタオルを手渡してくれた。今日は朝から空が気まぐれの極みで、早朝シフトの自分よりさらに早く家を出ていた同居人は既に部屋着になっており、迎えの言葉からしても同じ悲運に見舞われたらしい。雨間あまあいを狙って走った轟も結局途中で豪雨に降り込められてしまい、まったく異常気象と言っていい一日であった。
「ただいま。雨やべぇな。濡れてねえとこが無ぇ」
「先にシャワーを使わせてもらったついでに浴槽にお湯を張っておいたから、ゆっくり浸かって温まってくるといい。日が落ちるとまだだいぶ冷えるから」
「そうする」
 この濡れ鼠の状態でのこのこと部屋へ上がり、あれこれ触り回るほうが余計に惨事を生むのは目に見えていた。勧めに素直に従ってひとまず廊下に荷を下ろし、床に水滴が落ちるのをタオルで防ぎつつ風呂場へ直行する。肌に張り付く服をどうにか脱いで洗濯籠へ放り入れ、浴室に踏み込みシャワーの栓をひねるのとほぼ同時に外から「着替えはここに置くよ」と声がかかった。
「おう、ありがとな」
 配慮の届いた恋人の存在こそ身をぬくもらせるのに一番効くようだ。頭から湯を浴びてようやく人心地を付けつつ、今朝はほとんど顔を合わせていないも同然なのだから、多少カラスの行水でも仕方ないだろう、と言い訳し、常よりむしろ早回しの動作で身体を洗いにかかった。


「あれ、早いな! ちょうど君が上がる頃に煮詰まるようにと思って火を入れたんだが……しかもまた髪をそのままにして、もう」
 案の定、風呂を出てリビングに顔を出した途端に驚きと小言の声を頂戴した。シンクには洗いさしのトマト缶が伏せられ、弱火の点いたコンロの上では深鍋がことことと揺れて蓋の隙間から湯気を立てている。
「いい匂いだな」
「ずぶ濡れのまま店に長居もできなかったし、もう切って煮るだけのものにしたよ。サラダも出来合いだ。君の好きな和食はまた次に……って、こら、水が落ちてるぞ」
 飯田が夕餉の説明を中断してカウンターを回り、肩にかけていたタオルで正面から轟の濡れ髪を拭きにかかろうとする。目前に来た真剣な顔を見て轟はほとんど無意識に手を伸べ、肉の薄い顎を捕らえて、尖らせた唇にちょんと口付けた。タオルをる指が止まり、四角い目がまるく見開かれて、一瞬後、茹で上がったように顔が赤く染まる。
「……こら!」
 叱声とともにいつもの手振りで腕が上がり、その長さの分だけ身が離れた。遠ざかった熱を惜しみつつ言う。
「そういう距離だったろ」
「そういう時と場合かも考慮してくれないかっ」
 一日の仕事を終えて恋人と自宅にふたり、という状況はどう考慮しても問題ないものと轟には思えるのだが、飯田は家事など暮らしの用向きの中にそうした行為が不意に入り込むといまだ混乱を催すことがあるらしい。口では悪ぃと謝しつつ、早く慣れてほしいものだと考える。こちらは熟れたトマトじみて染まった頬に齧りついてやりたいとすら思ったのだから。
「……乾かしてあげるから、座って待っていたまえ」
 不穏な空気を察したのかどうか、飯田は一時撤退の構えでそんな台詞を残し、廊下へ駆け出していった。怒っても一度自分の任とした仕事を放り出さないのが実に彼らしい。怒ったところで悪罵と発憤の引き出しが極端に少ないため、怖いどころかほほ笑ましいとすら感じてしまうのだが。
 今度は指示を守りおとなしくリビングのソファの前に胡坐して待っていると、ドライヤーを手にした飯田が戻り、よしと言って轟の背後に腰かけた(必然、脚を轟の身の左右に降ろした体勢となるのだが、さっきの今でちょっかいを出されるとはまるで思っていないのだろうところも飯田らしい。さすがに臍を曲げられそうなので実際出さないが)。肩越しに電源コードを渡されたので、腕伸ばして壁際に這わせたタップに差し込む。ごうと音が鳴り、濡れた髪の上にタオルがかかって、さらにその上から温風が吹き付けられた。
「こんなにうつくしい髪なのに、君は本当に頓着しないなあ」
