Likewise!
「これもいいかな、轟くん」
「おう」
受け取った平皿の水滴を布巾で拭い、同じ種類の皿と重ねて食器棚にしまう。その間に飯田は次の皿をスポンジで丁寧に洗い、何枚か溜めてから泡を流して、水切り籠に置く。轟が棚から隣に戻ると水気の落ちた食器を選んでこちらへ渡す。以下くり返し。
家で共に食事をしたあとの習慣のやり取り。はたから見れば穏やかで幸福な理想の同棲生活の風景、とも評されるだろう、そんな画の当事者である轟は、濡れた食器に黙々と向き合いながら、漂う空気に反する穏やかならぬ想いを胸に浮かべていた。
帰宅して、飯田が洗い沸かしてくれていた風呂に入って、飯田が作った夕飯を食べて、食器を洗って、あとは飯田が洗濯して干した寝間着と布団で床に就く――就寝までの一連のうち、轟が関わった仕事はまさに今進行中の食器洗いのみである。しかも水と洗剤を使って主に働いているのはこれまた飯田だ。もう少し時間を進めて明朝までの話をしても、先に起きるのは飯田で、つまり朝食を用意するのも飯田だろう。そろそろ飯田の名がゲシュタルト崩壊を生じさせてくる。
(……俺、こいつがいなかったらもう暮らしていけねぇかもしれねえ)
そんなことをこの十数分、轟は真剣に考えていた。もちろん、毎日こうしたおんぶに抱っこの様相で暮らしているわけではない。今日は二人の外での活動時間がかなり異なっていたため、たまさか飯田の側に家事仕事の量が偏ってしまったというだけの話ではあった。轟も一年前には独り暮らしをしていた身であり、ほとんどの家事はごく普通にこなすことができる。単独遂行を止められているのは料理ぐらいで、あとの仕事は飯田が不在であれば轟が済ませるという分担が自然にできている。
――そう、「飯田が不在なら」の但し書き付きなのだ。なぜなら、暮らしの用事については何かにつけて飯田のほうが要領が良いためだ。二人の元の器用さにはさほどの差がないにもかかわらず、轟と比べれば、得意、と言ってしまってもいいだろう。いかにも良家の子息という風体の人間に備わったこの特質については周りからも意外に取られることが多いらしく、なぜ、と問われると、飯田は「子どもの頃から家の手伝いをしていたから」とあっさり答えた。飯田家は世間に称されるエリートの名に反しない家系ではあったが、そのぶん躾や教育も届いており、飯田も末子として愛されて育ちつつ、甘やかされて育ったわけではなかったらしい。溺愛を注ぐ兄とは歳がむしろ離れ過ぎていて、弟ながらに長子的な気質の育つ環境であったことも一因であったかもしれない。
一方の自分はと言えば、子どもの頃に家の手伝いをした記憶などほとんどない。そんなことをしている暇があるなら個性の特訓だと、幼い頃は父が、父に憎悪を向けるようになってからは己自身が、家庭の中のあれこれから目を外させていた。やっと家を顧みる心を得られたと思えば、すぐに寮生活が始まった。たまの帰省の折も普段大変な勉強をしているのだからと姉に気遣われて、世話をしてもらうばかりだった。
そのようにして基礎が異なるところに加えて、それを伸ばす熱意にも大きな開きがあった。轟は衣食住がひと通り整っていればそれでいいと考えるたちであったが、飯田はたとえ家事仕事であっても日々反省と勉強と改善をくり返していくたちで、他者との共同生活となるとなおさらその性質が強まるようだった。必然、知識にも技量にもレベル差が生まれ、効率等々の理由から、普段の仕事の割り振りにも差異が生まれる。
快適で幸福な暮らし。それは間違いない。間違いないからこそ、考える。このままで正しいのか、このまま続けられるものなのか、これが失われた時にどうなってしまうのか。そんなことを思うと、状況がまるで異なると理解しつつも、母が姿を消した家の様、日々にぽかりと空いた虚ろを思い出してしまう。
