コイイロオペレーション
「――てめェ、話が違うじゃねぇか!」
こちらにサインをお願いいたします、と店員に差し出されたペンと伝票を受け取り、一考ののちレジ机の上で示された枠に名を書き始めたその瞬間、横手で怒号じみた声が上がった。反射的に警戒姿勢を取りつつ向けた視線の先、ゲーム機やソフトの並ぶ棚の前で、大柄な金髪の男が向き合う長髪の男を相手に激高を見せている。
「お、俺は初めにちゃんと説明したぞっ、合わないものは無理だって」
食いかかってくる相手の勢いにひるみつつ、長髪の男が言い返す。どうやら客同士、それも二人連れのあいだでの揉めごとらしい。金髪の顔は妙に赤く上気しており、酒に酔っている様子がうかがえた。
「お客様、ほかのお客様のご迷惑になりますので……」
「うるせェ! すっこんでろ!」
慌てて駆け付けた男性店員の注意をさえぎり、金髪はなおも前のめりに吠えたてる。すぐさま警備の人間が駆けつけてくる気配はない。今にも拳の出そうな様子を見て、判断はすぐに成った。後方で轟の会計を待っていた瀬呂を振り返ると、心得たように頷きが返ったので、短く目配せを交わして行動に移る。
動揺を見せているレジの女性店員にひとこと断りを入れ、記名した伝票を机に置いて、揉めている男たちに向けて足を進めていく。咄嗟に分担を考えている間はなかったため、より近くにいた瀬呂が横合いから相手に姿を見せる位置まで歩み寄り、声を投げた。
「あんま騒いでっと警備の人どころかケーサツ来ちゃいますよ、お兄さんら」
「あァ?」
咄嗟の警戒を招かないゆるびた口調に紛れさせつつ、警察、の語を強調して語りかけたが、案の定と言うべきか、相手がひるみを見せる様子はなかった。どころか、勇敢にも横で制止を続けようとしていた男性店員へ、邪魔だ、と言って腕を振りかざす。
岩塊じみた手が顔面を打ち払いかけた寸前、
「んじゃ、業務妨害の現行犯ってことでっ」
鋭く飛んだテープが腕を宙に受け止め、体勢を崩した金髪のよろめきの勢いを利用し、その身を胴ごとぐるりと巻き上げた。
何やらがなり立てながら転倒した連れの姿を見て、揉めていた長髪の男は安堵を見せる――かと思いきや、次の瞬間、予期せぬ行動に移った。あっと声を上げるが早いか、一瞬の迷いの間もなく、きびす返してその場を駆け出したのだ。これは一方的な被害者ではない、と直感し、止まれと喚呼しつつ棚の間から走り出ると、前を横切った男の目がこちらを一瞥し、丸く見開かれたように見えた。
男は奥の階段かエスカレーターかを目指していたのだろう足を斜めに切り返して、数分前まで轟が会計をしていたレジへ向かった。そして呆然と立ちすくんでいた女性店員が悲鳴を上げるのに構わず、ひったくるように机から何かを取り、振り返って叫んだ。
「お……お前、知ってるぞっ」
震えを帯びた声は、明らかに轟へ向けられていた。どこかで会ったか、などとはさすがに応えず、黙って出方をうかがう。刺激を与えぬよう数メートルの間をおいて足を止めたが、向き合っているだけで男は自ずから熱を募らせていくようだった。
「少し騒がれたからっていい気になりやがって!」
叫びが続く。場違いの言葉ではあったが、何を言われているのかまったくわからない、ということはなかった。国内全土を巻き込んだ戦争の終結から二か月。記憶薄れるにはまだまだ早い一連のえを通じて、轟はとりわけ世間へ〝顔が売れた〟人間のうちのひとりだ。雄英の外へ出ても、時にひそやかに、時にあからさまに指差され、騒ぎを呼んでしまうことがある。しかしそれはいい気になれるようなことなどではなく、むしろ周囲に迷惑をかけて対処に困る場合がほとんどであったので、初めてぶつけられたわけでもないその手の指摘には、どうにもぴんと来ていなかった。
とは言えそうした弁明を試みる状況ではない。男はかなりの興奮状態に陥っており、もはや連れの金髪とほとんど変わらない要警戒対象と化している。速やかにその場から引き離して身柄を確保し、レジの中で動けなくなっている店員を避難させる必要がある。
瀬呂が後方の金髪から手も目も離せずにいるのを察し、轟はゆっくりと前へ歩を進めた。四方に商品、それも精密機器の山と並んだ店内では、範囲氷結による捕縛は最後の策だ。ターゲットが強硬手段を見せずにいるうちは、できる限り接近して確保したい。
(あいつが来れてりゃあな)
それこそ一瞬にして相手の懐にもぐり、防御姿勢を取る暇さえ与えず組み伏せられていたろうに、と、レジまで一直線に駆け抜ける背すら幻視して考えたが、完全なないものねだりだ。せめていい報告を持ち帰ろうと、ともに来る予定の流れた委員長の快活な応援顔を思い起こしつつ、じわじわと近付く。男は動揺を見せたが、逃走の気配はない。攻撃に転じる気配もなかった。連れの金髪に比べて明らかに荒事の場に慣れていない様子がうかがえる。刃物などの凶器も所持していないようだ。
これならば、と一気に距離を詰めかけたその時、男がわあと声を上げ、やにわに前へ掴みかかってきた。
「こっ、これ、お前の字だろう!」
不明瞭に叫びつつ、ほとんど倒れ込む勢いで飛びついてきた男は、咄嗟に身をひねってかわした轟が肩にかけていたバッグだけを掴み剥がし、そのまま床の上に転げた。機を逃さず氷を走らせ、手足を縛める。男は身をよじらせてもがいたが、膂力でどうにかなる強度ではないとすぐに悟ったらしく、ちくしょう、と弱々しく呟き、おとなしく身を床に伏せ落とした。
「轟、大丈夫か?」
フロアにいた客の数名が捕縛した金髪の警戒を代わってくれたらしく、うしろから瀬呂が走り寄ってきた。男が手放したショルダーバッグを床から拾い上げ、ああと頷き答える。
「買ったもんは紙袋にまとめといたから大丈夫だ」
「いや荷物の心配してんじゃなくてな……。ま、なんにせよたいした騒ぎにならなくて良かったけどよ」
ヴィランって感じでもなかったな、と感想を漏らすのに轟も同意した。対峙した際のあせりぶりといい、常人の域を出ない身ごなしといい、手慣れた犯罪者のようには思われなかった。高額商品の多い家電店とは言え、強盗に向く店でもない。金髪のほうは多少腕に覚えのあるようなそぶりを見せていたが、せいぜい酔って気を大きくしたチンピラといったところだろう。二名の関係についても良くわからなかったが、ここから先の取り調べは警察の仕事だ。
その後、確保した二名の引き渡しは駆けつけてきた警備員を中心に店側で請け負ってくれることとなったため、学生証と仮免許証を提示し、何かあれば連絡してくれるよう頼んで、幾度も礼を言われながら店を出た。治安の回復度合いはまだまだのようだ、と道中で多少の憂いを述べ合いもしたものの、首尾よく片が付いたこともあり、次の店で買い出しのリストを開く頃には、ほとんど頭の隅に追いやられていた程度の出来事だった。
よもやそれが、ここから半年に及ぶ大事件の始まりとなるとは、まるで想像もしていなかった。
「おっかえりー。聞いたよ、お手柄だったんだって?」
「最近ごたごた多いよなぁ。お疲れ」
夕飯前に寮に帰りつき、玄関のドアを開けてホールに踏み入ると、クラスメイトたちの明るい声が飛んできた。思いがけない出迎えの言葉に、瀬呂が驚きを返す。
「いやもう知ってんのか? ニュースになるような騒ぎでもなかったぞ」
「一年の子がたまたま同じ店にいて、遠くから見てたらしいよ。目ぇきらきらさせて話してたって」
「カワイイ女子二人がな! ちきしょうイケメンは偶然も味方かよ……!」
「あー、なるほどな」
天を仰ぐ峰田をよそに、どんな事件だったのか、相手は、と問答が始まる。轟も会話に加わろうとしたが、男子棟側から歩いてくる長身がちょうど目に留まり、ソファを回り込みかけた足を返してその場を離れた。
「飯田」
大股に歩み寄りつつ呼ぶ。休日もきちりとした装いの委員長はあっと声を漏らして足を止め、腕を前に振り出しつつ早口に応えた。
「おかえり轟くん。ずいぶん大荷物になったな。行けなくてすまなかった」
「ん。これお前に頼まれてたやつ」
「あ……そうか。ありがとう」
紙袋から取り出した商品を手渡す。ランニングフォームチェック用の機材と言っていただろうか。精密なセンサー機器であるらしいため、騒動のあと念のため店員に確認してもらったが、幸い破損などはなかったようで安堵した。時間をかけてわざわざ取り寄せた品を壊して持ち帰りました、とでもなれば、子どものおつかい以下の仕事になってしまう。
「もしうまく動かねぇとかあったら店に連絡してくれっつってた。保証書は箱ん中で、領収書は……財布に入れたんだったか」
「ああいや、あとで構わないよ轟くん。そんなことより、店でヴィランに遭遇したと聞いたぞ。君も瀬呂くんも大事なく帰ってこられて何よりだが、どこもなんともないのかい? もし怪我などしてしまっていたなら、小さい傷や打ち身でもちゃんと診てもらったほうがいいぞ」
ショルダーバッグを開きかけた轟を制し、眉間に皺寄せて訊ねてくる。例の目撃談は既に広まっているらしい。途中で尾ひれが付いたのか飯田が過剰に想像を膨らませていたのか、やや大げさな話になっているようなので、そもそもヴィラン犯罪ではなかったという点含め、いきさつをかいつまんで語った。
「せいぜい五分ぐらいしかやり合ってねぇし、向こうに個性使われたわけでもないから、本当になんもなかったぞ。一応連絡先は伝えておいたし、あとで報告書も出しとく」
「そうか」
轟の説明に納得の相槌を打ち、しかし浮かない顔はそのまま、このところ民間人同士のトラブルが増えているようだから、と飯田が嘆息する。
「徒党を組んでの犯罪が多いと聞くし、やはり俺も同行すれば良かったな……今後しばらくのあいだは外出時の人数にも気を遣ったほうがいいかもしれない。休日の行動に制限を課したくなどはないが、寮の買い出しとなると現金の持ち運びも多いし、こちらの想像以上に世間に顔が知られてしまっているようだし」
腕組みして言うのに、子どもじゃねぇんだぞ、などと茶々を入れることはできなかった。街の復興が進み、商業施設の営業再開に伴って人の賑わいが戻る一方で、終戦直後は下火となっていた軽犯罪や小競り合いの増加が問題となり始めている。我が手で火の粉を払えるからと言って安閑と構えていられるわけではない。一般人が起こすトラブルに関して言えば、プロヒーローはともかく、まだ学生の自分たちにはむしろ対処や後始末が難しい場面もある。
これほど案じさせていたなら途中で一報を入れれば良かったかと、八の字に下がった尖り眉を見ながら考える。しかし雄英生が同じ場にいるとは思わなかったし、半端な報告で逆に戸惑わせていたやもしれない。
「ちゃんと説明すりゃ皆わかってくれるだろ。俺もお前とかに任せきりにしないで、事件のニュースだの気にするようにしとく」
そこまで言ってようやく飯田は表情をゆるめ、ありがとうと礼述べて頷いた。飯田が今日の買い出しに急遽同行できなくなったのは、今後の学内行事や復興活動などに関わるクラス委員の仕事が入ってしまったためで、本人に何ひとつ落ち度はない。当然責任を感じる必要もないのだが、そう言ってやったところで、この真面目な男は仲間たちの安全のための憂慮をやめはしないだろう。委員長として任された役割であるという以上に、根っからそういう性分なのだ。
飯田はずっと他人の心配ばかりしている。そう気付いたのは、戦いが終わって周囲が落ち着いてからのことだ。身辺のあれこれがおおよそ片付き、周りをゆっくりと見渡せるようになってから、ようやくその性質の特異さに目が向くようになったのだ。仲間うちで最後尾と言っても過言ではない、非常に遅い気付きであったに違いない。緑谷に話すとあっさりと頷きが返った。これからはあんまりお世話かけないようにしないとね、と言って浮かべた苦笑の中に、濃い反省の色がにじんでいた。
そうだなと簡素に返しながら、まだ古びない記憶に胸がじくりとうずくのを感じた。あの苛烈な戦いのさなか、一身にそそがれていた憂いと気遣い。渦巻く激情を言葉にできない轟に代わって、嘆き、憤り、涙さえ浮かべ、死の危険もいとわず最後まで隣で支えてくれた飯田が、勝利への意気や期待より先に轟に示し、捧げ続けてくれていたのは、まさしく心配であり、その根底にあるやさしさだった。
心配性で世話焼きでクラス想い。今や誰もが認める飯田の気性。そんな委員長の、時に口うるさいほどの心配を、持ち前のものだから、と見過ごすのはたやすい。自分や緑谷のごとき向こう見ずな人間はいつもそうした相手に面倒をかける、と呆れ笑うのはたやすい。あまり心配させすぎないように、と我が身を省みることも当たり前に必要だ。
しかしそれだけで済ませていいのかと、近ごろの轟は思う。うずき波立つ胸が、問いを湧き上がらせてくる。
「……轟くん? どうかしたのかい。やはり何か気になることが……」
「いや、なんもねぇ」
黙り込んだのを今日の出来事への気がかりと受け取られたらしく、また顔を曇らせかかるのを、早口にさえぎる。嘘じゃねぇ、と勢い込んで続けたのがおかしく見えたのか、飯田は眼鏡の向こうで四角い目を瞬かせたのち、ふふと笑いをこぼした。
「わかったわかった。もう疑わないよ」
子どもの駄々をなだめるような口調。二年に進級してからの飯田は、当人いわく後輩たちへの意識的な態度が癖になってしまったとかで、少しずつ身に付け始めていた物腰のやわらかさがなお一段と増したようだ。ガキ扱いするなという反発もまれに生じるが、その妙に響き良い声がただの一喝より人の耳目を惹く場面も多い。委員長のそれずるいんだよなぁ、はいお話聞きまーすってなっちゃうもん、と愉しげにぼやく級友たちの言葉に轟も同感している。
うんと意味もなく頷いて、話を戻そうと口を開いたその時、
「おおい、メシだぞー」
夕飯の到着を報せる声が食堂側から上がり、また言葉がさえぎられた。
「む、もうそんな時間だったか。轟くんは帰ってきたばかりなんだろう? 手洗いのついでに荷物を置いてきてしまったらどうだい」
「そうだな」
さすがに反発する場面ではない。買い出しの品の入った紙袋は瀬呂が持ち帰ってきたものとまとめていったんソファの隅に安置し、早足に自室へ向かった。放り出すようにバッグを置き、手洗いを済ませて食堂へ戻ると、まだ話があったんだろう、と飯田が隣の席を空けて待っていてくれた。
礼述べて座り、買い出しの話から始まって、頼まれた機材の話、今月から開始する委員会活動の話などを取り留めもなく交わした。ただの世間話であるだけ、夕餉を終えてのちも他愛ない話題の種は尽きなかったが、ふとあくびが漏れた際に入浴を済ませていないことを指摘され、ではまた明日とお開きになった。
戦いを経て取り戻した、いつもの平穏な日常。
紛れ込んだ〝異物〟に気付いたのは、風呂から上がって部屋に戻り、明日の授業の準備をするかと、部屋の隅に投げ出したままのショルダーバッグをようやく開いた時のことだった。
「……なんだ?」
思わず声漏らしつつ、雑に放り込んでいた上着や財布を順に取り出す手を止めた。バッグの底近くに埋もれた、本来そこにあるはずのない異物。慎重に取り上げ、手首を返しながら、表、裏と眺める。自身の所有物でないことは確かだったが、それ自体は見覚えのないものではなかった。
(なんで俺のバッグにゲームが入ってんだ?)
ゲーム、正確にはゲームハードというやつだ。一台に小さな画面とコントローラーが一式備わっているわかりやすい見た目で、クラス内の幾人かも所有しているので、物が何かは轟にもすぐにわかった。しかしここにある理由はまるで不明だ。誰かに借りたわけでも、預けられたわけでもない。
ゲーム機をいったん脇に置き、ほかに何か、と手がかりを求めてもう一度バッグの中を探ると、指先に丸めた紙屑のようなものが触れた。ごみでも入ったかとつまみ出し、破れないよう開け広げ、はたと目を見張る。それはあの家電量販店で記入した、取り寄せ商品の受け取り伝票だった。
早くも薄れかけていた今日の騒ぎの記憶が脳裏によみがえる。あの二人連れが口論を始めたのは、スポーツ関連機器のコーナーの逆側、ゲーム機の並ぶ棚の前だった。店員に手を上げた金髪の男を瀬呂が捕縛し、長髪の男は轟が会計を済ませたレジへ向かって、机から何かを取り上げた。そしてもみ合いになりかかったのち、こちらも氷で取り押さえた。
「盗み……いや」
店員は店の品などに被害はなかったと言っていた。警備員が男の手荷物を検査した際にも不審な物は見つからなかった。とすると。
(あいつがもともと持ってたゲーム機を、このバッグに突っ込んだのか?)
