めか


 腹が減ったから飯にしよう、という言葉と変わらぬ温度で、「もうじき夏だから海に行こう」と言い出したのが上鳴であったか、切島であったか、はたまた峰田であったか、ことの始まりとそれに伴ういくつかの問答や悶着はA組チャット大河の遥か上流へ置き去られてしまったが、下流に終着する頃には、仲間たちのほとんどが乗り気になっていた。
 シーズン到来前に、と決めた日取りは海開きすぐの七月上旬、発案の日からもひと月近くの余裕を持たせていたものの、そこはヒーローという非定期労働に従事する職業柄の難しさ、当初から都合が付かなかった者が数名、前日までになんらかの理由で休みが潰れた者が数名、他用を済ませてから途中合流する者が数名、といった具合で、当日朝から集まることができたのは十人に満たなかった。予想の範疇の事態ではあったので、また次の機会に、とみな明るく済ませている。
 そうした中、轟は幸運が重なった「朝から晩まで参加組」のうちのひとりだった。雄英入学以降、A組で企画された数回のプール行事や海水浴には休まず参加しており、ヴィラン襲撃などの緊急事態を除けば悪い記憶はない。今回も進んで手を挙げ、期待とともに当日を待った。久しぶりに級友たちと集まって賑やかに過ごせる、というだけでも楽しみであったし、輪をかけて心を浮き立たせたのは、「朝一番からは難しいが、少し遅れてであれば行けそうだ」と三日前に未確定組から途中参加組に加わった親友の存在だった。
「委員長、もうすぐ着きそうだってよ。尾白たちが買い出しついでに駐車場まで迎えに行ってる」
 人が少ないうちに居場所を確保しておこう、との提案に従い、峰田を手伝ってパラソルの組み立て作業をしていると、隣でシートの波打ちと格闘していた(そして「上に荷物置きゃいいだろ」の妥協に至ったらしい)上鳴が、轟の心中を読み取ったようなタイミングで、件の仲間を話題に上げた。雄英を卒業して丸一年以上経つが、十数回に及んだ当人からの几帳面な訂正をよそに、委員長の呼称はすっかり我らが元リーダーのあだ名として定着している。
「早かったな」
「前の用事がすぐ済んだんだと。今年はどんなカッコで来るかなあいつ」
 肩揺らして笑う様子へ首傾げると、ほら、と回想を促す言葉が続いた。
「三年の夏に皆で海行ったとき、なんかオモシロ水着だったじゃん?」
「……そうだったか?」
「男の水着に脳みその記憶領域割いてらんねーや」
 我関せずの峰田を横目にごく自然な態度を装って問い返せば、あわよくばの期待を裏切らず、そうそう、と上鳴は携帯を取り上げて操作を始めた。
「確か何枚か撮ってたはず……あ、あった。ほらこれ」
 向けられた画面には青い空と海、そして波打ち際で遊ぶA組委員長・飯田天哉の姿が映し出されている。
「妙にはしゃいでたしこの水着だし、大ウケしたんだよなぁ」
 懐かしげ、かつおかしげに語られる言葉の通り、謹厳実直を地で行く委員長は、子どものような笑顔で水しぶきを浴びている。身に着けているのはワンピース型の縞模様の水着で、大ウケするかどうかは各人の感性によるだろうが、形といい模様といい色味といい、確かに多感な男子高生の選ぶ一着としてはいささか奇抜だ。なんだそれは、と仲間たちの笑いの種になっていた記憶がおぼろげによみがえってくる。
「最後の学年であいつもほっとしてたんじゃねぇか」
「あー、そうかもな。一年から色々あり過ぎたもんなぁ、俺ら」
 ごく自然な想像を述べつつ、轟は無意識のガンギマリ顔で画面を注視していたが、無事ここまで来れたかってタガが外れた感じだったんかな、と素直に納得した上鳴はさっさと携帯を手元に戻してしまった。ガンギマリが一転、捨てられた猫のごとき様相になるエアコンヒーローに、浜辺の女性たちへ目を向け始めた二名は気付いていない。
