めぐり、めぐる
「おかえり轟くん、寒かったろう! 風呂が沸いているから早速入ってくるといい!」
後ろ手にドアを閉めて背に吹き付けた寒風を
断ち、ふうと吐き落とした白い息が散り切らぬうちに、廊下を大股に進む足音と溌溂とした声とが数歩の距離まで寄ってきて、ただいまどころかああともおうとも応える前に、コートもバッグも引き取られ、気付けば身ひとつで脱衣所へ押し込まれていた。
「いい……」
「カラスの行水では駄目だからな! ちゃんと肩まで浸かって、しっかり温まってから上がってくるように! 髪も水が落ちない程度に拭いてくるんだぞ!」
呼びかけをさえぎる早口は語尾を引きつつリビングの方向へ遠ざかっていき、どうやらこちらの話は聞かない――と言うより、話も何もかも全て、まず風呂に入らせてから、と決めてしまっているらしい。一度暖房の利いたリビングに寄ってソファにでも腰を落ち着けたが最後、ほかの用事を投げ出してその場に根を張り、行儀悪くうたた寝でも始めてしまうに違いないと思われている。
つい一分ばかり前、玄関のドアを引き開けながらまさに「今夜はなんもせずにさっさと寝ちまうか」と考えた轟は、有無を言わさぬ飯田の手管に憤るより感心して、勢いに流されるまま脱ぎ始めていた服の中に苦笑をこぼした。時刻は九時半を回ったかどうかといったところか。どんな時もまめまめしい同居人のお陰で、今夜も無駄な早寝をせず時間いっぱい過ごすことができそうである。
忠告に従い猫の水遊び程度の時間はかけて入浴を済ませ、「これにしなさい」とばかりに棚の最前部に用意されていた厚手の寝巻きを着込んでぺたぺたと脱衣所を歩き出ると、またしても寸間置かず両腕広げて飛び出してきた飯田に抱きしめられる、かと思いきや、掲げ持っていたタオルケットでくるりと首から下をひと巻きにされた。
「飯田」
「うん、冷えないうちに髪を乾かしてしまおう」
今度の呼びかけには相槌があったが形ばかりで、まだ〝有無を言わさぬモード〟は継続しているようだ。こちらも背を押されるまま従い歩く。疲れで抗う気力が出ない、というのも全くの嘘ではないが、されてばかりで格好が付かないなどというちっぽけな見栄ひとつが原動力では、そもそも抵抗と呼べる抵抗も出てこない。世話焼き屋の世話に身をゆだねる心地良さは、飯田の隣で憶えて久しいもののひとつだ。
途中で裸足に気付かれて小言をひとつ貰い、数歩で冷えた足を気にされつつぺたぺたと歩き着いた先は、リビングではなくふたりの寝室だった。冬場は滅多に使わないエアコンが点き、既に部屋はあたたまっている。座っていてくれと言われてベッドに上がり、中央であぐらをかいて待っていると、足早に出ていった飯田が足早に戻ってきて、おっと、と声を漏らした。
「そう来たか」
何がだと思って相手を見やると、左手にドライヤー、右手にマグカップを持っている。ベッド端に腰かけているものと思ったら意外な場所にいた、と受け止められたのだろう轟の座り位置と手元の湯気のあいだに視線を往復させたのち、うんとひとつ頷いて先に右手を差し出してきた。反射に受け取ったカップの五分目の位置で白い水面がたぷんと波を起こし、レンジで温められた陶器の熱が指先にじわりと染みる。
「今日だけ特別だぞ」
そう言い指したのはカップの中身ではなく、ベッドの真ん中で飲食をする行儀の悪さについてだろう。日本茶は意外にカフェイン含有量が多い、というかねてからの知識の上に、雄英在学時代に級友たちから仕入れたらしい「ホットミルクに蜂蜜とかメープルシロップを溶かして飲むと、身体があたたまって寝付きも良くなるし健康にも美容にもいいんだよ!」という〝女子力〟を重ねて、飯田が轟に差し出す世話のレパートリーに加えたもののひとつ。今やそれなりに習慣化しているが、寝室にまで持ち込まれたのは初めてのことだ。