無駄な凍傷を負わせるのを避け、氷結による捕縛は衣服の上から行うようにしている。床へ倒れたあとも男の手先は多少自由が利いたはずだ。こちらも体勢を持ち直す間を要したため、転倒直後の相手の動作をつぶさには観察できていない。初めからあの男の狙いが轟自身ではなく、轟のバッグであったとしたら。
『これ、お前の字だろう!』
興奮によるうわごとのようなものとして聞き流した男の言葉。「これ」とはおそらく伝票の記名のことだ。騒ぎのなか店員も紛失を見過ごしてしまったのだろう小さな紙片とともに、あの瞬間、ゲーム機がバッグの中に押し込まれていた。手荷物が増えて重さの変化に意識が向かず、店を出る際に脱いだ上着を上からかぶせてしまったことも重なり、今まで気付けていなかった。
反省とともに大きな疑念が湧く。男が個性を発動させた様子はなかった。いったい狙いはなんなのか。別の店の盗品だろうか、それとも――
床に置いたゲーム機を見やる。見た目はごく普通の、友人たちが持っているものとなんら変わりない品に思える。轟も何度か触らせてもらったが、自分も欲しいと思うほどの魅力は感じなかった。面白さよりもなるほどこういう遊びもあるのかという感心が先立ち、質問ばかりして周りを笑わせていた記憶がある。
自分には合わなかったんだろう、と結論付けたゲーム機に、轟は今再び手を伸ばしていた。まったくの無意識だった。それがなぜここにあるのか、誰の所有物であったのか、警戒なく触れていい物なのか。天井を映す小さなゲーム機の画面を目にした瞬間、そうした疑念の全てが頭から抜け落ちていた。
取り上げ、画面を挟むコントローラーに指を添えて構える。妙にしっくりと手に馴染むような気がした。友人たちから教えられたうろ覚えの知識を頼りに上部のボタンを押し込み、電源を入れた。以前触った際にはPCのデスクトップのようなメニュー画面が開いていた憶えがあるが、設定によるのか、すぐに何かのゲームが起動し、やけに煌びやかなアニメーションを背景に、やけに明るい声がタイトルを唱えた。
『恋色メモリーズ、星に願いを!』
そうかと意味なく頷いたのち、轟はカーソルの初期位置に従って「はじめる」を選択し、決定ボタンを押した。
*
どうもおかしい。
本日十数度目のあくびを手の下で噛み殺しながら、轟は首をひねった。
昨夜、就寝前の記憶がはっきりしない。どうやら自分はあの謎のゲームで夜通し遊び、いわゆる「寝落ち」に至ったらしい。気付けば布団に半身だけ乗せた体勢で朝を迎えていて、手元には電源の切れたゲーム機が転がっていた。定時にセットしたままのアラームが鳴ったため寝坊は免れたが、いったい何時に寝付いたのか、極度の睡眠不足でろくに目も開かず、昼過ぎまで意識朦朧として過ごす羽目になった。
ゲームやってた、と寝不足の理由を正直に話し、仲間たちには珍しいこともあるものだと笑われ、真面目な委員長からは軽く説教を受けたのち保健室行きを薦められたが、意地で最後まで授業には出席した。演習がなかったのは幸いであったものの、座学中はほぼ目を開けたまま寝ているだけの状態となっていたため、あとで誰かにノートを借りねばならないだろう。
そうまでして手を出したゲームの内容はと言えば、これまた記憶が曖昧で、朝一番から夢か現かという有様だ。いったいなんのために遊んだのやらわからない。そもそもあれは(まだ推測段階だが)事件関係者の所持品で、すぐにもしかるべき機関に届け出ねばならないものだ。自分が私的に触って良い、まして使用して良いものなどではなかったはずだ。わかりきった常識であるというのに、ゆうべは、どころか今日のこの放課後に至るまで、まるで疑問に思うことができなかった。
どうもおかしい。
ようやく拾い戻し始めた疑念をまとめ、状況を整理しようとするが、うまくいかない。眠気はもちろんのこと、朝から続く〝妙なこと〟が、余計に頭の回転を鈍重にさせているのだ。
「――では、よろしくお願いします」
前方で号令がかかり、周りの生徒たちが図書館内の四方へ散り始める。ぼうと立ち残っていたところへ三年の先輩から声をかけられ、ようやく我に返った。怪訝な顔に頭を下げ、どうにか意識の隅に引っかかっていた指示に従って、うず高く積まれた段ボール箱の山へと歩を進める。今日は「委員会」の記念すべき初仕事日だ。
未曽有の戦いは国内各所で働き手の不足を招き、雄英高校の教職員もその例に漏れなかった。優秀な人材が集まっていただけに外からの応援要請も多く、復興支援に人員が割かれて内部の運営を後回しにせざるを得ない状況が続き、形だけ再建したものの管理が成り立たない、という施設が、一時は学内全体の半数近くに及んだ。
そこで、自分たちの居場所は自分たちで守ろう、と一部の生徒たちが自主管理の呼びかけを行ったのをきっかけに、年度内を期限とする「委員会活動」が始まることとなった。雄英内の施設や備品、行事の運営管理と整備を生徒主導で行う十数の委員会が設立され、各クラスから一名ないし二名ずつが所属する。形式上全生徒がどこかへ割り当てられるが、委員長ほか数名の代表者以外は有志メンバーという位置付けで、あくまで学業優先、定例活動への参加も義務ではない。とは言え、これまでつながりの薄かった他科や他学年の生徒との交流の機会になるという期待もあってか、多くの生徒が取り組みに前向きな姿勢を示していた。
それぞれの活動内容を真剣に吟味し、これなら世間知らずの自分にも務まるだろう、という予想を主な理由として轟が選んだ図書委員は、その名の通り、有形無形を問わず学内全ての書籍と公開資料を管理する委員会だ。公営の図書館にも劣らぬ蔵書数を誇る雄英高校は、もはや学校全体が書庫と言っても過言ではなく、地味ながら仕事は多いという。
今日は図書館に集まっての顔合わせと今後の活動についての会議の予定であったが、戦乱をきっかけに閉館を余儀なくされた外部施設からの寄贈本が到着し、始末が急務とのことで、挨拶もそこそこに本の配架作業が言い渡された。数は多いが管理チップの貼付後は指定の位置に納めればいいだけとのことで、脳の働かない今の自分には会議などよりありがたい。
例のゲームも朝からの妙な出来事も気にかかるが、クラスの代表として、与えられた任務をおざなりにはできない。ひとまずは作業に集中することに決め、チップ貼付済みの本一式を抱え持ち、分類記号と配置図を頼りに書架に納めていく。
図書館自体は開放中であったため、すれ違う一般利用者にたびたび驚きの反応をされたほか、ヒーロー科の生徒が庶務に当たっていることが珍しいのだろう、委員の同僚となった数名からも幾度か進んで挨拶の声をかけられた。あまりはしゃいだ態度の者はおらず、静かな図書館に似合いの真面目な雰囲気の生徒が多い。
自然と真面目の代名詞のような友人の顔と、そろそろどうにかせねば、と弱っていた彼の部屋の本の山の景色が思い起こされ、我なく気がゆるんだ拍子に、うっかり手の中で取り違えを起こして、指定とは別の本を棚に入れてしまった。しまった、と頭上へ伸ばした手が背表紙に届く寸前、不意に横から伸びてきた手と触れ重なり、ぴりりと痺れるような熱が走った。
「あっ」
驚きが重なり、腕が同時に引き戻される。すまない、と先んじて発せられた声の主は、轟の姿に驚く一般生徒でも、図書委員の仲間でもなく、つい一瞬前に顔を思い浮かべた、轟の真面目な友人そのひとだった。
「……まただ」
名を呼ぶより早く、言葉が口からこぼれ出る。え、と目を瞬かせた飯田になんでもないと首を振った。
「まだ眠気が抜けないのかい?」
ため息する口には笑いが浮かんでいる。飯田は再び伸ばした手で本を取り、このシリーズはふたつ隣の棚だぞ、と言って轟へ差し出してきた。
「ん、間違えた。悪ぃ」
「そういえば今日からだと言ってたな。どうだい、委員会活動は」
「まだなんもわからねぇ」
無味乾燥な言葉に、まあ初日では当然かと頷きが返る。
「うちのクラスでは君がすぐ手を挙げてくれたが、図書委員はなり手が少ないらしくてね。学級委員と兼務していることも多いそうだよ。俺はとても意義深い仕事だと思うんだが」
「そういや、なんかお前の知り合いだって声かけてきたやつが二人ぐらいいたな」
「ほう、早速ダシに使われてしまったか」
だが皆いい人ばかりだから、君もすぐ親しくなれると思う、交流が広がるのはいいことだ、と嬉しげに言う。他の学年やクラスと合同の委員活動には一日の長がある飯田なので、見解に間違いはないだろう。もしや轟が周囲と馴染めるか心配で見にきたのだろうか、と一瞬疑ったが、単に先日借りた本の返却だとのことだった。
「君の邪魔をするつもりはなかったんだが、位置が違うと思ったらつい手が出てしまって」
「そうか」
頷き、いつものように前へ上がった手を眺める。ぴしりと揃う四角張った指は、意外なほどやわらかく人や物に触れる。攻撃のために振るわれることはほぼなく、当然、自分のように熱を発する力も、級友のように電気を発する力も持たない。
どうもおかしい。目線を自分の手に移し、本日幾度目かの疑問を胸中で唱える。もはや一人で首をひねっていたところで解答を出せそうにない。
なあ飯田、と呼びかけるつもりで口を開き、声を発する寸前、制服のポケットの中で携帯が震えを立てた。問いかけは意味を成さない単音に変わり、図書館の静謐の中に消えた。
『相澤先生から伝言。第一応接室に来いだと。たぶん昨日の騒ぎの話』
通知はメッセージの着信を知らせるもので、送り主は瀬呂だった。無意識に眉根が寄るのに気付いたようで、どうしたと飯田が逆に訊ねかけてくる。
「相澤先生から呼び出しだ」
推測段階の話はしないほうが良いだろうと、事実のみを答えた。飯田もそれ以上深入りはしてこなかったので、連れ立って図書館の中央部へ戻り、まとめ役の三年生に事情を話して途中退出の旨を伝える。
まだ用が済んでいないからとその場で轟を見送る姿勢になりつつも、「気にかかる」を隠せていない顔に笑い、なんかあったら教える、と言い置いて別れ、ひとり教室棟へと向かった。
「おー轟、来たか」
指定された応接室前の廊下には瀬呂と相澤が並んで待っており、こちらの問いを先んじて、「お前らに客だ」と相澤から短く呼び出しの用件を告げられた。
「昨日報告を受けた件で、警察と公安が話を聞きたいそうだ」
「公安?」
瀬呂と反応が重なる。警察の事後聴取があることまでは予想できたが、その名が出てくるとなると、話が途端に色味を変える。
どうも面倒なことに巻き込まれたらしい、と隣と目配せし合い、相澤の手振りに従って、客の待つ応接室へと足を踏み入れた。
「お待たせしました」
会釈に応じて椅子から立ち上がった来客は二名。一方は制服、一方はスーツという出で立ちであったため、それぞれの立場はひと目でわかった。
「こちらが先ほどお話した生徒二名です。事件のあらましは学校側でも昨日のうちに報告を受けていますが、詳細の把握のため監督者として同席させていただきます」
相澤の切り出しに制服警官が承知しましたと応え、壮年の公安職員が一瞬の思考の間を見せたのち、よろしくお願いしますと平坦に言って頷いた。このやり取りだけでもあまり広めたくない話であるらしいことがうかがい知れる。
相澤がテーブルの短辺の席、轟と瀬呂が客と向き合う長辺の席に座り、それぞれ通りいっぺんの自己紹介を済ませたのち、まずは、と犯人逮捕の協力に警官から感謝を述べられた。テーブルに並べられた顔写真は確かに昨日の男たちのもので、うち一名は前科持ちであったと語られた。
「二名とも威力業務妨害の現行犯として既に検察に送致されています。明日から数日間勾留となり、前科のない一名は略式起訴で罰金処分、前科持ちの一名は通常起訴後に短期の懲役刑が課される見込みです」
「ただの酔っ払いだと思ってたけど、前科あったんすね」
「ええ、窃盗未遂と暴行で二度。二度とも実行犯は別の人間で幇助のみの扱いでしたので、実刑はつきませんでした。しかし今回は三回目ということもあり事態を重く見まして。目撃証言をもとに、店の利用客への暴行罪を適用する予定です」
え、と再び驚きの声が唱和した。騒ぎ自体はすぐに治めたため、被害を受けたと言える人間は限られる。逮捕した二名のうち、「店員」ではなく「客」に手を出したのは。
「それ、長髪のほうの男ですか」
「ごつい金髪のチンピラじゃなく?」
二人続けざまの問いにはいと首肯が返り、片方の写真が前へ押し出される。
店にいた時点から巨躯の酔漢の連れとしては不釣り合いに見えた、写真で改めて眺めてもごく平凡な一般客といった風情の男。あの場であせり叫びながらしたことと言えば、窃盗や暴行などではなく――
「この男、少々変わった個性を持っておりまして」
警官に代わって公安職員が口を開いたのは、轟のかすかな動揺を気取ってのことのようだった。明らかに轟にのみ注目していた職員は、テーブルの隅に伏せ置いていたバインダーを取り上げ、単刀直入にうかがいます、と言って表紙を開き、中の資料をこちらに示した。
いかにもな支給の事務用品の中身にはそれこそまるでふさわしからぬ、やけに煌びやかな図柄と文字。何かのパッケージとおぼしき画像の中央やや上寄りに、やけに明るい、浮かれたようなテキストが躍っている。
『恋色メモリーズ ~星に願いを~』
数秒、空気の凍ったような時間が流れた。瀬呂は明らかに隣で困惑している。轟も同じく困惑していたが、その所以は別のものだ。
「こちらをご覧になったことは?」
どうやら職員は既に答えを知っているようだ。ならば隠す必要は微塵もない。もともと警察へ届け出ねばと思っていたものだ。
「昨日、寮に帰ってから自分のバッグを見たら、こいつが――たぶんこいつが入ったゲーム機がありました」
「へ、マジ?」
「ああ。あのとき店で入れられたんだと思う」
なるほどと職員が頷き、勾留中の男が自分の行為について証言を、と予想通りの種明かしをした。
「あくまで犯人の言葉を信じるならば、ですが。君に自分の個性を使ってやったと話しています」
マジか、と瀬呂が再び戸惑いの声を漏らし、相澤も無言の視線をこちらへ向ける。ここまで来ればむしろ自分自身への衝撃は小さかった。昨夜からの異変に説明が付いたという納得が先立ち、頭にまといついていた濃い霧がようやく晴れていくようにさえ感じられた。
何か気付いたことは、と問いを重ねる公安職員に、昨晩ゲーム機に気付いてからの一連の出来事を、記憶が曖昧であるという点含めてかいつまんで語った。あえて説明を濁すつもりはなかったのだが、一から詳細に話すためには不明瞭なものが多すぎた。
「なんつーか、ゲームのことも放課後になってようやく思い出し始めたって感じで……昨日は触るのが当たり前ぐらいに思ってたけど、今日になったら夢見てたみてぇな。朝から妙なことばっか続くし」
「それでずっとぼーっとしてたのか。お前が夜通しゲームなんてなんか変だと思ったんだよ」
「失礼。『妙なこと』とは?」
瀬呂の感想に割り込むように訊ねかけられ、ええと、と言葉を探しながら答えた。
「絶対そうだって自信持って言えるわけじゃないんですけど、このゲームの中で見たり聞いたりしたことと似たようなことが、現実でも起きてるような気がしてて」
どうもおかしい、と朝から首をひねり続けていた。しかしなにぶん極度の睡眠不足が並行し、ゲームの記憶自体が夢か現かという状態であったので、ただの偶然か、いわゆる既視感のようなものだろうと思い、真剣に考え込むまでには至らなかったのだ。もしどこかで誰かに話していたとて、今日は早く寝るようにと笑って注意を受けるのみだったろう。
二名の来客はぴくりとも笑わなかった。思わしげに頷き合い、公安職員が言葉を続けた。
「やはり犯人の個性行使の影響を受けられているようです。現象の特性が一致します」
「どういう個性なんです」
二度目に口を挟んだのは相澤だった。鋭い隻眼がもったいぶらずはっきり言え、と先を促している。失礼しました、と職員が頭を下げ、説明を始めた。
「個性の名は【
虚戯反映】。非常に特殊かつ影響を及ぼす範囲の大きな個性であるとして、過去二件の犯罪検挙後、機関内で特別観察対象に指定されています。我々としても広く公にすることは避けたく、事実確認優先で探るような訊き方をしてしまいました。申し訳ない。ざっくりと申し上げますと、現時点で判明している主たる効果は、『指定した人間の生活環境を条件に適う任意の電子ゲームと連動させる』というものです。昨日、犯人がバッグに忍び込ませたこちらのゲームが、彼を媒介にして周囲の人や物など様々な事象に大小の作用を与えている状態だと考えられます」
「……なんか現実感薄いっつーか、まんまゲームみたいな個性っすね」
瀬呂があまり信用できていなさげな声で呟く。無理もない。自分も朝からの出来事がなければ真剣に聞けていなかったかもしれない。
「なにぶんほかに類を見ない個性のうえ、解明されていない点が非常に多いもので、やや荒唐無稽な話にならざるを得ず……。過去の発生事象と男の証言をもとに解析を進めていますが、所持者自身も把握していない特性がまだいくつもあると推測されています」
