◇
「ああ、ようやく終わったなぁ……」
ホテルの部屋に戻るなりなんとも珍しい声を吐き出して、落ちるように椅子に座ったパートナーを振り向き、轟はおう、とひとつ頷きを返した。
「さすがにすげえ緊張したな」
「いやしてたのかい? 全くそうは見えなかったが……!」
俺ばかりガチガチになっていたようだったよ、と息をつきつつ、飯田は自然な動作でタイのノットを引き、上等のドレスシャツできちりと締めていた首元をゆるめた。いつも規律正しく行儀作法を重んじる人間が、堅くととのえた心身を特別の相手の前でだけやわらかく崩す、そんな姿を見るのが轟は好きだった。しかも今日からはそうしたことを世に気遣い隠す必要もない。実のところ緊張より回りくどい慣習や形式のあれこれに追われる不自由さのほうが大儀に感じたが、互いに多忙のなか余暇を削って準備しやり遂げただけの甲斐はあったはずだ。
そのまま向かいの席につきかけて思い直し、長机を回り込んで隣に座る。覗き込むように目を合わせると、吊り上がった眦の線が眼鏡の向こうで丸みを描き、瞳を薄暮色になごませて笑った。
「まあ大過なく終えられて安心したよ。轟くんも、慣れないことを色々とお疲れさま」
「おう。つっても面倒事はほとんどそっちに任せちまって悪かった。またちゃんと埋め合わせする」
「いやそんな、気にする必要ないさ。それぞれ得意不得意があるのだし……二人のことなんだからね」
苦手なことはいくらでも頼ってほしいし、俺も頼らせてもらうよ、と、飯田の互助精神はいつも無駄な含みなく明朗だ。会って一年ほどしてからさらにその傾向が強まった気がする。軽い気持ちで指摘したところ、「緑谷くんと轟くんのせいじゃないか! 君たちが優しすぎて全部自分ひとりで飲み込もうとするから、俺は背中を叩いて無理やりにでも吐き出させなけりゃならないんだぞ! ほんとにもう!」と過去の心配まで含めた説教が始まってしまった。二人には何度返しても返し足りない恩があるんだ、と臆面もなく語る姿こそ仁愛と献身の塊のようで、緑谷と並んで神妙に頭を垂れながら、こっそりと笑い合ったのを憶えている。
ともあれ、今回の一連について相手側に労の比重を偏らせてしまったのはまぎれもない事実だ。飯田の言葉には素直に感謝を返したが、今後の改善については考えていかなければならない。
「うちは親父がああだったから、マスコミ対応だのメディア対応だのはからっきしなんだよな」
轟がヒーロー・ショートとして所属するエンデヴァー事務所は、トップヒーローの足場として必要十分な機能をととのえてはいたが、人員構成的に武闘派のサイドキック偏重で、事務スタッフが少ない伝統があった。代表者が忌避しがちでいたメディア対応のほか、今春からの東京での支部開設プロジェクトでもそれが大きな弊害となり、現地スタッフの登用が軌道に乗るまで、庶務の処理があふれて一時機能停止に陥りかけたのは記憶に新しい。もとより細密に区分けをされた地域に大小のヒーロー事務所が肩を寄せ、独特かつ複雑なしがらみと協力関係を成している東京地区である。ヒーロー・ショート単身への声は好意的でも、トップ事務所、それもいまだ賛否併せ持つエンデヴァーの名を冠する事務所の進出にあたって、抵抗が少なかろうはずがなかった。
そうした内情を聞き、飯田はすぐに支部開設と同時のチームアップスタートを含めた種々の後援を申し出てくれた。祖父からの三代、兄弟間の継承を含めれば四代にわたってこの地域で活動し、ヒーロー含む住人たちと多数の企業の信頼を集めてきたチーム
IDATEN、そしてインゲニウム事務所のバックアップがなければ、とてもやり通せなかったことだろう。
「お前のとこは書類仕事でもなんでもてきぱきしててすげえよな」
「ずっとその業務に携わっているベテランの方が多いからね。俺もいつも助けてもらってばかりだ」
かつては最大六十五名のサイドキックを抱えたチームイダテンも、六年前の大戦をきっかけとする傷病や引退などでさすがに人員減となったらしいが、それでもいまだ五十名近いヒーローと、ほぼ同数の管理および技術スタッフを擁している。現在、事務所長は早期引退から復帰した飯田の父、チーム代表は兄の天晴が務めており、飯田自身はあくまで一ヒーロー、チームの看板・二代目インゲニウムとして日々の活動に従事しているが、近い将来の代替わりは既定路線だ。