渡したマグカップが両手の内にしっかりと納まったのを確認してから、飯田はヘッドボードに通したコンセントにドライヤーのプラグを差し、ベッドに膝を乗り上げていざり寄ってきて、轟の背後に座を占めた。長い両脚が前へ伸びてきたので、あぐらの膝を少し浮かせて場所を譲ってやる。言ってくれりゃ端に座り直したのに、と思ったが、さすがの柔軟性と言うべきか、人ひとり股のあいだに入れた姿勢でも特に大儀げな様子はない。
かちりとドライヤーの電源が入り、熱風が後頭に吹きつけられる。カップの揺れに配慮してか最も弱い風量で、肩にかけたタオルも使って水気を丹念に飛ばしていく手指の動きは実に慣れたものだ。これは学生時代に始まった世話で、身づくろいをおざなりにしがちな轟へ苦言しつつ手を出してきて以来の習いである。もちろんその気になればなんの問題もなく自分でこなせる仕事であって、当時は相手へ触れるため、触れられるための口実、今はじゃれ合いの一環の意味合いが強い。髪をある程度拭いてこい、という注文は、ちゃんと乾かすのは自分がやるから、の予告と同義だ。
風が弱いぶんいつもよりじっくりと時間を使い、丁寧に慰撫された髪が乾くのとほぼ同時に、ちびちびと飲んでいた牛乳も空になった。横からそっと取り上げられたカップとコードを抜いたドライヤーがサイドボードに置かれる。帰宅してから今これまでの手厚い世話よりも、飯田が物をすぐに元の場所へ片付けに行かないというその行動こそが、特異な夜を強く物語っているように思えた。
「乾燥がひどいから途中で暖房を切ってしまったが、冷えていないかい、轟くん」
「ああ、大丈夫だ」
「良かった」
満足げに頷き、今度は毛布を手に後ろへ戻って、轟の背にかけてくる。
「先日の衣替えで真冬用の服までいっぺんに出してしまうべきだったな。まさかこんなに急に気温が下がるとは思わなかったから」
季節を進める、という予報とともに訪れた寒波は、その冠通りに晩秋の風を一気に押し流して、日本列島を冬の空気に包み込んだ。十二月下旬並みだという気温はそこここで大小の騒ぎを呼んだらしく、初雪の報せもあれば、道や設備の凍結に伴う事故の報せもあり、北の地域ではヒーローたちへの支援要請も相次いで飛んでいたようだ。
しかし轟が駅から家までの道を肩震わせて帰り、飯田から即時入浴を申し付けられたのは、そうした気候が理由ではなかった。確かに風は時季外れの冷たさであったが、個性柄、気温の変化には慣れっこだ。その気になれば吹き寄せる寒風を暖気に換えて、歩きながらにぬくもることもできる。
だから今気にかけていることがあるとすれば、数日続くという気温に合わせた服がないことではなく、寒さを物ともせず快活に働くパートナーとのことだけだ。
後ろへ首をひねって顔を見上げ、呼びかける。
「なあ飯田」
「なんだい」
ようやくこちらの言葉を促す相槌が打たれ、まずひとつの安堵を得つつも、短く訊ねた。
「……怒ってねぇか?」
「え?」
四角いまぶたがぱちぱちと瞬いて驚きを示し、反問を発する。
「怒ってるって、俺が? そう見えるかい?」
「見えねぇ」
素直に首を振った。振る舞いだけを見れば、十人のうち十人が上機嫌だと判断するだろう。
「けど、たまに怒ってんのに怒れねぇようなとき、そんな感じになってることがあるから」
飯田は感情のおおよそが高揚や興奮を伴って発露するたちで、腹芸もほとんどしない人間なので、「喜」の表れも「怒」の表れも非常にわかりやすく、外から見誤ることはあまりない。しかし、節度や配慮に細やかな人間でもあるため、「向き合う相手や状況に対して思うところはあるが、なんらかの事情があることも理解している」といった場面においては、一転して情の発露そのものを抑え込み、ごく冷静に振る舞うこともできる。
また、さまで深刻ではない状況では、高揚の度合いはそのまま、発露の方向だけを転化させることがある。そのほとんどが、「不可抗力の背景は承知しているので頭ごなしに怒れないが、湧き上がる情は溜め込まず前向きに発散したい」という場面だ。自分こそ人を指摘できない話題ではあるが、高校入学すぐの頃などはやや瞬間湯沸かし器気味なところもあったので、改善のため意識的に行ってきたことでもあるのだろう。