「どうだ、轟」
相澤に促された判断にほとんど時間は要さなかった。差し出された話にこれ幸いと飛び付くわけではないが、ほかに考え込めるほどの原因も思い浮かばない。そもそも今日の出来事のうち何が異変で何が異変でなかったのかということさえ、いまだ整理できていない状態だ。
「正直わからないことだらけですけど、昨日の男に何かされたってのは、そうなんだろうと思います。普段ならひとりでゲームしようとか思わねぇし……」
そうかと頷き、相澤は次に職員へと問いを向ける。
「その個性には精神操作の作用もあるんですか」
「軽度の強迫催眠効果のようなものがあることがわかっています。対象者の自覚によって解消されるため、今ほとんど解けたのではないかと思われますが……発動条件が非常に複雑かつ狭小の個性で、そのぶん生じる力が大きくなるようなのです。犯人は『一度効果が出ると自分の手を離れて効き続ける』と話していました。現段階では時間経過による解除も確認されていません」
「解除条件は?」
「『ゲームを終わらせること』だと」
沈黙が流れた。それが果たしてたやすい条件であるのか困難な条件であるのか、おそらくこの場で理解できている者はいなかった。職員が身を乗り出し、言う。
「過去の事件がいずれも軽微であったとはいえ、危険性を軽んじた結果からこのような事態を招いてしまい、誠に申し訳ない。我々もできる限りの手を尽くして解決の方策を探しています。状況の確認と情報収集のため、当該のゲームを拝見したいのですが」
ここへお持ちいただけますでしょうか、と問われて応じかけるのを、隣からついと上がった手にさえぎられた。
「あのー、これってたぶん『恋愛ゲーム』ってやつですよね? 情報が必要なのはわかるんすけど、センシティブな感じになりそうなやつをまんま見せるのはちょっと勘弁してほしいなっつーか」
俺ら思春期のコーコーセーなんで、どうにかなりませんかね、と視線を向けた瀬呂に、相澤も頷く。
「こちらとしても早急に解決いただきたい。そのための協力は当然させてもらうが、生徒のプライバシーに踏み込む調査は許容できません。特別令状があるというなら考慮しますが」
「……現時点では重篤な被害との認定がなされておりませんので」
「でしょうな」
場を制したのは雄英側のようだった。相手方にも想定の範囲の展開ではあったと見え、そこから押し問答が始まることもなく、大人たちの会話が交わされた。
「生徒への事実確認は学校側で行い、情報をまとめてからそちらへ提供します。警察と公安からの連絡もまず学校を通すようお願いしたい」
「承知しました。よろしくお願いいたします」
ではこちらを、と職員がバインダーの中から取り出したのは、表に「厳秘」の語が記された書類だった。ホチキス留めされた十枚ほどの紙の束が、それぞれの前に一部ずつ差し出される。
「現在までにわかっている【虚戯反映】に関する情報をまとめた資料です。ご参考までに」
「どうも」
「我々が把握している範囲では、過去にこの個性の使用による重大被害は生じていません。しかし、犯人は取り調べ中にこう言っていました。『あいつもあのゲームで失敗して〝大変な目〟に遭えばいい』と。具体的に何を指すのかまでは、まだ聞き出せていませんが」
一瞬のためらいの間を挟み、轟の顔へ目線を移して、職員は言葉を続けた。
「奴は一方的に君を知っていて、明確な悪意を持って個性を使ったと証言しています。君に、……いえ、君の家族に対して『社会的制裁』を望んでいると、数か月前からインターネット上の複数のコミュニティで発言しているのを確認しました」
くれぐれもご注意願います、と重々しく頭を下げられ、返す言葉も思いつかず、ただ頷く。
その後は二、三の事務確認を行い、何か進展があった際には速やかに連絡し合うことを改めて取り決め、解散の運びとなった。校舎出口で二人を見送ってのち、相澤に促されて一度応接室に戻り、今後についての協議を短く行った。
「まずは現状確認からだ。そのゲームについて、わかる範囲のことをまとめて明日中に一度報告しろ。俺から必要な情報を公安へ連携する。瀬呂はすまんが轟をサポートしてやれ」
「了解です」
「巻き込んで悪いな」
「お前も巻き込まれだろ? タチ悪いよなあ、〝ネット正義マン〟ってやつは」
とりあえず今夜夕飯のあとに例のゲームを見てみようと決まる。相澤は雄英と自分の持つ独自のルートから情報を探ると語ったが、あまり期待はできん、と見込みを付した。
「突然変異に近い個性のようだからな。前科もあの程度となると、身柄を確保している公安が直接本人から情報を引き出すほうが早いだろう。あとはどの程度手をかけてくれるかだが」
切れた言葉の間に軽く息がつかれた。どの組織も人手不足は深刻だ。先の戦乱で土台からひっくり返りかけた公安委員会などまさに最たる例で、おそらく内部はいまだ火の車の状態だろう。
長期戦になるやもしれないとの認識を共有し、当面は周りへ口外禁止、適宜状況報告するように、と指示を受けて、二度目の解散となった。気付けば図書館を出て一時間余りが経過していた。
購買に寄ってから帰寮するという瀬呂と別れてひとり廊下を歩いていくと、資料室から出てくる飯田とばったり遭遇した。互いに目を丸くしつつ、良く会うな、と声をかける。
「図書館で顔見知りの司書の方に使いを頼まれてね。君の用事は済んだのかい」
「ん。昨日の騒ぎの話だった。もう終わった」
今日のところは、という点においては嘘ではない。そうかと飯田は頷き、てっきり相澤から説教をされているのかと思った、と言って笑った。
「朝からとんだ寝ぼけようだったからな。今夜は早めに寝るんだぞ!」
わかってる、と素直に返すと、一瞬の間ののち、改めて名を呼びかけられた。
「……轟くん」
「ん?」
「本当に、ゲームのせいで寝られなかったんだろうな?」
一転笑いの消えた、静かな問い。おそらく朝からずっと抱かれていたのだろう一番の疑問にも、轟はたじろぐことなく答えた。
「おう。良くわからねぇことばっかだったから、今夜瀬呂に教えてもらう」
これも嘘ではない。しかしもし嘘を述べねばならなくなっていたとしたら、飯田の真剣な声に気圧され、全ての裏を白状してしまっていたかもしれない。
視野狭小の石頭、などと見定めた姿ははるか遠い日の遅れた評で、トラブル続きのクラスを一年引っ張り通した今の委員長は、いつも周りへ目を配り、気を揉み、仲間たちの小さなつまずきの場に俊敏に駆けつけては、援けの手を差し出している。
さすがA組のリーダー、と褒めるのはたやすい。しかし飯田の特質に気付いて以降、その発露を見るたびに轟の胸に湧くのは、賞賛ではなく焦燥の声だった。誰よりも自分自身に対して発せられる問いだった。
飯田はずっと他人の心配ばかりしている。される側にとっては厳しくも頼もしい
安全帯。
(じゃあ、あいつの心配は誰がしてやるんだ?)
この一年の争乱のあいだ、自分はどれほど飯田を真剣に気にかけられていただろう。あの奪還劇の場で、あの掃討作戦の場で、あの最後の戦いの場で。ともに戦場にある時のみならず、離れて待つあいだにもほとんど常に、飯田が皆に、轟に向けていたのと同じほどの心配を、飯田自身が特別に向けられていたことは、果たして何度あったのだろうか。
兄の仇への復讐心に呑まれた飯田を一心に案じ、路地裏で探し当てた緑谷は間違いなくそうであったろう。だがそれ以降、飯田はひたすらにひたむきに人を心配するばかりだ。自身の過ちを鏡として、友を無謀の道へ走らせまいと、迷い斃れる者を出すまいと、固く誓った信条を貫き続けている。
当人に言えば驚かれるか笑われるかで終わってしまうに違いない。俺はもう君たちほど心配されるような無茶はしていないぞと、これ幸いに説教さえしてくるかもしれない。
だが飯田とて同じ人間である。いつどんな事件や事故に遭うかなど誰にもわからない。当人がどれほど気を配っていたとしても、ある日思いがけない災難に見舞われて、冷たい路地裏に独り投げ出されることが絶対にないとは言えない。あいつは大丈夫だろう、の信頼が、周囲の気付きを遅くしてしまうかもしれない。
ふつふつと湧いて消えないあせりに応え、せめて自分だけでも普段から飯田を見ていよう、心配していてやろうと、轟はひそかに決めた。飯田ほどの細やかさには届かなくとも、あの夜、あの路地裏に駆けつけることができたように、何かあればすぐに気付いて援けてやれるようにしようと胸に誓った。しかし。
(また心配されちまってる)
現実は染み着いた立場の逆転をそうそう許してくれず、どうにも思う通りにならない。
轟の決意と空振りの憂いを知る由もなく、いつものようにぴんと伸びた姿勢で隣を歩く飯田は、ふむ、と事のいきさつに納得した様子でいる。
「瀬呂くんが注意してくれるのなら安心だな」
彼は冷静で公正な人だから、と評し、やわらげた声音が妙に耳に残って、
「――おう、来たぞー。……えっなに、なんだその目」
夕飯後、部屋へやって来た瀬呂の顔を無言でじっと見つめてしまい、俺なんかした? とドアの前でたじろがれる一幕を演じた。
「こいつがバッグに入れられてた」
「んー、見た感じ本体もソフトのカートリッジも普通に売ってるやつだよな」
「けどもう電源が入らねぇ」
「単に充電切れじゃね? んじゃ俺のアダプタとドック持ってくるからモニターにつなごうぜ。そのほうが見やすいし」
雑談もそこそこに、早速ゲームの検分を始める。やはり幾人かが所持しているゲーム機と同じものであるらしく、瀬呂が貸してくれた何やらという部品に接続すると、問題なくPCモニターに画面が映り、例のやけに明るいタイトルコールが部屋に鳴り響いた。
「これ、つい三日前だかに発売された新作らしいぜ。葉隠が持ってた雑誌の裏に広告が載ってた」
「女子向けのゲームなのか?」
「さあ……っつーかやったのはお前でしょ」
「俺が動かしてたのは男だったと思う」
百聞は一見に如かずだな、とコントローラーを渡され、カーソルの初期位置に従い「つづきから」を選択すると、誰かの部屋らしきイラストを背景に、色とりどりのアイコンや数字が並ぶ画面が表示された。ああ確かこんなようなものをずっと見ていたな、と昨晩の記憶がぼんやりよみがえってくる。
「公式サイトもあったぞ。えー、『恋メモ』はスケジュール管理型の恋愛シミュレーションゲームです。あなたは全寮制の高校に入学した生徒となって、勉強や部活やアルバイトに励み、様々なイベントを経験しながら、素敵なキャラクターたちとの出会いと恋を楽しめます……だと。主人公の性別は男でも女でも好きに選べて、見た感じ攻略キャラもどっちもいるな。今どきはそんなもんなんだろうな」
お前が自分で男を選んだんだろうと言われ、たぶん、と頷く。ゲーム開始直後に「あなたの名前は」、「あなたの性別は」、「あなたの誕生日は」とプロフィールを根掘り葉掘り訊ねられたので、そのまま正直に答えていったように思う。
「そのあと確か、学校の入学式に出て、なんか色々なやつに会って、あれこれ話して、勉強しろだの運動しろ遊べだの言われて、良くわかんねぇけどずっと『はい』とか適当に答えてるうちに寝ちまった」
「本当にひと晩やってたのかよって感想だな……まあ初めて恋愛ゲー触ったとかじゃ仕方ねぇか」
「瀬呂はやったことあんのか?」
「いや知識としちゃあるけど、俺もこの手のは真面目にプレイしたことなかったわ。うちの姉ちゃんのほうが詳しそうだから、なんか知ってたら教えてくれってさっき連絡入れといた。発売すぐだからあんまネットに情報が転がってなくってよ」
瀬呂には大学生の姉がいるそうで、轟との数少ない共通項として時おり話題にのぼった。実家にいた頃に同種のゲームをやっているところを幾度か見たことがあるという。
公式サイトの情報と並べて確認したところ、ゲームは四月の入学式から始まり、既に六月下旬まで進行していることがわかった。背景上部に表示された日付は六月最後の週を示している。折しも現実と同じ時節だ。
「お前が無意識にここまで進めたってなると、偶然じゃないんだろうな……」
公安職員の語っていた催眠効果の影響を受け、慣れないゲームを夜通しプレイし、日付を現実に近付けた、ということなのだろうか。全て自覚なくやっていたと考えると、確かに底知れない力を持つ個性だ。
「もう催眠は解けてるって話だったよな」
「と思う。今はこいつを見てもぼんやりしねぇ。けど、なんとなく『やらなきゃいけないんじゃねぇか』って感じがしてる」
昨夜ほどの強烈な引力のようなものは発せられていない。しかしゲームを起動した瞬間、〝これは自分がこなすべきものだ〟という感覚を覚えた。空腹に応じてものを食べる、眠気に応じて睡眠を取るといった欲求と行動、あるいは試験のために勉強する、といった義務に近しい念が湧き上がってくるのを感じる。
「ソフトを壊して捨ててはい終わり、ってわけにゃいかねェか……注意して扱えって言われてるしな」
少なくとも今の段階で強硬手段に及ぶべきではない、と改めて確認し、当座の対処を考える。
「細かい解析だのは公安がやってくれるとして、結局その『現実とゲームの連動』って効果でどんな影響が出てて、何かしなきゃいけないことがあるのかとか、そのへんを調べて先生に報告しないとだよな。実際どうなん? 俺まだ全然ぴんと来てねぇんだけど。ゲームの中のキャラが現実に出てきたとか?」
いやでもそうなるととんでもなさすぎるよな、個性で人間ひとり作っちまうみたいなもんだろ、SF通り越してほぼホラーじゃん……と緑谷ばりの呟きを連ねる瀬呂を横目に、轟も今朝からの奇妙な記憶を掘り起こす。首をひねらされ続けた「どうもおかしい」が、おそらくその答えとなるのだろう。
「ゲームの中からそのまま人間が出てきたわけじゃねぇと思う。たぶん、現実に存在してる中から似たようなやつが当てはめられて、俺の前でゲームと似た話をしたり、似たことをやったりしてる」
たとえば、と例を挙げる。今朝の寮からの登校途中、前を歩いていた女子生徒のバッグから、提げ紐の切れた小さなぬいぐるみが轟の足先に落ちた。拾い上げて隣まで歩を進め、声かけて渡すと、急に名乗り上げられて、とても大事な物だったので本当に助かった、改めて礼をしたい、と妙に強く迫られた。最近これと似た夢を見たな、と思いつつ寝不足の頭で生煮えの返事をしているうちに、会話は終わっていた。
「確かゲームでは入学式の前に同じようなことがあったんじゃねぇかな。ゲームでは初めて会ったやつで、人形は婆ちゃんの形見だった。今朝のやつは俺のことは知ってて、自分で作った人形だっつってた」
「うーん、お前だからね……ゲームとか関係なく微妙にありそうなラインっつーか……」
「そのあと校舎に入って歩いてたら、横から走ってきた相手と曲がり角でぶつかって、一緒に倒れた。先週から普通科に新しく入った先生いるだろ」
「ああ、いたな。前の先生が産休とかで。若くて美人で巨乳でって峰田が騒いでた女の先生だよな。一緒に倒れたって、それひょっとしてラキスケしてね?」
「ゲームでも同じことがあって、けどそっちでは自分のクラスの担任になった」
「現実で相澤先生が代わるわけねーもんな」
確かに類似していて、しかし微妙に異なる。そうしたことを放課後までに六、七回はくり返したのではないかと思う。やけに〝偶然の出会い〟の多い一日だった、と済ませるには、全てがいささか演劇じみていた。
「新任の先生が来ることは前から決まってたはずだし、雄英で手違いとかも考えにくいよな。それに形見のぬいぐるみだの言われるといかにもゲーム設定っぽいけど、自分で作ったならまだある気もする……あくまで現実が先で、ゲーム側とすり合わせしてるって感じかね?」
何か確証を得られる情報はないかと公安の資料をめくっていくと、これ、と思われる記述が見つかった。
個性名【
虚戯反映】。任意の電子ゲーム内で生じる事象を、超常的作用により指定の人間の周囲環境へ反映させる個性。ゲームの種別は問わないが、発動には複数の条件を満たす必要がある。
一、対象者への接近および発動の宣言。
二、対象者の直筆の筆跡の保持。
三、対象者による一定時間以上のゲームの所持。
「条件その四、『対象者の周囲環境と、ゲーム内の環境間の一定以上の共通項の存在』……これだ。かかってから現実がゲームに寄るんじゃなくて、そもそもゲームと似た状況のやつにしかかからねぇ個性ってことか。うまいことぶち当たっちまったな……」
瀬呂が資料を読み上げ、わしわしと頭を掻く。確かに、以前クラスの仲間たちに誘われて遊んだような、亀の甲羅やバナナの皮を投げ合いながらカートレースをするだの、ハリセンや光線銃を持って乱闘するだの、サイコロを転がして日本全国の物件を買いあさるだのといった、現実離れした内容のゲームであれば、個性の発動条件はパスしなかっただろう。
だがしかし、とどうやら同じ方向に推理が進んだらしい。互いに早口の言葉が漏れた。
