返品のご希望には応じかねます。
自分の名前が嫌いだった。
父親の願望ばかりが込められた、生まれの忌まわしさをそのまま形にしたような名前。その鼻を明かしてやり、晴れて独り立ちの叶った暁には、母が愛情込めて呼んでくれた音の響きはともかく、長じて意味を知り、なお疎ましくなった字だけでも、好きに変えてやろうと思っていた。
雄英高校に入学し、多くの人に、友たちに出会い、様々な心を学び、開きながら盲いていた目がまともに自他を見つめられるようになって、ようやく「悪くはない」と思い始めた。自分の力を認め、本当の夢のかたちにその名を与えて、護りたい人々に明るく呼びかけられて、ようやく「これが自分だ」と思うようになった。
この名と共に生きて二十数年が過ぎた今でも、好きか嫌いか、良いか悪いか、と誰かから問われたなら、自分は「特にどちらでもない」と正直に答えることになるだろう。呼び使われてきた記憶、積み重ねてきた記憶に価値はあるが、その名にふさわしい存在であるべく、などと高尚に考えているわけではなく、それそのものを評価する域の言葉ではもはやない。
――と、そんな考えを頭の片隅に浮かばせながら、
「『天哉』っていい名前だよな」
そんなことを傍らへ語りかけたのは、鼻先にふと香った柑橘の甘い匂いで、注文しておいたケーキを明日の午後忘れずに取りにいかねばということと、注文フォームに打ち込んだチョコプレート用の文字のことを思い出したからであった。
「……そうかい? ありがとう」
微酔から覚めきらないとろんとした声音で飯田が応える。漂っていたのは眠りの波間ではなく、つい数分前まで激しく打ち寄せていた、ケーキより甘たるい交情の波濤の内だった。快感に果てたばかりの身体を乱れた敷布の上に気だるげに横たえる様はなんとも艶めかしく、滴るような色香に満ちている。そんな状態でも、恋人の唐突な問いには律儀に返事をしてみせるのだから、我らが委員長の真面目さも筋金入りだ。
つのるばかりの愛おしさに抗わず、抱き寄せて口付けを贈り、しかし合わせはあえて深めず、鼻の擦れ合う距離から、おう、と言葉のほうを先へ進める。
「天晴さんも、親父さんも同じ字を使ってるよな。爺さんとかもか?」
「うん。そうだよ。読みは違うこともあるが、お祖父さまのそのまたお祖父さまからの伝統だそうだ」
こんな時に親族の話なんて、と照れて嫌がるかと思ったが、酔い心地が続いているのか、明日からいよいよ夏季休暇という余裕と上機嫌の表れか、なおも明快な答えが返った。おじいさま、など轟がこのさき一生かかって一度たりと発することがないに違いない、丁寧かつ可愛らしい響きの語を口にして、幼少の頃の面影を偲ばせさえする。飯田かわいいな、と、情動に従いまたしても唐突な感想を投げかければ、こんなごつい男を捕まえて、と普段なら言いそうなこともやはり言わず、小首傾げてただ嬉しげにほほ笑んでみせる。
あまりにも大義に欠けて愚かしい、あまりにも幸福に満ち満ちた時間。
事務所での呑み会の折、ショートとインゲニウムもピロートークなんてするんですかぁ、想像できないなぁ、と泥酔した後輩に訊ねられて特別の名のあることを知った、セックスの合間や事後の会話を、「疲れる」、「無駄」、「面倒」、と嫌う人間も、特に男の中には多いらしい。生物学上致し方ない、という説明もなされるようだが、轟はこの他愛なくも穏やかな時間が好きだったし、飯田が自分に劣らぬほど好んでいることにも、訊ねずして気付いていた(ので、その日後輩と同じくそれなりに聞こし召していたエアコンヒーローは、伴侶の反応ごと正直に答えようとしたが、別の所員に横から止められ、後輩は本気の説教を喰らっていた)。