絶対に怒らせていると予想して帰ってきたわけではない。しかし怒らせていてもおかしくないとは考えていた。なので帰宅一番からの快活な対応にひそかにほっとしていたのだが、あまりに至れり尽くせりが続くため、逆にもしやと疑念が膨らんで、もうそのまま訊いてしまえと出てきた問いだった。
いささか率直が過ぎたのか、飯田はなおも驚きの顔を数秒続け、やがてそれをふふっと笑みに崩した。
「そうか。君は俺のことなんてお見通しだな……だがもし今そう見えていたのなら申し訳なかったが、今日はちっとも怒ってなんかいないよ」
「ほんとか」
「ああ」
ひょっとして何か俺を怒らせるような隠しごとがあるのかい、と訊かれ、また首を振る。
「無ぇ。全部話した」
「そうだろ? 確かに今日は少し困ったことが起きた。だが君は隠したりしないですぐに連絡して教えてくれた。それなのに変に蒸し返して怒ったりしないさ」
きっぱりと言い、言葉で不足なら行動で、と考えたのかどうか、また背後に座して腰横から両腕を前に回し、ぎゅっと抱きしめてくる。寄りかかって座るよう自然に促され、背をもたれた広い胸から穏やかな鼓動と体温が伝わる。
あたたかい。こちらがこれほどあたたかいのなら。
「……冷たくねぇか」
「全然」
一瞬の間もなく、またきっぱりと答えが返った。こうまでされてなお疑うのは逆に相手への侮りだろうと、そうかと頷き、広い懐に身をゆだねる。
〝[
個性因子誘発物質〟と呼ばれる、個性の作用を過剰増強する非合法薬の名が何年ぶりかに界隈に流れたのは、およそ三か月前のことだった。北陸から北近畿にかけ、かつて幾度か世を騒がせた物の類似品の存在が確認され始めたという薬の流通経路を追い、大阪のファットガム事務所を中心に水面下で捜査が続けられていたという。末端のバイヤーから徐々に売買組織の中核へ迫り、逮捕に至った構成員との司法取引を経て、いくつかの確度の高い情報が得られたのが先週。国をまたぐ大がかりな取引の現場を押さえ、犯人たちを一網打尽にするべく、富山県の拠点港でヒーローチームと所轄の警察合同による大規模作戦が展開されたのが今日、まだ夜闇の落ち残る未明の時刻のことだ。
支援要請を受けた轟も前日から現場へ詰め、広域制圧要員として一斉拿捕作戦に参加した。犯人グループから買収を受けていた港湾職員の事前検挙と、逮捕者との入れ替わりによる潜入攪乱の策が功を奏したほか、ファットガム事務所の誇るサンイーター、烈怒頼雄斗の二名の傑出したサイドキック、もちろん所長のファットガム当人の活躍もあり、突入から一時間余りを要した大捕り物劇はおおよそ成功裏に終わったが、敵方の抵抗は激しく、ヒーロー側の被害も皆無ではなかった。自分がその被害者一名となってしまったことは失態ではあるが、瞬間の判断に後悔はなかった。
争乱の最終盤、個性利用による不意の散弾に見舞われた警官隊をかばって氷壁を展開したものの、咄嗟の行動であったため全域まで手が及ばず、死角から飛んだ一発を肩に受けた。刹那、左半身の熱が内から急激に膨張するのを感じ、また次の一瞬、四方を強烈な吹雪が舞って、追撃の弾の全てを宙に凍り付かせた。
結果的に防護は成り、最後に残ったその敵も前線から取って返した天喰の触腕に捕縛されて事なきを得たが、轟を始め、敵味方を問わず、現場の幾人かの個性が異常を起こしていた。当然〝トリガー〟によるものと判断され、あらかじめ招集されていた専門医の診療を受けることとなった。髪に霜を降らせ肩を震わせる轟への診断は、「プラス方向への熱暴走」だった。
『〝半燃〟の暴走ってことかい? そんなに寒そうなのに』
『左の熱を抑えるために右が無意識で過剰に働いちまってるらしい。弾のいくつかにかなり強い薬が混じってたとかで、受けたのが俺じゃなかったらどうなってたかわからねえって褒められたよ。全部防げりゃ良かった話だし、自慢なんざできねぇけどな』
