Melty Lovers


 飯田天哉は悩んでいた。
 雄英高校を卒業し、プロデビューを果たしてじき二年。家族、事務所の仲間、そして固く絆結んだ友人たちに支えられて日々の活動をこなし、幸いにおおよそ大過なきと言えるだろう歩みをここまで進めてきた。世は変革の渦中とされて久しく、先へ続く道は常に平らかではない。途上に待ついかなる障害にも立ち向かっていけるよう覚悟し、研鑽に励みつつも、ただ正面を見据えて駆けるのみならず、一度足を止めて周りを見渡す余裕も生まれてきた、そんな充実の暮らしを送っている。
「むう……なんとしたものか……」
 そうして今日も無事に任務を終えた二代目インゲニウムは、自宅の机に広げた手帳の前で足を止めていた。正確には、姿勢よく椅子に腰かけ、腕を組み、既に小一時間ほどひとり頭を悩ませていた。
 ここ一年で三指、とは行かないまでも、十指には入るやもしれない悩みの種は、ほかでもない、来週に迫った年中行事のことだ。
 バレンタインデーと名付けられた、由来諸説あるその日は、欧米から輸入されて以降、国内独自の発展を遂げ、くだらない祭りだ、商業主義の悪弊だ、性差別とハラスメントの温床だ、云々とたびたび批判の槍玉に挙げられながらもしぶとく存続し、昨今では〝様々な形の愛情を祝う日にとりどりのチョコ菓子が付いてくる〟とでもまとめられるような、実に日本的鷹揚さに満ちた前向きな祭日となっている。
 飯田も主に家族や事務所の知人たちが催すイベントの相伴にあずかる形で、幼い頃からその賑わいを享受していたが、雄英入学以降の記憶となると、ことさらに色鮮やかだ。
 A組ではその日、甘味ヒーローこと砂藤の指導のもと、手作り菓子のパーティを開くのが毎年恒例となっていた。またその傍らで、個人間でのやり取りもあった。一年目、飯田は全く予期せぬ状態で親友から〝友チョコ〟を貰い、喜び勇んで同じ品をお返しとした。二年目はかねて準備のものを三人で渡し合い、結んだ親交の思い出と未来を語った。
 そして卒業を間近に控えた三年目。もはや誰より特別と知りながら、胸底に秘めた心を友愛の言葉に封じ、小さなカードに綴って、菓子をおまけに彼へ贈った。これが終いとも考えたその翌月、門出と別れの日の終わりに、彼から真摯に想いを告げられ、自分も落涙とともに包み隠さず応えて、かくて級友にして親友の轟焦凍は、飯田のただひとりの恋人となった。
 あれから二年。轟との関係はごく順調に続いている。
 多忙の極みであったデビュー初年をどうにか乗り越え、昨年からは仕事の慣れに伴い双方多少のゆとりも生まれ、月に一、二度は顔を合わせることができるようになった。現在にも未来にも憂いひとつない、とまで言い切ることはさすがに難しいが、こまごま生じる問題を協調協力で乗り越えつつ、無理も憂慮も可能な限り小さくとどめ、今日までやってこられたのではないかと思っている。
 交際一年も経つと相手の粗が見えてきて、などと世間では言い囃されることもあるようだが、正直なところ、おおよその粗は雄英での共同生活中に互いに見聞きし、ひと通り呆れ、咎め、対話を経ての理解に至り、呑み込み済みだ。もちろん関係の変化から新しく生じるものごとも少なくないが、ふたり歩調を合わせて手探りで前へ進む日々は、煩わしさより未知の喜びと幸いが勝る。
 彼との仲を知る旧友たちからたびたび羨まれ冷やかされているような、順風の中と言える生活。
「……あと十日か……」
 そうした折であるからして、年で十指に入る悩みといえども、実際にはさほど込み入った話ではない。しかし他人に相談するような話でもないため、一度も口に出すことなく、ただ自分の頭の中でくり返し考えている。
 ――来たる恋人たちの日バレンタインデーに、自分は恋人かれと何をすべきだろうか?
