こっちむいてマイヒーロー
ショート、と馴染みの名を呼ぶ声が耳に飛び込んできて、反射に足が止まった。見やった横道の先、ひとりの人間の声にとどまらないざわめきが起きている様子に気付き、おおよその事態を察しながら、半ば無意識のうちに足向きを変えて再び歩き出す。
なんだなんだと同様に引き寄せられていく人波に混ざり、大通りへ抜けると、黄色のバリケードテープが道の一角を囲み、その際まで詰め寄せた観衆の向こうで、何やらの事件が起きていた。いや、正確には、起きて、終わっていた。路上に多少の破壊の痕跡は残っているが、既に修復と保全の作業が始まっており、見物の視線は非常線から十数メートル先の一点に集中していた。行き来する作業着の工員と制服の警官たちの中、まとう気配も容姿もひとり際立って目を惹く、事態収拾の立役者であろう、紅白の髪の若いヒーロー。
手配中のヴィランチームを追っていると言っていたな、と、飯田は今日の朝食の席で交わした会話を思い出した。道には融け残った氷塊も散乱している。この場で敵と対峙し、首尾よく確保に漕ぎつけたのだろう。武装チームとの話であったが、遠目に見る限り、轟に目立った負傷はない様子だ。ほっと息をつく。
(にしても凄い人だかりだな)
ひとまずの安堵を得て周囲を見渡すと、道の広さもあり、向かい側を合わせて五十にも百にも届きそうな野次馬の数が目に入った。ヒーローの活躍を当てにして、物見遊山の気分で事件や事故を見てはならない、という道義が説かれて久しい世とは言え、人の好悪の心理は容易に揺るがしがたいもの。これほどに群集を作らせてしまうのも、ヒーロー・ショートへの期待と好感の高さの現れと言えるだろう。
自分も今まさにそんなファン兼野次馬の一名と化していることを認め、買い物の途中に寄り道とは、と反省しつつ、きびすを返して去ろうとしたが、いつの間にか後ろにも人が立ち並んでおり、簡単には抜け出せない状況になってしまっていた。まだ群集事故の不安を覚えるほどではないものの、誰か整理に来てくれないものかとテープの向こうをもう一度眺める。かなり大規模な捕り物だったのだろうか、警官の数は多いが、現場の始末に追われ、まだ周囲の秩序回復までには手が回らない様子だ。
少し待とうと決めて肩に負い直したバッグには、数日分の食材が入っている。魚介はすぐに冷蔵庫に入れなければ、もうひと回り大きな保冷バッグを持ってくるのだった、と所帯じみたことが頭をよぎって、ふと笑いが漏れた。非番の日、通りすがりに同朋たちの活躍を見かけるのはさまで稀なことではないが、こんな生活圏の近くで、それも一般の観衆のただ中に紛れ込んで、極めつけに同居者その人の仕事を見る、という事態はさすがにそう幾度もあるものではない。見事事件を解決し、場の中心で人の目を一身に集めている勇壮なヒーローが、今夜この買い物袋の中の野菜や魚を口にするのだと思うと、奇妙なおかしみの念が湧いてきてしまう。
「ショート、こっち見て!」
「こっち向いてー!」
スマートフォンを掲げた女性たちが前方で声を張り上げている。彼女たちのみならず、そこここでファンが同様の呼びかけをしていた。憧れの人の顔を少しでも大きく、正面から見たい、撮りたい、という気持ちがこもった、お馴染みの言葉だ。街中をただ歩くだけでも同じように呼ばれているので、素顔で活動すると忙しくて大変だな、と思っている。自分は顔隠しのためにメットを着けているわけではないが、やはりフルフェイスのアーマー姿の印象が強いらしく、こうして素顔で普段着で、ついでに眼鏡も外した姿でもって集団に埋没していれば、簡単にはプロヒーローと気付かれない。
普段は寛容に、しかしいつまでもどことなくこなれない(それがまた人の愛顧心をくすぐるらしい)様子でファンの声に応える轟だが、今は警察との事後協議に集中しており、周囲へ目をやる余裕はないようだった。真剣な面差しがその端正な顔立ちをなおさらに印象深くし、これほどの距離を置いても思わず見惚れさせられてしまうような姿だ。
彼はどんな時も格好いいな、と周りのファンの感嘆や興奮に共感を寄せながら、