「次はこれを……轟くん?」
差し出された茶碗が宙に止まり、飯田が首を傾げる。
「疲れたかい? 今日は朝早くからずっと仕事だったものな。あとは俺が代わるから君は休んで……」
「大丈夫だ、やる」
我知らず俯かせていた顔をはたと上げ、言葉さえぎって茶碗を受け取る。飯田は気遣わしげな表情を浮かべたが、ひとまず偽りなしと見て取ったのか、無理は駄目だぞ、とだけ言って手元の作業を再開した。水にさらされた指先が少し赤くなって見え、憂慮が深まる。
この仕事の分担について、轟は寒暖に慣れた自分が洗う側をやる、どうせ元から手が荒れがちなのだから、と主張したが、逆に飯田はだからこそ普段あまり手を酷使しない自分がやるべきだと言って断固譲らなかった。
頭の固い説教家のようでいて、根本的なところで轟のみならず近しい仲間たちの勝手に甘さを示すことの多い飯田だが、それによって相手が傷付きかねない選択が提示されると途端に頑なになり、可能であれば自分が前へ出て代わろうとする。慈善家というよりは、おそらくもともと少し奉仕癖があるのだろうと思われた。雄英でA組のクラス委員長になってから芽吹いた性質なのか、あるいはそれ以前からのものなのかはわからなかったが、三年にわたって集団のリーダーを務めるうちに、委員長だから皆の世話をせねばならない、クラスのために働かねばならない、という役割意識を超えて、自然な献身の構えがその精神に根付いてしまったらしい。まさにヒーローの鑑と言えるが、パートナーとしては今のごとく複雑な心中を得る事態の種でもあった。
そういえば、先日事務所のサイドキックに、皿洗いの時は手袋をした(させた)ほうがいいだろうか、とぽつり訊くと、食洗機を薦められた。最近の物は予備洗いもいらないし油汚れも綺麗に落ちるし乾燥までしてくれるし水道代も節約できるしいいこと尽くめですよ、と熱く語った五人の子持ち人の評価が本当なら確かにこの問題の解決にはなるが、外食も多い二人暮らしには少々オーバースペックの品ではあり、かつ常から減りがちな自分の仕事の役目がさらに失われると考えると、なんとなく渋ってしまう。
蛇行しながらくるくると渦巻く念は、ただでも滑りの良くない轟の口では言葉に成せず、手の中でばかり布巾が陶器を撫でる小気味良い音が鳴る。さすがに二度同じ気遣いはさせられないと下がりかかる首を意識して前へ起こすと、ふふ、と隣で笑いの息が落ちた。見れば泡まみれの鍋をシンクに置いた飯田と目が合う。
「どうした」
「いや、すまない。ちょっと……今を時めくヒーロー・ショートに隣で食器を拭いてもらっているんだなと思ったらね」
なんだかおかしくなってしまった、と口をもぞつかせて言う。
「……なんかおかしいか、俺」
「いやいや、そういった意味の〝おかしい〟ではないぞ! そうではなくて……先ほどの番組、君も聞いていたろう。『ホテルの高級ディナーを一緒に楽しみたい男性ヒーロー』の……ランキング一位が……俺の隣で真剣な顔をして茶碗を……」
ふふふ、と耐えかねたようにまた笑いをしのび漏らす様は、女子では一番の飯田の友人と言っていいだろう、かつてのクラスメイトの麗らかな笑顔を思い出させた。
「ホテルで食おうがどうだろうが家で皿洗いぐらいはするだろ」
「そうだな、うん。そうなんだ。君は本当はとても家庭的な人だからね」
思ったままを言うと、頷きとともに思わぬ言葉が返ったため、轟は次の相槌を打てなかった。今の今までそれに全く反するようなことを相手が考えていたとも知らず、飯田は続ける。
