「轟くん、はい」 
 早めの夕飯と入浴を終えてリビングで身体を伸ばしていると、後から風呂に入った飯田が何やら上機嫌の顔で戻り、すとんと隣に座したかと思った次の間、そんな言葉とともに両手をこちらへ差し出してきた。
「……おう」
 並べて広げた大きな手のひらに、適当な相槌を打って自分の左手を乗せる。なぜ急に「お手」を求められるのかと思ったが、思ったそのままに不正解であったらしい。違うぞ轟くん、と首が横に振られた。
「君の尻尾を貸してくれ」
「尻尾?」
「先日約束したろ」
 言葉が並ぶごとに頭上に浮かぶ疑問符の数が増えていく。何を、と端的に問うと、毛づくろいだよ、と端的に答えが返った。
「毛づくろいの約束……?」
「この前の雨の日、一緒に昼寝をした時に君が言ったじゃないか」
「憶えてねぇ」
 雨が降って休みになった日の記憶はある。眠気に襲われ昼過ぎに飯田と共寝をした記憶もある。だが昼寝の時の記憶と言われても、ただ寝ていたとしか憶えていない。当然である。ただ寝ていたのだから。
 ごまかしの一語もなく答えてしまい、呆れのため息でもつかれるかと思ったが、飯田は「まあそうだろうとは思った」と言って、特に気にした様子もなく話を続けた。
「君、寝室に行った時点で半分がた寝ていたものな。だが約束は約束だぞ。君が俺の耳をいじっていたから、俺も君の尾の毛づくろいをさせてくれるよう頼んだら、君は断って、『また次な』と言ったんだ。俺はちゃんと憶えているぞ」
「そうなのか」
 ぴしぴしと腕振って伸べられた経緯に、ならそうなのだろう、と頷く。飯田は記憶力もいいし、唐突に滑稽な嘘や冗談を言い出す性格でもない。寝ぼけていた自分などよりはよほど信頼の置ける相手であり、つまりは語る通りのことがあったということだろう。
「うむ! では貸してくれ」
 改めて手が差し出される。背の後ろに立てていたご所望の尾が納得半分でふらりと揺れた。ここに至る道筋はわかったが、こうしていざとばかりに持ち出される話なのだろうか。ブラシもあるぞ、と用意周到を明かす飯田はやはり機嫌が良く、妙に張り切っているようだ。
 小さな疑問は右から左へ頭を通過したのみで、熟考を要するほどのものにはならず、拒否する理由も特にない。かすかな引っかかりを覚えつつも、わかったと言って隣へ差し出した尾に、飯田はぱっと喜色あらわにしてすぐさま手を伸ばしてきた。少しのおかしみを伴うが、番いが嬉しげにしているのは単純に好ましいことでもある。赤の瞳が興奮にきらきらと輝く様は、頻繁には表れないだけ見ていて飽きない。
「いつ見ても綺麗だな、轟くんの尻尾は」
 衒いなく賛を述べながら、武骨な形に似合わぬやわらかな手つきで指が尾に触れてくる。自身で見てもなんの感慨も湧いてはこないが、飯田が褒めてくれるならそれなりのものなのだろう、と麗人と評される母の血に感謝しながら、上機嫌の様子を眺めることに決めた。が、不意に思わぬ事態となるのがこの愛しい番いとの暮らしである。
 付け根から先端へ数度ブラシが往復し、そのまま毛並みを整えていくのかと思いきや、つと手が止まり、洗面所からわざわざ持ち出したらしい道具は早々に前のテーブルへ置き放された。おやと思う間に飯田自身もソファから降りてしまい、こちらへ向きを変えつつ床へ座って尾を持ち直す。自然と顔の高さに来た長い尻尾の半ばにちょんと鼻先が触れ、窺うような視線を送られて、反射のように轟が頷くと、また赤が煌めき、大きな口にぱくりと豹尾を銜えた。
「お」
 少し声が漏れたが、仰天というほどではない。記憶にはなけれど自分も飯田の耳を口でつくろってやったのだろうから(どこにでもあるなどと自称するが、飯田の真面目さをそのまま形にしたような、ぴんとした三角の耳が轟はとても好きだ)、そのお返しという意味でも根とする獣の習性としても、なんらおかしくない行動である。