「あの男、ゲーム売り場にいたよな。なんか二人で言い争ってて」
「そうだ、金髪のほうが『話が違う』とかなんとかっつって怒鳴ってたな。ひょっとすると、あいつに個性を使うって話になってたんじゃねーか? 考えようによっちゃあ、好きなゲームと同じ体験ができるってことだろ。で、あそこでこのゲームを買ったのかも」
「高校生になりたかったのか」
「っつーより、モテたかったんじゃねぇかな……わざわざ個性使って恋愛ゲーム体験、なんてみみっちいことやろうってなると……」
しかし見るからに「全寮制の高校に通う生徒」ではなかった金髪の無頼漢は個性の発動条件を満たせず、希望したゲームでは無理だ、話が違う、と口論に発展したという場面であったのだろうか。
なんのとばっちりだよ、と肩落とす瀬呂の推測は、読み進めた資料内の「過去の関連事件」の情報で裏付けられた。警察沙汰とならなかった軽微なトラブルを含む複数の騒ぎのほとんどで、男は金銭を対価に個性を使用する取引を行っていた。ほとんどがなんらかの形で失敗に至っており、使われたゲームのタイトルもいちいち記載されていたが、明らかに全て今回のものと同種のジャンルのようだ、と瀬呂は言った。
「男どもの悲哀を覗いちまった気がするな……」
「そんなに人気あんだな。こういうゲーム」
「まあわからねぇやつはわからねぇままでいいよ。にしてもマジで条件が複雑だな。かかろうと思って準備しなきゃ無理だろ。だいたいお前の筆跡とか、あそこでどうやって手に入れたんだ?」
「ああ、そういや」
あの時、と記憶を辿り、思い至った事実に、続く声が止まった。まさか、と胸が騒ぐ。
「轟? どうした?」
訝しげな呼びかけを背に立ち上がり、座卓に伏せておいた一枚の紙を取って戻る。まさか、そんなこと、と疑いの言葉を胸中で重ねるが、推量を蹴り出すには至らない。演劇じみた「どうもおかしい」の中に、その一幕は確かにあった。
「瀬呂、やべぇ」
「は?」
「俺、飯田を巻き込んじまったかもしれねぇ」
「へっ?」
飯田ってあの飯田か、と確認を受けて頷き、皺だらけになった紙を差し出しつつ、いったん脇へ置いていたゲームコントローラーを再び手に取り上げる。
「昨日店で書いたやつ。あの男にレジから取られた」
「うわ、すげぇ偶然だな。そうか商品受け取りのサインか……、ん? これって」
書かれた文字に気付いた呟きへ、また頷きを返す。
「飯田の注文したやつだったから、あいつの名前にしておいたほうがいいかと思って」
飯田天哉、と記名欄に代書した轟の筆跡を、個性の条件を満たすものとして男が利用したのだ。
「ゲームであったのと似たようなこと、今日、あいつともあった。なんか飯田みてぇだなと思ったやつがゲームに出てんだ」
「マジ?」
「俺だけじゃ良くわからねぇから、お前も見てくれ」
かちゃかちゃと画面の中のカーソルを動かし、不要なものを表示させては消しつつ、どうにかゲームを先へと進める。背景の絵が寮の自室とおぼしき場所から高校の教室へと切り替わり、憶えのあるテキストがずらずらと語りかけてくる。
「那尾雄平、舞原育美、教堂修吾……一気に出てきたな。憶えられねぇわ」
「こいつらはこれ見ろとかあれやれとか色々教えてくるだけだ」
「あー、絵も声もないし、ナビ用のお助けキャラか。あとは体力上げと学力上げ用とかか?」
「たぶんこのあとすぐ出てくる」
クラスメイトの皮をかぶったいくつかの事務メッセージを早送りに飛ばし、移動する場所を選択すると、今度は背景が廊下の絵に替わる。予想通り、そこに一人のキャラクターが現れ、画面の向こうから話しかけてきた。
『おはよう。……なんだトドロキくん、酷い寝ぐせだな。寝坊でもしたのか?』
すらりとした長身、やや横へ分け流した艶のある黒髪、一部の隙もなく着こなした制服、銀フレームの眼鏡。全身からいかにも真面目な優等生、といった空気を発する男子生徒。
「うお、ひと目で飯田っぽい」
「確か隣のクラスの学級委員長で、やたら説教してくる」
「同じクラスじゃねぇのか。まあ隣ってとこだけ優先すると拳藤になっちまうしな」
男まさりで姉御肌な女子生徒より、真面目な眼鏡の男子生徒のほうが見るからにすり合わせしやすいキャラクターだ。昨夜のほぼ無意識下でのゲームプレイ中も飯田を連想していたようで、ほかの登場人物よりややはっきりと存在を記憶していた。
「初めに会ったのが図書館で、棚から本を取ろうとしたら手がかち合ったみてぇな絵が出てきた。んで今日の放課後、委員会中に飯田と同じことやった」
「そりゃまたベタな……てか『偶然手が重なっちゃってドキッ』てのを一年付き合い済みのダチとやったん?」
「ほかにこいつに似たやつとは会ってねぇと思う」
ほとんどのキャラクターには現実での初対面者、もしくは付き合いの薄かった人物があてがわれているようだが、轟が飯田の名を伝票に記し、それを媒介に個性が発動したことにより、何かしらの例外が発生してしまったのではないだろうか。資料には直筆の字が他者の名前であった場合の副次効果など当然記されていなかったものの、何しろ未解明の点が多い、と公安自ら認めている個性だ。所持者自身も把握していない特性がいくつもある、とすら語られていた。
画面の中では台詞が進み、眼鏡の委員長は試験に向けた勉強の話などをしている。やや険のある態度などは入学すぐの頃の飯田に近しいのでは、と言いたいところだが、当時の自分は飯田(含む周囲の人間)の人格面に対する興味が薄かったため、そうした点に関しては自信がない。瀬呂の意見を求めたが、同じく確証は持てないようだった。
「似てるは似てるな……うちの委員長と比べるとだいぶ細っこいけど、ヒーロー養成校が舞台ってわけでもないしなぁ。こいつとどんぐらい仲良くなってるか、みたいな情報とかどっかで見れんの?」
「さっきのナビ雄が見せてくる」
「ナビ担NPCな」
再度ゲームを操作し、教室で友人に話しかけると、ハートのあしらわれた枠が開き、中に複数の人名とキャラクターのイラストが並んだ。それぞれの顔のそばにも小さなハートのアイコンが表示されている。
「たぶんハートの色が仲良くなったレベルを表す系のやつだな。灰色から始まって赤が最高、みたいな。今は灰色と紫が何人かずつと、青が一人か。なんかもうヒビ入ってるのもありますけども轟さん」
瀬呂の指差し確認を横目に、轟はぼんやりとした違和感を覚え、再び記憶を辿った。寝落ち間際に目にした絵が、この画面であったような気がする。しかしその際に目にしたものと、今ちょうど指摘されたものの状態が異なっている。
「……俺が最後に見た時は、全部灰色か紫だった」
ヒビの入ったハートや、青色のハートなどなかった。え、と瀬呂が目を瞬かせ、再び画面を注視する。割れて黒く染まったハートが表示されているのは、髪をリボンでふたつに結った女子生徒。「祖母の形見のぬいぐるみ」を落としたキャラクターだ。
「さっき話してた子だな。フラグ立て失敗したか?」
何やらの用語とおぼしき言葉に首を振り、ゲームのことは良くわからねぇ、と答える。
「けど今朝、人形を拾ったあと連絡先訊かれて、断ったらすげぇ怒って走っていっちまった」
「断ったんかい。え、それ現実での話だよな」
「ん。芦戸たちに『一人に教えるとあとで三十人泣かせるかもしれないから慎重に考えろ』って注意されてたから。すげぇ眠くて適当な返事になっちまったし、悪ぃことした」
「モテ男も大変だよな……まあ仕方ねぇよ。それで怒る子もちょっと過激だと思うし。……待てよ、つまりどういうことだ。お前が怒らせた子のハートが割れてるんだろ。んで、青色になってんのは、さっきの隣クラの委員長じゃん」
何度目かの「まさか」の空気が流れる。今朝から続けざまに出会ったそれらしい人物には初対面なりの対応しかしていないが、飯田はもともと友人だ。当然、互いに友好的なやり取りを交わしている。
一拍の沈黙後、瀬呂が声を上げた。
「ゲームが現実と連動って、単に同じようなイベントが起きるっつーだけじゃなくて、パラメーターまで影響するってことか? んなことあんの?」
パラメーターとはこのハートの色のような、ゲーム内のスコア情報を指すもののようだ。現実で女子生徒を怒らせたためにハートが割れ、飯田と友人としてのコミュニケーションを取ったためにレベルが青に上がったのだとすれば、そういうことになる。
「ゲームと現実の向きが逆じゃねーかって気が……いや逆も起きてそうだよな。そうでなきゃモテたい人間がわざわざ金払って頼んだりしないだろうし。それでも今まで失敗続きなんだってんなら、双方向なのかも」
この手のゲームは特別な力量を要さないため、攻略情報を参照しながらプレイすれば、しくじることは滅多にないという。今まで男に依頼して個性を利用した人間たちは、ゲームで「出会い」の機会を獲得し、そのままシナリオを進めて現実でも望む関係を手に入れようとした。しかし効果がゲームから現実への一方向ではなく、現実からゲームへも相互に影響し合うために、現実の行動のほうで失敗し、その結果としてゲーム側でも失敗したのではないか、と瀬呂は推理してみせた。
ならば、と想像はさらに先へと進む。
「犯人が言ってたって聞いたな。『お前も失敗して〝大変な目〟に遭えばいい』って」
「今聞くとネット正義マンとモテてえ男の逆恨みの二乗が丸わかりでひでーな。お前もゲームでフラれろ、ってぐらいのこけおどしだと思ってたけどな……」
まだ何か裏があるのやもしれない、という懸念が高まり、再び無言の間が落ちる。
数秒のあいだ部屋を渡った場違いになごやかなBGMに次に割り入ったのは、ひらめきの声ではなく、部屋の戸を叩くノックの音だった。ホラー映画のワンシーンのごとく揃って肩を揺らしてしまいつつ、瀬呂がゲーム音を下げ、轟が戸口へ向かう。
「……常闇?」
開けたドアの向こうに立っていた小柄なクラスメイトの姿に、思わず首を傾げた。寮で特別頻繁に会話をする間柄でもなく、階も遠い常闇がわざわざ部屋まで訪ってくるのは珍しい。
「夜分にすまん。実は今、ホークスからお前の連絡先を教えてほしいと頼まれたんだが」
「ホークス?」
おうむ返しの声を挟んだのは瀬呂だった。先客があったか、と轟の肩越しに部屋の奥を見やりながら、鴉の頭が頷く。
「何やら話があると言っていた。単なる気まぐれというわけでもないようだったが、いずれにせよお前に了承を得てからにすべきだろうと思ってな」
そう語られた言葉以上の意味を感じ取ったのは、おそらく後ろで聞いていた瀬呂も同様であったろう。常闇が師と仰ぐ元ナンバー2ヒーローは、大戦の終結後、人々が驚く暇もないほどの速さでヒーロー活動引退と事務所の権能その他の分割譲渡を発表し、今は私人として公安委員会に協力する立場にあるということだ。今日の今日となれば、無関係と考えるほうが難しい。
よし、と瀬呂が拳を打つ。
「こうなりゃ常闇にも仲間に入ってもらうか。公安にも裏口確保できるし」
「口外禁止じゃなかったか」
「俺ら二人だけじゃ回す頭が足りそうにねぇよ。相澤先生には事後報告で許可もらおうぜ」
「……なんの話だ?」
怪訝な顔を浮かべる級友を部屋の中へ促し、画面の前に座らせて、協力を仰ぎたい旨を伝えてから、今に至るまでの事の経緯を語った。突飛な話をなんの心構えもなく吹き込まれ、初めはさすがに面食らっていた常闇であったが、轟などよりはだいぶんゲームの知識にも明るいらしく、途中でするりと現れた意思持つ個性ともども、一度の説明でおおよその理解を得たようだった。
「つまり、そのゲームの進行や、ゲームと関連する現実での行動の結果いかんで、轟の身に危難が及ぶやもしれない、ということか。そのうえ飯田も事に巻き込まれた可能性があると。なんとも面妖な個性だ」
「トドロキ危ないノカ?」
「その〝大変な目〟ってのがただのはったりならいいんだけどな……」
騒ぎの際に勢いで吐き捨てたのではなく、取り調べ中にわざわざ語ったからには、その場限りの虚勢とも切り捨てづらい。
何か推理の材料になるものは、と三人で手分けして情報を探していくと、犯人の使った言葉自体は、公式サイトに記載された説明文からの引用であることがわかった。ゲームプレイ中の行動や会話の選択を誤った際に陥るかもしれない状況のことを、「大変な目」あるいは「大変な事件」などと書いているのだ。
これだけではなんとも言えないと首をひねる轟と常闇を、なあ、と瀬呂が横から硬い声で呼んだ。
「姉ちゃんから返事来たから今ちょっと話してて、こういうゲームのバッドエンドにどんなもんがあるかって訊いたんだよ。そしたらな」
主人公が失意に暮れるだけで終わるものも多いが、中には行方知れずになる、大怪我をする、心神喪失する、果ては死亡に至る物語もある、と答えが返ったらしい。
「トドロキ死んジャウノッ?」
「落ち着け
黒影、そんな例も少数あるというだけだ」
身を震わせて叫ぶ半身に常闇がフォローを入れるが、では今回もその例に当てはまらないのか、という点については誰も何も言えなかった。あの男は確かに悪意を持って轟へゲームを押し付けてきたのだ。現実での失敗によってゲームの中の物語も不幸な結末へと進み、その害がさらにまた現実へ返ってくるのだとしたら。ゲーム内で陥る限りの悲劇が、相手の現実にも及ぶことを望んでいたのだとしたら。
「『最近の乙女ゲームってサプライズでいきなりえぐい展開になったりするんだよねー』じゃねぇよ姉ちゃん。本気のホラーかよ……やべぇ。甘く見てた。もしそうならバッドエンドは絶対回避しねーとだぞ」
「……恋人作らないとなんねぇのか?」
ゲームの目標がそれだと言うなら、そうなる。ぽかんとして問うと、いや、と瀬呂はすぐに首を振った。
「こういうジャンルは大抵ノーマルエンドってのがあるんじゃねぇかな。バッドになるほどじゃねーけど、恋人はできませんでしたで終わりって感じのやつ」
もちろん一番望ましいのは、公安がすぐに個性の解除方法を見つけてくれることだ。しかし相澤もため息していた通り、抱える問題の優先度という点で、過度な期待はかけられない。最悪の場合を想定して当面の対応を考えねばならない。
念のためと瀬呂の姉へ意見うかがいをすると、何もせずほったらかしではさすがにバッドエンドとなってしまうことがほとんどではないか、と返答があった。目当てのキャラクターとそれなり以上に仲良くなってから、終盤で友情か恋愛かに分岐する場合が多いという。
「そうか」
ぼんやりと了解を唱えたものの、先へ言葉が続かなかった。ゲームの仕組みと状況の理解だけで精いっぱいで、また頭に霧がかかり始めてしまっている。
顔に出ずとも戸惑いは外へ充分伝わっていると見え、瀬呂が一度大きくうなってから、探り探りの調子で口を開いた。
「骨折り損になっちまうようでも、ゲームをうまい感じに進めておくとか、今こっちでやれることはやっといたほうがいいんじゃねーかな。あとで取り返しつかなくなったらそれこそどうしようもねぇし……」
「そうだな。ホークスの話もこの件を知ってのことだと思うが、それぞれの組織を飛び越えて連絡を取ろうとしてきたということは、おそらく公安の動きが芳しくないのだろう。だがゲームだけでは不足かもしれんな。相互作用を考えるなら現実もおろそかにできん」
同意とさらなる見解を述べた常闇に頷き、勝手な提案するけど、と瀬呂は言葉を続けた。
「どう転んでもいいようにガチガチに保険かけておくなら、全員キープしとくのも手だと思う。運良く、なんてこた言わねーけど、なにしろこっちはあの逆恨みヤローが泣いて謝るレベルのモテ男だからな。やってやれねぇことはねえ。けどお前の性格的に、実際はそういうの無理だろ。だから」
こいつ、としばし放置状態になっていたゲーム画面の中央付近、眼鏡の男子生徒の顔を指差して、言う。
「とりあえずこのキャラに的絞って進めてくってのはどうだ? 本当にこの隣クラの委員長が飯田と連動しちまってるんなら、現実での失敗は考えなくて済むだろ。飯田とはとっくにダチなんだから」
轟はとりどりの絵と記号で飾られた煌びやかな画面を見つめた。瀬呂の指がモニターの上にくるりと囲い描いた円の中、ひとつだけ色の進んだ青のハート。
それが「とっくにダチ」である飯田と自分とのつながりを示すものなのだろうか。周りのハートとのわずかな色相の差が、感情豊かな飯田がこの一年で轟に見せた、様々な心の彩りを証しているのだろうか。
しばし考え、問い返す。
「……もし本当に俺が飯田を巻き込んじまったんだったら、これ以上世話かけたくねぇ。けど、今まで通りに付き合ってたらいいんだよな?」
「あー、どうだろうな……。少しぐらいは気にしてたほうがいいかもな。ゲームのほうでどのぐらいの仲になれば分岐まで行き着くかがわからねぇから……」
歯切れの悪い返事に、
「じゃあモット仲良くなったらイインダナ!」
黒影の影らしからぬ明るい声がかぶさってくる。明瞭かつ明快な指針。オレモ皆とモット仲良くナルゾ、と笑うのを常闇がそうだなと言って撫でてやり、重たい空気も多少やわらいだ。