世間ではその手の疑問を抱かれがちであるらしい、ショートのパートナー、インゲニウムこと飯田天哉は、世間でも良く知られている通り(そして疑問の根拠にされている通り)、非常に真面目でお堅い人間である。しかしそれ以前に、非常に大きな愛にあふれた人間でもあるため、おそらく後輩などが知ったら目を飛び出させるだろうほどに、平時から細やかかつ明朗な愛情表現をしてくる。照れてもじつくことは時折あれど、気持ちをむやみに隠したり否定したりするようなことはなく、君が好きだと語るのをためらわない。共寝の夜にもそれは一切変わらず、閨中での言動は甘く婀娜っぽく、献身的で情熱的で、清廉かつ時に淫靡だ。無論、そうした姿を本当に知られたなら、知ってしまった者にはどうにかして記憶を失くしてもらうことになる。
とにもかくにも、心の交わし合いや思慕の確かめ合いなど無駄無用、と考えるような輩以外の人間にとっては、事あるごとに満点以上の振る舞いで胸撃ち抜いてくる恋人なのだ。大衆向けの記事などでたびたび特集される「結婚したいヒーローランキング」の上位常連者である一方、「恋人にしたいヒーローランキング」にはあまり名の挙がらなかった二代目インゲニウムだが、大きな思い違いの賜物であったのだろう。そのまま気付かれませんようにと祈り続けて数年、世間の目を出し抜き、見事ショートは彼を唯一の伴侶として腕の中に得た。あとは生涯離さなければめでたしめでたしである。
取り留めもなく考えながら、取り留めもなく語り交わし、言葉で肌で好きに睦み合うのが、このふやけた時間の醍醐味だ。よし離さねぇ、と改めて誓って、その身に回した腕に力を込める自分も、大概に夢見心地でいる。
「いい名前だ。俺、なんかすげぇ好きだな」
「俺も、君の名前が好きだよ」
茫洋とした告白にまたすぐ応じてくれるが、そのまま「いい名前だ」と切り返さないのが飯田で、轟の生涯のひとのますます愛しいところだ。飯田は轟が自分の名を好いていなかったことを知っている。長じてからも消え失せてはいない、自身の生まれに対する複雑な心と憂いを知っている。だから名前それ自体ではなく、その名を与えられた轟焦凍が、その名とともに歩んできた軌跡の全てを指して、好きだ、と伝えてくれる。幾十幾百度の朝と夜を共に過ごした今、ほかの言葉を補わずとも、想いが誤りなく伝わることを互いに理解している。
「そうか」
「うん」
謝の言葉の代わりにまた口付ける。ちゅ、と音立てて口端をついばむのを笑う恋人の顔から、のみならず、全身からころころとハートが吹きこぼれているのが幻視された。まったく、謹厳が過ぎて付き合い疲れしないか、恋人としての営みが想像できない、などと馬鹿なことをほざく人間に見せてやりたい(絶対に見せてやりたくない)姿だ。
俺は沢山愛されて生きてきたから、と、飯田はなんの翳りも臆面もなく折ふし語る。自慢ではなく、自虐でもなく、ただひたすらの事実として、自身が持つあれこれの所以として、穏やかに語る。滔々と涌き出させて微塵も涸れる気配のない愛情の豊かさも、二十数年共に生きた名も、間違いなくその証左だ。
親から子へと明確な形質が受け継がれる現代個性社会、それにちなんだ命名をされる新生児は珍しくなく、意図的にか結果的にかによらず、親の名の字や音、意味合いの継承を続けている家庭は多い。時代錯誤の風習と指摘し、子どもの成長に悪弊を及ぼすとして批判する議論も、数十年途切れず続いている。轟の名も、ある意味ではそうした〝悪習〟を体現する例のひとつであると言えるかもしれない。
しかし、伝統、といかにも時代がかった言葉で語られる飯田の名は、彼の家の意外なほどの柔軟性や健全性と同様、周囲の馬鹿な勘繰りや決め付けに全く反し、あくまで愛情と祝福を込めて名付けられたものだ。立派な父や祖父のように、という意識は確かに前時代的な心理であると言えるかもしれないが、少なくとも天晴・天哉兄弟の代では、その名は一片の圧も引き継いではいなかった。無窮の広がりを望むうつくしい字が、ひとつの命を