 そんな問いへの回答が、目下の飯田の一番の課題だ。平和で何より、と茶々を入れる人間もいるかもしれない。

 昨年二月、ようやく初年度を走り切ろうかという新人ヒーローとして日々に追われていた飯田と轟は、短い月の半ばに控えたその祭りのことを、ふたり揃って当日まですっかり忘れていた。事務所に積まれた内外からの贈り物を見て気付き、休み時間に慌てて連絡を取ったという次第であったから、日頃から交わしているメッセージに少し毛の生えた、といった程度のやり取りしかできなかった。とは言え心底残念に思ったわけでもなく、お互い気付いて一番に相手を想い浮かべたというだけで、充分に心満たされていた。学生時代の思い出を少し話し、次に会う日を楽しみにしていると伝え合って、あたたかな気持ちで通話を終えた。
 その反省を活かした、というわけではないが、今年は一月に轟と会って「次」を検討する際、二月十四日付近でお互い調整が付きそうだとわかったため、ではその日にしよう、と自然の流れで相成った。格別の企図のないなりゆきではあったものの、いざ決まると意識しないわけもなかった。恋人たちの日。なんとも幸福なことに、自分と轟は間違いなくそのうちのひと組であるのだから。
 雑誌やらネットやら人への聞き込みやらで下調べしたところによると、本邦におけるバレンタインデーは、片想い相手への告白の弾みとするイベントであることはもちろん、既存のカップルたちがさらに仲を深める、あるいはマンネリを打破するのに有効、という評価がもっぱらの祭りであるらしい。世の全てのカップルの記念日として機能しているというわけだ。平和で大変よろしい。
 打破すべきマンネリを感じたことなどはないが、そろそろ慣れが生じてきた部分があるとは思っている。今日までの順調な歩みの証と考えれば忌むべき事象とは言えないが、これが行き過ぎてしまうと飽きにも倦みにも化けるのだろう。もちろんそうした難を呼ぶのは避けたいし、新たな挑戦には前向きに臨んでいきたい。端的に言えば、特別とされる日に特別なひとと特別なことをしてみたい。隠さず言えば、少々浮かれている。
「ただチョコを渡すだけではインパクトに欠けるし、やはり何か別の贈り物を添えようか……しかし多少続き過ぎているような気も……」
 眉間に皺寄せて、腕組みしたまま右へ左へ大きく首をひねりながら考える。数日前から思索を重ね、延々十時間以上悩んでいるが、億劫だとも大儀だとも感じなかった。轟の喜ぶ顔が見たい、轟が喜ぶことをしてやりたい。そう思うと、積年の心がけを破って徹夜で悩むことさえできそうだった。
 ううむ、と幾度目かの唸り声を落とすのと同時に、机の隅に置いていた携帯がころんと通知音を鳴らした。小さな窓の中に、今まさに顔を思い浮かべていた恋人の名が現れる。
『昼に返せなくて悪ぃ、今帰った。もう寝ちまったかな。寝てていいぞ』
『面倒な書類片付いたから来週予定通りに休めそうだ。楽しみだな。おやすみ』
 簡潔なメッセージから伝わる思いやりと少しの浮き立ちの様子に、自然と笑みがこぼれる。おやすみと返事を送ろうかとも思ったが、表示された時刻はいつの間にか深夜に差しかかっていた。轟も飯田の眠りを気遣ってくれているし、今から会話が始まってしまっては良くないだろうと、明日の朝を待つことに決めてそのまま画面を落とし、就寝準備のために立ち上がる。
 悩みも今夜は解消せぬままとなってしまったが、きっと訪れてくれるだろう良い夢の中にヒントが見つかるかもしれない、などと自分でも少し笑ってしまうほど楽天的に、幸せな心地で手帳を鞄にしまい入れた。


       *


「お邪魔します」
「ようこそ、轟くん!」
 丁寧な挨拶につられて大きく腕を広げる。轟は白い息を散らして微笑し、ブーツを少し雑に脱ぎ捨てて、廊下へ一歩踏み上がった。と思った次の間には、開いた懐の内にその身があり、背をぎゅっと抱きしめられて、耳元に穏やかな声が落ちた。