『そうか……被害が最小で済んだのは幸いなことだし、君の判断は正しかった。だがあんまり震えているから驚いてしまったよ。髪を凍らせている君なんて本当に久々に見る……』
診断終了後、首尾報告のために飯田へ連絡を入れ、そんな言葉を受けて、しくじった、と思った。常の習慣でビデオ通話にしてしまったが、回線の具合など何か理由を付けて、音声通話だけにすべきだった。飯田はきっと、はや七年前になるあの神野での戦いを思い出している。
轟の寒さをともに感じているかのような様子で顔を曇らせるパートナーに、慌ててどんなに長引いても二十四時間以内には効力がなくなること、健康上はほとんど問題ないため事後処理まで参加し、帰宅は夜になることを伝えて、全く大丈夫だから心配するなと幾度かに分けて念を押してのち、通話を終えた。途中、久しく顔を合わせていなかった飯田を懐かしんだ切島が横から会話に参加し、いつものごとく快活な受け応えをしてくれたのも、大いに不安の空気を転じる助けとなった。
そうして富山から東京までのおよそ三百五十キロ、合間に状況報告を挟みつつ、自前の冷気と時節の寒波を連れて帰った轟を待ち構えていた飯田の行動が、今ここまでの一連の世話という次第である。
「……あったけぇ」
心身が感じるままぽつりとこぼすと、飯田はまた「良かった」と言って笑った。声に憂いの響きはない。憤りを転化した空元気でもないのなら、本当にこの声音通りに機嫌良しということなのだろう。それはそれで、また多少の疑問を生じる。
「なんか楽しんでないか? お前」
まさか、という否定込みの、反語に近い問いだった。しかし、返ったのはそのまさかだった。
「うん」
「うん?」
「うん。楽しいと言うか……嬉しい」
思わず漏れた意外の声を肯定してから、あ、と慌て調子に腕が振られる。
「いや、決して君の災難を」
「喜んでるわけじゃねぇのはわかってる」
そんな意地の悪い人間でないことは先刻承知だ。こちらの理解についての思い違いもさせたくはなく、すぐに言葉をかぶせる。ほっと吐息して、飯田は説明を続けた。
「もちろん一刻も早く正常な状態に戻るに越したことはないが、情報に間違いがないのなら、明け方までは効果が続くんだろ? そして後遺なく治る、と……。それなら余計な心配でおろおろとしていても無駄なだけだから、君があたたかくなることに努めようと思って」
いつも君ばかりずるいと思っていたし、と、妙なことを妙に楽しげに言う。
「なんだずるいって」
「君ばかり俺をあたためてくれてずるい」
これまた妙ちきな回答ではあったものの、思い当たるところがないではなかった。すげぇ寒波が来てるらしいぞ、と拿捕作戦決行前に出張先からメッセージを送ったのは轟だ。他愛ない世間話の中の一語ではあったが、その裏にぼんやりとにじんだ思惑を、きっと飯田も察していただろう。
「君、今夜は自分の部屋でひとりで寝てしまおうなんて考えてたろ」
図星である。思わず視線を斜めに逸らすが、相手は背後に座している上、諸手で身を抱え込まれているのだから、逃げようがない。そうは問屋が卸さないってことだ、と飯田は得意げに鼻を鳴らしてみせる。
「……俺の特権だろ」
思いのほか拗ねた音が口からこぼれて、ふふ、とやわらかな笑いを耳元に誘う。首をねじって顔を振り向かせると、揺れる赤色の瞳と目が合った。四角い炉の内であかあかと燃える熾火、ひとを冷たい風雨から守る家の象徴のようなその暖色を見て、ふと思い出す。
「忘れてた」
「ん?」
「〝ただいまのキス〟してねぇ」
ともに暮らし始めてからの日々の習い。予定外の難事とその世話に気が取られて、今の今まで押し流されてしまっていた。
ぱちぱちと炉枠が瞬いて、すぐに形を和ませる。すっと閉じ伏し待つ姿勢を見せたのは、権を取られて拗ねた恋人へのせめてもの情けか、あるいは気兼ねを見越した配慮だろうか。こうまで至ればもはや遠慮せずに、預けられた主導を取って、こちらから顔を寄せた。唇の間から漏れ出たに違いない冷気に肌をぴくりとも動かさず、飯田は当人の言葉通り、ただ嬉しげに轟の口付けを受けた。