今日も張り切ってたしな、と裏方の賑わいを思い出して言うと、小さく苦笑が返った。
「轟くんのほうでも多少あると思うんだが、何しろ祖父の代から俺を世話してくれていた人もいて、普段厳しくてもこういうことになると少し過保護というか、妙に力を込められてしまってね……チームアップPRの次弾を『この』路線で、なんて話が知らないあいだに持ち上がっていたりして、広報チームの説得が大変だったよ」
看板ヒーローの謹厳実直のイメージが強いだけに、一見積極的な立ち回りをしない印象のあるイダテンの広報だが、裏では一貫したポリシーに基づく緻密な戦略立案と迅速な実行により、チームの活動を支えているらしい。活動歴の長さからマスコミ各所に顔が利くことも今回大きな助けとなった。
「たかが支部の開設に宣伝なんて要らねえとか思ってたけど、おかげで現場で最初から随分やりやすかった。関係なさそうでもおろそかにしちゃいけねえな。勉強んなった」
「ああ。メディアを利用して人気を取ろうなんて思わないが、ヒーロー活動の在り方を広く正しく伝えていくのは、俺たちの志を遂げるためにもおざなりにしてはいけない、大切なことのひとつだと思う」
「そうだな」
頷き合い、自分も今後支部だけであれこれの対応が叶うよう、スタッフ活用についてしっかり考える、と宣言する。
「
東京にひとりで出てきたからには、後ろに置いてきたもんに頼ってられねえからな。まあ今回みたいな話にはもともと頼りにならねぇけど」
「継ぐことのできる強固な地盤を持っていて、それに甘んじずに独力での活動を目指すのはなかなかできない決断だと思う。素晴らしいよ」
「半分は私情込みだけどな」
「う、まあ、それはそうなんだけれど……」
じっと見つめ、会見場のカメラの前でしたように左手を顔横に上げてみせると、赤らむ頬を隠すように首が正面へそらされる。それでも落ちた目線は自身の手に止まり、逆の指で揃いの輪を撫ぜる横顔の緩びが隠し切れない幸福を語っていたので、呼び咎めるのは免じてやった。
「そ、ういえばだな、轟くん。先ほどのチームアップ広報の第二弾なんだが、ちょうど今さっきメールを出したということだったから、明日にでも候補日が上がってくると、思う」
わかりやすくあせりながら話題を変え(実際は変え切れていないのだが)、飯田は会見後にスタッフから手渡されていた大判の封筒を開き、中の資料を長机の上に置いて寄こした。
「第一弾の選考上位の図案の複製版だそうだ。送ったデータでは少し色味が変わってしまっているらしいから、一応こちらもと」
「正直俺が見ても違いがぴんとこねえと思うけど、わかった。面談に出る予定のやつに渡しておく」
受け取り、十数枚の束をざっとめくり眺めて、既視の感覚に手を止めた。一枚引き抜いて束の上に乗せ、確認の問いをする。
「こいつが俺らで出るやつだよな」
「ああ。勘違いでなければ」
俺も芸術には疎いから、どうだろうか、と自信半分の様子で飯田は答えたが、声にはそうであってほしいという期待がにじんでいる。正直なところを言えば自分はどちらでも構わなかったが、この図案自体は気に入っていたので、次のデザインの提案依頼先に加えることに文句はなかった。
エンデヴァー事務所の東京支部開設およびヒーロー・ショートとヒーロー・インゲニウムのチームアップにあたり、宣材に用いるアートデザインの公募を含めた事前広報を行うことは、無論イダテン側からの提案だった。あらかじめこちらの予定と目的をはっきり告知することで虚報の発生を防止し、先住者たちに意識的・無意識的な準備をさせて協働への抵抗を薄める。人気ヒーローに巣立たれる地元にも、今後情報の発信が続くことを期待させ、応援の声を引き出す。理路整然と語られた戦略をただただ感心して受け入れたのは、昨年の初めのことだったろうか。そうして全国から募られた案の中に、この絵があった。
「これ、どうして落ちたんだった? 俺もお前も票入れたよな」
「それぞれの要素の大きさがほとんど同等になってしまっているから……チームアップだけならともかく、主目的は東京支部の開設告知だから、轟くんがメインになっていなければ駄目だろうと。俺も薄々わかってはいたんだが、つい」
