その後の眼鏡くんとその恋人
前方へ伸べた手が敷布の上を滑り抜け、その抵抗のなさが逆に覚醒を促した。ゆるゆると開いた目の先に、やや前へ丸まった背中が見える。めいっぱいに腕を伸ばしても広い寝台の
際に腰かけたその背には届かなかったので、半ば無意識に名を呼んだ。
「……轟くん」
声は思いのほか小さくかすれて落ちたが、静けさに呑まれるほどではなかった。お、と馴染みの反応とともに振り向いた横顔に、ベッドサイドのランプの灯が濃く影を投げかけている。
「悪ぃ、明るかったよな。あっち行っとけばよかった」
「いいや」
君がそばにいなかったから、と正直に答えるのも少々気恥ずかしく、否定だけ述べて前から戻した腕を今度はヘッドボードへ伸ばしたが、探った先に眼鏡はなかった。リビングで外されたのだったか、洗面所へ置いてきてしまったか。習慣の外にいる事実と今日これまでの一連を思い出して、また少し照れが深まる。なんとも慌ただしかった晩秋の一日。すぐに身を起こして姿勢整えられない疲労感とかすれた声とは、朝からの多忙と乾いた空気のためだけのものではない。
再び引き戻した手に宿る、約束の光。風呂場で、ベッドの上で、今日から公知のものとした誓いの輪が目に留まるたび、嬉しげに指を取られ口付けが捧げられて、自分はそのごと涙腺のゆるみを堪えなければならなかった。
などと考え考え頬の熱をそのまま敷布へ逃がしていると、
「身体きつくねぇか? 久々だったから加減利かなくて、意識飛ばさせちまった」
誓いの相手たる婚約者どのからやにわに直球が投じられ、息の詰まった喉が「ぐう」と間抜けに鳴った。
「じ、つに轟くんだな……!」
「……大丈夫か?」
「ああ、問題ない」
逆に落ち着きが戻り、笑って答える。轟の言葉はいつもありのままで、飯田の羞恥を煽ろうなどという意図はかけらも含まず、本当に身体を気遣っているだけだとわかっているので、こちらも持って回ったごまかしや照れ隠しで遊ぶ余地はない。ムードクラッシャーと言えばそうなのだが(そんなような言葉を過去にも耳にした記憶があるが、はてなんだったか)、正直なところ飯田も情緒を解するか解さないかで言えばあまり解さないほうの人種なので、時に慌てさせられる場面こそあれ、呆れるようなことなどはなかった。
我が身を見下ろすと、前に座している轟とおそらく同じ、下着にバスローブのみの恰好だった。回想は努めてよそへやりつつ着乱れを直し、身体を起こす。サイドテーブル上の時計の針は十時へ近付くところで、眠りに落ちて(轟いわく意識が飛んで)そう経っていないと知れた。ロードワークの用意もなく、轟に合わせた遅めの朝食とチェックアウトを考えると、早寝早起きが信条の飯田でも、このまま寝直して朝までというのは多少睡眠過多かといった時刻だ。
「何か読んでいたのかい。こんな暗いところで見ていると目を悪くしてしまうよ」
轟が何か冊子のようなものを開いているのが肩越しに見えたので、忠告しながら腕と膝で這って近付く。お前のとこからもらったやつ、と後ろへ示されたのは、リングファイルにまとめられた書類だった。
「腹が減ったから、食いながらなんとなく見てた」
「む、ベッドで食事とは行儀が良くないぞ」
「なんかこのあいだ観た映画でやってなかったか」
「あれは専用のテーブルなどを……いや、まあいいさ、空腹になるのはわかるよ」
身支度、打ち合わせ、リハーサル、また打ち合わせ、本番、問い合わせ対応後すぐに移動と、朝から分単位のスケジュールで駆け回らされて、まともに食事をしている暇がなかった。自分はまだそれでも隙間を見て多少なりと補給できてはいたが、イダテンのスタッフとの協働に慣れていない轟はとても腰を落ち着けていられなかったろう。会見後の会食の席でも話ばかりで食べるほうに集中できていたとは言いがたく、しかもそれが夕方五時ごろの話だ。それからようやく荷物だけを放り込んでいたホテルに戻って七時、今後の仕事の話を少しして、あれやこれやとあってシャワーを浴びてベッドに入って、今この時間である。多少不摂生であろうが腹の虫が騒ぎ出すのも無理はない。