 である、のだが。
 犬の牙は猫族のそれに比較して全体に丸く、元の行儀の良さもあってか、飯田の甘咬みはいつも優しくやわらかい。舌も肉棘がないため滑らかで、咥内のあたたかな温度を直に伝える。決して器用ではないながらも、情込めて丁寧にほどこされるつくろいの挙は、日ごろから大変に心地いい。
 心地いい、のだが。
(やべぇ。エロい)
 声に漏れれば説教と相成っただろう直截な言葉を、どうにか口の中にとどめた。唇と牙でやわく尾骨を食みほぐし、熱い舌を滑らせて和毛にこげの流れをととのえ、支える手指で毛先をゆるりと撫ぜていく。時折口から尾が逃げ外れては、また赤く濡れた咥内なかと白い牙を覗かせてあむと銜え直す。ん、ふ、と合間に鼻抜けて漏れる息の音が、色づくように甘く響く。
 そうだこいつの噛み方エロいんだった、と今さらに思い出し、尾を差し出す前のかすかな引っかかりの正体に思い当たる。さらには過日に自分が毛づくろいを断った理由もおおよそ察せられた。こんな婀娜めいた慰撫を捧げられては、とても安穏と昼寝などしていられたものではない。なおまずいことに、今の向き合って脚の間に身を据えた位置関係、伏して手元を見つつ、時おり上目遣いにこちらへ寄こされる情深い視線。閨での何かを想起させるなと言うほうが無理な話。
 やべぇ、と胸中でくり返し、首曲げてあさっての方向へ顔を逸らした。そもそもを言えば、明日の仕事が少し遅出となったからこそ、夜の用事を早く済ませたのだ。風呂は率先して準備したし、飯田の夕飯支度をそれとなく急かしもした。前後の忙しい日ではあるため何がなくともとまでは思わなかったが、相手も乗り気になってくれれば情夜にしたいと考えて、ぼんやりと風呂上がりを待っていたわけである。それをこちらが口を開く前に先手打たれて、なんとも妙な次第になってしまった。
 とても心地いいが早く終わってほしい、でなければあれこれが弾けて情けないことになりかねない、だけであればまだしも、理性が切れて愛する番いに無体なことを仕出かしかねない。
 葛藤する轟をよそに、飯田は尾への愛撫を熱心に続けている。指も口も舌も次第におとなしくなるどころか、なお挙止に官能の気配を増すようで、こいつ次の暇な夜にどうしてくれよう、と可愛さ余ってなんとやらの境地に至りかかったのとほぼ同時、不意にその動きが止まり、ひそり、声が落ちた。
「……ふぉおろひふん」
 どうやら名前を呼んだらしい間の抜けた音に、警戒しつつ視線を半分戻す。横に銜えた白尾からそっと口を離した飯田の顔に先ほどまでの上機嫌はなく、目線は下がり、耳がしゅんと横へ寝てしまっている。
「飯田?」
 急の落ち込みの様に葛藤も焦心も散り、前へ向き直ってどうしたのかと呼びかけ返すと、尾にすり寄せた頬にじわりと朱が昇り、
「その、……お誘いのつもりなんだが、駄目だったろうか……」
 君に言われたのにな、と、おそらく轟が最前まで考えていた直截な言葉を指して呟き、恥じ入るように俯いて、自分の尾をぱたりと寂しげに揺らした。
 やべぇ、と先にも増して何重もの意を含む感慨をおそらく声でもそのまま漏らし、次の瞬間には足元の身体に飛び込みながら、どうにか切れ残った理性で気遣えたのは、テーブルへ激突しないようにすること、右の氷で捕らえ囲ってしまわないようにすること、左から炎を上げないようにすること、なるべく優しく舌へ喰いついてやることのみだった。
 こいつ今夜はどうしてくれよう、ともはや遠慮もなく淫靡な想像を膨らませながら、愛咬の間に今度は情慾込めて名を呼んでやる。期待に立ち上がった耳がぴくりと動き、薄く開いた目蓋の下に蕩けた赤が覗いて、いとけなくも艶めいた高鳴きとともに、同じだけの熱宿す声が轟の名を甘く呼び返した。



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