 俺も撮っておけばよかった、と今さらに不明を悔いられる当時の轟少年は、情緒や感性の歩みが人より何倍も遅れていたために、親友である委員長の〝オモシロ水着〟を見ても笑わなかったが、当時から胸をちりりとあぶっていたに違いない、夏の日差しにも負けぬ熱の正体にも気付かなかった。大戦を経てますます親しみの深まった、真面目で口うるさく人想いな友の隣で過ごすたびに胸を揺らしたさざ波こそ、音に聞く「恋」という名の情であったことに、卒業の日までついぞ気付かなかった。
 身を寄せ合って暮らした巣を発ち、それぞれの道へと笑って別れ、あれは確かに恋だった、そんな青春もあったのだと、穏やかに懐古しつつ、抱いた情も遠い波間へ静かに消えていくお定まりの展開――とは相成らず、みな無事にヒーローの夢を叶えたがため、活動の場所を同じくすることもたびたびであり、月に幾度も小規模の同窓会を開いているような生活が始まった。拠点の離れた飯田とも、ふた月み月に一度は顔を合わせる機会があった。仕事終わりに飯でもどうだと声をかければ、いつも喜んで頷いてくれた。
 同窓会でかつての仲間と再会し、当時の心境を思い出してなんとやら、というお定まりの展開に今度は見事にはまり込み、大海の泡と消えるどころかますます膨らんだ恋は、今や完全に胸に根を張り、轟の一部となってしまった。近頃では会うたび心が浮き上がって、俺は恋だぞどうにかしろ、と己の名と望みを高らかに主張してやまない。
 恋する相手の水着姿なら、たとえ横縞だろうが縦縞だろうがチェック柄だろうがヒョウ柄だろうが、漏れなく全て魅惑のマーメイドである。どんな珍妙な格好で来ようが、今日は忘れず写真を撮り残さねばならない。あわよくばツーショットも確保したい。
 と、二年前の今時分にはなんの自覚もなく王子の貴公子のと褒めそやされていた、雄英きっての色男ことかつての轟少年、現・轟青年が真人間(上鳴・峰田基準)の煩悩を沸き立たせているとも知らず、作業を終えた二名は本格的に目の保養と称するビーチ観察に興じている。
「今年こそビキニが流行ると踏んでたのによぉ……」
「布面積どんどん増えてるよなぁ。やっぱ日焼けとか気にすんのかね」
「美白清楚女子はイイ! しかし小麦色ギャルもいてこそのみんな違ってみんなイイだとオイラは主張する!」
「確かに、可愛くても全員同じってのは味気ないよな」
「ちくしょうあっちもこっちも隠してやがる……開放の夏じゃねェか……開放されろよ……着ろよ……ビキニを……マイクロを……トップレスを……」
「飯田ビキニってことあるか?」
「あー、無くねーかも」
「オイラの脳内幻想ファンタジーパラダイスにいきなり異物ぶっ込んでくるのはやめろよ轟ィ!」
 峰田の慟哭を右耳から左耳へ抜けさせ、恋知らずの未熟者が我が携帯に残してくれなかった記憶を辿る。雄英構内や近場のプール施設で泳いだ時には、確か飯田は学校指定の紺の水着や、それに近しいごく普通のハーフパンツ型の水着を着用していたはずだ。クラスで揃いのアロハシャツの下に丈長のパンツを履いていたこともある。しかし三年次の「オモシロ水着」の話を鑑みると、無難の線にこだわり続けているわけではないようなので、何を着て現れてもおかしくない。
「ブーメランとか普通に履きそうだもんな。水の抵抗がどうこうとか言って」
 ガタイがいいやつはそういうのも着負けしなくていいよなぁ、と羨ましげに上鳴が語る通り、誉れの個性宿る脚はもちろんのこと、上半身まで見事に鍛えた飯田の身体は競泳選手のそれにも近く、一般人が着こなせない(と、言うより迂闊に着ると貧弱な部位を際立たせてしまいかねない)水着もきっと良く似合うだろう。
 かつて数度、どころか二年半にわたって寮の風呂で目撃し続けた、布面積ゼロの姿の記憶をそれはそれと棚に上げ、古代の戦士の彫像がごとき裸身を惜しげもなくさらすヒーローの様を想像する。怒り以外の感情で体温が上がることもあるのだと、右の個性を惜しみなく活かしながら、齢十九にして轟青年は学んだ。
「お、噂をすればじゃねーか?」
 横手へ目をやった上鳴が呟き、大きく腕を振る。どくりと跳ねた心臓をなだめつつ、努めてゆっくりと身を向けた。まず視界に入ったのは大きな尻尾の目立つ(水着も特注になるそうで、いつも手間だと苦笑していた)尾白、次いで腕を振り返して応える瀬呂。待ちかねていた相手に焦点が合うのが遅れたのは、肌身の眩しさに目を灼かれたからではなく、むしろその真逆とも言える理由だった。