「ま、小難しく悩むよりそう思っといたほうが全然いいか。サンキュー黒影」
どうだ轟、と確認の問いを向けられ、異論なく頷く。
「あの人形拾ったやつみてぇに飯田のハートが割れちまうのは嫌だから、ちゃんとしたい」
「さすがに今からそこまで後退しようもねぇとは思うけどなあ。飯田だし」
「イインチョーにモット仲良くナろうッて言オーゼ!」
黒影の無邪気な提案にいやそれは、と瀬呂が渋い反応を見せ、横から常闇が口を挟んだ。
「実際のところ、飯田には隠しておくのか? 言い方は悪いが、こちらの都合で飯田の個人感情を利用することになるのだろう。黙っているのはいささか信義にもとるように思うが……」
「それはそうなんだけどよ、この手のやつは相手にバレたらゲームオーバーって気がしねぇ?」
思い当たるふしがあるのか、指摘にむうとうなって嘴を結んだ常闇に代わり、膝乗り出して答える。ゲームのことはわからずとも、これに関しては二人に頼らず、当事者の自分が決定を下すべきだ。
「俺も黙って飯田をいいように使うみてぇなことになるのは正直気が進まねぇ。けど、下手に話したらすげぇ心配させちまうと思う」
「まあ心配するわな。飯田だし」
「巻き込んじまったのはこっちでも、自分が関わってるなら何かしねぇとって感じるだろうし、けどあいつもこういうゲームとかには詳しくねぇから、なんもわからなくて役に立てねぇって落ち込むと思う」
「ウム。目に見えるようだ」
いつも他人を、轟を心配している飯田に、今また無用な労をかけたくない。話すならば解決のめどが立ってから、もう問題ない安心しろとの言葉を添えて教えたい。
「俺の勝手で悪ぃけど、あいつには黙っててくれねぇか」
膝に手を置き、頭を下げる。返答は早かった。
「了解した。知られてどうなるかの気がかりもある。多少義理を欠こうが身の安全には代えられん」
「だな。とりあえず三人、黒影入れてこの四人で会議してこーぜ。目指せハッピー友情エンドってことで」
「仲良し頑張ルゾ!」
「ふむ。差し詰め『友情
大作戦』か……」
「出た形から入るタイプのやつ。嫌いじゃねーわ」
相澤への報告、ホークスへの返事、そして本題のゲームと飯田への対応。初日から議題山積の会議は消灯間際まで紛糾し、翌朝からの作戦開始早々、轟はターゲットの委員長に小さなあくびを見咎められ、「早く寝るよう言ったじゃないか」と二度目の説教を頂戴する運びとなった。
*
夜の秘密会議から十日あまりが経ったある日の昼休み。いつも昼食を共にするメンバーがそれぞれ所用で食堂に来られず、偶然ふたりになった機を使って、轟はかねて用意の言葉を隣へ投げかけた。
「なあ飯田」
「ん? なんだい」
「俺ら、友だちだよな」
短い問いが落ちるが早いか、飯田は口に運びかけていたスプーンを器用に宙に静止させ、上に乗ったニンジンのかけらと似た色の瞳をぱちぱちと瞬かせた。
数秒後、方形に開いたままになっていた口がようやく動きを再開し、
「すまない轟くん、たとえ君が相手でも金銭の貸借のたぐいは慎重に考えさせてほしいと……いや、何か困っていることがあるならまずそれについて聞かせてくれないか。できる限り力になろう」
などと存在しない裏側を読んだ回答を吐き始めたので、違う、と首を振る。
「そのまんまの意味だ」
「そのままとは」
「俺とお前は友だちだよな、って意味だ」
くり返し唱えてみると、確かに少し妙な響きではあった。またぱちぱちと四角いまぶたが開閉し、懸命に轟の意図を汲み取ろうとしているのがわかる。とは言え裏も意図も正しく「そのまま」であるので、こちらとしてはほかに説明を重ねようがない。
初日の作戦会議で今後の方針を大まかに定めたのち、数日かけていくつかの検証を行った結果、ゲーム内での行動と現実での行動、そしてそれぞれにおける成果あるいは顛末が相互に影響を及ぼし合う、という仮説はおおよそのところ証明された。検証の仮定で轟はさらに学校内外の二人の人間と出会い、三つのハートが色を変え、一つのハートにヒビが入った。人との関係値が可視化される感覚は奇妙で、あまり便利で気持ちの良いものとも思えなかった。
初めの推理が誤りでなかったことが判明したため、作戦の大筋も変えずに続行、ということになった。すなわち、飯田をターゲットとした『友情
大作戦』である。
ふたりはどのぐらい仲がいいのか、と訊ねてきたのは黒影だった。今の段階でさほどでもないなら手を尽くさねば、と純粋に案じたようだが、轟が答えを出すより早く、その点については問題視していない、と瀬呂と常闇が口を揃えて語った。見るからに仲はいいし、うちの委員長は級友たちへの情に篤い男だから、と。
もちろん轟もその評価に対して異論はなかった。しかし自身の言葉を返せなかったという記憶がもやのように胸に沈み残った。ひと同士の関係を知り、語り、築くにあたり、自分はまだまだ様々な技能を欠いている。特に今回の作戦を進める上では致命的とも言える欠点ではないか、と感じ、せめて現況を己で把握せねばと考えて、踏み出した結果が今である。
よほど思いがけない問いかけであったのか、ええと、と飯田が珍しく言葉を迷わせる。
「どこかでそうした課題が出ていただろうか? もしくは何かの罰ゲームといったような……」
問いそのものより、問いが出てきた理由が気になっているらしい。まあそれはそうだろう、と他人事のように轟も思った。普段からの飯田の懐深さに甘えて前置きなく放り込んでしまったが、世間話の流れでする質問ではないだろう。
なんとなく、ではさらなる困惑を招きかねないと、言い訳を見つくろう。幸いすぐに思い浮かんだ。
「委員会でそんな話になった」
「ああ、なるほど」
期待通り、飯田は怪訝の反応を即座に合点に変えた。今のところ学内では唯一所属を異にするコミュニティだ。多少嘘を混ぜ込んでもばれることはまずない。
「皆、君の交友関係に興味があるのだろうな」
「それはわからねぇけど、こういうの良く考えずに答えたら駄目なんだろ。爆豪怒らせたこととかあったし」
こちらの思惑以上に納得しているが、あえて訂正せずに弁明を重ねた。いつかの取材の時の話だな、と飯田が笑う。
「彼も少し複雑な性格をしているからな……今なら認めてくれるんじゃないかとも思うが。もちろん俺については遠慮なく友人と言ってくれて構わないぞ! むしろ誇らしいぐらいだ」
朗らかに言われ、胸のもやが気早に晴れていくのを感じながら、そうかと頷く。ほかに返すべき言葉も山ほどにあるように思ったが、即座に考えをまとめ上げて形にするにはやはり技量が足りず、それに、と続く声をただ聞いた。
「俺の勝手な心持ちというか、希望に近しい想いではあるんだが……君と緑谷くんは、僕にとって何をしても返しきれないほどの恩人で、かけがえのない、素晴らしい親友だとも、思っているんだ」
朗笑一転のやわらかな声音。思わず首ごと隣を向き、思わぬ告白を述べた横顔を見つめた。匙先でくるくると皿の中をかき混ぜるめったに見ない無作法な仕草が、めったに見せない照れを語っている。
「……親友」
「あっ、いや、突然こんなことを言われても困ってしまうよな! 申し訳ない。あくまで俺の独り勝手であって、その、気にせず忘れてもらって構わない」
轟がおうむ返しにこぼした呟きをネガティブに受け取ったのか、あせりで早回しになる言葉の隙間に、飯田、と呼びかけを入れ込む。考えをまとめ上げる暇はなかったが、ただ聞き流して終いにすべき話でないことは、自分にとてわかる。
「忘れる必要ないだろ。俺はそういうのまだちゃんと勉強できてねぇけど、お前がそう呼んでくれんなら全然悪くねぇって思うし」
「本当かい?」
「おう。悪くねぇっつーか……すげぇいいと思う」
消極的な肯定を改め、素直な感想を伝えると、不安げな顔がぱっと晴れ上がった。
「そうか……! ありがとう、轟くん! なんだか不思議なタイミングになってしまったが、二人にはいつかきっと伝えたいと思っていたから。そんな風に言ってもらえて良かった」
とても嬉しいよ、と、言葉に違わぬ喜色がいっぱいに浮かび、かと思った次の間、
「しかし改めてとなると、やはり少し照れくさいな……」
そう言って面映ゆげにはにかんだ〝親友〟の、今日幾度目かとなるまれな表情と声色が刷り込まれるように意識に残って、翌日の会議の時間まで消えなかった。
「――はー、やっぱすげぇな委員長」
良くそういうことすぱっと言えるよなぁ、と報告を聞いた瀬呂が感嘆を漏らし、常闇が隣で同意の首肯をする。実際にはあせりも照れもしていたので「すぱっと」と言い切れるほどの印象ではなかったが、まあわざわざ告げ口する必要もなかろうと、轟は自分ひとりの胸に飯田の様子の仔細を呑み込んだ。無論、「恩人」の語とそれにまつわる話も全て伏せている。
「今度なんかの時に緑谷にも話そうってことになった」
「訂正するわ。やっぱすげぇなお前ら」
代えて語ったその後のやり取りに賛の響きの薄い賛辞を得つつ、手元ではコントローラーを操作し、モニターにゲーム画面を映し出す。十日も経てばさすがに操作の手ぎわもいくらかましになってきた。
轟が押し付けられたこの『恋色メモリーズ』という恋愛ゲーム、通称『恋メモ』は、ちまたでは「ゲーム性の高いシミュレーション」という位置づけで、プレイヤーの積極的な攻略が求められる造りであるらしい。ゲームは日曜の夜に翌週の大まかなスケジュールを決め、一日単位で物語を進めながら、ところどころで行動の選択を行いイベントをこなす、という一連をくり返していく流れとなっている。公式に設定された最終目標はクリスマスまでに恋人を作る、というもので、日々の出来事が非常に細かいぶん、期間は同種のゲームに比べてやや短い設定とのことだ。その進行単位のゆえか、手厚くクロスプラットフォーム形式が採用されており、クラウド上にセーブデータを保存し、スマートフォン用のアプリから続きをプレイすることもできる。
ゲーム内に進行を阻害する要素はなく、先へ先へと急ぐことも可能ではあったが、何か問題が生じた際のリカバリーのため、現実の日付から大幅にずれないように進めていこうと決めた。必然、作戦会議は翌週のスケジュールを設定する日曜夜に開くこととなり、隣室の瀬呂はもちろん、常闇も周りに不自然に思われない頻度で参加すると申し出てくれた。
相澤にも事のあらましは報告済みで、自らゲームへ関わる方針にはやや難色を示されたものの、ホークスの連絡などから予想される公安の動きの鈍さをほのめかすと、教師らしからぬ舌打ちとともに当座の許可が下りた。苦み走った声で定期報告の指示を受けたが、俺もゲームのことは良くわからん、とこぼす教師に何をどこまで伝えていくべきか、いずれまた会議の中で意見を出し合わねばならないだろう。
「現実でもゲームでもテスト週間か……忘れさせてくれねーな……」
和室にリフォームされていない寮の自室の絵が開き、日付下部に表示されたテキストを読み上げて、瀬呂が天を仰ぐ。雄英では復興活動の続く状況を鑑み、一学期末の実技試験は特例で中止とされ、学科試験のみの実施が決まっていたため、奇しくも現実がゲームへ寄った形となった。
「試験後はどんなイベントが予定されているのだ?」
「普通に夏休みに入って、バイトとかできるみてぇだ」
「バイトなあ。〝イイダ〟はバイトってキャラでもねー気がするけど」
「あと学校での講習会とかがある」
「あー、そっちっぽいな。ナビ雄はなんつってる?」
促され、ゲームの中の級友に状況を訊ねる。『恋メモ』はシステムがやや複雑であるぶん、プレイヤーを助けるためのナビゲーション機能が細やかに用意されており、わからないことがあればまずゲーム内の情報を頼れ、と初心者の轟は二人に言い含められていた。
「試験でいい成績取って講習会出ろっつってる。あとは生徒会が夏休みになんかやって、それにイイダが参加するらしい」
「イイダは生徒会に入っているのか」
「入ってねぇけど、次期ナントカ候補みてぇな」
「あるある」
飯田と連動しているらしきキャラクターは見た目の印象通りの優等生で、好みなども一貫しており、瀬呂いわく「攻略しやすい」相手だった。本当は
鬼龍院静という厳つくしたいのかたおやかにしたいのか良くわからない名前が付いているのだが、飯田天哉のほうがいい名前だと思う、と轟が評し、しかも読みづらい、と黒影を含むほか三名が同意したため、会議の場ではほぼイイダで通っている。
攻略のためのナビゲートも、勉強を欠かさず真面目な生活を送れ、とごく単純な内容で、それに従い今のところ良好な関係を維持できているようだ。
「イイダのハートはまだ青のままか。先ほどの轟の話を聞くと、もう少し進んでも良さそうに思うが」
ほかより多少早いとは言え、と語る常闇に、現実とはスタートが違うしなと瀬呂が答える。
「隣クラだから会うのも楽だし、まあ順調じゃね」
「こいついつも自分のクラスほったらかしで、飯田ほどやる気ねぇ感じだな」
「こうしたゲームの登場人物は受動的な造形にならざるを得ないのだろう。そも凡百のエリートに飯田並のやる気を求めるのは酷だと思うぞ」
「あり過ぎて空回りするレベルってのはなかなかね……」
勝手なことを述べ合いながら次の一週間のスケジュールを設定し、その後、勉強会に誘ったイイダこと鬼龍院との会話中、生徒会による夏季休暇中の交流キャンプが話題に上ったところで、ふと思い出した。
「そういや、図書委員でもなんか今月の終わりに河川敷借りて、バーベキューやるって言われてんだ」
「意外にアクティブなのだな……」
「ほかに何人か誘ってもいいっつってたから、飯田と緑谷に声かけようかと思ってる」
「お、いいね。楽しそうじゃん」
ゲームも問題なく進んでいるし、好きなように周りと親睦を深めてこい、と鼓舞を受け、頷く。
常闇を巻き込んだ際、飯田と仲の良い緑谷にも協力を仰いではどうか、という案も出たのだが、日ごろ三人で行動する機会が多いため、緑谷に気を遣わせすぎる可能性がある、あまり近いところで固めるのも不自然さが増して良くないのではないか、と見送りになっていた。今回のようなことを考えると正解であったろう。
「明日ここに集まって試験勉強するから、その時に誘う」
「真面目かよ……なんかほんとに普段からゲームと同じようなことしてんだな」
「お前らも一緒にやるか?」
「クラス上位の者たちの輪か……」
「俺はまたヤオモモ塾にお世話になります……」
そんなこんなの作戦会議を終え、翌日。同席予定であった緑谷が家の用事で急遽帰宅してしまったため、飯田はひとりで轟の部屋へとやって来た。
念のためゲーム機は隠した部屋の中央に折りたたみ式の机を置き、筆記用具を並べ、おのおの勉強を始める。合間の休憩時に図書委員のバーベキュー会の話をしようと思っていたが、なんとなく間が待てず、開始から十五分も経たないうちに、もう伝えてしまおうと口を開いた。
「飯田」
「轟くん」
声が重なり、はたと上げた視線がかち合う。
「なんだ」
「君から……」
次に発した言葉までもが宙でぶつかって、今度は沈黙が落ちた。相手もあくまで譲るつもりであるようだが、こちらに先を得る理由はない。
「俺の話はどうせ緑谷にもするやつだから、お前から話しちまってくれ」
二度手間になっても構わなかったが、こう言ってしまえば先行せざるを得ないだろう。それでも何か躊躇の生じる話題であるのか、飯田は目線を右、左と少しさまよわせたのちにようやく頷き、一の字に引き結んでいた口を再び開いた。
「夏季休暇についてなんだが、もう君の予定は決まったのかい。ボランティアの話は聞いていたが」
やや予想外の、こちらの話とも若干関わりのある問いだった。ああともいやとも返せず、曖昧に首を振る。
「いくつか連絡取りはしたけど、まだどこに行くかはっきり決まってはいねぇ」
復興活動はまだ各地で続いているものの、学生を労働力として際限なく拘束するわけにはいかないとの判断から、雄英を始めとするヒーロー養成校においても、夏季休暇は法定通りに与えられることとなった。ヒーロー科生徒はインターンを検討する者が多かったが、昨年の轟のインターン先であるエンデヴァー事務所は、所長引退によるごたつきのためしばらく学生を受け入れないとのことだった。同所で活動を共にしていた緑谷と爆豪は、それぞれの事情でインターンは見送るという。
寮、ましてや実家で漫然と過ごすことは考えられず、かと言って訪う事務所の当てもなく、一からの行き先探しを余儀なくされた。この人手不足の折、雄英に紹介を頼めば、轟の名を知り、是非にと手を挙げる事務所の二つ三つはすぐ見つかったに違いない。しかしそうして用意された居場所と仕事を安易に受け入れて済ませるのではなく、自分自身で今やることを見つけてみるのもいいかもしれない、と轟は考えた。自己満足に過ぎないが、それでも良いのではないか、と思った。
働き手を募る施設や活動組織は、今はそれこそ全国どこにでもある。非営利組織やボランティア団体が出している求人情報を集め、いくつかの窓口から連絡を取ったが、未成年者の個人応募、という点での足切りに始まり、受け入れに難色を示す声が予想以上に多く、話が進んでいるのはわずか数件だ。考えの甘さを痛感していたところである。