言祝いでいるだけだった。
「天、ていい字だよな」
「うん。俺もとても好きだ」
子どもの頃に父さんや兄さんとお揃いで嬉しいと言ったら、母さんが自分も改名してやろうかなんてぼやいていたっけ、とおかしげに笑う、そんななごやかな思い出話が、父を恐れ、憎み、自分の名を嫌っていた幼い轟の心をも、やさしく掬い上げる。
「『哉』のほうはどういう意味なんだ?」
「哉は、……哉だよ」
なんの気なく訊ねたが、何やら飯田の真面目成分を刺激する質問だったのか、やや歯切れが悪くなる。自身も同じ問いを家族に投げかけて、はぐらかされた経験でもあるのかもしれない。
「あ、悪ぃ。答えにくかったらいいぞ」
自ら引くと、ああいや、とすぐに首が振られた。
「別に変な意味ではない、と言うか……この字そのものに特に意味がないので……しいて言えば感動を表す終助詞だから、『かなあ』とか『だなあ』とかいったような感じだと思う」
「『天だなあ』」
「ううむ」
曖昧さが残るのが気にかかるらしく、飯田は難しげにうなっているが、轟は特におかしくも思わなかった。天だなあ。良いではないか。ただ天であり天そのもの、まさに飯田天哉を表す名前だ。
「天哉」
ゆっくりと呼びかけてやれば、皺を刻んでいた眉根がほどけ、ぱちり、赤い瞳がひとつ瞬いてから、四角い枠の中でかすかに左右へ泳ぐ。学生の頃から何年もずっと苗字で呼び合ってきたので、口にするのも耳にするのも慣れていない。正式に婚姻関係を結んだ際にも、当面は、と別姓を選択したため、苗字を使い続けてもおかしいわけではない。
「なあ、俺の名前も呼んでみてくれ」
掛布の下から持ち上げた手で頬を撫ぜ、目線をこちらへ戻すよう誘って、請う。ヒーローとしてではなく、ひとりの人間として、かつて確かに忌み嫌った、その名を請う。
「……焦凍くん」
愛にあふれたひとが呼ぶ名は、愛に満ちた名に聞こえる。
かつて誰に何を企図して与えられたのかなど、今となってはどうでもいい。今はとりどりの名を持つ大事な人々が、うつくしい名を持つただひとりの特別なひとが、愛を込めて呼んでくれる。幸いに満ちた自分の名だ。それでいい。
「ん。誕生日おめでとう、天哉」
「あ」
ちらと見上げたヘッドボード上の置時計は、ちょうど十二時を回ったところだった。八月二十二日。飯田天哉がその名と共にこの世に生まれ落ちた日、生まれてきてくれた大切な日だ。
「今年も俺と一緒にいてくれてありがとうな」
「こちらこそ、ありがとう」
今日の日だけではなく、たとえこの日付のあいだに隣にいられないことがあったとしても、これまでも、これからもと、短い言葉に祈りを込め、強く背を抱きしめて、感謝を伝える。不足ばかりの文章だが、想いは誤りなく届いていることを、今年も幸せな誕生日だ、と言って素直に身をゆだねてくる恋人の甘やかな声が教えてくれる。
満たされている、としみじみ思う。
「お前の誕生日なのに、最近ずっと俺が貰ってる気分だ」
「え、そうかい? 俺はちゃんと貰っているよ」
大人になると自分より人の誕生日が嬉しいのはわからなくもないが、と轟の突飛な感想を前向きに解釈する飯田へ、「イタリアだかフランスだかの口説き文句で」と、名前の話から連想された、さらに突飛な挿話を切り出す。
「
天から落っこちてきてどうのこうの、っていうのあるだろ」
「どうのこうのじゃぴんと来ないな……」
「もしもお前が、
天から落っこってきたもんだとしたら」
「僕が? 空から? 落っこちてきたものだとしたら?」
ひとつの語も理解できません、とでも言うように、いっぱいにハテナを付けて切り返される。いかな博学委員長でも、轟の生涯唯一特別のひとでも、語った言葉の意味するところがうまく伝わらない事態とて、まあたまには起こる。