「おっつー。ナワバリ確保しといたぜ。障子と切島は?」
「浮き輪だのボードだのレンタルに行ってる。ってシートぼこぼこか。先に砂を均しなさいよこういうのは」
「委員長がでっかいクーラーボックス持ってきてくれたから、そこに置いちゃえば?」
「うむ。是非使ってくれ! 中にうちの事務所からの差し入れも入っているぞ。オレンジジュース以外もある」
「さっすがー」
 和気あいあいと話し交わす仲間たちをよそに、女子の水着を追い続ける峰田と対のごとく「それ」を凝視していると、当の相手より先に上鳴が視線に気付いたらしく、笑って言った。
「飯田ビキニは外れたな、轟」
「む?」
 小首傾げた飯田へ、
「いいんちょー今日かっけぇじゃん。ボード乗んの?」
 けろりと賛ずる。特にそのつもりはなかったが、と素直に答えた飯田の水着は、フロントジップの半袖トップスに、レギンスとサーフパンツを組み合わせた、いわゆる(というのはあとで調べて知ったが)ラッシュガードのセットだった。顔と上腕と足先しか肌の露出がないため、直前まで脳裏に描いていた姿との落差で気付くのが遅れたのだ。
「飯田も紫外線とか気にするクチ?」
「いや、事務所で契約しているスポーツブランドがあるから、念のため確認したらこれを勧められて」
「最近流行ってるよな。俺も迷ったんだけど、やっぱもうちょっと筋肉ないとしょぼく見えるかと思ってさぁ。着ると逆に目立つっつーか」
「そうなのか。形や種類は特に気にしていなかったんだが、広報スタッフの方が今はあまり肌を出さないようにと……」
「前から思ってたけど、委員長の事務所そのへんちょい過保護じゃね?」
「ぐ……それに関しては反論の余地がない……」
「イメージとかあるんだろうな。もう看板だし」
 だからこそ子ども扱いは早めに脱却したいところだ、と落とした肩とそこから続く鎖骨の線が、化繊の地にはっきりと浮き出る。先んじて熱を下げにかかった冷気が届いてしまったか、飯田がふと気付いたようにこちらへ顔を向けた。
「轟くん? どうかしたかい」
「え、いや」
「……似合わないだろうか。俺はあまり流行という柄では……」
 少し気勢を落として言うのに、
「似合う。いいと思う」
 先の上鳴に負けない断言で応えた。そうか、と安堵の微笑を浮かべる様は、首から下の雄々しさとのギャップで余計に眩しく見える。今日は髪を固めてきていないのでなおさらだ。
 似合っているのは間違いない。黒にほど近い濃紺が隙なく身を覆っている姿は、雄英時代に良く目にしたアンダースーツの装いを思い起こさせる。一方で生地は防護服のそれよりもずっと薄く、ぴたりと吸い付くように身を締めてたくましい筋肉の隆起を主張し、健康美と機能美を同時に語っている。着ると目立つ。まさしくその通りで、ボードの一枚も小脇に抱えて写真を撮れば、それだけで夏のスポーツ誌の表紙を飾るにふさわしい一枚となりそうだ。形だけを見れば例のオモシロ水着と大きくは変わらないのだが、さすが大手事務所の広報スタッフ(兼二代目インゲニウムの過保護者プロデューサ―)の判断は確かである。
 健全で堅実でスポーティ。まさに飯田のひととなりを表すような言葉が浮かぶ姿、ではあるのだが。
「くそ……露出がねェのもそれはそれでエロいと思い始めてきた……」
「お前はさっきから何してんだよ。そろそろ影入らねーとゆだるぞ。つーかオペラグラスはさすがに通報されるぞ」
 右耳から入った言葉が左耳へ抜ける寸前、「わかる」とだけ心中で同意を送った。浮き上がった輪郭自体が魅力的なのはもちろんのこと、隠されているからこそ想像が搔き立てられ、暴く余地を残した身体にいっそう目が惹き付けられる。健全健康の美に収まらない艶めかしさが、確かにまといついている。