「……こっち見て、焦凍くん」
お前そんな小さい声も出るのかと言われるような、蚊の鳴くごとき声量でひと言。ほんのたわむれに、自分にだけ聞こえる冗談のつもりで発した言葉が宙に融けるが早いか、不意に紅白の頭が起き上がり、ほかへ目をくれることもなく、まっすぐにこちらへ視線を向けた。
瞬転どよめいた観衆の中、飯田はぎょっとして飛び上がりかかり、どうにかこらえて逆に背を丸め、人垣の後ろに慌てて身を隠した。集まっていたのは小柄な女性だけではなかったため、頭ひとつ抜け出て見えてしまっていたということはないはずである。隙間からそっと前をうかがうと、轟はまた刑事らしき隣の人間に目を戻していた。まさか声が届いたわけではないだろうから、背すじを伸ばしたか何かの偶然の動作だったのだろう。
良かった見つからなかったようだ、と息をつきつつ、今度こそきびすを返し、少し強引に人波を分けて、逐電、もとい退散を始めた。気付かれづらいとは言っても、素顔を全くの非公開にしているわけではない。万が一に轟に見つかり、つられて目を向けてきたうちのたとえ一人にでもインゲニウムの名を呼ばれるなどしてしまえば、状況も相まって騒ぎは必至である。何しろ彼の公のパートナーなのだから、様々な想いも視線もあるだろう。
あのような場に非番が一目瞭然の姿でのこのこと現れ、彼のファンの心を傷付けるようなことがあれば大変に申し訳ないし、配慮が足りなかった、と自省をくり返し唱えながら元の道に戻って、そそくさと次の店を目指した。前向きにも後ろ向きにも妙な高揚が治まらず、脚の個性がうずいて全速で走り出したい気分だったが、それこそこんな街中でやってはならないことである。早く用を済ませて帰ろうと、街並みに浮き出たアシンメトリを脳裏に思い起こしてしまいつつも、常の倍増しの速度で歩みを進めた。
当初の予定より早く帰路に就いて、余った時間で近所のジョギングコースを二周し、頭から湯をかぶってのち夕飯の支度に取りかかった頃には、さすがに動揺も抜けていた。昼過ぎに見た事件の処理も滞りなく終わったようで、轟はかねて予告の時刻に帰宅した。旬の
鱚》を天ぷらにしながら、今日はお蕎麦だよ、と告げた瞬間の子どものような目の輝きぶりといったら、夕方のニュースに曰く、悪名高い四名のヴィランをその練達の業で一網打尽にした英雄とはとても思われないような無垢さで、声立てて笑ってしまった。
いつものように他愛ない世間話などをしながら夕餉を終えて(轟は終始上機嫌で夕飯の出来を褒めてくれた)、並んで食器を洗い片付け、風呂が沸くまでひと息、という穏やかな時間。湯気立つほうじ茶を前へ置いてくれつつ隣に座った轟が、なあ、とおもむろに問いかけてきた。
「お前、昼ごろ俺が捕り物やってたとこにいなかったか?」
「んぐふ」
あまりに不意打ちであったため、湯呑みを当てた口の間から、腹に拳を喰らったかのごとき声が漏れてしまった。わずかに喉へ滑った茶が気管へ落ち、噎せ揺れる背を大丈夫かとやわらかに叩かれる。
「だ、大丈夫だ……、えっ、君、気付いていたのかい……?」
「やけに似たやつがいたように見えたんだよな。やっぱお前だったのか」
確信していたわけではないようだが、よくあの一瞬でもしやとまで判じられたものだ。先の世間話の中では報道で知ったような顔でしらりと触れたこともあり、隠した後ろめたさと気恥ずかしさがない交ぜになって、すまない、と頭を下げた。
「別に謝るようなことじゃねぇだろ」
「まあ結果的には何もなかったが、やはり少し軽率だったなと……」
「そうか?」
何も気にしていない顔で首をひねり、ずっといたわけではないのだろうと問うてくる。
「ああ。轟くんが俺に気付く五分前ぐらいにたまたま通りかかったんだ。人が集まっているから寄っていったら、うっかり抜け出せなくなってしまって」
「お前がそういうことすんの珍しいな」
まさしくの指摘にいっそう肩を縮め、
「君の名前が聞こえたから、つい」
ぽそぽそと答える。そうかと返る相槌に呆れの響きは全くなかったが、ここまで言ってしまったなら、と続けて白状した。