 毛先から散る雫をタオルで押さえながら、毛の流れに沿って指先で濡れた髪を梳き分け、風を通して水分を飛ばす。長く骨ばった男らしい造りの指に似合わぬ繊細な、それでいて手慣れた所作を飯田に身につけさせたのは、誰あろう自分である。在学時代、濡れたままの髪を放置して共用部にいたところを、「ソファやカーペットが濡れてしまうぞ!」と説教とともにタオルで頭をかき回されたのを皮切りに、何かにつけ洗髪後の世話を焼かれ、遂には今のように部屋からドライヤーを持ち出されるまでになった。
「まあ、ただの髪だしな……どうせ火だの氷だので傷むし」
「それはそうだが、だからこそ日頃のケアが大事だと、雄英の頃から女子諸君にもたびたび忠告されていたろ? せっかくの美髪がもったいないと」
 俺もそう思うから何度も言うんだよ、と学生時代を回顧する飯田は、決して外面だけにこだわるたちではない。しかし身だしなみを整えるのもヒーローの心がけの一部、との考えもあってか、女子たちが「おしゃれ」のため、峰田や上鳴が「モテ」のためと、それぞれ事あるごとに演説していた美容知識を、常に真面目な顔で聞いては自分の中に蓄えていた。その発露が自身ではなく轟に向けられているというのはどこか妙な話だが。
 とは言え、と轟も当時を振り返ってみれば、これに関しては意に染まない回想も見つかった。
「けどお前、割と誰彼構わず頭撫で回してたよな。俺だけじゃなく」
「誰彼構わずって、そんな節操なしのように……俺は皆より少し背が高かったから頭に触れやすかったし、癖みたいなものだよ。兄さんが昔いつもそうやって褒めてくれたから」
 黒影ダークシャドウくんなども良く皆にねだっていたしな、と個性でありながら感情豊かで、クラス全員の弟のような存在であった影の名を口にする。冷静で落ち着いた宿主とは裏腹の明るく人懐こい振る舞いに、A組全体がいくらかなりと感化されていた点は否めない。
「天晴さんもお前の頭拭いてくれてたのか?」
 首を軽く後ろへひねって見上げ、問う。幼い頃の家族関係が希薄であった自分にとって、飯田家の歳の離れた兄弟の話はいつ聞いてもほほ笑ましい(そして旧友たちよりは悋気の対象にならないし、弟の顔を見せる飯田は愛らしい)。
「兄さんもやってくれようとしたことはあったけど、割と大雑把でね。毛が絡んで痛かったりドライヤーが近すぎて熱かったりしたものだから、確か三度目あたりから断るようになっていたな」
「しょげたんじゃねぇか、天晴さん」
「さあどうだったろう」
 家に帰った時はほかのことでもずっと構ってくれていたから、と語る声はごくやわらかく、いややっぱり妬くかもしれねぇ、と轟は内心で軽やかに前言を翻したが、
「子どもの頃はドライヤーが重かったし、多分それからしばらくは母さんに頼んでいたんじゃないだろうか」
 と続いた言葉で、小さな嫉妬は自身の記憶の中に溶け消えた。
「……俺も、お母さんにしてもらってた」
 そうかい、と返る声はなおやわらかく、髪を撫で梳く指はドライヤーの風に負けずあたたかい。
「君のお母様は、きっと丁寧に優しくやってくれたのだろうな」
 希薄な関係の中にも色付く思い出は確かにあり、ふとした時にあふれ落ちるそのかけらを無理に掘り立てることなく、しかし過剰に避け流すこともなく、飯田はいつもただ穏やかに頷き受け取ってくれる。君が君のことを話してくれるのが嬉しい、そう言って笑う。
「人が他人ひとの頭や髪に触れるのは、大抵の場合、信頼や愛情の表れなんだそうだよ」
 ほとんど水気の飛んだ髪に仕上げの手櫛を入れながら、飯田は静かに語り始めた。
「確かに俺には皆の頭を撫でる癖があったが、こうして髪をいじっていたのは君だけだったはずだ。ほかの誰かが風呂上がりの始末をさぼっていても、注意だけで終わらせていたよ。初めはたぶん、そんなことも意識していなかったけれど」
 だが君が特別に身じまいをできないと思っていたわけでもなくて、と思い出のかけらの色をひとつひとつ確かめながら拾い上げていくように、訥々と言葉が続く。
「ただ君が、君のあかと白の髪が、電灯に照らされてきらきらと光って、あの頃の俺には本当にとても綺麗に見えてね……ああ濡れているなと思ったら、いつもつい手を出してしまっていた」