「一か月ぶりだな。すげぇ会いたかった」
「……うん」
 驚いて跳ね上がりかけた腕を止めて抱き返し、俺も、と応える。熱の個性も使って寒風の中を早足に歩いてきたのだろうか、厚いダウンジャケット越しでも伝わる体温が心地良い。
 腕いっぱいの幸福、というのも今や比喩ではなく、この二年でだいぶん抱擁の腕の輪が広くなっている。高校在学中は背丈に反した丸肩と童顔の印象が強く、まさに〝美少年〟の趣であった轟だが、思春期を抜け、遅まきに父方の遺伝が表へ顕れてきたのか、卒業後ほどなくしてぐんと身幅と手脚の径が育ち、顔の線の丸みが取れるとともに雄々しさが増して、〝美丈夫〟の言葉そのものの容姿に成長しつつあった。飯田も変わらず鍛えているのでさすがに体格の逆転までには至らないだろうと思っているが、会うたび広く厚くなる肩や胸を間近に目にし、縮んだ差を実感しつつ触れ合い、あまつさえこうして力強く抱き込まれなどすると、無性にどぎまぎしてしまうことがある。
 交際開始と同時にいわゆる遠距離恋愛の間柄となってしまったため、世間一般の恋人たちと比較してだいぶ遅い歩みではあったのだろうが、それでも一歩一歩着実に、轟との関係は進展していった。肩を寄せ、人目をしのんで手を握り、抱きしめ合い、口付けを交わした。逢瀬をくり返すうちに性的な触れ合いにも踏み込んで、轟の求めに応じ、自らも望んで、初めて身体を重ねたのは、交際を始めて半年余りが過ぎた中秋の頃。東京で独り暮らしを始めた、まさにこの家でのことだった。
「飯田」
 名を呼ぶだけで人の心を震えさせるのだから、より低く深みを増した声まで大層ずるい。流されかかる自分を下腹に力入れて𠮟咤し、続きを求める甘えに気付かぬ振りで、さあ、と身を離した。
「外は寒かったろう。休まず移動して疲れているだろうし、部屋に上がってゆっくりしてくれ」
 飯田とてひと月ぶりの交誼を深めたいのはやまやまだが、真冬の廊下で風邪を引くまで抱き合っているわけにもいかない。轟もそれは承知のことと見え、まず先に手洗いうがいを、の注意にも不平を捏ねることなく頷き、水借りる、と言って洗面所へ向かった。この家に彼を迎えるようになって一年半、「勝手知ったる」の幸福も順調に満ちつつあるのは喜ばしいことだ。
 実家を出るにあたってはそれなりの悶着があり、デビュー一年目ではさすがにまだ早かろう、二、三年ほどして落ち着いてから考えてはどうか、というのが家族一致の意見であったが、在学中から考えていたことなのでと譲らなかった。障害を負った兄が家へ戻って部屋が手狭になったことをまるで理由にしていなかったわけではなかったため、自分に遠慮しているならその必要はない、と言われた際にはわずかに後ろめたさを感じたものの、身内の事務所に入り、さらになお生活でも庇護下にあり続けるのは自分のためにも良くないと感じている、と押し切った。雄英での暮らしが自分を成長させてくれたから、と話すと母は寂しげに顔を曇らせ、しまったと浅慮を謝罪する間もなく父に少し叱られて、それでも最後には、お前のやりたいように挑戦してみなさいと認めてくれた。
 一度決まってしまえば切り替えは早く、わざわざ春の繁忙期を待つ必要もないだろうと、それぞれの伝手を総動員して協力してくれた。さすがは暦年の事務所代表者たちと言うべきか、結果として瞬く間に物件が決まり、各種の書類手続きが片付き、方々への挨拶も一挙に済ませ、秋口には転居が完了していた。あまりのスピード感に、切れ間なく報告を受けた轟が目を丸くして、「おまえんちそんなとこまで速ぇんだな」と真剣に感想を述べたほどであった。