「皆が君を呼んでいて、相変わらず凄い人気だなとのんきに思ったりして。それでその、ちょっとこっちを見たりしないかな、なんて考えていたら、本当に君の目がこちらを向いて」
「ああ」
「驚いて隠れて、そのまま逃げてしまった……」
盗み見のようなことをして申し訳ないと再度謝罪を述べたが、やっぱ謝られることじゃねぇと思うけど、と轟もくり返し首をひねった。
「うん、まあ、俺がひとりでどたばたしていたというだけさ」
当人が気にかけないなら恐縮も単なる自己満足に過ぎない。だらだらと続けて戸惑わせても不毛だろうと、応じて話題を切り替える前に、
「そういう話すんなら、俺もずっとお前に『こっち見ろ』って思ってたぞ」
思わぬ言葉が相手から発されて、今度はこちらが首を傾げた。
「いつ?」
「雄英の頃、教室で」
「教室?」
なお予想外の場所へ話が飛び、我なく目瞬いて傍らを見る。二年の冬ぐれぇからだったか、と呟きながら、形良い目が手元から立ち昇る湯気を追い、その向こうに昔日の景色を思い浮かべているようだった。
二年の冬、と、告げられた語を自分も胸の中でなぞり唱える。いささか大括りにも聞こえる時節の内に、しかし思い当たる記憶は確かにあった。
変わらず淡々と、轟は語る。
「色々あって、お前のことがすげぇ気になってて」
「……うん」
あのころ俺も君のことが凄く気になっていた、と声に出さずに飯田も応える。
「教室で座ってると、俺の席からはずっとお前の背中が見えてたから、こっち向かねぇかなとか、こっち見ろとか、思ってた」
担任の相澤の無精、ならぬ合理的判断により、去就のあった一席を除いては、一年次から全く変化のなかった席順。飯田は廊下側の後ろから二番目、轟はふたつ隣の最後列の席だった。前後にそれなりの余裕を持った配置であったため、たった一列の差でも前方の席を眺めるのは難しくなかったが、轟はそこから、飯田の背を見ていたのだと、言う。
もう八年も前の話であるというのに、不意に当時の彼の視線を背中に感じたような気がして、もぞりと身じろいだ。面映ゆいような、むず痒いような、なんとも言い表しがたい感覚は、きっとあのころ折に触れて覚えていたのと同じものだ。
「お前は全然気付かなかった」
「まあ、授業中ではな」
自分はそう鋭敏な人間ではないし、前方で人が話しているならそちらへまっすぐ集中するたちだ。別に悪いことではないと思うのだが、轟が少し口を尖らせたので、なんとなく弁解してしまう。頷きのあと、けど、と回顧が続いた。
「一回だけ、こっち見て目が合ったことがあって」
「え」
「麗日が落としたペンだかなんだか拾ってやって、後ろ向いたついでっつーか、弾みっつーのか、俺もちょうど見てたとこだったから、それで」
「……ど、どうだった?」
憶えのない出来事だ。自席から振り向いた時の教室の光景を思い起こしつつ、なぜだか妙にどぎまぎして、つたない問いかけを漏らした。お前はすぐ戻ってった、と、轟の答えは簡素だった。
「あー……、つって思った」
「あー……、うん」
きっと当時の自分もそう思ったのだろう、これまたなんとも言い表しがたい感情を、その時の再現のようにふたり間の抜けた音で奏でる。
大戦が終結し、社会の動揺がひとまずの落ち着きを見せ、復興支援の活動が続くかたわら、学校での生活も徐々に元の様相を取り戻しつつあった頃。それでも以前の形に戻らなかったいくつかのものごとの中に、彼への想いがあった。
心を救い上げてくれた恩人で、同じ夢へ向かって叱咤激励し合うライバルで、日々を共に笑い過ごす友人で、かけがえのない親友。そう結論付けたはずの彼との関係に、そうした枠の並びに収められない、何か特別の情がまとい付いていると気付き始めたのは、あとから語り交わしたところによると、互いに同じ時期であったらしい。
これはひょっとすると、いやまさか、と自問自答をくり返しながら、次第に形を成して名を得ようとするその感情を偽ることも、ごまかすことも、ならばいっそと飾り付けて表に出すこともできず、ぎこちなく過ごした時間はかなりの長さに及んだ。いまだ旧友たちの酒の肴に持ち出されるほどに、はたから見ればだいぶん滑稽であったらしいやり取りの記憶は、今こうして自分たちで共に振り返ってみると、やけに甘酸っぱいもののようにも思える。