轟側のサイドテーブルには空になった市販のパンか何かの袋が見えた。昼に軽食として渡されたものの余りだろう。ルームサービスを頼めばいいものを、そのあたりに頓着がないのが彼らしい。
食事の伴に眺めていた書類はイダテンの過去の広報資料で、今後に向けてと興味を示していた轟のため、良ければ事例の参考にとチーム担当から手渡されていたものだった。機密事項は抜いているだろうとはいえ本来は部外秘であるはずなのだが、飯田への目配せひとつでお許しが出たということになっていた。もちろん、轟が盗用だの情報の横流しだのといった不手際を起こすなどとは考えられず、正式に依頼があったとして否やはないのだが。
「何か参考になるものはあったかい?」
「参考……っつーか、すげえなと思って単純に感心してた」
ランプの光量を上げ、過去の宣材や広告、タイアップ商品などの情報が載った紙をぱらぱらとめくりながら、言葉通りの声音で言う。
「出してるもん全部外れがねぇ感じで、どれもお前らしいよな」
これもこれも、と指差す資料を後ろから覗き、まあと頷く。
「うちは長く付き合いのある企業が多いし、おじい様の代から同じ個性を継いでいて、イメージとしても明解だからね」
イダテンの主要なタイアップ先はスポーツ関連企業で、次点が交通関連企業だ。交通系は安全啓発などの社会活動が中心だが、スポーツ関連では福祉系事業の支援も近年積極的に行っているものの、基本的にはメーカーとの提携が多い。商材はウェアやシューズなどのアパレルからトレーニング用品、教本、補助用飲食物、データ記録分析機器、各種施設や設備に至るまで多岐にわたる。
個性の発現により競技スポーツが衰退して久しい現代だが、身体機能の強化や健康維持のための運動についてはむしろ年々関心が高まる傾向にあり、その基礎中の基礎、人類普遍の「歩く」「走る」という動作を無視できる人間はせいぜい飛行の個性持ちぐらいのものだ。誰よりも速く、正しく走る。その点においてイダテンとインゲニウムの右に出るチームやヒーローはないと自負し、そうあるべしと誓い、努力している。幸いなことに世間からもその通りの評価を得ている。そうして築き上げた評価がブランドイメージであり、広報とマーケティングの根幹である、と担当は拳を握って力説した。
『災禍の現場に誰よりも速く駆け参ずるヒーロー・インゲニウム。これほど強力なブランドイメージはありませんよ。速いは強い。速いは凄い。速いは格好いい! 向こう千年変わらない価値観です。速いに憧れるお子様とそのご家族。モテのため爽やかスポーツマンを目指す男性諸氏。ここは絶対に外しませんしおいそれと外れる心配もありません。うちの広報はやりやす過ぎていささか面白みに欠けるぐらいです』
褒めているのか退屈を訴えているのか、何やら微妙な言い様ではあったが、売り出しが楽な部類であるということらしい。そうしたところをかいつまんで伝えると、轟から得心の頷きが返った。
「お前が走ってるとこすげぇ格好いいし、見るとああ飯田だって思うもんな。わかる」
さらりと賛じ、こちらの照れの反応も待たずに続ける。
「A組の連中だと、ほかは耳郎とか砂藤とかもわかりやすいよな」
「うむ。耳郎くんがプロデュースしている音楽機器や、砂藤くんの製菓講座は大変人気だな! それと口田くんも、彼自身の露出はいつも控えめだが、動物の保護活動に資するチャリティグッズなどは、その心がけはもちろん、デザインもそれぞれの動物の魅力にあふれて非常に評判が良いと聞いている」
かつての級友たちの、持ち前の魅力にあふれた活動を思い起こし、自身で磨き上げてきた個性や特技、そして志が現れ出たものはやはり他者にも良さが伝わるのだろう、と論説すると、轟が首をひねって呟いた。
「俺の個性からイメージするもの……冷凍庫とコンロとかか」
「轟くんと家電製品はあまりイメージが合わないかもしれないな……」
「趣味は蕎麦の食べ歩きぐらいしかねぇ」
「うーむ」
なるほどこれが「売り出しづらい」部類の広報対象ということか。イダテンの担当が横から老婆心を働かせたのも頷ける。クールで華やか、かつどこか浮世離れした高貴ささえ感じる外見に反し、中身が非常に真面目で純朴であるところも彼の大きな魅力なのだが、それをそのまま出力してしまうと、一般のイメージとの乖離の激しさから各所で疑問符をあふれさせることになりかねない。