触れ合い、一度唇を食んですぐ離れ、また目を合わせて、同時に笑う。
姿勢も声音もそのまま、会話が続いた。
「あのメッセージを見て、ああ帰ったらまた彼は俺をあたためたがるんだろうなあ、くそう、と思ってね」
「そのつもりだった。それでいちゃついてやろうと思ってた」
「だろ? 一度やり返したかったんだ」
熱の個性がなくたって君をあたためてやれるんだぞ、ってね、と冗談半分真面目半分の調子で言って、腰に回す腕の力を強めてくる。
飯田は昔から熱の変化に弱い。弱いという言葉に要らぬ語弊を生ずるなら、変化に敏感だと言い換えてもいいが、内燃機関融合型の個性柄、極端な温度変化に対策を要する体質である。オーバーヒートによるエンストは言うに及ばず、オーバークールと呼ばれる過冷却でもエンジンの正常稼働に支障が生じるらしく、温度調節装備のメンテナンスに余念がない。
個性まわりのみならず、活動中は体温自体の上下動も激しい。運動量が多くなれば当然身体は熱を発し、メットの下で顔を赤くして多量の汗をかいている。一方で、急激な高速移動を行った際には、自発の熱を根こそぎ奪う風にさらされて、走った直後だというのに肩を震わせていることもある。飯田自身の心構え的には特別に暑がり寒がりというわけでもなく、持ち前の体力と強靭な身体でそうした点をカバーしてしまうのだが、暑さ寒さに鈍感な轟から見ると、いつも大儀そうだ、援けてやりたい、と感じる姿が多々見られる。
「ほかのことではいつも世話焼かせてんだから、これぐらいやらせてくれよ。エアコンヒーローの名折れだろ」
残った拗ねが覗かれないように顔を正面に戻しつつ、今は暖房効かねェからクーラーヒーローだけど、と言うと、なんで家電にこだわるんだと身を揺らして笑われた。便利でいいだろ、そうだな、と、これは今はかつての命名の折から幾度かしてきた会話だ。
飯田はずっと面倒見が良く世話焼きで、高校時代の自分はそんな飯田に面倒を見られ世話を焼かれる人間の筆頭だった。親しさが不思議に感じられる取り合わせだ、と外野から言われることもたびたびであったし、自分も互いに異なるところばかりだと思っていた。
しかし色々の経験を経て長じてから、想い通わせ合ってからは、特に親しい仲間たちに、「実は似たところも多い」と評される理由がわかるようになってきた。もうひとかたの親友たる緑谷と飯田に相通ずるものがある、と思っていたのと同じ感覚を、自分と飯田のあいだに感じることが増えたのだ。自分と緑谷も似ていると言えば似ていたので、ひょっとすると三人そろって似た者同士であったのかもしれない。
この〝世話焼き合戦〟もそうした要素の最たるもので、当初、今までに受けた世話を多少なりと返すつもりで、轟がいくたびか面倒を代わってやったところ、飯田はやけに悔しげな顔をして、俺はもっともっとできるのだぞとばかりに、轟へ世話を焼き返してきた。それでは負債が無くならないどころかなお溜まってしまうだろう、と抗議しても聞く耳持たず、かくして妙ちきな攻防の始まりである。
もちろん、一方が一方へ寄りかかるのではなく、反対に無理して引っ張るのではなく、互いに支え合い、分かち合って生きよう、とは同棲のはるか前に誓い交わした大前提で、双方とも真底から自分だけがと願っているわけではない。すべて理解の上で、相手へ何かしてやりたい、思いきり甘やかしたい、時に出し抜いてあっと言わせつつ照れさせ笑わせてやりたい、などと考えている、まあ添い過ごすうちに生まれた仕様もない戯れのひとつだ。
攻防、とは言え、一日どころか何日の長も、加えて元の素養もある飯田にまともには敵わないのだが、この〝熱〟の問題に関しては、当然ながら轟のほうが何倍も有利である。個性濫用と叱られない範囲で、熱ければ冷やしてやるし、冷えればあたためてやる。飯田は敗北の渋面を作ってみせることもあるが、いつも邪険に撥ねつけたりはせず、最後にはありがとうとほほ笑んで、轟の腕に身をゆだねてくれる。ひそやかな至福の時間なのだ。