「投票した人たちは驚くかもしれないが、俺は君のそんなところにすっかり慣れてしまったし、こうして食器洗いをしている時に君が隣にいないと寂しく思うようになってしまった。独り暮らしのほうがよほど長かったのに、たった一年でその頃のことを忘れ始めてる」
――君がいなかったらもう暮らしていけないかもしれない、なんて思ってしまうよ。
苦笑してこぼす言葉の衝撃で茶碗を取り落とすのをどうにか堪えた。贅沢で参ったな、と続く声音のやわらかさが、同じ音を刻むはずのこちらの心中の翳りを取り払う。
いつかどこかで聞いた話によれば、危機回避の本能のため、人は良い状態よりも悪い状態をより強く記憶に残し、また想像よりも回顧を重んじるのだという。過去と類似した苦難を逃れるために、本質的に後ろ向きに生まれついていて、無いものを見るのに長けているという。確かに、得られなかったもの、失くしたものを想起するのは意外に簡単だ。ただ悔しさや哀しみや憤りといった、その時最も強く胸に得た感情を思い出すだけでいい。反対に、今手の中にあるものをしかと見つめ、貴び、この先に得べき未知のものを思い描くことのほうがよほどに難しい。自分はそれを痛いほど知っている。今ここに隣立つ恋人も、きっと同じほどに知っていたはずだ。
とうに水気のなくなっていた茶碗を早足で棚に置いて戻り、呼びかける。
「飯田」
「ん?」
「キスしてぇ」
「は」
こちらを向いた顔が、口を半開きにして固まる。反射に出かかったらしい言葉は意味のない音を刻んだのみで止まり、驚きや疑念の表情も浮いた端から消えていく妙な反応が見て取れ、轟は自分の様子こそが相手にとって何やらの事態になっていることを遅れて理解した。
飯田は数秒の間で立ち直り、かちりとスイッチを切り替えたように無言のまま手早く鍋の泡を流水で落として籠に逆さに置き入れ、スポンジを洗い、水を止め、膝元のフックにかけたタオルで手を丁寧に拭って、巻き上げていたシャツの袖を戻しながらすたすたとリビングへ歩き去るまでの動作を、普段の一・五倍程度の早回しで行った。気を悪くさせたかとこちらが自省する間もなく足を止め、振り向き気味にソファの手前に腰を下ろす。そうして、シンク前にぼんやりと立ち尽くしたままの轟へ向かい、ぱっと両腕を開いてひと声言った。
「――どうぞ!」
ぐっ、と鳴り落ちたいびつな音は、どうやら自分の喉が立てたもののようだった。ふらりと踏み出した足はすぐに急き立ち、大股に進んだ最後の一歩でほとんど飛び込むように胸へ抱きつきにかかった。さすがの飯田も衝撃をこらえかねて後ろへ転がり、奥の肘置きを背もたれにして座面へ押し倒すような形になるが、あえて手前に座ったところを見ると予期のうちだったのだろう。笑い混じりの注意が降る。
「もう、勢いが良すぎるぞ」
「悪ぃ。好きだ」
「答えになってないよ」
ふふ、と肩揺らしながら両腕を轟の背へ回してくる。最前まで水にさらしていた名残りもなく、手のひらから伝わる温度がただ心地いい。広い胸に頬を寄せて、好きだ、ともう一度ささやくと、くすぐったげに上がった手に後頭を撫でられた。
「いつもありがとう。轟くん」
髪をあやす指の所作に劣らずやわらかな声。思わず首上げて見つめた顔に、皮肉や冗談の気配はない。
「俺はこんな性格だし、こんな見た目だし、頭も体も固くて、客観的に見て君に似合いとはとても言えない人間かもしれない。けれど、いつもそうして君が言葉や行動で伝えてくれるから、不安にならずにいられる」