「俺もあれこれ話は来るけど、どれがいいとか悪いとか、いつもいまいちぴんと来ねぇ」
「先日君がイメージキャラクターを務めていた香水は非常に話題になっていたろう? 品質もとても良いとうちの女性スタッフが絶賛していたが」
「あれも打ち合わせで適当に頷いて何枚か写真撮ったら出てたってだけだしな……俺は香水とか付けねぇし」
身も蓋もない経緯が暴露されるが、まあある程度は致し方ないことだろう。飯田や耳郎たちのようなわかりやすさのほうがまれで、多くのヒーローは自身のパーソナリティとあまり関連付かない仕事を受けているものだ。
轟はその端麗な容姿や女性ファンの多さから高級な服飾関係の広告塔を望まれることが多いらしく、それだって特に忌避する所以はない、立派な活動のひとつである。むしろ、一時期に比べるとあらゆる意味でまともになったと言える。ものごとの許容幅が広く頼まれればなんでも受けてしまう癖をいかんなく発揮し、デビュー初期にエンデヴァー事務所から飛び出したいくつかの珍妙なタイアップは、いまだ仲間うちでの語り草だ。見かねた緑谷がそれとなくアドバイスをして、以降は穏当なラインでの活動が続いている。が、本人にはこうして色々と思うところもあるらしい。
今までは正直あんま気にしたことなかった、と置いて、けどと轟は語る。
「お前のとこのやつと話してて、俺をいつも見て応援してくれてる相手に、せっかくなら、何かもっと俺らしいもんを届けてぇなとか、考えるようになった」
いつも真面目で素直で優しい彼の心、彼らしさのそのものが真摯な声音に表れていて、飯田は轟を知る全ての人間に今の言葉を聞かせてやりたく思った。思って、いや、とすぐに撤回する。きっと、彼を見て、彼を好きになった人間なら、今さら聞く必要もなくとうに承知していることだろう。
轟くん、とあたたかな心地で呼びかける。
「ヒーロー・ショートを応援している人なら、君が強くて優しくていつも皆を護って安心を与えてくれる、素晴らしい人だときっと知っているよ。だから、無理に特技や個性にこだわって君らしさを出そうとしなくても、君がそばにいてくれると思えるような、君の姿をいつでも思い起こせるような、そんなちょっとした物でもいいんじゃないだろうか。たとえば君はこんなに綺麗な色彩を持っているのだから、この色をモチーフにしただけの小物でも、すぐに君を思い浮かべられるよ」
傍らの紅白へ指伸べてそっと撫で梳き、心謳うまま提案すると、これもまたうつくしい双異色の瞳が瞠目してこちらを見つめた。ぱくりと形良い唇が開き、言う。
「お前もか?」
「え?」
「お前も欲しいと思うか、そういうの」
俺をいつでも思い出したいと想ってくれるのか、と、みなまでは言わないが、そういう問いだった。なかなかのことを口にしてしまった、と今さら気付いて前へ視線をそらせつつ、それはまあ、と頷き答える。
「もちろん思うさ。しかし俺は、一番のものをもう貰っていて……あまつさえ、今日それを街
中に言いふらしてしまったんだ。これ以上に欲しいなんて言ったら、贅沢が過ぎてばちが当たるかもしれない」
我ながら珍しく冗談などを口にしてみるが、半分は本心でもあるだけに真剣みが伴ってしまった。ふっと轟が笑う。
「本人がいいっつってんだから、ばちなんざ当たらねぇよ」
「そうだろうか。俺は明日起きて外を出歩くのが少し怖いよ。君のファンに怒られてしまいそうで」
先週の初報と婚約会見告知の時点で、当然のことながら賛否入り混じる声が業界内外に上がり、中にはバッシングに近い反応もあった。事前の根回しと、チームアップ開始以降に飛び交っていた尾ひれの付いた噂話が奇しくも心の準備に一役買っていたのか、想定ほど痛烈な批判は出てこず、あらかじめ報告を終えていた元A組の仲間たちが一斉に祝福のメッセージを出してくれたこともありがたい効果を呼んで、風向きが賛に塗り替わっていくのも早かったのだが、それでも否が皆無なわけではない。この一週間はそんなことを気にしている余裕すらなかったが、今日この日、書面ではなく自ら顔を出し、自らの言葉で世間へ伝えたという事実が、ようやくじわじわと変化の実感を深めつつあった。