 やはり自称エロの伝道師の言うことは違う、と人知れず斜め方向へ知識を育てつつ、目覚めたばかりの慾の躊躇のなさに従って首から下をガン見していたため数秒気付かなかったが、ふと視線を上げると、相手も轟の首から下をまじまじと見ていた。
「飯田?」
「……はっ! す、すまない! ついじろじろと……」
 弾かれたように起きた顔が赤く染まる。別にいいぞ、どうかしたか、と同じことをしていた自分を棚に上げてしらり訊ねれば、ぽそぽそと答えが返った。
「いや、会うたびに大きくなるなと思って……。あっ、おかしな意味ではないぞ! 肩や胸が厚くなっているのが水着だと良くわかるから」
「ああ」
 そうかと頷く。高校在学中の伸びが周りより控えめであったため、もうこれ以上は無理か、と少々落胆していたのだが、卒業後、成長期の二段階目のようなものが遅まきに訪れて、この一年で急に手脚の長さと太さが増し、胴の筋肉も育つようになった。お陰で入らなくなった服も多く、今日も直前に慌てて新調した装いだ。膝丈のハーフパンツ型の水着に薄手のパーカーというごくありふれた格好だが、やや小さなサイズを選んでしまったうえ、前を開けていたので飯田も変化が目に付いたのだろう。
「変に見えるか? なんかたまに残念みてぇなこと言われんだ」
「まったくもって変ではないとも! 君の研鑽の様が目に浮かぶようで素晴らしいと思う!」
 手刀を振って即座に答えつつ、細身の体型を好む人も世にはいるだろうが、とフォローの言葉を付け加えるのが飯田らしい。並び立っても見劣りしない姿になってきたのでは、と自分では望ましい成長に思っていたため、肯定を受けて素直に気持ちが浮いた。
「なら良かった」
「うん……あとその、髪もまた短くしたのだな」
「このあいだうっかり焦がしちまったから、ついでに」
「あ、そうなのか……。しかし良く似合っているぞ。夏らしく涼しげだし、君のかっこ……、んん、顔が良く見えて、素敵だ」
 そうか、と語彙不足のためどうしても返事は簡素になってしまうが、好きなひとにまっすぐ褒められて、恋する轟青年は大いに舞い上がった。自分ももっと相手をよく見てもっと褒めよう、と好意と善意と下心を折り重ねてそのままにした視線を前へ向ける。
「髪上げてねぇの久しぶりに見るな」
「どうせ濡れるからと思って。最近はこのまま外に出ると子どもっぽく見えるのではないかと不安もあるんだが……」
「雄英のころ思い出して、俺はどっちも好きだぞ」
「そっ、そうか。ありがとう」
「その水着も昔の……、……穴空いてんだな、マフラーんとこ」
「ん? ああ、内側は保護しているが、完全に覆ってしまうのもいざという時に良くないからな。アンダースーツと同じように特別に用意していただいたんだ」
「エロいな……」
「えっ?」
「あ、うっかり出ちまった」
「えっ」
 つい正直な感想をこぼしてのち、なんでもねぇ忘れてくれ、と頼むと、ああうん、ときょとんとした顔で頷きが返った。真面目な委員長の猜疑心の弱さに感謝しつつ、別の褒め言葉を探す。何しろ縦縞や横縞やチェック柄やヒョウ柄、はたまたゼブラ柄でもない、当人の魅力を何倍にも引き立たせる水着姿なので、良いところなどいくらでも浮かぶ。しかしそれが特注のものであるからなのか、自分が恋する男であるからなのか、実のところはもうわからなかった。
 爽やかな初夏の空には小さな暗雲ひとつ湧く気配なく、陽があまねく恩寵を注いでいるが、きらめく水面も、輝く白砂も、もはや目には入らない。
「緑谷いつ来るんだっけ」
「昼過ぎじゃねえ?」
「じゃあ瀬呂……」
「いや俺ガンギマリろきくん担当じゃねーから」
「変な空気出して女子の視線吸うなよテメェら!」
「障子が戻ったらいったん海に漬け込んでもらうか……」
 まとめて沖に流しておくのもありだな、と流刑を画策する仲間たちの声も届かず、互いの夏姿に心奪われた恋男たちは、いつツーショットを頼もうかと片手に携帯をいじり回しつつ、的を半分外した賛辞の打ち合いをのぼせた頭で続けるのだった。


おしまい。

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