穏やかに語る言葉を聞いて、同じものを見聞きしていたのだと、当たり前のことに今さら気付く。夕飯の支度中に点けていた報道番組の一コーナーで、「話題のヒーローランキング」の次に特集されていた、俳優やコメディアンといった芸能人たちによるパートナーとのよもやま話。美男美女でお似合いですね、旦那さん料理がとてもお上手なんだとか、結婚や同棲して一年の頃が実は危ない時期で――ごく他愛ない俗話でも、耳目に入ればひとつの情報として処理する習慣がいつからか身についている。
性格や性質、得意不得意が異なっていても、同じ心配や不安を抱くことはある。しかし同じ翳りであっても、前を見るのか後ろを見るのか、心持ちひとつでその色濃さはまるで変わってしまう。
「飯田」
名を呼ぶ。呼ぶだけであとへ言葉が続かないのを、わかっているとでもいうように飯田は頷き笑い、俺は、と自ずから応える。
「君に欲しがってもらえて、とても嬉しい」
その瞬間、左から炎が上がらなかったのが嘘のようで、いつの間にか自分は大手振って誇れるほどの個性の制御をも身につけていたらしい。それでも熱の高まりは伝わったのか、下敷きにした身体は少し身じろぎ、面映ゆげに轟の顔を見返す。
この男は、轟の愛おしい恋人は、いつも、ずっと昔からいつでもこうだ。言葉の足りない轟の代わりに哀しみや憤りや憂いを口にして、時に涙まで浮かべて、その頼もしい手で迷いなくこちらの手を取り、光の指すところへ導いてくれる。初めに自分にそうしてくれたのは君なのだからと、惜しみない感謝の言葉とともにただ笑って。
「……俺こそいつも悪ぃ。ありがとう」
謝罪より謝意をと意識するようになったのは、たぶん飯田と付き合い始めてからのことだ。ああと頷き誇らしげに笑う顔を見るのが好きだ。献身に報いるのに小難しい理屈や建前など不要で、ただまっすぐに気持ちを伝えればいいのだと、そんな難しいようで当たり前のことをともに過ごした日々が教えてくれた。
それでも人の心は誰も決して完璧でなく、ひとつひとつ学んだ大切なことを時折あっけなく忘れかけて、そのたび新しい感動とともに思い出す。
頭を心地よく撫でていた手を自分の手に取り、頬に寄せる。大きく固く四角張って、いつも大仰に動いて人を和ませる、うつくしく優しい手だ。
「なあ、今度食器洗い買わねぇか。お前の手が荒れんの嫌だ」
役目が欲しいだなどと、そんなものはただの手前勝手な自己満足だ。無用な仕事が減ればそのぶん食事のあとの余暇が増えるのだから、その時間で隣に並び、飯田が嬉しいと笑う言葉を十回も百回もささやいて、偽りない心を交わし合えばいい。
「そうだなあ。水の節約にもなると言うし、あってもいいか」
「じゃあ次の休みに電器屋行くぞ」
「君はどんな時も善は急げだな」
悪いことではないがもう少し慎重になってもいいように思う、などと正直に感想しつつも呆れず頬を撫でる手に甘えていると、少し下へ降りた指に、とんとん、と肩をやわく叩かれた。
「轟くん」
「ん」
「……キスはしなくていいのかい?」
またも咄嗟に上げた視線の先に、薄く
眦を染めた目が映る。自身の言葉に照れた赤い瞳がかすかに水の膜を張って、謹厳実直、品行方正なヒーローの持つ数少ない妖しの色を濃く閃かせる。
ああこれだから、この素直な恋人が愛おしくてたまらない。
「する」
「す……、んむ」
善は急げと背に回した手で肩掴んで伸び上がり、短い宣言通りに口付ける。一度結んだ唇は舌先での促しに応じてすぐに開き、どうぞの声を孕むがごとき吐息の向こう、瞳に似た色の咥内を覗かせて轟を甘やかした。
お前がいないともう暮らしていけない。重ねる手から、舌から、鼓動から、滑稽で繊弱で熱烈な愛の言葉をごまかしなく伝え交わして、互いごとだと笑って答え合う。好きだと飽かず声にして渡せば、僕も、と甘く
応えが返り、無いものを数える悲観を拭って、睦ぶ心の確かさだけをふたりの間に優しく響かせた。
Fin.