お前を頭からけなすようなやつにファンでいてもらわなくてもいい、と想像に頬膨らせながら飯田の不安を一蹴し、轟は言う。
「なんか酷ぇこと言われたりされたりしたらすぐ教えろ。そいつの口と手足凍らせに行く」
「物騒だな……」
これこそ冗談のつもりではないようだ。
灼きに行くと言わなかっただけまだ温情かと考えていると、
「俺は自慢するつもりだけどな。お前を貰ったこと」
けろりと言いのけて実にスマートに背に腕回してくるのだから、つい先ほど冷凍庫だのコンロだのと悩んでいた純朴の君と同一の人間とは思えず、世の女性たちが夢心地の目で熱狂するのも頷ける。腰にかかる手に抗わず身を傍らへ寄せ、俺は幸せ者だなと素直な想いを返せば、満足げな頷きのあと、また少し突飛な発言があった。
「俺も一番のものだけじゃなく、お前らしいもん、欲しい。何かねぇのか?」
「俺らしいもの……?」
「少し前にネットで話題になってた、動く人形みてぇなやつ。あれ格好良かったよな」
「ああ、確か稼働フィギュアというんだったかな、緑谷くんの受け売りだが……あれは個人の方が趣味で作ってくれた物のようだけどね」
SNSでの共有の出元からして緑谷であったはずだ。アーマー型のヒーローコスチューム全般を好んでいるらしい、ファンと言うよりはその筋のマニアが造形したいくつかのラインナップの中に、自分の姿が含まれていたものである。飯田自身、祖父の代から踏襲している白の装備は、機能はもちろん外見的にも気に入りの衣裳なので、好評の様子を見るのは素直に嬉しかった。同種の宣材の展開があるかはわからないが、抜け目のない我が広報チームのことだ、例のフィギュアの制作者への連絡含め、話題になった時点で何かしら動き始めているかもしれない。
とそこまで考えて、いやしかし、とそんな話と反するような広報担当との会話をもうひとつ思い出す。
『インゲニウムはファミリー層の支持は盤石なんですけど、やっぱりグッズ系の購買コアとなるとF1層なんですよね。そこを狙うとなるともっと積極的な素顔露出も必要かなと……あとはやっぱり女性誌のグラビアですね。これを機に肌出していくって路線もありますよ。どうでしょう。お父様や天晴さんの説得は必要になるかもしれませんが……チャレンジする時はいつでも言ってください』
滔々と語られるのを聞くその時の飯田の頭には前半時点で自動車レースの画が浮かんでしまっていたため、勘違いを解消するまで詳細な内容の精査にも至らなかったが、要するにもっと顔と生身をさらせという話であったらしい。担当語るところのF1、すなわち成年女性層に武骨なアーマー姿の覚えが悪いというのは、まあわからない理屈ではない。
そういえばこういう提案が、と話の種に差し出すと、轟は硬い表情筋をまれな強度でゆがめて不快感を表した。
「なんの機にだよ。別に特別不人気ってわけでもねえんだから、必要ないだろ」
「それはまあ……」
「こんなのさらす気か?」
言って飯田の腰に回した手でついとローブの布地を引く。合わせ目が広がり、覗いた肌に点々と赤い花が咲いている様を見下ろして、慌てて開いた襟をかき合わせた。
「これはその、違うだろう! さすがに俺だってこんな状態の時に人前で脱がないぞ!」
「じゃあずっとその状態にしてりゃいいんだよな」
「轟くんっ?」
とんでもない考えを吐く轟はやはり冗談のつもりでもないらしく、「お前普通に見た目で人気だぞ。そういう目で見られてるしこれ以上は要らねえ」などと共通の親友を想起させる姿勢でぶつぶつ呟いている。まあ鎧や甲冑の外見は普遍的な支持を集めるものだが、と返すと次は打って変わって完璧な無表情が現れ、胡乱にこちらを見た。
「……ともかく駄目だ」
何かを呑み込んだらしい間のあと、ひとこと断じる。父や兄の説得の前に恋人に却下されてしまった。もとより是非にと思った案ではないので飯田としては全く構わないのだが、今度担当に同じ話を振られた時にはなんと弁明して断ればいいだろう。