なるほどもっともな指摘ではある。自分と飯田の票には多分に私情が入っていたから、結果的には採用された図案で間違いなかったのだろう。かつてなんの縁でかエンデヴァー事務所の広告を担当したこともあるというベテランによる、毛筆を活かした力強い構図は内外に好評で、期待以上の成果を上げたということだ。その成功の度がいささか行き過ぎて、予想以上に大きく長く注目を集めてしまった結果、回りまわって今日の会見につながったとも言える。遅かれ早かれの話ではあり、当初予定より準備期間が短縮されて多忙を極めることとなりはしたものの、一日も早くとひそかに願っていた身としてはむしろ僥倖とすら言えた。
第二弾はそのデザイナーにも続投を頼みつつ、少し毛色を変えたデザインを横展開として加えるため、初弾で評価の高かった図案の作者に直接提案を依頼しようという運びになった。当然、最終選考に残ったこの絵の描き手にも、飯田によれば先ほど連絡が送られている。一通だけ、他の宛先より文量の多いメールが。
飯田は石橋を叩く性格もあってか慎重になっているようだが、轟はどちらでもいいとは思いつつ、返事の内容をほぼ確信していた。自分の瞳の色まではともかく、爽快で清廉なインゲニウムの白と青に、これほど大胆に鮮やかな黄を混ぜている図など、ほかに目にしたことがない。部屋の片隅にしまい込んでいるバインダーの中の、一枚の絵以外には。
飯田からそれを渡されたのは、忘れもしない、自分たちが三年間を共に過ごした、あの学び舎からの卒業の日のことだった。
○
轟くん、と名を呼びかけてきたA組の委員長は、友人とともにその周りが一斉に振り向いたことに驚きを浮かべ、即座に謝罪の礼をした。
「すまない! ご家族とお話しの最中だったのだな。邪魔をしては……」
「構わねえ。どうした?」
きびすを返しかけるのをさえぎり、逆に呼び止める。式が終わり、今はほとんどの卒業生が列席した家族たちと合流しているはずだが、飯田が父母と兄の輪を抜け出てきたとなるとよほどの用だ。でなくとも、自分の側が機を見て呼びに行くつもりであったから、同じことだ。
ええと、とらしくもなく言いよどむ長身へ歩み寄る。在学中に追い越すことは叶わなかったが、ほんのわずかに距離が縮まったはずの目線。まっすぐに合わないのは高さの差のためではなく、相手が右へ左へと瞳を惑わせているためだ。
「わかった、行く」
言葉少なに決め、半身向き直って家族へ手を振る。飯田との友人関係はとうに既知であったので、笑みとともに手振りが返り、遠慮の種はなくなった。自ら呼んでおいてどこか茫としている背を押し、校舎裏へと早足に連れ立つ。
「なんだ?」
周囲に人影のないことを確かめ、訊いた。自分の話題を切り出しても良かったが、先に動いた飯田の意思を尊重した。
これまでの感謝と祝福、これからの祈念と誓い。そうしたお定まりながらも欠くことのできない言葉は、寮で開かれた昨夜の宴の中で、擦り切れるほどに言い尽くした。ほかに残るものは何かと、問う。
「……君に、受け取ってほしいものがあるんだ」
たっぷりの間を置き、意を決した、というよりは追いつめられて屈した、という風情の合う様子で、飯田は卒業証書とともに携えていた、紙製のバインダーをこちらへ差し出した。意外ななりゆきに多少面食らいつつ、受け取り、開く。あったのは、一枚の絵だった。
「……俺とお前の絵か?」
「俺がロードワークのコースにしていた公園があったろう。そこで美大生の方が描いてくれたのを、もらったんだ」
言われてふと思い当たる。飯田のロードワークには自分も週に一、二度ほど随伴していたが、いつも気にかかり訊ねていたことがあったはずだ。
「ひょっとして、お前が見かけるたび合図してたベンチのやつか」
「ああ。その、秘密にする約束だったからほかの皆には黙っていてほしいんだが、一年の夏に知り合って、それから……」
「ストーカーじゃねえのか?」
「ストーカーではない!」
疑惑を勢い込んで否定される。三年間で直接話したのは三回程度だ、と説明されて逆に怪しさを感じたものの、いったんは過ぎた話と結論付け、改めて絵を眺めつつ話の先を促した。
「初めは自分の絵を一枚だけ、ここで過ごした思い出にもらうつもりだったんだ。ずっと描いてくださっていたのを知っていたから。だが絵を選ばせてもらっている時にそれを見つけて、どうしても、君に見せたくて」