事情を聞き、なるほど、と飯田は思わしげな顔を浮かべた。
「どこもまだ混乱が治まりきっていないうえに、個人間のトラブルや事件が目に見えて増えているとなれば、ひとりの人間として信用を得るのは簡単ではないのだろうな……ヒーローというものへの信頼が揺らいで在り方が問い直されているただ中でもあるし、雄英生の肩書きも身の証明として弱いのかもしれない」
「授業が始まったからもう抜けますってんじゃ、受け入れ側としちゃ使いづらいだろうしな。ガキの気まぐれだと思われても仕方ねぇ」
自己満足のために意固地を通す理由もない。どうにも折り合いが付かないとなった場合は、雄英からつながりのある団体への口利きを頼むことも考えている、と語ると、飯田はまた数瞬の迷いの反応を見せてから、轟くん、とおもむろに呼びかけてきた。
「もし君が良ければなんだが、……俺と一緒にイダテンへインターンに行く気はないかい」
「イダテン?」
もちろんその名は知っている。飯田の兄、天晴が創設したインゲニウム事務所の活動名、チームIDATEN。関東圏を代表する大規模なヒーローチームであり、昨年の〝ヒーロー殺し事件〟で所長兼チーム代表のインゲニウムが負傷し実働引退となったのちも、わずかの休業期間も挟まず活動を続けている。他の事務所同様、大戦による被害も少なからず受けていたが、空席となっていたチーム代表の座に今春から天晴が復帰し、周辺の事務所への支援と協働を積極的に行いながら、早期の活動正常化を実現させつつあるとのことだ。
昨年の飯田は職場体験に続いて保須のマニュアル事務所でインターン活動をしていたが、クラスのリーダー役が板に付き、マニュアルからは「もううちでは教えられることも少ないから、もっと大きな事務所へ行ってはどうか」と勧められたと何かの際に話していた。その助言を受け入れ、今夏のインターン先に件のチームを選んでいたとしても、当人にとってはなんら不思議な話ではないのだが。
予想だにしない提案に思わず漏れた反問を受け、飯田はチームの現況について語り始めた。
「イダテンでは今チームを大きく二班に分けて活動をしていてね。一班は従来と同じく、事件対応や災害救助を主軸とした治安維持。もういっぽうの班は、地域の戦後復興支援に特化させているんだ」
元のチームメンバーは状況に応じて二班のあいだを行き来しているが、飯田が夏季休暇中にインターン生として加わるのは、復興支援の班だという。
簡単に言ってしまえばボランティアのようなものだが、かねてから多種の組織や自治体とのコネクションを万全に築いてきたチームであるだけに、広く、かつ深く現場に入り込んだ活動が可能であるらしい。自分も是非そんな場で働きながら見聞を広めたいと考えている、と、飯田は尊敬する兄のチームの誉れを誇らしげに語った。
それで、と轟をまっすぐに見つめ、続ける。
「どうせ、と言ってはあまり良くないかもしれないが、やろうとすることが同じであれば、君も一緒にどうだろうかと思って。実は兄からも個人での活動が難しくなっている状況を聞いたものだから……」
轟も行き先探しに苦労しているのではないか、と想像し、今回の誘いの話を思いついたのだという。
期間は八月一日から二十五日まで、あいだに四日間の休日を挟む約三週間。各現場に最短で一日未満、最長で五日程度の滞在となる短期集中型の支援活動を行う。ボランティアの延長であるため給与は控えめになってしまうが、宿泊先は各活動地域の近郊に用意してもらえるし、提携の飲食店や施設を所員と同待遇で利用することもできる、と諸々の条件を述べ、
「くり返しになるが、もちろん君さえ良ければの話だ。無理に誘おうというわけではないから、もしまだ考慮の余地があるのなら、選択肢のひとつに加えてぜひ考えてみてほしい」
そう、あくまで轟の意志にゆだねるという言葉を締めとし、飯田は説明を終えた。
良ければも何も、と頭を掻く。今の轟と同じ状況になくとも、ヒーロー志望者の大半が勇んで飛び付くだろう提案だ。
「俺としちゃすげえ有難ぇけど……色々世話かけちまうんじゃねえか。まだおおっぴらにはインターンの募集再開してないんだろ」
「俺を受け入れられる時点でほとんど再開しているようなものだから、問題ないさ。もともと大人数での活動や外部の人間が入り交じった状況に慣れているチームだし、その気になれば今すぐにでも公式に募集をかけられるのだと思う。……実を言うと、先走ってすまないが、兄さんにはもう話を通しているんだ」
半人前がひとりからふたりになったところで何も変わらないぞ、なんて言われたよ、と笑って打ち明けてくる。
「つまり何も気にするなってことだ。どうだい轟くん。また俺と同じチームに入ってみてはくれないかい」
最後の誘いの言葉が、自然と顔を前へ向かせた。冗談めかして語った口元に冷やかしの笑いの気配はなく、赤い目がごく真剣にこちらを見つめ、返事を待っていた。
体育祭、クラス対抗戦、そして神野で始まり群訝まで駆けた、あの戦い。心身の節目となったいくつかの出来事の折々に、傍らにあった疾風の姿を思い出す。
弾かれたように口を開き、
「行く。……行かせてほしい」
頼む、と腰折って低頭する。慌てて姿勢を戻すよう促され、再び見やった顔には、かすかな安堵の色が浮かんでいた。
「俺は少し家族に話をしただけだから、頭を下げてもらう必要などないぞ! 君が去年緑谷くんたちをお父上の事務所に誘ったのと同じことだ。……だが受けてもらえて良かった。君が自ら志を持って行動しているところに、お節介だろうとは思っていたから」
ありがとう、などと言うので、それこそあべこべの礼だろうと指摘すると、それもそうかと笑いが返った。
数日中に契約手続きを行うことを確認して話を終え、ようやく机の上のテキストとノートに目を戻したが、意識は来たる盛夏の日に浮き向かうばかりで、目標の半分のページにさえも指がたどり着かなかった。
悲喜こもごもの試験期間が駆けるように過ぎ、A組は両委員長の丁寧な目配りの甲斐あって、赤点獲得者をひとりも出すことなく、全員揃って夏季休暇を迎えることとなった。
一学期最終日、懸案の個性とゲームについて、相澤を通じて公安からの現状報告があった。が、犯人の男が過去に関わったいくつかの騒動の詳細が判明したほかは、依然として強制解除条件が不明のままで、一筋縄では解決しない事件である、という有難くない状況が再確認されたのみに終わった。
禁錮刑が下って刑務所に収監された男は、対象から離れながらにして己の個性が作用していることを知覚できているようで、変わらず轟に対する逆恨みと、「失敗」を期待する言葉を吐いているという。しかしこのひと月のあいだ、ゲームでも現実でも「失敗」の気配を感じたことはなく、日々の手間が少し増えたこと以外には、おそらく男が望んでいるほどの支障は生じていない。
公安からの轟の身柄保護の打診に対しては、雄英から即座に拒否の回答がなされたが、その代わりに保護者へ連絡がなされるべきだ、と相澤は言った。「本来なら」という註を頭に置きつつ、まず先に当人の轟にそう教えてくれたのは、学校側としても是非こもごもの配慮であったことだろう。その気遣いに甘え、轟は家への連絡を待ってくれるよう、頭を下げて頼んだ。ヒーロー科入学時点である程度の保護責任権限が託されているとは言え、生徒の親族へ監督能力不足の烙印を捺すにも近しい選択を、相澤は数分の黙考のあと、深く長いため息を吐きつつ了承した。
長期休暇中は対面での作戦会議が困難となるため、ゲーム側の進行についても多少の危惧を覚えていたが、イダテンでのインターンが決まって飯田との関わりが保たれることとなり、ゲームのプレイングにもどうにか慣れてきた、ということで、楽観的現状維持が夏のあいだの方針となった。何かあればすぐに連絡を取り合い、必要に応じて集まろうと三人で取り決めている。
時間があるうちに、と寮で夏季課題の消化に集中した七月の終わり、轟は当初の予定通りに飯田と緑谷を誘い、図書委員のバーベキュー会に参加した。他科の生徒たちからの質問責めなどに遭いつつも、これといった騒ぎまでは起きず、なごやかに過ごしたその日の帰路、電車の中で携帯から『恋メモ』を起動すると、〝イイダ〟のハートが緑色になっていた。
瀬呂と常闇に報告しようか、と開いたメッセージアプリにちょうど着信があり、見ると、ひと足先に実家で準備を、とバーベキュー会場の最寄り駅から直接東京へ向かった飯田からのメッセージだった。
『今日は誘ってくれてありがとう。他学年や他クラスの生徒との交流が叶って、大変有意義な催しだった』
『君も緑谷くんも大人気だったな。疲れたろうから今夜は早めに就寝して、インターンまでに熱中症や夏風邪などで健康を害さないように。水分補給も忘れずにな』
『気温が高いからといって横着せず、入浴後はちゃんとドライヤーで髪を乾かすんだぞ!』
『それではまた三日後、東京で』
実に〝飯田〟らしい言葉の連なりに、我なく笑いがこぼれる。いつもの明朗な調子そのまま、文字が吹き出しの枠をあふれて画面から飛び出してきそうだ。
『思ったより人来たな。驚いた』
『お前も久々の実家で食い過ぎて腹壊したりすんなよ』
『ドライヤーはちゃんとする』
こちらはそれぞれ短く返し、もう一度送られてきたメッセージを眺めた。堅い文章の端々に覗く人想いの情は、もし色を塗るなら緑よりもう少し虹の外側寄りの、赤みを帯びたあたたかな色であるような気がした。
*
「お、ショートくん、……で良かったよな。対面では初めまして」
八月一日、十二時五分。こちらから歩み寄って声をかけるより早く、きゅっと音立てて車輪が向きを返し、級友飯田天哉の兄にしてチームイダテンの代表その人、飯田天晴が手を上げて呼びかけてきた。
「それじゃ飯田、また休憩明けにな」
「ああ」
挨拶の時間と見て場を譲ってくれたのか、天晴と会話していた大柄の男性サイドキックが隣を離れていく。会釈で見送り、改めて前へ頭を下げた。
「初めまして。轟焦凍です」
「うん。いつも弟から話は聞いているよ。学校で仲良くしてくれてるんだってな」
あいつが勉強仲間以外を連れてくるなんてなぁ、と朗らかに笑う様子は、口調の硬軟こそだいぶん異なれど、やはり弟と良く似ている。昨年冬、飯田のPC画面越しに一度だけ顔を合わせたことがあり、その際にも良く似た兄弟だと感じたが、こうして目の前で見るとさらに印象が強まった。
「勉強も割と一緒にしてます」
「はは、そうか」
朝礼の前後に挨拶できなかったので、と今回のインターン受け入れについての礼を述べると、最近の学生はみんな真面目だなあ、とまた笑われた。
「あとから天哉が紹介しに来るつもりだったと思うけど、まあ先に済ませておくぶんにはいいか。それじゃ、改めて……チーム代表の飯田天晴です。今日からよろしく、ショートくん」
差し出された手を握り、よろしくお願いします、と礼をする。行動回復のリハビリを通常の何分の一かの短期間でこなし、近ごろは筋力トレーニングにも積極的に励んでいるらしいと語られていただけあって、車椅子の肘掛けに置かれた腕は見るからに鍛えられており、握った手にも、一時瀕死の状態に追い込まれたとは思えない力強さがあった。
「たぶん最初から最後まで地味で地道な仕事になるだろうけど、それはそれで勉強になるところもあると思うからさ。あまり気張り過ぎないで、けど手は抜かずに取り組んでもらえたらいい。……ってのを、天哉にも一緒に話そうと思ってたんだけどな。友だちほったらかしてどこ行ったんだ、あいつ」
「あっちでチームの知り合いの人たちに囲まれて動けなくなってました」
「あー、あいつら……とりあえず夜までは構ってやるなって言っておいたのに、こらえ性ねぇなあ。昨日から手ぐすね引いて待ってたんだ。うちの古参連中、弟が子どもの頃からの顔見知りばっかりでね」
隙あらば俺から
奪ってこうとしてんだよ、とおかしげに、そして愉しげに語った。
「まあ俺たちぐらいの歳になると若いのにうるさく絡みたくなるもんだからさ。君も何か言われたら適当にあしらってくれていいぞ」
変わらぬ笑い調子で言われ、瞬時にはいと応えられず、口が言葉を探してもぞつく。相手はすぐさまこちらの反応の鈍さを察したようだった。そんなところも、兄弟良く似ている。
「弟から何か言われたかい」
問われ、今度は即座に返した。
「言われたっつーか、……言ってもらった、っつーか」
言葉の足りない答えを訊き返すことなく、そうか、と天晴が頷く。低くやわらかな相槌の音が二十日前の会話を呼び起こし、聞いた声の響きみならず、目にした瞳の色までもを脳裏によみがえらせた。
インターンの誘いを受けて数日後の夜、飯田は印刷した契約書類を手に再び轟の部屋へやって来た。読んで内容に問題がなければ署名し、データ化したものを送ればいい、と言うので礼述べて手を出すと、なぜか書類は渡されず、代わりに問いかけられた。
『轟くん。これを読む前に、ひとつ俺から話をさせてもらってもいいだろうか』
静かな声だった。いきなりなんだ、と言える様子ではなく、部屋の中へ招き入れ、座って向き合う。膝の前に置いた書類にしばし目を落としたまま、インターンの話を持ち出した折よりもさらに長い躊躇の間を置いてのち、飯田はゆるやかに視線を上げ、口を開いた。
『これは、インターンでの活動や契約内容とは直接関係のない、俺からの個人的な依頼になるんだが、……ひとつ、約束をしてほしいんだ』
『約束?』
ああ、と頷き、まっすぐにこちらを見つめて、言う。
『もしイダテンでのインターン中に、君が何かを見たり聞いたり、言われたりして、少しでも嫌な気持ちになるようなことがあったら、必ず俺に教えてほしい』
数日前の昼の会話の反転のように、ぱちぱちと目瞬きをして、その顔を見返した。いつもと変わらない、いつもより数段、険しいほどに真剣な表情があった。
『インターン中は、雄英での復興支援活動以上に沢山の人と顔を合わせて、一緒に働くことになると思う。俺たちもあくまでチームの一員として配置されて、雄英保護下の学生としては見られない。そうした環境で知り合う現場の方々の中には、……イダテンの仲間の中にも、君たち家族を良く思わない人がいる』
そうまで言葉が進んで、飯田が言わんとしていることにようやく気付いた。轟の反応を待たず、声は続く。
『イダテンのチームメンバーについては俺も以前から良く知ってる。とても気さくで心のあたたかい、いい人たちばかりだ。だが、それでもきっと、あの戦いを引き起こしたものを許せない人はいる。あの戦いで自分自身が傷付いた人や、大切なものを喪ってしまった人も、いると聞いている。……兄さんが倒れてからいくらかのあいだ、チーム内で多少過激な意見が出ていた時期もあったそうだ』
その過程でチームを離れてしまった者もいるが、大きな揉めごとが起きたわけではなく、今は何も問題なく意思統一して活動している、と自らフォローを入れ、だが、と飯田は言った。
『君が活動に加わった時に、チームの皆がどういった目で君を見て、何を感じて、何を考えるか、正直なところわからない。俺は君がとても優しい、素晴らしい人だと良く知っている。だが皆はまだ知らない。君に悪い印象を抱いたり、そのことを口や態度に出したり、攻撃的になったりする人が全くいないとは、申し訳ないが今ここでは言い切れない。俺と、……俺の家族と、比べてものを言うような人が、いるかもしれない。あまり声高に語れた話ではないが、それが確かな事実である以上……君に伝えないまま隠して連れていくのは、誠実ではないと思った』
整然と語る飯田の顔は、その言葉の通り噓の色なく誠実で、それ以上に悔しげだった。身内の内情に対してではなく、あの日、あの雨中の独白で覗かせたものと寸分変わらず、轟を取り巻く状況に対してやり場のない憤懣を抱えていることが、ありありと伝わってきた。
『それでも君が俺と一緒に行ってくれるなら、約束してほしい。君を知らない人たちからの、そうした厳しい言葉や心を、絶対に君ひとりで受け止めたり、抱え込んだりしないでほしい』
呑み込みの遅い轟の心をあの日の景色の中に置いたまま、なお速く速く、あふれ出る情の勢いに追い付かんと、真摯な言葉は先へと進む。
『君がそれを君自身で背負おうと決めたのなら、俺は止めない。全力で君を援ける。だが、それは本当は、君や君の家族だけじゃなくて、社会全体で……俺たち皆で背負うべきものだと思う。だから』
だから、と語ひとつをくり返し、突然ねじが切れてしまったように、飯田は言葉を止めた。俯く顔につられて下げた目線の先、ぴしと揃えた正座の膝に置いた拳が、かすかに震えを立てていた。
何をためらうことがあるのだろう、とあっけに取られ果てて凪いでしまった心で、轟は思う。何を怯えることがあるのだろう。これほどに深くまっすぐなやさしさを向けられて、それを無下に撥ねつけようなどと考える者がいると思うのだろうか?