「ともあれ、ああした繊細な造形の品は、持ち歩いていつでも取り出せるような扱いにはできないのではないだろうか」
「もっと小せぇ簡単なやつのほうがいいか?」
「うむ……タイアップではなく純粋な宣材系の品を検討するなら、やはり緑谷くんに色々とご教授願うのがいいかもしれないな」
話題を仕切り直し、先ほどからちらほらと連想に浮かぶ頼もしい友人の名を出せば、今度はすぐに同意の反応があった。
「話聞きがてら、また改めてあいつのとこに遊びに行きてえな」
「ああ。そろそろ第二倉庫も半分ぐらいまでいっぱいになっているかもしれないな。じっくり見学させてもらおう。その時は麗日くんも誘って、久々に一緒に食事でもしたいな」
自他ともに認める「ヒーローオタク」の緑谷は、雄英を卒業してからそのナードぶりにますます磨きがかかり、オールマイトのみならず元A組の仲間たちの一のファンを公言して、自らの高名に一切とらわれず彼いわく〝推し活〟に勤しんでいる。飯田も元委員長として旧友たちの活躍を積極的に追うようにしてはいるが、緑谷の情報網にはとても敵わず、感心することしきりだ。分けてもインゲニウムとショートの活動はどんな細かな情報も欠かさずチェックしてくれているようで、当人たちが知らないことさえ余さず把握していたりする。限定アイテムの発売日など、一般のファンに混じって朝一で店頭に並ぶ姿がたびたび目撃されて話題になっており、緑谷自身は特権を利用するわけにはいかないと固辞していたが、混乱を避けるためにも今は飯田、轟ともに事務所に献品された在庫を寄贈するようになっている。
寄贈の言葉は大げさではなく、みんなのグッズを置くために思い切って借りたんだ、と紹介された大型ガレージは既に二棟目、棚にはA組出身ヒーローの軌跡がぎっしりと詰め込まれ、博物館にでもするのか、といつかの同窓会で笑ったのは瀬呂だったろうか。その呼び名も次第に冗談ではなくなってきており、なんともほほ笑ましく誇らしい、愛すべき親友だ。轟との関係を一番に打ち明けたのも、一番の涙で祝福してくれたのも彼だった。
本当に自分は人との関係に恵まれている、と胸ぬくませ、無意識に傍らへ頬をすり寄せる。寄り添う恋人がこめかみに唇をくれながら、そういや麗日で思い出した、と言って資料の終わり際のページを開いた。
「これなんだ? 茶碗?」
示された紙にはその通りの商品図案。あっと声が出る。
「それも入ってたのか……廃案になったはずなんだが……」
「こいつと、あとこのへんもか、ほかと違うよな」
茶碗や箸、湯呑みなど、ターボヒーローらしからぬ生活感を纏う、どれも一対ひと揃えの品々は、轟の指摘通り「インゲニウム」のための物ではない。純粋な疑問の視線を向けられ、観念して答えた。
「それはね、めおと茶碗だ」
「めおとぢゃわん」
「うん……ほら、次のチームアップの広報を『この』路線で展開する案が出たと言ったろう? その時に合わせて作ったものらしいんだ。勢いで、なんて言っていたから本気ではなかったと思うんだが」
「……そうか。だから片方赤いのか」
ジョークにしては手が込んでいるあたり、祝辞代わりの資料なのだろうが、隣で説明させられる人間は気恥ずかしい限りだ。なんとなく居たたまれず背を丸める飯田をよそに、「ショートとインゲニウム」のための品をしげしげと眺め、轟は明確に言った。
「これ、いいな」
「えっ、茶碗がかい……?」
「別に実際これを作って人に売りたいとは思わねぇけど、こういうお前と揃いのもん、何か欲しい」
ぎょっとしてしまった飯田に、我が意を得たとばかりの多少の早口で、言葉が続けられる。
「今日の会見まで、匂わせになるのはどうとかこうとかで、できなかっただろ、こういうの。理由はわかってたし凄ぇ嫌だとは思わなかったけど、お前と久々に会って、話して、触って、別れたあとに、形が何も残らないのはいつも少ししんどかった。夏兄が彼女と揃いで買ったもん自慢してるのとか、羨ましかったし」
明日からは、誰にでも目いっぱい自慢してやれる、と、先と同じ言葉を使ってほころぶように笑う姿を目前にして、飯田は今日一番の感涙の衝動をこらえた。