二枚目をねだらせてもらった、と語られる絵は、轟と飯田が肩並べて走り、笑い交わしている図だ。ランニングの最中に談笑する余裕などあまりなかったはずだから(何しろターボヒーローを継ぐ者の走りだ)、想像込みのものだろう。特徴的なのは上にほどこされた着色で、現実では絶対にあり得ない背景部分に、轟の瞳に似た色がひと筆、鮮やかな黄が一面に、二人を取り巻くように塗られている。堅く真面目な委員長の内側にあるやわらかなものを、まとめて描き出したような色。
芸術に疎い自分に、おそらく本当の良し悪しはわからない。だが、直前の怪しみを置いてただ素直に、いい絵だ、と思った。
「写真も、映像も残っているし、それももちろん全て大事にする。でも、君の隣にいた俺が、俺の隣にいてくれた君が、こんな風に、あたたかに、幸せに、人の目に映っていたんだと思ったら、写真や動画とは少し違う形で、なんだかとても、嬉しくて」
轟の思考の動きを追うように、飯田は訥々と語る。
「俺は雄英で皆に出会って、君に出会って、共にここまで歩んでこれたことを、絶対に忘れない。……君にも、憶えていてほしくて、だから」
いつも明朗に言葉を紡ぐ声が、揺らぎ、震えている。かすれて絶えかかり、己を叱咤するように首を振って、言う。
「どうしよう、すまない、うまく言葉が出てこないんだ。妙なことを口走ってしまっているかもしれない。けど、……どうか、受け取ってくれないだろうか」
――俺の思い出を、君の思い出にもしてくれないだろうか。
不明瞭に、しかし最後まで言い切り、ようやく視線を上げた赤い瞳がまっすぐに轟を見つめる。その灯に危惧した諦念や妥協が
焼べられていないのを見て取って、轟は一歩踏み出した。
「思い出だけでいいのかよ」
息呑む音が聞こえたが、構わず続ける。
「俺はそれだけじゃ足りねえ。お前との思い出も、お前とのこれからも、どっちも欲しい」
きっと自分だけのものではない。いつからかずっと互いの中にあって、今日までそっと沈めなだめてきた願いだ。折に触れて表へ浮き上がるたびかけらを行き交わせながら、一歩分の遠慮と臆病の間を空けて、掴まなかった心。
飯田が半歩踏み出し、自分が一歩踏み込めば、腕に捕らえる位置に重なる。そんな詩情めいた光景を現実に描くべく、手を伸ばした。広い背へバインダーごと腕を回し、抱き締める。ほとんど同じ高さで重なった胸がどくどくと音高く
共鳴っている。鼻の触れ合いそうなほど間近から目を覗き、請う。
「くれないか。飯田」
お前を全部。
赤い瞳が揺れて潤み、じわりと涙がにじんで頬をこぼれ、唇がわななき開くまでの間を置いて、願いが返った。
「……うん。僕も、君が……君が欲しいよ。轟くん」
偏って空いていた背に大きな手のひらが添い、互いに捕らえ合う。そのまま相手の嗚咽を呑むように口付けたのはほとんど無意識のうちだった。ゆるやかに触れ、ゆるやかに離れる。瞳どころか全体の赤くなった目を見ながら、素直に感想した。
「……しょっぺえ」
「っう、し、仕方ないだろ、止まらな、くて……」
よほど感極まっているのだろう、普段の行儀を忘れてぐしぐしと袖でぬぐうそばから溢れていく。式の最中にも滂沱していたはずだが、緑谷といい、感激屋の涙液は無尽蔵なのだろうか。お世辞にも綺麗な顔とは言いがたかったが、数刻前には雄英の学生として、A組の委員長として、沢山のものと人のために流されていた涙が、今は全て自分のためのものだと思うと、無性に気分が良かった。
「これ、もらっとくな。大切にする」
バインダーをかざして言う。ああと大きく頷き、涙ながらに笑みを咲かせた顔の前へ、轟は少しの自嘲を押し込めつつ、制服のポケットから取り出した「自分の話題」を突き付けた。
「先越されたけど、俺も渡したいもんがあった」
「え、なんだぃ……」
焦点が手の中に合ったとおぼしき瞬間に語尾が潰れ、ひぃ、と悲鳴に変わった。なんだよ、と口尖らせて、半分に割れ開いた方形の箱をさらに前へと突き出す。
「『ひい』はねぇだろ」
「だ、だだだだだって、しかし……!」
「受け取るか受け取らねえか。受け取らねえなら俺の分と一緒に帰りがけに捨ててく」
「そ、それは脅しじゃないのか君……!」
すっかり涙の引っ込んだらしい飯田はいつもの調子を取り戻してしゅたしゅたと腕を振った。脅しでも冗談でもなかったので、そのままに答える。
「安もんだし、まあ言ったら『本物』でもねぇし、お前を縛り付けようってわけじゃない。俺もただ、何か記念になるものを渡してえと思ったら、ほかに浮かばなかった。絵みたいに洒落たもんじゃなくて悪ぃ」