下剋上、と言っていいのかはわからないが、今日の飯田はそんな役割のめったにない転倒を、ここぞとばかり獲りにきたらしい。そうしてこの上機嫌というわけだ。なるほど、と納得するのはこれまでもこれからもこの世で自分ただひとりだろう。
「皆は君の力をとても強く頼もしいものだと言うが、君が個性を使って抱きしめてくれるたび、俺はなんて繊細で優しい力なんだろうと思うんだよ」
そう、語る中身よりもよほどやわくやさしい声で、飯田は言う。
「そんな優しい力の具合が少しばかり悪いからと言って、ひとりでこっそり凍えながら寝てしまおうだなんて、絶対に許さないぞ」
やわらかに、しかしわずかにも音揺らがさずに語りながら、左の顔横に頬がすり寄せられる。今は無法の薬に煽られて猛り、全開の冷気で深く鎮められている、プラスの熱持つ
紅の半身。
「今夜は、俺が君の左だ」
どくん、と胸が鳴った。そのまま身を燃え上がらせてしまいかねない熱と鼓動を治めるべく、また右の冷気が強まる。触れているお前だって冷たいだろうにと、愛慕が昂ぶり過ぎて、もはや憎らしくさえ感じてしまう。
腕をほどけ、離れろ、などとは言わない。この熱は己で制じるべきものだが、今の己は飯田のものでもある。自分も彼も、互いに差し出す手を無下に拒むことなどない。
かつて父親が自身の熱と炎をどう扱っていたのか、詳らかには知らないし、今になって知ろうと思うわけでもないが、今の自分、昔日の憎悪の檻を抜け出てからの自分は、この熱を「めぐる」ものだと捉えている。高いところから低いところへ、低いところから高いところへ、左から右、右から左と、常に循環しながら、なだめ合い、高め合い、ひとつの力を成すものだと考えている。
近ごろは、ひとも、ひとの心も、それと同じようなものではないかと思うことが増えた。叱り叱られ、気遣い気遣われ、甘やかし甘やかされて、とどまることなく湧き出る情を伝える。もとは他人のふたつの心が、くるくるとめぐって環を成し、時には交ざり重なり融け合いもしながら、想いを通わせ続けている。
「……今夜だけか?」
呟くほどの音嵩の問いに、え、と同じ声量の反問が返る。また首を後ろへねじり、額が触れ合う位置で、問うのではなく、恋い願った。
「今日だけじゃなく、ずっと俺の半分でいてくれねぇか」
めぐりめぐってひとつの熱、ひとつの環。
確かに伝い、通い、融け合っていると思える心を、もはや手離すことなどできない。
別け奪われることなど考えられない。
炉の中の炎が一瞬強く燃え、また穏やかに火先を丸めて、轟の心と体をあたためる。
「ああ、もちろん。一生」
何を今さらとばかり平然と応える半身に、礼の代わりに口付けを捧げた。幾度も幾度もただ触れ合って、愛おしく名を呼ぶ。
「飯田」
「なんだい」
異なる声音が同じ甘さで響く。もとから似ていたのか、次第に似てきたのか、あふれる幸いの中に落とせば、それもほんの些細な問いだ。
「今日はひっついて、お前のこと抱きしめて寝てぇ」
「もちろんいいぞ」
何を今さらとばかりにほほ笑む恋人の腕の中、今度は全身でぐるりと振り向き、願い通りに抱きしめて、勢いのまま後ろへ押し倒した。危なげなくこちらの身体を受け止めつつ、こら、とささやかな無体を叱る声は笑っている。
「やわけぇ……」
「そこは『あったかい』と言ってくれたまえよ」
「やわくてあったけぇ」
豊かな胸に頬を甘えさせて返せば、もう、と甘やかし以外のなにものでもない響きが、触れた場所から直接に伝わる。横へ伸ばした手で轟の腰から肩へと引き上げようとした毛布を途中で受け取り、頭の上までかぶった。これなら飯田の肩も冷えずに済む。
「髪がぐしゃぐしゃになるぞ」
「朝に直してくれ」
「もう。いいけど」
毛布とのあいだで頭を撫でる指を心地良く受けながら、また呼ぶ。