 そんな轟は今もまだ静岡の生家で暮らしている。近く家を手放す予定があり、それまでは、と語っていた。多くは訊かずにそうかと頷くと、一年二年そこらでとは行かないと思うが、あれこれが落ち着き納得ができた時に独立し、家も移して、お前のそばで生きていきたいと打ち明けてくれた。穏やかながらも凛と意志宿る声と、まっすぐに飯田を見つめた目の揺るぎなさに、彼の覚悟と想いの強さを改めて感じ、告白の時と同じほど涙してしまったのもまだ記憶に新しい。

「――そういえば予定より一時間も早かったが、夕飯は食べれたのかい。まだなら何か用意するが」
 身じまいを済ませた轟をリビングのソファへ促しながら問うと、移動中に食った、と短く答えが返り、お前も座れと手を引かれた。
「そうすれば二本ぐれぇ早く乗れそうだったから」
 少しでも早く着きたかったのだと、理由の続きは語られずとも明らかで、そうか、とやはり短く相槌しながら、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。可能であるなら食事はゆっくり落ち着いて取るべきだ、などと狭小なことを言うつもりはない。望まれるまま隣に腰下ろし、この場にふさわしい言葉を探す。
「ええと……ハッピーバレンタイン、でいいのかな」
 すぐさま睦言を口にするのは少し気恥ずかしく思えて、ひとまずのていでイベントの決まり文句を述べた。ん、と轟が頷く。
「ちゃんと休み取れて会えたからハッピーでいいと思う」
 行事のことはいまだにあんま詳しくねぇけど、と正直に言ってしまうのが彼らしく、俺もそれでいいと思うよ、と笑って返した。現代にせわしく生きる一般人類にとって、年中行事のほとんどはかこつけの種のようなものだ。由来は知らないが恋人たちの日と呼ばれる行事。だから好きな人と会ってハッピーになる。それで充分だ。
「けどチョコは買った」
「俺もだ。今渡してもいいかい」
「おう。俺も」
 ともに紙袋をソファまで持ってきていたので、互いに準備があることはとうに承知だ。それも袋の大きさからして、菓子以外の「おまけ」があることまでおおよそわかっている。我々は意外に発想が似通っているようだ、と感じたのは今日に始まったことではない。
 チョコはふたりで食べるから無駄に勿体ぶることもなかろうと、同時にローテーブルに取り出した。飯田が買ったのは宇治抹茶のガトーショコラ。轟が買ったのは日本酒を使ったトリュフのアソート。地方の老舗が季節限定で売り出す和拵え、というところまで被ったが、物は重ならずに済んだようだ。
「俺のほうは切らないといけないから、あとでお茶を淹れて一緒に食べようか。日本茶も合いそうだ」
「おう。こっち酒入りにしちまったけど大丈夫かな」
「酔うほどアルコール分は高くないと思うが」
 轟は先月二十歳の誕生日を迎え、飯田に遅れること数か月の酒精解禁となった。アルコール入りの菓子はもともと未成年も喫食可とされているが、せっかくだからと選んだのだろうと思うとどこかほほ笑ましい。
 またすぐに出すかもしれないが念のため、とふたつの箱を冷蔵庫へしまい、隣へ戻りながら、自分側の袋に残った包みを取り上げる。
「あと、これはおまけなんだが」
 先を越された、と言いたげにするのを少し笑ってしまいつつ、その顔の前に差し出したのは、シンプルな型の、黒の化繊の手袋だ。
「最近ようやく長く走る時間が取れるようになったと言っていたろう? 君はあまり気にしないが、やはり手はしっかり防護したほうが良いと思うから、勝手に俺のお勧めを選ばせてもらった」
 氷炎を自在に操る個性柄、轟はヒーロー活動中もずっと素手で働いているし、気温の変化に鈍感で、今時分のような厳冬期でさえ、防寒をおろそかにしていることが多い。在学中は気付いた時にすぐ注意していたが、今はそれも容易ならず、さぞ痛んでいるだろうと思わせる手指を画面の向こうに見るたび、胸をやきもきとさせられていた。