ひょっとしてもう眠いのか、と問われて、まだ眠くない、と正直に答え、頭に浮かぶままの言葉を続けた。
「カミサマとか、本当にいるかどうか知らねぇけど、そういう空の上から人間を見てあれこれやってるようなやつが、俺にようやくくれたプレゼントなのかもしれねぇ、とか思ったりしてた」
そんな突飛な考えを抱くほどに、自分にとっての飯田天哉という人間は、〝幸〟の塊のような存在だ。
父を見返すつもりで名うてのヒーロー養成校に入学し、ふたつのうちひとつの組の所属となったところとあるクラスメイトの力が気になって、つっかかっていったら真正面から二重の意味で殴りつけられ、自省を始めた折にふと目に止まったそいつの親しい友人が危局に陥り、近場に駆けつけることができたので一緒に守ることになりました、というなりゆきの積み重ねで拓かれた関係の相手。それこそある日頭上に降ってきた、と喩えておかしくない始まりから、救けて、援け合って、助けられて。気付けばいつも近くにやさしく寄り添い、心を支えてくれていた、暗い
天をこの身背負って翔けてくれた、情深い親友。どれほど得がたいものを偶然で得てしまったのか、どれほどまれな幸運に恵まれたのか、今ならば理解できる。
自分は恵まれない、不幸な生まれだった、という評価をあっさりと認められるようになったのは、それほど昔のことではない。自分を憐れむべきではない、それは誰か何かを責め苛み、高慢を育てることにつながる、と考え、実際に口にして語ったこともあった。しかしそうした言葉を聞いた飯田は、珍しくはっきりと轟の思慮を否定した。俺は生まれに恵まれていたが、君はそうじゃない、ときっぱり言った。君がそれでも立派にここまでやって来られたのは、君自身の選択と君自身の努力のおかげだ、俺はそれをずっとそばで見てきたんだ、と言った。
哀れみや同情を向けられたくない、と切り捨ててしまうのはむしろ楽な心がけで、それは思いやりや愛情に向き合わず、他者へ報いる姿勢を放棄するのと同義だ。自分は恵まれない生まれだった。不足ばかりだった。救けを必要としていた。しかし得られなかった。何年も、何年も。その事実を認められなければ、同じように救けを請う人の声を耳に止め、踏み出し、手を差し伸べることなどできない。
幼い日の無彩の情景にひびが入って、あっけなく割れ砕ける音を聞いた。ああそうだな、と思い、そうだな、と素直に応えて、頷いた。ころころと頬を流れた涙を、飯田は轟の小さな頭ごと、その腕の中に強くやさしく抱き込んでくれた。ぱたりと背にこぼれ落ちた熱い雫は、もちろん自分のものではなかった。
自分が生まれた時に授け忘れられた幸福を、適当なカミサマがあとでまとめて渡してくれたのかもしれない、といったようなことをまとまりなく語ると、飯田は再び難しげな顔をした。
「それはまた大層……評価過剰な……」
謙遜と言うよりは、話が空想的過ぎて着いていけない、といった反応。こちらとしても戯言の範疇ではあるので、ぜひ理解しろと押し付ける気はない。ピロートークとしてもいささか脱線気味になってきたようだ。
どう軌道修正しようかと考えるより先に、先ほどの口説き文句の話は、と飯田が率先して話題を巻き戻した。
「たぶん、意中の相手を天使に喩えて言うものじゃないだろうか……君が落ちたか逃げたかしたから今ごろ天の上は大騒ぎだろう、なんていう文句を、本か何かで見たことがあった気がする」
ラテン系の発想だなと解説を受け、うつくしい箱に入れて育てた
愛し子を轟宛のプレゼント(遅配分)として誤送し、慌てふためいているカミサマの図を想像した。なかなか愉快である。
「俺んとこ来てくれてありがとな」