『飯田、わかった』
少なくとも自分はそうした人間ではない、と高らかに訴える代わりに、端的に答え、顔を上げさせる。
『なんかあったらお前に言う。約束する』
『……絶対だぞ』
『絶対言う。だから泣くな』
『えっ?』
わたわたと手が上がり、自分の頬に指で触れ、
『な、泣いてなどいないぞ!』
異変がないことを確かめて轟の冗談と判断したらしく、もう、と眉吊り上げてこぼした。
轟はそうかとただ頷いた。冗談を言ったつもりはなかった。俯いた赤い瞳が四角い目枠の中でふるふると揺れて、本当に涙をにじませているように見えたのだ。
言い訳はやめ、もう一度了解を唱えてから、書類を受け取った。退室を見送ってから一読し、署名欄にサインをしながら、家電屋の伝票に記名した飯田の名前のことを思い返していた。
「色々うるさいだろ? あいつ」
「声はでけぇと思います」
「あっはは」
身体につられてどんどんでっかくなってるんだよなぁ、と天晴が抱腹し、けど、と言う。
「悪くないうるささになってきたと思うよ。雄英に入ってからはぐんと良くなった。周りの子が皆ちゃんと聞いてやってくれるからだろうな」
君も、と天晴は口にしなかったが、目はそう語っていた。気後れを感じ、少し視線をそらす。
「……心配ばっかさせてます」
「したくてしてんだよ。させておいてやってくれ」
俺にも会うたび小言ばっかりだと苦笑し、少し声をひそめて、ここからはオフレコな、と言った。
「君のことについては、弟に言われたまんまってわけじゃないが、俺からチームに話してある」
はたと戻した目に、軽くも意味深い頷きが返る。
「もちろん受け止め方はそれぞれだろうから、絶対どうなるこうなるってことは言えない。何かあれば自分が責任を取る、なんて半人前が偉そうに言ってたけど、あいつにも君にもそんな馬鹿なことさせやしないから、安心してくれ。何かあれば上に報告。責任を取るのは監督者と責任者。チームの鉄則だぞ。チーム内で火種ばらまくような不届きもんがいれば俺が説教するし、チームの外にいたらうちの名前で抗議する。いつもとやることはおんなじだ」
だから何も気にするな、と、弟にも見せたのだろう態度で言外に語るヒーローに、すみませんとただ頭を下げれば、やれやれ、と盛大なため息がつかれた。
「半人前を戦いに連れ出して、壊れたものを直させて、あげくに頭下げて頼み込まれたり礼を言われたり謝られたり、しょうもない話だよなぁ。オトナがなあなあで隅に追いやってきた汚いもんを子どもにおっかぶせて尻拭いさせて、格好悪いったらありゃしないよ」
冗談めかした調子ながらも、心底からの言葉のようだった。反射的に首を振りかけて、やめる。
「それは、そうかもしれません」
その自嘲の全てを否定することは、自分自身を否定することに等しい。目の当たりにした淀みを、過ちに叩きつけた否を、つらく険しい途上で交わした対話の全てを、否定することに等しい。
けど、それだけじゃなかった。自ずと湧き出る言葉を並べる。自分たちが見てきた世界は、暗く汚れて虚しいだけのものでは決してなかった。
「オールマイトやインゲニウムみたいな格好いい大人がいて、俺たちがなりたいものを見せてくれたから、信じてやり抜くことができたんだと思います」
その先に何があるのかはまだわからない。しかし選び掴み取った今は、明日への希望をはらむ今日は、かつて確かに見たまばゆい光が、背を押し手を引いて導いてくれた場所だ。
「……そうか」
返ったのは納得の声でも安堵の声でもなかった。大人たちには大人たちが見た世界があるのだろう。許し、呑み込み得ないことはあるのだろう。しかし見過ごせない昨日があろうとも、今日の先に明日があるのは皆同じだ。
「ならなおさら、これ以上失望させないように頑張らないとな」
ほぼ初対面の相手にぶつけるにはだいぶん偉ぶった、半人前に不相応の物言いであったかもしれないが、天晴は轟の言葉をまっすぐに受け取ってくれたらしい。再びその名にふさわしい朗笑を浮かべて応えた次の間、鋭い排気音とともに車椅子が目前へ迫り、差し伸べられた手がぽんと頭に乗ってきた。
「君も、ナンバー1の息子だからって特別扱いはしないから、そのつもりでな!」
そのままぐしゃぐしゃと髪をかき回されて、一瞬何が起きているのかわからず硬直してしまう。親父はもう引退したので、という返事がまず頭に浮かんだが、そんなことは先刻承知だろう。
正しい反応を探し当てる前に、
「代表!」
聞き馴染んだ声が横合いから飛んできて、手が頭から離れていった。
「何してるんです、俺の友人に!」
「よう天哉。お前もぼっさぼさだなぁ」
しゃかしゃかと早足に歩み寄ってきた弟への指摘の言葉の通り、いつもきちりと撫でつけられている艶やかな黒藍の髪が、四方からかき回されたように激しく乱れている。その珍しい姿を眺め、「連中からは離してもらえたのか」と笑う声を聞いて、轟は一瞬前に自分がされたことをようやく理解した。
「俺から挨拶に来ただけだぞ」
何やら誤解が生じかけているようなので、自分から答えを告げた。飯田は両手を前へ振り出し、本当ですか、とまだ少し疑いをかけている。
「本当だって。っつーか、なんだよその喋り方は。他人行儀だな」
「公私の区別について話したのは代表でしょう」
「休憩中だぞ? こういうのはメリハリが大事なんだよ」
解せないと言いたげな顔を浮かべつつも飯田は頷き、ショートくん、と一度名を呼んでから「轟くん」とそれを改め、
「兄さんに変なことを言われたりからかわれたりしたら俺に教えてくれ。すぐ注意するから」
と、そんなことをごく真面目な調子で言うので、先の「約束」と妙な具合に記憶が混ざり、思わず笑いがこぼれてしまった。
「からかってなんかないぞ、弟の友だちとの親睦を深めてたんだよ。な、ショートくん。今はお前が怖い本を読んで夜中に俺の布団にもぐりこんできた時の話を……」
「兄さんっ!」
飯田が茹でだこのごとく真っ赤になって手刀を振る。兄弟の昔話は雑談中などにしばしば聞いていたが、そのエピソードについては初耳だ。
「一緒に寝てたのか?」
「寝てい……たこともあるかもしれないが、四歳とか五歳の頃の話だろうっ?」
「そうそう。あの頃はこんなちびっこくて、俺の言うことなんでも信じちまって、可愛かったよなあ。今じゃ会うたび説教と小言ばっかりでさ」
でかくなっちまったなぁ、と目を細める様に苦々しさは微塵もうかがえない。兄さんがスタッフの方が作ってくれたトレーニングのメニューを守らずやり過ぎるからだ、と飯田はなおも不満げに眉を寄せていたので、何かフォローするかと横から口を挟んだ。
「大丈夫だ飯田。お前結構可愛いとこあるぞ、たぶん」
「可愛くありたいわけではないのだがっ?」
「ははは」
どうやらフォローは失敗したようだが、話題を終わらせるにはちょうどの機であったらしい。流れかけた懐旧の空気を断って、さて、と天晴が話を転じる。
「挨拶に来てくれたのはいいが、ふたりともメシがまだだろ? 休憩終了までにちゃんと食べてこい。腹が減ってちゃ頭もエンジンも回らないぞ」
「む、そうだな。あと三十五分だ。行こう轟くん」
「俺はエンジンないですけど……」
「喩え喩え! 君面白いなあ」
さあ行った、と手を振られて揃って礼をし、早足に炊事場へ向かう。並び歩く黒藍の頭と同じほどに、自分の紅白頭もまだぼさぼさなのだろうと想像した。悪くない気分だった。
そうして慌ただしく終わったチーム合流初日と、その後の二日あまりのあいだは、内外から不信の視線を向けられ、空気のひりつく時間が確かにあった。しかし兄弟が発してくれたという懇願と注意の効果か、元の統制の良さあってか、直接に険を示され雑言を吐かれるようなトラブルは一度も起きず、どころか三日目の活動が終わる頃には、冷たさのない純粋な関心と、なごやかな笑いで四方を囲まれるようになっていた。
天晴の言葉の通り、旧知のメンバーからの飯田の愛されぶりは並ならぬもので、轟もその余波を受けたと言うべきだろう。時が経つごとに投げかけられる言葉が変化し、〝轟家の末子〟から、〝飯田天哉の友人〟へと見方が移り替わっているのがわかった。休憩時に雄英での勉強や生活のことを話すと皆盛り上がり、賑わいに惹かれて日に日に周りに人が増えた。
いつ何を伝えていいものやらわからず、兄弟への礼は言えずじまいになってしまっていたが、相手方から契約前、そして活動初日のような話をされることはもうなかった。周囲の構い過ぎには苦言を述べつつ、二人良く似た笑みを浮かべて、時に輪に巻き込まれもしながら、いつも愉しげに轟と仲間たちの会話を見ていた。
目を覚ました瞬間は、自分の身がどこにあるのかわからなかった。
天井が手の届くほどの近さに見えることにまず驚き、一拍置いて、ああそうかと頷く。ここはハイツアライアンスの自室ではなく、インターン中の寝床として提供されたチームイダテンの寮でもなく、昨日から復興支援に訪れている大型キャンプ場内のロッジの一室だ。轟は部屋に据え付けの二段ベッドの下側で寝ていた。初めての経験だった。
周囲は暗い。枕元から手探りで携帯を取り、画面を点灯させると、まず表示されたのは『恋メモ』のアプリからの通知だった。七月のバーベキュー会を境にハートが緑になって以降、〝イイダ〟からのメッセージという装いで時おり出てくるのだが、ややわずらわしいので設定を変えようかと思っている。
ひとまず横へ弾き消し、上部の時計表示を確認すると、深夜一時を回るところだった。普段なら完全に熟睡している時間だが、慣れない環境で眠りが浅くなってしまったのだろうか。部屋の中央側へ寝返りを打ち、ぼんやりと前を見やって、薄明かりの中の異変に気付く。部屋は四人用で、向かい側の壁にも二段ベッドが据えられている。その下段、ちょうど轟と向き合う位置に寝ていたはずの〝飯田〟の姿が、布団の上から消えている。
どこに行ったんだ、と思った次の間には、自身も布団を剥いで、ベッドを降り始めていた。上段で寝ている二人の先輩サイドキックたちを起こさないよう足音を忍ばせながら、ロッジの出口へ向かう。木造りのドアを押し開けて外へ踏み出すと、頭を巡らせるまでもなく、前方に探した姿が見つかった。この場で寝間着代わりに雄英ジャージを着ているのは自分たちだけだ。
ひとり佇む背に呼びかけようと口を開き、時刻を思い出してやめ、早足に近付く。驚かせないよう今度はわざと足音を殺さずに歩み寄っていくと、相手はすぐに気付いて後ろへ振り向いた。
「轟くん? どうしたんだ、こんな夜中に」
こちらの台詞だと思いつつ正面まで歩を進め、お前がいなかったから、と答える。飯田は初めて気付いたようにあっと声漏らし、頭を下げた。
「気を付けて出てきたつもりだったんだが、音か何かで起こしてしまったかな。なかなか寝付けなかったものだから、少し外の空気でも吸おうかと思って。わざわざ探しにきてもらって申し訳ない」
珍しい、と思った。日ごろから早寝早起きを習慣としている飯田は、轟同様に寝入りも寝付きも良いらしく、普段は寝不足や不眠といった問題を訴える仲間たちに注意と助言をしている側だ。
やはり不慣れな場所だからだろうか、口ぶりからして飯田も出てきたばかりのようだ、と想像していると、視線を行き交わせていた目が瞬き、
「戻らないのかい?」
不思議げに訊ねかけてくる。こちらの台詞だ、と思い、思ったままに返した。
「お前は戻らねぇのか」
「俺はもう少し……」
「じゃあ俺もまだいる」
何が「じゃあ」なのか、と問われてもおそらく答えられなかったが、飯田は目瞬きを増やしつつもそれ以上質問を重ねず、駄目だ戻りなさいと叱ってくることもなく、座ろうか、と横合いのベンチを指差した。
木製の座面に並んで腰かけ、森の夜気に身をひたす。都会の喧騒を離れ、などと月並みな広告の文句は謳うが、自然の中には自然の中の喧騒があった。夜行性の鳥や虫の鳴き声、木々の間を忍び歩く獣の気配、風に揺れる木立ちの葉鳴り、小川の清水のせせらぎ。街育ちの身には馴染み薄いが、本能は喧騒の源にある静寂を捉え、心身の緊張をやわらげていく。なるほど入眠のきっかけには良さそうだ、と飯田の行動に納得を感じた。
広さ三十万坪に及ぶこの公園は、広域のキャンプサイトのほか、区内に様々なアウトドア施設を備えた北関東でも有数のレジャースポットとして、一年を通して人で賑わっていた。しかし大戦の騒ぎに乗じて十名を超えるダツゴクやヴィランが侵入、潜伏し、ヒーローチームとの大規模な交戦を経てようやく至った再逮捕までのひと月近く、資源の簒奪と無軌道な破壊の被害に遭ったという。現在は全域が閉鎖中となっているが、早期の再開を目指し、ヴィランの残党の警戒と掃討、および一部区画の復興整備のためにイダテンに声がかかったという運びだった。ごみや瓦礫が散らばり傷付いた森を沈痛の面持ちで眺めながら、せめてこの自然だけでも先んじて元の姿に戻したい、と土地主は語り、復興支援活動への感謝を述べていた。
「お前が寝られねえなんて、珍しいな」
居残ったからには何かを話すべきか、と考えて気の利いた話題も思いつかず、先ほど浮かんだ感慨をそのまま投じた。ああ、と飯田は素直に頷き、
「どうも色々と考えてしまってね」
端的に、しかし仔細は交えずにそう答えた。
色々って何をだ、と踏み込んで訊いてしまうほど、もう轟も馬鹿ではない。色々、ということは色々なのだろう、と納得した。今日までの十日少しのインターン期間に絞ってすら、考えることは山とあったろう。特に飯田には思うところが多かったに違いない。この地にはあと二日滞在するが、ちょうど盆の時節であるため、世間の休暇に伴う事件や事故の多発に備え、代表の天晴以下、チームの中心人員の多くは東京の事務所に待機している。そうした状況も、考えを巡らせる土台になっているのかもしれない。
「インターンも今日明日でちょうど折り返しだな。チームでの活動はどうだい」
さらりと話題を変えて問いを返してくる。大仰な態度と受け応えの印象の強い飯田だが、いつの頃からか集団のまとめ役らしい如才のなさを見せることも増えた。元の話を蒸し返す気もなく、正直に答える。
「だいぶ慣れたと思うけど、まだ色々世話かけちまってる。やっぱ事務所によって動き方が全然違ぇんだな」
「そうだな。俺は昨年マニュアルさんの事務所でも色々な協働の方法を学ばせてもらったが、同一チーム内ではより密な連携が求められるから、想像以上の集中力が必要だと日々痛感しているよ……君のなりたいものの姿からは少し外れるかもしれないが、異なるかたちのものから学べることも沢山あるんじゃないだろうか」
「ん。勉強になる。来てよかった」
「そうか」
そう言ってもらえると誘った甲斐があるよ、と安堵の笑みを浮かべる様は、既にして韋駄天たちの一名、といった趣だ。
チームの一員として活動を続けるうちに、現在のチームイダテン、そしてインゲニウム事務所が置かれている状況も、表に裏に見えてきた。
昨年五月、天晴が瀕死の重傷を負って倒れ、その去就が不透明であった時期、チームは代理の人間を立てずに代表を空席のままとした。しかし公務組織とはいえ事業法人である事務所の代表者までもを不在としておくわけにはいかず、その座に就いたのは、現インゲニウム事務所の幹部ではなく、その独立元であった別の事務所の長、すなわち天晴・天哉兄弟の父であった。あくまで兼務、一時代役の形で身内を所長に迎え、インゲニウム復帰という奇跡に一縷の望みをかけたのだ。