「元はアウトドア用で、保温性はもちろん通気性も透湿性も良いものだから、長く使えると思う。……邪魔にならないようであれば、受け取ってもらえるだろうか?」
 とは言え使う使わないを決めるのは当人、と思って訊ねると、双つ色の瞳がぱちぱちと瞬き、すぐにやわらかく和みの弧を描く。ひょいと手袋を自分の手に取り上げていきながら、もらうに決まってるだろ、と轟はおかしげに笑った。
「買ってやったから忘れず着けろ、ぐらい言ってきていいぞ。……いつも気ぃ回してくれてありがとな。先月ももらっちまってるし、悪ぃな」
「いや、それは日程的に致し方ないことだし、本当におまけのようなものだから気にすることないぞ! 先月一緒に渡してしまっても良かったなと思っていたんだ」
 前回ふたりで逢って過ごしたのが一月の十日から十二日、轟の誕生日を挟んだ三日間。悩んで用意したそれなりの品を贈らせてもらっていたので、今日もまた、となった時の反応は予想していた。スポーツブランドの商品であればさほど値も張らず、あくまで添え物として渡すのにちょうど、と思って決めたのが裏の事情である。
「今年の八月な」
「ん?」
 不意に話の季節が飛んで、首を傾げる。手袋を見ていたやわらかなまなざしを飯田の顔へ向けて、轟は静かに告げた。
「二十二日、休み押さえた。まあ最終的に何日かずれちまっても仕方ねぇけど、うちにも来てほしい」
「あ……」
「俺もこないだすぐ言っちまえば良かったなと思ってた」
 端々の語の欠けた言葉ではあったが、理解及ばぬはずもない。少なくとも自分にだけは確実に伝わる、その望み。

 先月十一日、彼の誕生日の当日に、飯田は轟を交際中の恋人として実家へ招き、家族へ紹介した。
 彼へのお祝いとしようとしたわけではなく、許可を取りにいったわけでもなく、その日まで後ろめたさを抱えていたわけでもない。ただただ、教えたかった。報せたかった。轟焦凍という人がこの世に生まれて、自分と出会って、手を取ってくれた幸せを噛みしめるほど、それを大切な家族に隠していることがおかしく感じられた。もともと親しい友人としては惜しまず名を語っていたのに、恋人になった途端に伏せるのは妙な話だという考えが日に日に強まり、轟にも正直に打ち明けてじっくり語り交わした結果、では会おう、ということになった。
 兄には在学中から対面で紹介済みで、交際開始前後には幾度か相談にも乗ってもらっていたので、関係はほぼ知られていた。母にも独居を機にそれとなく伝えており、おおよそのところを察されていたようだった。問題は何も知らない父で、どうしたものかと母に事前に訊ねると、腹を据えてぶっつけ本番で臨め、と助言とも言えない助言をもらった。
 そうして当日、家へ訪れた〝息子の交際相手〟の顔を見た父は、まさに青天の霹靂に打たれたかのごとく、顎外さんばかりに大きく口を開けたまま、五秒ほど完全に行動停止に陥った。轟からの第一印象が「親子そっくりだな」になった瞬間であったという。
 父の反応と母からの助言には、飯田も承知済みの理由があった。例の大戦中に世に明かされた轟家の事情を知った父は、轟の父親であるエンデヴァーに対し、かなりの悪感情を示していたのだ。当時のメディアからの取材にはっきりと答えたこともあったので、嫌悪を表明していた、と言ってもいい。息子同士が友人関係にあることは承知していたが、それはそれと、態度をゆるめもしなかった。
 戦後も時おり変わらぬ感慨を口にすることがあったため、帰省の際に婉曲からフォローを入れようとして、逆にこっぴどく怒られてしまったこともある。久方ぶりに受ける説教と苦言の中に、ヒーローという立場で子を持ち育ててきた親としての矜持が強く見え隠れしていた。
 事の詳細を知る由のない、決め込みを含む外野のまなざしには違いない。父自身もそうしたところを理解していたはずだ。それでもなお、自身が掲げ貫いてきた志と全く反する行いゆえに、譲れず許せずの感が消えないのだろうと想像すると、その確かな愛情をいっぱいに受けて育った当人としては、轟に申し訳ないとは思いつつ、嬉しく有難く感ずる心もあった。