なんだか熱くなってきた、と火照った頬を手で包んでいると、
「飯田」
「ん?」
名を呼ばれ、そのまま顔を横へ向ける。ぱちりと目線の重なった瞳がやわらかな笑み色になごみ、同じ色の声で言う。
「ちょっと呼んだら自分だけを見てくれる場所にいれんの、いいもんだな」
「……うん、そうだな」
本当に、と心からの同意を返した。じっと見つめ願わずとも、声を張り上げて叫ばずとも、想いの届く場所にいる。一体どれほどの幸運の巡りあわせでこんな誉れを得たことだろう。
「飯田」
「もう見てるよ」
二度目の呼びかけに笑い応えれば、なお瞳の中の閃きが増す。
「もっと見てくれ。お前の目、好きだ」
「俺も君の目、好きだよ。轟くん」
「そうか」
「ああ。右も左も澄んだ宝石みたいでとても綺麗だ」
こんなありふれた言葉さえ昔は口に出せなかったな、と懐旧の念を転がしながら、苦手な独創には走らず讃じた。双つ色が答辞を探してきょろりと動く。
「お前の目は」
「うん」
「……飴みてぇで旨そうだ」
「はは」
良い喩えを見つけかねたらしい躊躇と思い切りの様さえ、間近に眺めれば何より愛おしい。目は口ほどにの言葉の通り、彼の瞳はうつくしくも雄弁にものを語るから、一度視線を交わせばその彩りの内に囚われて、もう
自ずからは離れられない。
「天哉」
「なんだい、焦凍くん」
呼ばれただけとわかっていて、ただ応え、見つめる。輝石のような目の中にゆるびた顔の己だけが映っている。こちらの赤い飴玉のような目の中にも、じっと隣を見る彼の姿だけがあるのだろう。
ふふ、とまたひそやかに笑いをこぼし、
「なんだか夢のようだな」
感じ入るまま、想いを言葉にする。
「君があの日、あの路地裏で、なりたいものを俺に見つめ直させてくれたから、今こうして君のことをまっすぐに見ていられる」
こんなに近くで、と先の感慨をくり返すと、すぐに頷きが返った。
「お前はずっと俺のこと見てくれてたよな。俺が周りのことも自分のこともちゃんと見切れてねぇで、何度も行ったり戻ったりで遅れちまってるあいだも、ずっと俺のこと見て、援けてくれた」
そっと伸べられた右手が顔に触れた。火照った肌をやさしく冷ましてくれてなお、その指は確かな熱を宿してあたたかい。甘えて頬をすり寄せれば向けられる笑みが深まる。彼のファンが見れば向こう七日は反芻して讃え続けるに違いない魅惑の面差しも、今はこの目の中に独り占めだ。
「夢みてぇだな」
「ああ」
「けど夢じゃねぇぞ」
「うん。幸せなことだ」
外で、誰かの前で交わしたなら、頼むからよそでやってくれと言われるだろう、いつもそう直球なのかと驚かれるだろう、ともすると呆れ返られるかもしれない、甘たるい会話。
けれど自分たちはあの頃から嘘もごまかしも言葉を飾るのも下手くそな人間同士だから、これで良いのだ。いちいち軽妙でひねりの利いた比喩など探していては、それだけで陽が暮れて、またすぐに朝になってしまう。愚直に過ぎるようでも伝えるべきことはそのまま伝え、まっすぐに目を覗いて、同じ気持ちの通う時間を、できるだけ長く並び過ごしたい。
そんな心は今さら言葉にせずともとうに渡し合っていて、そろりと滑る指に応えて拒まず顔を寄せ合う。ゆるやかに触れ、離れ、また触れかかった唇の間で「天哉」と吐息に呼ばれたので、倣って相手の名を呼び返した。
「近過ぎて見れねぇ」
「うん」
くすくすと良く似た音で息が鳴り、共に肩が揺れる。間近に見てわかるのも幸いなら、見ずともわかるのもまた幸いだ。
まぶたの裏で甘くやさしく笑う恋人に背を抱き寄せられ、あのころの目もこれほどの熱を帯びていたのだろうかなどと考えながら、随分と広くなったように思う背中を自分も抱き返す。触れ合う胸の中で鼓動がことことと同じ速さで時を刻んで、目には見えない確かな心の重なりを、
彩あざやかにふたりへ教えた。
Fin.