駄目だってことなら無理強いはしない、と言って一度引きかけた手を、咄嗟の動作で引き留められた。
「受け取るよ! ……受け取らせてほしい。ありがとう、轟くん」
とても嬉しい、大切にする、とどこか幼びた口調で言って、改めて轟が差し出した箱を両手で包むように受け取る。
「すぐには暇もできねぇと思うけど、連絡する」
「ああ。俺も」
「できるだけ早めに会いてえな」
「うん。うん……」
途端にまたその目から涙があふれ出して、まだもう少し向こうに戻れそうにない、と思いながら、しばらくは見ることの叶わないだろう泣き顔を、記憶に灼き付けるようにじっと眺めていた。
○
「お前結局ずっと泣き止まなくて、仕方ねえと思って跡が丸わかりの顔のまんま戻ったら、天晴さんがうちの家族に合流して親父と話しててすげぇあせったな」
「全くあせっていたようには見えなかったが……?」
いまだにあの時のことはどう思ったのか怖くて訊けていないよ、とこぼした飯田は、照れ隠しのつもりか、部屋にサーブされていたオレンジジュースをあおるように飲み下した。手の中の彩色を思い起こしながら、果汁の色はオレンジと言うより黄色だななどと思って眺め、ぼんやり浮かぶままの言葉を口にした。
「あのしょっぺぇのがファーストキスってやつだったんだよな」
「んぐ」
噎せかかって揺れる背をやわく叩いてやり、お前とならオレンジの味かと思ってた、と続けると、ますます揺れが激しさを増す。ようやく収まった息をはあと大きく吐き出して、飯田は呟きを落とした。
「意外とロマンチストなのだな、君は……」
「別れ際に絵なんて寄こしてくるほうがよっぽどロマンチストだろ」
「う、そうか」
まあお互い様でいいんじゃねえかと軽く結論し、図案の束を封筒に戻す。何はともあれ、ここまで共にたどり着いた。そうしてまだ、連れ立つ道には先がある。
「とりあえず、今日はもう仕事の話は終わりでいいだろ」
椅子をずってさらに近くへ身を寄せ、ようやく何が済んで、今どこにいると思ってんだとささやけば、一拍の間ののち、あわあわと腕が動き始める。
「わ、わかっている、が」
「が?」
「本当に皆に知らせたんだと思うと、その、すぐには……」
恥ずかしい、と赤らめ伏せた顔とこわごわ上へ遣われる目こそ余計に理性を揺らしたので、ためらわず頭掴み寄せて口付けた。むうと唸る声もすぐに融けて、甘くねだるように喉を鳴らす。
重ねた幸いは、今度こそ黄の色鮮やかなオレンジの果汁の味がした。
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サイガデザイン事務所
斎賀様、式見様
お世話になっております。
チームIDATEN 広報担当の と申します。
過日はエンデヴァー事務所東京支部開設プロジェクトのアートデザイン公募にご応募頂きましてありがとうございました。
選考結果につきましては書面にて通知済みでございますが、このほど、共同PR施策の第二弾として、追加のデザインを作成することといたしました。
つきましては、前回最終選考作となった応募図案の作者である式見様より直接のご提案を頂きたく、ご連絡の次第でございます。
採用の決定は同様のご提案をお願いする作者様とのコンペティションを経てのものとなりますが、ぜひ参加をご検討頂ければ幸いに存じます。
まずは要項について一度お話したく、お受け頂けるようでしたら、面談候補日を下記の期間内にてご検討ください。
①X月X日 X時~
……
なお、弊所およびエンデヴァー事務所所属のヒーローより私信を預かっておりますので、以下に記載いたします。
=====
式見様
突然のメッセージを失礼いたします。もしお心当たりがなければこの文章はお読み捨てください。
思い違いであれば大変恐縮なのですが、あなたはXX年からXX年にかけて□□市に在住で、ある時に絵を譲ってくださった、森林公園の絵描きさんではないでしょうか?
もしお間違いなければ、ぜひお会いしてあの時のお礼と、あれからの出来事のご報告をさせて頂ければと思っています。
ご連絡している候補日時から指定頂ければ、僕らがその日に同席します。
どうぞご検討ください。
頂いた絵は二枚とも、大切に持っています。
元・雄英高等学校ヒーロー科在籍
インゲニウムこと 飯田天哉
ショートこと 轟 焦凍
(XX年 X月X日をもちまして婚約いたしました)
Fin.