 先に名を教えてしまうと家へ招くまでに時間がかかりそうだから、と前もってそうした事情を伝えておいた轟は、そうかわかったと頷き、当日、動きを再開するなり「彼と二人で話がしたい」などと言い出した父にもまるで臆さず、飯田の口出しを制してはいと応えた。
 轟はとびきりに良い人間で、万人に誇るべき友であり恋人だ。しかし、あまり自分が言えたことでもないが、玉に瑕の事実として、初対面時の印象が今ひとつよろしくないところがある。複雑な生い立ちのみならず、ひと目で人の心を奪うほどの美貌や、感動の現れにくい表情や、やや不躾で淡々とした物言いなど、純真で純朴な心根を覆い隠してしまうものを持ちすぎているのだ。
 不安が勝り、せめて隅に同席だけでも、と追いすがるのを母と兄になだめられて退室した際の自分は、後日の父いわく、「人を取って喰う化け物を見る顔をしていた」らしい。末息子に初めてそんな目を向けられてなかなかショックであった、ともぼやかれて、慌てて頭を下げたものである。ちなみに別室待機中の姿は「歯医者の外で幼い息子を待つ母親のようだった」とは兄の談だ。
 半日にも一日にも感じられた二十分足らずの時間にどんな話がなされたのか、いまだ詳細は聞いていない。静かに始まり静かに終わった対話ののちの空気は穏やかで、両者とも言葉少なながら、納得の面持ちを見せていた。ほっと安堵の息をつき、母と兄も加わった席で改めて挨拶と紹介と今後の話を少しして、あとの二時間ばかりは茶菓子に雄英の思い出語りを添え、和やかに過ごした。
 夜も食べていってはどうかとの勧めは、彼は明日早く発つので前夜から泊めている自分の家近くの店にもう予約が、と正直に言って辞した。じゃあまたの機会にと母が笑う一方、息子たちのそれなりに進んだ関係を改めて察したのか、うっかり砂利を噛んだような顔で頷いた父であったが、出発ぎわに飯田ひとりをそばへ呼び、身支度をする轟の背を見つめながら、彼はこの先もいくつかの難事に向き合うことになるのだろう、とひそやかに語った。
『助け合っていきなさい』
 その日、父からもらった唯一の訓告だった。はたと姿勢を正し、そのつもりでいますと早口に応えると、またひとつゆるやかな頷きが返り、それで会話は終わった。
 その後の様子を聞く限り、轟は予想以上に気に入られたらしい。天哉と父さんは好みも似てるから、俺は全然心配してなかった、と後日愉快げに話した兄が、雑誌のショート特集を熱心に読んでいたという父の姿を笑って告げ口してくれた。
「俺も、お前のこと教えたい」
 今度は逆の立場で、との恋人の申し出に、もちろんと膝乗り出して応える。
「喜んでうかがうよ。お父上かどなたかが二人でと仰ったら、君を見習ってしっかり話をさせてもらうし」
「それはさせねぇ」
 ここできっぱり首を振るのが自分と彼との違いだ。悪いこととは思わない。そうか違うのだな、と頷くのみだ。軽く頭を掻き、轟は思わしげに言葉を続けた。
「させねぇっつーか、まあ誰もんなこと言い出さねぇと思う。お母さんと姉さんには大切なやつができたってもう話してるし、喜んでた。夏兄は家には来ねぇだろうから、あとで別で教えるかな。驚くだろうし喜ぶかはわからねぇけど、良かったとは言うかもしれねぇ。親父も、今さら反対とかはしねぇと思う」
「そうか」
 ただ頷く。轟は家からの脱却を在学中から宣言し、両親も承服していたという。飯田とは違う。飯田の家族とも違う。その違いを、違いのかたちを、まるでつらく寂しく感じないと言えば嘘になってしまう。しかし、己が知り得てきた尺度のみで、善し悪しの判断はしないともう決めている。