自分と轟の抱えるしがらみは、同世代のヒーローたちと並べても明らかに多く大きく重い。周囲のため、そして自分たちのためにも、発表までそうしたことを我慢しようと提案したのは飯田で、轟も素直に同意してくれてはいた。だが、人とのつながり、人への想いをとても大切にする轟のことだ。本心ではやはり寂しく感じるところが大きかったのだろう。自分だって、別れの時はいつもとても寂しかった。
参ったな、と熱い目頭を押さえて呟く。
「明日別れる時に、いよいよ泣いてしまうかもしれない……」
「やっぱ引っ越しと同時が良かったな」
「さすがに家のほうは前倒しにできなかったからね、仕方ない」
四年に及ぶ二人の配慮と我慢はしっかり実を結んでいたものの、轟が東京に移り、チームアップが始まって以降の予想を超える世間の注目から、全てを隠し通すことは非常に難しかった。本来は年明けの新居への同時移住に合わせる予定であったが、些細なものの積み重ねから憶測の声が広がり始めたため、悪弊を成すような噂に育つ前に、と公表を早めることとなった結果が先週の発表、今日の会見である。
「あと二か月か。まあもう大手振って会えるもんな」
そう呟く声ににじむひと刷きの寂寥を聴き、轟くん、と呼びかける。
「次の休日、二人で買い物に行かないか」
「買い物?」
おうむ返しの問いに頷き、一緒に歩いて、一緒に店に入って、今まで我慢していたものを沢山買おう、と笑って提案した。
「年明けまではどちらかの家に置いておいてもいいし、片方ずつ持っておいて、同居が始まった時に新しい家に持ち寄ってもいい。茶碗は……まあ要らないかもしれないが、揃いのものや、君のことがいつでも思い出せるようなもの、俺も持っていたいよ」
どうだいと覗いた双つ色の瞳が輝石のように煌めき、昂揚を教える。いつも物静かな彼の内側にある豊かな情が、熱を伴って表に現れ出でる瞬間に触れるのが、たまらなく好きだった。
「いいな。……すげぇ、いい」
子どものように素直な言葉と笑みを受け、もはや耐えられずに腕の中からさらに相手を抱きしめにかかる。ファイルを床へ取り落としておおと小さな驚きを漏らしつつ、まだほんのわずかに上背のある飯田の身体を危なげなく懐に抱き留めた恋人は、どうしたと愉しげに言った。あたたかく弾む声を、もっと聞きたい。
こぼれかけた涙声を飲み込んで、努めて明るく伝える。
「君が大好きだなと思って」
そうか、と穏やかな相槌があり、
「俺も飯田が大好きだ」
衒いなく重なった言葉と優しい指に顔を引き起こされて、うつくしい瞳の非対称に見入るうちに、口付けられた。幾度も音立ててついばまれ、薄く開いた唇から舌が滑り入り、濡れた声と吐息を絡め合う。するりと脇腹を撫でた指先が、今夜二度目の閨事へ至るのを優しく迷っているのに気付き、熱で痺れた頭で甘く呼ばう。
「んっ……とどろき、くん」
「……ん?」
「明日は僕も、その、早起きしない……から」
次に会うまで忘れられないぐらい、沢山いちゃいちゃしよう。照れを押し込めてねだった次の瞬間、敷布の上に投げられて、仰臥の体勢から爛と光る輝石を見上げていた。
「……言ったな」
「言ってしまった……」
惚けた言葉を交わし、一拍置いて笑い合う。両腕に囲われるように重なる身を迎え、鼻に頬に唇にと遊ぶ口付けを受けながら、この姿は誰にも自慢せずに、ずっと自分だけの秘密にしておきたい、とひそやかに願った。
後日、支部代表当人の投稿がめったにないことで知られるエンデヴァー事務所・東京支部のアカウントに、突如として事務所の活動とまるで関係のない投稿が現れ、界隈の話題をさらった。
かたや紅と白に翠のワンポイント、かたや青と白に黄のワンポイントという対の意匠のマグカップの写真の下にひとこと、『一緒に買った。とりあえず俺の家に置いてる』とどこか自慢げに付されたコメント。少しの照れくささを感じながら、飯田は自分のヒーロー名を冠するアカウントからその投稿を開き、シェアボタンを押す代わりに、同じ想いを返す意を込めて、ひとつハートのアクションを贈った。
Fin.