轟の頭を覗く個性を持つわけではない飯田はまた首を傾げたが、誕生日に贈る言葉としては全くの間違いではないだろう。目を覗き込み、笑みかけ、鼻尖をちょんとぶつければそれで軌道修正は成ったらしく、君のそばに来られて嬉しい、と、やわらかな笑みとともに百二十点の回答をくれた。
「幸せだな」
「うん」
なんて馬鹿な会話だろう。なんて幸福な会話だろう。それもこれも、彼がここに生まれてきてくれたからだ。天からのギフトというやつは本当にあるのかもしれない。
ともあれ本来は自分が貰う日ではないと思い直し、
「プレゼント、和室のほうに置いてるんだ。取ってきていいか?」
そう声かけてから起き上がろうと肘を立てたが、素早く伸びてきた腕に胴を捕らえられて、身体が止まった。
「飯田?」
「朝でいいよ」
薄明かりの下で赤い瞳がきらめき、まだ眠くないんだろう、と言ってほのかな含羞をにじませ、
「……今は、君が欲しい」
焦凍くん、と、請われた名を呼んで、恋う。
どくりと心臓が跳ね、ぞくりと背が震えた。今日という日に正当に祝われるべき人間に情をねだられて、いいや駄目だと拒める人間なぞいない。天のカミサマでも無理な話だ。もちろんカミサマにだって渡してやるつもりは毛頭ない。もとはこちらのものだと言われても知ったことではない。
すぐに身を戻して覆いかぶさるように抱きしめ、顔中へキスを降らせながら、問いかける。
「どんなふうに欲しい?」
なんだって叶えてやる、なんだって返してやる、と心底から思って言うと、ぱちり、瞬いた目の中に、
淡色の星が光った。お、と気付きが音に漏れる前に、ひそやかな声が返ってくる。
「ゆっくり、たくさん」
十人聞けば十人が耳を疑うような、頑是ない言葉。
お堅く真面目な委員長、心配性で世話焼きの級友、凛と前を見据えて立つヒーロー、あたたかな安らぎをくれる恋人。出会って以降、様々に色かたちを変えて轟を驚かせてきた飯田の姿の中で、ここ幾年かに至るまで見られなかったものがある。それは彼が生まれながらにして持ちながら、全て家族、主に兄の天晴の前で発露し消化していた、被保護者の姿、幼い「弟」の姿だ。
「きみに、たくさん愛してほしい」
あ、この人は甘やかしてくれる、甘えられる、と気付き、今はそれが許される時だと判断した瞬間に、飯田は自分の中のスイッチをかちりと無意識に切り替えて、そのいとけない姿を覗かせることがある。初めて見た時には少々驚き、やがて天にも昇る心地になった。飯田に際限なく愛され甘やかされるのは嬉しいが、自分だってそうしたい、してやりたいと願い、まだ甲斐性が足りないのかとひそかに歯噛みをしてきたのだ。
遂に得られたと喜んで、その夜はむしろ大人げないほどに盛り上がってしまった。翌朝、非常に珍しく寝坊した飯田は、起きて目が合った瞬間に布団の中に沈み隠れていって、はしたない、恥ずかしい、でも凄く幸せだった、あのまま君に熔かされてしまうかと思った、とのたまい、轟を幾度目かの天の高みへと導いた。
愛されて生きてきたから自分はもう充分だなどと、大人のわきまえを吐かせたりはしない。愛されて生きてきたから君も愛してくれなきゃ嫌だ、と子どものような我がままを言わせて、このさき一生叶え続けてやる。もう持てないと笑われたら、ふたりで入れる大きな箱を用意して、一緒にハートの海に溺れてやる。どうせ出逢ってこのかた自分が貰い続けている分は、とっくに持ち切れなくなっているのだ。しかしもう要らないなどとは言わない。天へもどこへも返してやるつもりはない。
「好きなだけやる」
「うん」
「お前の『うん』、好きだな」
「僕は君の『好きだ』が好きだよ」
「好きだ」
「うん」
「好きだぞ、天哉」
「うん、焦凍くん」
これだけ馬鹿な会話を続ければカミサマも呆れて引っ込むだろう、などと馬鹿なことを考えながら、求められるままに口付け抱きしめて、ラッピングのリボンを解く気分で、既に甘くゆるびた愛しい身体を開かせた。
end.