 彼には彼の輪があって、自分には自分の輪がある。最善のかたちなどわからない。解の出ない問いに頭を悩ませる時間は短く収めて、今は彼の選んだ道を見届け、ともに歩みたい。ふたりで新たに結んだ輪を大事にしていきたいと、ただそう願っている。
「あー……なんか辛気くせぇ話になっちまったな、悪ぃ」
「いや、大切なことだ。ありがとう」
 楽しみにしている、と言うと、楽しめはしねぇと思うぞ、と苦笑が返った。父も語っていた通り、越えるべき壁はまだまだあるのだろう。だがふたり手を取り合えば負う荷は減らせる。たとえぬぐい切れない苦みがにじんでも、笑えないよりはよほどいい。
「んじゃ俺のもおまけだけど、渡していいか」
 頷き合い、その時のことはまた改めて、と今夜のイベントに話題を戻しつつ、轟が何やら慎重な手つきで袋から取り出したのは、ちんまりとした鉢植えだった。
「サボテンかい?」
 手のひらに乗るサイズの小さな鉢に、これまた小さな有刺の多肉植物が植わっている。あとこれも、と轟は声を続け、今度は多少雑な手つきで二冊の本をテーブルに並べた。一冊は厚みのある大判の図鑑で、もう一冊はひと回り小さな実用書のようだ。どちらも棘のある植物の写真が表紙を飾っている。
「お前んち、こっちじゃなくて親父さんたちのほう、家ん中に木とか花とかあって綺麗だったろ」
 大きく育った観葉植物を懐かしんで、子どもの頃は水やり係をしていた、仕事が不規則な独り暮らしだと難しい、と話したのを憶えていたらしい。
「サボテンなら水やるのも月に何回かでいいし、独り暮らしでも育てやすいって聞いた。つっても俺も全然詳しくねぇから」
 併せて栽培のハウツー本と、ついでに飯田の好みそうな図鑑も買ってきた、という経緯のようだ。なんとも轟らしく素直かつ心のこもった発想で、胸がぬくもりに満たされる。
「生きもんだから、先に相談しといたほうが良かったかもしれねぇけど……」
 ぽつり続いた気遣いごと受け取って、はっきりと喜びを伝えた。
「とても素敵な贈り物だ! ちゃんと本を読んで、大事に育てるよ」
「そうか、良かった」
 轟はほっとした顔になり、「ムスクラ」という名のサボテンだと教えてくれた。まだ赤ん坊の握り拳ほどのサイズだが、しっかり育てれば愛らしい丸形を保ったまま少しずつ大きくなって、株も増えていくようだ。
「そいつの棘、触っても痛くねぇらしい」
「ほう」
 鉢を手に取り上げ、株全体に生えた白い棘に指先でちょんと触れてみる。なるほど、棘と言うには随分やわらかな感触で、皮膚にわずかも刺さらない。密集して生えているため、株は雪玉のように、棘は雪の結晶のようにも見えて、
「あと、花の色がお前の――」
「なんだか轟くんのようなサボテンだな!」
 君の気持ちと一緒に暮らせると思うととても嬉しいよ、と改めて感謝を述べると、ぽかんと口開けたままの珍しい表情が浮かんでいた。言葉をさえぎってしまったことに気付き、慌ててすまないと謝罪をしたが、轟は気を悪くした様子もなく、むしろどこか愉しげに見えた。
「花は五月終わりぐらいに咲くってよ」
「あ、花の話をしてくれていたのだな! 五月か。まだ小さいが、うまく咲いてくれるだろうか」
「二十日過ぎならもうだいぶ手も空いてるよな」
 俺も咲いたところ見たい、と語る言葉に重なって、お前に会いに来たい、と願う言葉が聞こえる。うんと迷いなく応え、頭の中の手帳にしかと予定を書き留めた。
「早くそばで暮らせるようになりゃそれが一番いいけど、こんな風に先の予定があるっていうの、悪くないよな」
 こちらの心をも代弁するように言って、お前の誕生日も家の外で楽しめるようにちゃんと調べとくな、と微笑し、飯田が感動の言葉を返す前に、実はと轟が語る。
「先月、お前の親父さんに言われたんだ。俺の家族にはもうお前のこと話したのかって。まだなら話すといいって」
「えっ」
 あの二十分のあいだの話だろうか。初耳である。