 ふふ、と落ちる笑いの音は子どもの純心を見守る大人のそれで、こちらの懐旧も促しつつ、今ここにある胸を甘く騒がせもする。
「……俺も、飯田が手ぇ出してくるだろうなと思って、わざとほっといてた」
「じゃあ、おあいこだな」
 かちりと電源を切る音とともに風がやみ、最後にぽんとあやすようにひと撫でされて、離れかける指を、下から咄嗟に捕まえた。
「轟くん?」
「交代」
 短い指示に、え、と短い応答。
「俺の髪はとっくに乾かしてしまったぞ?」
「いいから」
「いいからって、それはこちらの言うべき台詞じゃないのかい……」
「まだ鍋も煮えねぇだろ」
 それも君が想定より早く上がってきたからだが、とぼやきを落としつつも、引く手に逆らわず座り位置を入れ替える恋人はなんともたやすい。轟の警戒心についてああだこうだと忠言してくるが、お前も大概ではないのかと問いたくなる素直さだ。まあ自宅の内で、自分に対して発揮されるぶんには一向に構わない。
 逆転した体勢から見下ろす頭は当然ながら全く濡れていない。風呂を使ったのには変わりないので、無造作に撫で梳いた髪からは轟と同じ洗髪剤の、ごく慎ましい花の香りがした。以前ふとした思い付きで柑橘の香りのものを買ってきたことがあったが、自分からこれが香るのは何か違う、運動のあとやベッドの上でふとした時に相手から香ってくるのこそ色気があっていい、と思い一度でやめにした。照れて要らぬ気遣いをしてくる次第の想像がついたので、気まぐれの理由については一切教えなかったが。
 少し硬いが艶のある髪の流れを指先で乱しては、元の通りに撫でつける。乾かすという目的がないため言わばマッチポンプのような動作をくり返すのみだったが、触れては引き、引いては触れるたび、じわじわと胸を満たすものを感じた。飯田の語った通説はきっと正しいのだろう。そしてかつての子どもの純心も正しかったのだろう。自分の異色に比してさほど珍しくはない藍がかった黒髪が、何より得がたくうつくしく見える。
「轟くん、また手が荒れてしまっているなぁ」
「……痛ぇか?」
「いいや、とても心地いいよ」
 君の気持ちが伝わってくるから、とさらり語る言葉には一片の嘘も衒いもにじまない。無知に過ぎた子どもの自分に、愛情があればと教えたのは旧友の誰かだったか、それともどこかの大人だったか。詳しく記憶してはいないが、愛だ恋だの何たるやは意外に単純で、いつの世にもその芯の形は変わることがないのだろう。
「そうだ、良い物があったんだった」
 脚の間にあった身体が不意に前へ起き離れたことで、指が無意識にその首筋へ下りかかっていたのに気付いた。間がいいのか悪いのか判じかねているあいだに飯田はさっさと立ち上がって奥の部屋へ消え、どうしたと呼びかける隙もなくまた早足に前へ戻ってきた。今度は背を向けて座らず、膝立ちの姿勢で正面上下に向き合う。こちらへ示した手に白い円筒型の容器を掴んでいた。
「うちの事務所が懇意にしているスポーツメーカーと医薬品会社のコラボ商品とのことでね、試供品を頂いたんだ」
 マッサージ用だが保湿の効果もあるらしいからと説明しつつ、蓋を開けて半透明のクリームを掬い、一度自分の両手にすり合わせてから、手を貸してくれるかい、とこちらへ指を差し伸べてくる。頷き重ねた両の手が飯田のもう一方の手にさらに上から包まれて、じわりと熱が伝わった。
「あったけぇ」
「温感クリームだな。べたつきも無くて非常に質の良いものらしい」
 そのぶんお高いので宣伝をよろしくなんて頼まれてしまった、と笑いながら、するすると轟の手にぬくみを広げていく。甲を撫ぜ、手のひらを揉むようにほぐし、指の股から爪先まで余さず熱を行き渡らせる。
「東洋医学において手に重要なツボが集まっていると言われるのは有名な話だが、西洋医学でもスポーツ医療の分野でもハンドマッサージには高い効能があるとされているんだ。皮膚の傷みだけでなく、血行の改善や自律神経活動への良影響についての論文も出ている。うん、こんなことならもう少し早く学んでおくべきだったな。そうすれば君にもっとちゃんとしたマッサージをしてあげられたのに」