「飯田」
「なんだい」
「不安にさせて悪ぃ。心配してくれてありがとうな」
指の動きが絶え、ひゅっと息呑む音がした。胸から見上げた炉火がかすかに揺らめいて、しかし視線を逸らさずに、うん、と応える。
自身で語った機嫌の理由も決して嘘ではなかったのだろうが、轟の気取った空元気もまた、全てが見誤りというわけではなかった。憤りではなく不安をあれこれの準備の時間でごまかしながら、今や遅しと帰りを待ってくれていたのだろう。そうしていざ帰宅した恋人の様子を見て、これなら大丈夫と余計に安堵し、漏れ出た心が高揚へとさらに化けたのだろう。
「あっちにいた時よりはだいぶマシになってるし、朝までには全部抜けてると思う」
「うん」
「そしたらまたあっためさせてくれな。何日かずっと寒いんだろ」
「うん」
「今すげェ抱きてえけど、明日も仕事だし、お前のこと寒がらせたくねぇから、週末の休みにめちゃくちゃさせてくれ」
「うん……って、もう」
どさくさで何を言ってるんだい、と咎める顔は赤く、声は何も変わらず甘い。なので構わず「約束だぞ」と子どものように言い重ねれば、右左と逸らされかけた目線がいくらもなく正面へ戻って、うん、と小さく
諾った。
「あったけぇ」
「……良かった」
一度胸をにじり上がり、今日の心配の全てがこもるひと言をささやいた唇を、自分の口の中に奪う。冷えを厭わず従順に差し出された舌を絡め取り、甘やかに漏れる声を愉しみ、
清かな柑橘の香と深い慕情の熱をもらい受けて、鎮めた猛りが起き出さないうちに、大いに名残り惜しみつつ、毛布の中へとおとなしく戻った。
またさらさらと髪を梳き撫でられる。家電の温風に増してあたたかな手指。同じだけのぬくもりを、違う時間と違う場所で、自分もこの恋しい半身に与えられていればいいと思う。心配も祈りも慈しみも、すべてめぐりめぐらせて、やさしく愛し合っていければと思う。
「おやすみ、飯田」
「おやすみ、轟くん」
さらりさらりと撫でられ、抱きしめ返されて、紅白の分け目に口付けられるまでは、かろうじて意識があったようだった。それから先は、夢か、うつつか、耳で聴いた声なのか、触れ合う肌から直接流れ入る、情深い人の胸をあふれ漏れ出た心音なのか、ついぞわからないまま、眠りの中に導かれていった。
「――今日は本当に大変だったな、お疲れさま」
「個性が片方しか使えなくなった、なんて言うから、とても驚いたし、心配した」
「単刀直入なのは君のいいところだが、いつも急だから、せめて心の準備はさせてほしいよ」
「……轟くん、僕はね」
「君が別たれたものを無理やりひとつにした存在だなんて、もう一瞬だって君自身に思わせたくないんだ」
「君はもう、たとえ何かを失ってもずっと強くて優しい君であり続けるんだろうけれど、それでも」
「だから、良かった。人と自分を護るために、そうしているんだと聞いて」
「君が熱くたって、冷たくたって、どちらでもなくたって、僕は君をずっと愛してる」
「だから、右でも左でも、上でも下でもなんでも構わないから、一生ずっと、君の半分でいさせてほしい」
「……今日も無事で帰ってきてくれて、ありがとう」
夢をたゆたう穏やかな
詩。胸に沁み入るあたたかな言葉。めぐり、めぐって、彼の想いから、自分の想いへ融け変わる。
次に目を覚ました時には、今ここで捧げられた言葉もきっと全て忘れてしまっているのだろう。それでもきっと、また次の約束の時間に恋人を腕に抱きしめた自分は、いつもの十倍も恋をささやいて、いつもの二十倍も愛を注いで、いつもの百倍は照れ上がらせるのだろう。
そうして、次、また次と、妙ちきな攻防もくり返しながら、恋い恋われ、慕い慕われ、愛し愛されて、日々はめぐり、めぐっていく。
ああとても楽しみだ、と幸福を噛みしめる笑みが口に浮かんだのか、小首傾げて笑う身じろぎがあたたかな胸から伝わって、おやすみ、良い夢をと、やさしい祈りの言葉がまたひとつ、重ねた心の中へと融け入った。
Fin.