しかし天晴の負った傷は深く、世間へ実働引退を発表せざるを得なかった。その幕裏で、インゲニウムの名は弟に引き継がれた。自らも心身を深く傷付けられながら、飯田天哉は兄の名と信念を継ぐことを誓い、立ち上がり、まっすぐに駆け始めていた。
そうして一年が巡った春、目覚ましい回復を見せてチーム代表に復帰した天晴であったが、事務所長の席に座り直すことはなく、いまだ代理を父親が務めている。それが意味するところはひとつ。インゲニウム事務所の所長は、これから先もインゲニウムであるのだ。
活動中、現場で古参のメンバーが「天哉くん」と飯田を呼ぶたび、天晴は「インゲニウムだろ」と指摘して言い直させていた。飯田は困ったような笑いを浮かべもしたが、そのやり取りに遠慮や拒否の言葉を挟みはしなかった。独り征く緑谷の手を取り、立ち尽くす轟の身を背負った時にはもう既に、飯田はその揺らがぬ志で迷える者を導く、ヒーロー・インゲニウムだった。
『君のおかげで俺はなりたいものになれたように思う』
背を押されたあの日の声が、今も耳に残っている。
「――だな、轟くん」
「え」
過ぎた日を漂う意識が今ここへ呼び戻される。名のほかはほとんど頭に入らず、しまったと思って慌てて隣を見たが、飯田は単純に聞こえなかったものと受け止ったらしい。小首傾げつつも不興を示すことなく、ゆっくりと声をくり返した。
「凄い星空だな、と言ったんだよ。こんなに沢山の星を見たのはもう何年かぶり……いや、去年の林間学校ぶりかもしれないが、あまり憶えがないから」
「特訓だなんだでそれどころじゃなかったからな」
「そうだな。今年の夏はゆっくり眺める時間もあるかもしれない」
今年の林間学校は例によって中止となったが、代わりに二年A組・B組の生徒合同で計画を立て、昨年も利用したプッシーキャッツ所有の土地と施設を借り、自主的な合宿を行うこととなった。期間は八月二十七日からの三日間。プッシーキャッツの四名に加え、マンダレイに引き取られて暮らしている洸汰とエリとの交流、および合同訓練が主な目的だが、幾名か残っているに違いない夏季課題未消化者の尻叩きもすることになるだろう、と両クラスの委員長たちは語っていたらしい。
皆が良ければ天体観察など企画してもいいが、今年も肝試しになりそうだな、と予想を述べてのち、飯田は再び空を見上げる。
「都会で見るのとはまるで違う。降るような、とか、吸い込まれるような、とか、本ではいかにもありがちな表現だが、まさしくその通りの光景だな。古代人類が様々な神秘を見出したのも無理はないと思えるよ」
感じ入ったように言うのにつられて、轟も顔を正面に戻し、木々の開けた前方の空を見上げた。紫紺の天蓋に散りばめられた、無数の煌めきの粒。あまたの光は重なり融け合い、そうと言われなければひとつひとつが星だということを忘れてしまいそうなほどに、空の全域を埋め尽くしている。飯田の語った喩えの通り、じっと見つめていると天地の感覚が失われて、無窮の
宙へと投げ出され、光の渦の中に呑み込まれてしまいそうだ。
空。あの空。
裂いた闇は夜ではなく、降りしきる粒は星ではなく、しかし同じほどに暗い道なき道を、明滅する灯が
誘い、貫き、導いた、空――
「君とあの空を翔んだなんて、なんだか信じられないな」
またも彷徨しかけた轟の心を再び呼んだ静かな言葉は、今度は同じ日、同じ時まで歩み寄ってきていた。咀嚼の間も要さず、頷き応える。
「そうだな。もう夢みてぇだ」
誰にどう話しても、容易に信じさせることはできないだろう。成した己でさえが、夢幻の中のものであったように感じている。
しかし、それは確かに現実だった。轟の造った翼を広げて、飯田が空を翔けてくれた。迷う心を導き、希望の灯に届かせてくれた。
「本当に、夢の中の出来事のようだった。記憶もどこか曖昧で、おぼろげで……それでも、矛盾したことを言うようだが、一生忘れられないだろう時間だった」
一言一句違わず、こちらの思考の全てを代弁するような言葉。ただ頷き、想いを空へ馳せる。
「一瞬だった。全部。でも全部憶えてる」
「ああ」
「とんでもねぇことしたって言われたな」
「そうだな、今思えば本当に……。だが、あの時は何も怖くなかった。君とならどこまでも走れるし、どこへでも行き着けると思った」
不謹慎が過ぎて君には大変申し訳ないんだが、少し笑ってしまっていた時間もあったように思う、と飯田が告白し、自嘲の苦笑いを漏らした。何ひとつ悪いとは思わなかった。自分とて高揚しきっていた。それこそ宙へ浮かぶがごとく。
「君のために……君と共に走れるのが、嬉しかった」
やわらかな声音に引かれて隣を見つめる。じっと夜空を見仰ぐ瞳の中に、煌めく星が宿っていた。
「飯田、ありがとな」
ぱちりと星の光が弾け、驚きの色に転じて轟の顔を見返した。そうしてこちらが二の句を継ぐ前に、おそらく意図的に早く、応えた。
「お礼ならもう何度も言ってもらったし、してもらったぞ。君にも、君のご家族にも」
だからもう終いとばかり、さっさと前へ向き戻ってしまう。その横顔に照れはない。では何があるのか、自分より何倍も豊かであるはずの感情の色を、轟の目は読み取れない。
飯田の言葉は事実だ。自分はまさにやり遂げる前にも礼を言ったし、入院中の病室でも改めて礼を述べた。家族にも飯田の尽力を伝え、対面での挨拶の場を設け、家から家へ正式な礼状を出しもした。
それで全て、終いとなった。
あの日、神野から群訝へ翔けるさなかの姿も、マスコミのカメラには捉えられていた。しかしあの速度の動体を通常の撮影機材がしかと追えるはずもなく、轟は謎の軌跡を引き連れ、独り颯爽と危地に駆け付けたかのごとき報道をされていた。
もちろんそこに友人の助力があったことは幾度も話したし、雄英や身近なヒーロー事務所の関係者たちは、飯田とふたりだからこそ成せたことだと皆理解していたが、一般の理解ががらりと変わることはなかった。
ヒーローの中にも学生の中にも、ぜひとも自分の姿を報道してほしかった、活躍を知られたかったなどと浮いたことを言う者は、無論のこといなかった。しかし幾名かの名と働きは種々の媒体を通じて衆目にさらされることとなり、轟はそのうちのひとりだった。
学校の中では下級生に追われ、外へ出れば見知らぬ通行人に呼びかけられる轟を見て、あまり興味本位で注目されるのは困るが、君の頑張りが皆に伝わったのは本当に良かった、と飯田は嘘いつわりのない笑顔で語る。ようやく恩返しができたと笑いながら、これで貸し借り清算したなどとは言わず、今も轟を恩人と呼ぶ。
あの戦いにおいては、全てのヒーロー、全ての人間が、自分の為すべきことをした。全のための一を縒り合わせて、明日のための今一瞬に、己を捨てる覚悟で全力を尽くした。ヒーロー業の興行化、商業化に対する疑問視も加わり、これぞまさに無私の魂、ヒーローイズムの勝利だと賛ずる声を集め、今こそ役割と使命への回帰をと、高らかに旗を掲げる動きもある。
しかし、たとえ同じ戦場に配置されていたからといって、たとえそれが最善策であったからといって、あの日飯田が轟のために駆けてくれたことが、ただ役割上の行為という言葉で片付けられてしまったとしたら、あまりにも虚しく思うし、憤りさえ感じるかもしれない。いつか本当に夢想のものと見なされ、忘れ去られてしまったとしたら、あまりにも哀しく、口惜しい。
悲哀とともにあった子ども。業を背負って産まれ、使命を果たした少年。辛苦をはねのけ宿命に打ち勝ち、たぐいまれなる力で家族と世界を救った英雄。彼に報いを、賞賛を、栄誉を――轟を知った人々は言う。不幸の象徴として、恵まれなかった者の象徴として、今こそ満たせ、与えろと言う。
彼らは知らない。そんな不幸者の隣に、堅く真面目で口うるさく、情に篤く世話焼きで、いつも人の心配ばかりしている、やさしい友がいたことを知らない。
自分は恵まれている、と飯田は時おり口にする。家族にも、仲間にも、周囲の全てから愛情と幸福をいっぱいに貰い、満たされて生きてきた、と語る。だから、と続けたことはないが、もし誰かが勝手にあとを続けた場合に、出てくる言葉はわかる。飯田が轟に示した献身を、しからば当然、と感じる者もあるだろう。
そんな空気に吹かれるたび、轟は思う。もとから持っているものが多いからといって、与えられるものが少なくて良いなどということがあるだろうか。人は皆平等であるべきという観点から言えば、それは正しい思想なのかもしれない。だが、お前はもう充分だろうと、人のために賭した命への、心への報いさえもを取り上げる権利が、いったい誰にあるのだろうか。
飯田だって失ったものはある。日々損ない欠けることとてあるだろうに、率先して他者を気遣い、補い、励まそうとする。それがクラスの、チームのリーダー、長の付く役職を負う者の役目であり責任だと言われれば、そうなのだろうと頷くほかない。飯田はそれを承知し、常に胸に掲げて、与えられた責務を全うしようとしているのだろう。
一年と四か月前の春、雄英入学二日目の朝。父親を否定するための強さのみに固執し、おそらくクラス内でただ一人だけ、我こそが統率者の役をという興味を持てず、放棄に等しい形で轟が他者へ投じた票を、飯田は自分の確かな意志で緑谷へ投じたのだと、それから幾十日も経ったのちに聞いた。自分は八百万に入れたと教えると、なるほどあの頃から君の目は確かだったのだな! と流れるように讃えられた。あまりにも自然に話が進んだので、自分が飯田の行為への感想を述べなかったことに、轟はあとで気が付いた。
(俺、ひょっとして飯田から
飯田に興味のねぇやつだと思われてんのかな)
だから礼を言っても儀礼的なものと受け取られてしまうし、普段からやたらに気兼ねをされるし、探しに出てきても驚かれるし、心配させてもくれないのだろうか。
いや最後の点に関しては自分がうまくできていないから、逆に心配をかけるような暮らしをしてしまっているからだろう、と取り留めのない思考は進む。何を考えても整理がつかず、結論が出ない。それもこれもここから感情を読み取れないためだ、と見つめ続ける横顔が、不意にもぞりと動き、半分こちらを向いた。この表情の意味ならわかる。困惑だ。
「あの、轟くん」
「なんだ」
「さっきからずっと見ているが、俺の顔に何か付いているのかい?」
「別になんも付いてねぇ」
「ならば何ゆえ……」
お前にちゃんと興味があるからだ、とは言わなかった。さらに困惑させる。それもわかる。
「星見て何考えてんだろうなって思ってた」
無難な返しを探して見つからず、結局思っていたままのことを、曖昧にぼやかして答えた。あの日のことを飯田もまだ考えていたろうか、と少しだけ期待したが、轟が「空」ではなく「星」と言ったために、意味がやや脇へずれて伝わったようだった。
「いや、特別に何を、ということもないが……これほど星があると星座も大三角も見つけづらいな、とか」
「大三角?」
「夏の大三角、だよ。小学校か中学校の理科で習わなかったかい? 物語などでも良く出てくる」
聞いたような聞いていないような、どちらにせよ憶えていないと正直に答える。天体に興味を持つか身の周りの科学に興味を持つかは傾向が分かれるよな、と轟のもの知らずを汎化して流してくれつつ、飯田がまた空を見上げて解説をする。
「夏の代表的な星座であるわし座のベガ、こと座のアルタイル、はくちょう座のデネブの三つの一等星をつなぎ合わせた図形のことを、『夏の大三角』と呼ぶんだ。暗い星があまり見えない都会でも、大三角なら見えることが多い」
逆にこういった星の多く見える空では目立たなくなる、と言う。教科書的な知識は轟の頭の片隅にもぼんやりと残っていた。
「一等星が一番明るい星だっけか」
「うむ。数字が大きいほど暗くなって、個性などの使用なく一般の人間に見えるのは六等星までとされている。まあ、あくまで地球基準の見かけの明るさだが」
地上から捉えられる明るさは星までの距離の長さと反比例するため、本来がどれほど明るい光を放つ巨星であったとしても、地球からの距離が遠ければ暗く小さく見える。そうした実像を、人の関係や人そのものになぞらえる話もあるという。
「綺羅星のごとく、などと英雄の集まりを喩えたりするが、ヒーローも確かにそれと似たようなものかもしれないな。社会から見て明るく大きいいくつかばかりに注目して、頼ってきた。けれど本当は、人目につかない場所にもまだまだ沢山の星があって、きっともっと強く輝くことができる」
見るからに明るくなくとも、多くの人に知られなくとも、そばで必要とする誰かの目には、ひとつひときわ明るく輝く星。
その星の名を、自分は知っているように思う。
「いい、」
「……っくしゅん!」
何を言うかも決めず前のめりに発しかけた声を、大きなくしゃみの音がさえぎった。良かったのか悪かったのかの判断はあとへ回し、大丈夫か、と訊ねる。
「いや大丈夫、すまない」
「冷えちまったんじゃねぇか」
「轟くん、くしゃみというのは鼻粘膜への刺激に対する神経反射であって、気温の変化はともかく身体の冷えが直接的な原因というわけでは……うわっ」
手刀を振りつつ連ねていた理科の解説が、無言の接近で途絶える。幸い右側に座っていたため、並びごと入れ替わることなく済んだ。
「少しはましになったか?」
「いやそんな、そうまで君にしてもらわなくとも……」
肩が触れるきわまで寄せた左半身から熱を発し、あいだの空気をあたためる。真夏とは言え関東も北のはずれの山中であり、夜から明け方にかけては気温が下がると注意を受けていた。寒暖差に鈍い自分はどうということもないが、同じ半袖一枚でも飯田は寒いだろう。戻るか、とひとこと言えば良いと気付いたのは、そう思って動いたあとだった。
戻ろうと言われる前に、自ら言葉を続ける。
「お前が委員長でも委員長じゃなくても、俺はあたためてやれる」
「なんの話だい?」
不思議げに問いかけられるが、やはり整理がついていないので説明もできない。ただせめて、と思う。せめて自分だけでも、お前のことを。
夜風が木立ちを抜けて届き、飯田が少し肩を震わせように見えた。さらに左の熱を上げ、声にならない言葉を不可視の火にくべる。
戻ろう、と飯田は言わなかった。個性の私的利用は云々と小言をつくこともなかった。
ただ短くふたこと、
「……ありがとう。君はいつも優しいな」
そう言って照れたように浮かべた笑みが、天を仰いで語った記憶に入り混じり、しばらく胸の中から消えていかなかった。
その後も様々な学びをもたらしながらインターンの日々は過ぎ、つつがなく全日程を終了した。二十二日には飯田の誕生日を祝う夕食会が開かれ、昨年寮で催したサプライズパーティでの出来事も話題にのぼりつつ、大いに盛り上がった。
最終日、またいつでも来いと笑顔で手を振ってくれたヒーローたちの中に、轟を疎む目を見せた者は誰もいなかった。初日に天晴が宣言した通り、「ナンバー1の息子」としての特別扱いは最後の最後までなかった。上にも、そして下にも。
インターンはどうだった、と翌々日からの合宿中に訊かれるたび、轟は「良かった」とだけ答えた。瀬呂と常闇には携帯の小さな画面で簡単にゲームの進捗を確認してもらいながら、おそらく問題は生じていないことを報告した。夏のあいだに『恋メモ』のイイダともいくつかのイベントが起きたが、生徒会のレクリエーションも、講習会中の事件も、夏祭りでの偶然の出会いも、星空の下ただ座って過ごしたあの時間ほどには、胸に消え残る記憶にならなかった。
(以下続きます)