 また勉強しておくから、と学生時代に劣らぬ向学心を発揮し、どこか楽しげにすら見える様子で語る黒藍の髪が眼下に揺れ、きらきらと電灯の明かりを返すのを見て、轟はされるままでいた手を自ら相手の指に深く絡げた。飯田、と名を呼び、腕を上へ引く。
「あ、少し力が強かったか……」
 い、と続きかけた声は音になり損なった吐息ごと口の中に呑んだ。互いに唇が開いていたため、今度はちょんと触れるのみに留まらず、舌が直に触れ合い、指に宿るよりも高い熱を伝え交わす。そのまま噛み捕らえてやろうと前へ倒した上体がぐっと抵抗を受けて斜めに止まった。叱声、より少々音高くあせりの分だけ舌足らずな怒声が上がる。
「と、どろきくんっ!」
 上から重さをかけられる不利な状態だというのに、さすが体幹が強い。即座に片膝上げて足裏を着き、踏ん張りの利く姿勢に転じたのも見事な対応である。脚の力ではそうそう飯田に敵う者はいない。今後も是非その心がけでいてほしい。自分以外の輩の前では。
「いやお前……今のはもうほぼそういう状況だったろ」
「どこがだいっ?」
 至極健全なマッサージだぞ、と主張する手はたった今でこそ押し相撲の有様だが、数秒前までの轟への奉仕の手練は確実に慰撫を通り過ぎて愛撫の域であった。あと数分続いていたなら生ぬるい戯れを挟む理性など一瞬で吹きこぼれ、買って間もない深鍋(と中のトマト煮)の夭折が今夜決していたに違いない。
 などと場違いな思考も交えつつ真面目半分、力比べの意地半分に組み合っていると、ピピピピ、とまさに鍋が煮えたのを知らせる甲高い電子音がキッチンから鳴り渡り、二名のプロヒーローを見事同時に脱力させた。はあ、と肩落とす息の音までが共鳴する。
「……夕飯にしようじゃないか」
「そうだな……」
 無用の方向に上がった熱を散らしつつ立ち上がり、並んで踏み出して三歩、また同時に互いへ視線を向かわせ、数瞬見合って耐え切れずに笑った。
「もう、君のせいで話がほとんど飛んでしまった」
「だいたいいつもと同じ話だろ」
 知識と自覚のありや無しやにかかわらず、昔からずっと変わらずお前が愛おしいという、ただそれだけの得がたい話だ。
 そうかもしれないな、とほほ笑む恋人に半歩身を寄せ、するりと手の甲を一度触れ合わせてから、背へ回した腕で腰を抱える。こら、と軽い声音は叱責どころか呼びかけに聞こえるのがやっとだ。
「今日はやけに手が早いぞ、轟くん」
「そうか。お前なんかエロくなるツボとか押してねぇか?」
「お、押してない! と言うか知らないぞそんなツボ!」
 そもそも帰ってすぐに今の調子だったろう、と真っ赤な顔でいつもの手刀を繰り出しながら、飯田が大股に腕を抜け出していく。逃げる先までは十歩の間もなく、早く帰った夜はまだいくらも更けていないのだから、流れで無理に押そうともしたが、あえて追いすがらずとも至る場所はふたり同じだ。
「皿出しとくぞ」
「ああ。あと、カウンターの上のバゲットを適当に切……るのは俺がやるから、トースターで焼いてくれないか」
「おう」
 開いた食器棚のガラス戸の向こう、ソファ脇のローテーブルに置き残された白の容器が見える。触れて熱帯びるのが本当にその薬効のためなのかどうか、自分にはしかとわからなかった。
「次、あれも交代な」
「あれとは?」
「マッサージ。あとで脚やってやる」
 え、と鍋かき混ぜる手が止まり、半身がこちらへ振り返る。いくら堅く真面目な恋人だとて、もはや含む心に気付かない距離ではない。湯気で曇った眼鏡の向こうで四角い目がぱちぱちと目瞬き、
「……お手やわらかに」
 叱声に代えて落とした囁きは、頬と同じ色に煮立つ夕餉に融けて、少しその甘さを増したようだった。


Fin.

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