『君の父親を慮るわけではない。申し訳ないが、正直いまだに厭わしいと思う感情が消えない』
 父は初めにそう述べて、父親や家族ではなく、君自身のために、と轟に語ったという。天哉もそう思って今日があったのだろうから、と。
「そうか、随分はっきり言ったんだな……その……」
「きっぱり言ってもらって良かったし、お前もなんも気にすることねぇぞ。親父さんお前のこと褒めてた。いつでも連れて行って大丈夫だって」
 どこへ出しても恥ずかしくない息子に育てた、いや気付けば育っていた、雄英で良い出会いに恵まれたのだろう、感謝している――と、そんなことを父は話したらしい。その言葉が指したものの中に、目の前の青年の存在も含んでいたことを、きっと轟は正しく受け取ってくれたのだろう。
 晴れやかに語る様子を見てじんと鼻の奥が痛むのを感じ、飯田は慌てて目線を脇へと逃がしたが、
「んでもしお前が追っ返されたら自分が出てくから、すぐ連絡しろって」
 と、そんな思いがけない言葉が続いたので、込み上げかけた涙もすぐに引っ込んでしまった。
「うん、そうか……そんなことにならないように気を付けるよ……」
「親父のこと『若造』つってておかしかった」
「十歳までは離れていなかったと思うが……」
 これは絶対に出ていかせてはならない、と全力阻止を胸に誓う。きっとあまり相性がよろしくない。ひょっとすると真反対の人間かもしれない。心根まではわからないが、今日までの選択と来し方がまるで違っているのは、覆しようのない事実だ。

 最後に少しばかり冷や汗をにじませてしまったものの、全体としては穏やかに「おまけ」の交換と付属の回想を終えて、では本命の菓子を頂こう、ということになった。
 切り分けたガトーショコラを皿に乗せ、小ぶりのトリュフを三粒ずつ添えて、テーブルに並べる。そのあいだに轟がてきぱきと急須で緑茶を淹れてくれた。夕飯後かつ就寝前の間食としては少々カロリーが高く、カフェインも多く、その上ソファでの食事というややマナーに反した格好だが、月に一度ぐらい、今夜ぐらいは構わないだろう。何しろ今日はバレンタインデー、恋人たちの日なのだから。
 いただきます、と声合わせて口に運んだ菓子は、さすが限定の品と言うべきか、どちらも上々の味わいだった。抹茶の自然な甘みとやわらかな口触り、日本酒の濃厚な旨味と香り、舌を清かに洗う緑茶の渋みと、偶然ながらに相性もいい。轟は特に抹茶の味が気に入ったようで、もうひと切れほしい、と飯田の皿に残ったガトーショコラを眺めながら呟いた。
「まだ残ってるだろ」
「ああ。でもまた切らないと」
「自分でやるから」
 そう言って立ち上がりかけた轟の服の裾をすかさず指でつまみ、つんと布を引っ張って、その場に引きとどめた。中腰の姿勢で半身はんみが振り返り、
「どうし、」
 た、と発しかけた声は、音にならずに呑まれて消えたようだった。
 あらかじめ余分に切って残し、良ければ、と言い出すつもりでいたケーキの最後のひとかけを口に咥え、上方を仰ぐ。羞恥で目を開けることができず、まぶたの向こうに描いた驚き顔に向けて、誘いを投げかけた。
「め、召し上がれ……」
 充分に覚悟して口にしたつもりの言葉は、唇も舌もほぼ動かせないという状態で当たり前に母音ばかりを目立たせ、正確には「えひあぁえ」とでも表記すべき有様だった。かちり、と恋人の個性を使わずして時が凍ったのを感じる。まぶたの裏に幻視した姿も声も何もかもが滑稽で、いっそこの場から消えてしまいたいと願うも、哀しきかな飯田の個性は透明化ではない。駆けて隠れる場所もない。
 古代史では媚薬ともされたカカオの俗説にちなんでか、年に一度の恋人たちの日、少し大胆になって彼を喜ばせてみては、と煽る言葉はかしこで見られた。身体にリボンをかけるだのチョコを塗るだのして自分を贈る、などという奇妙な案が、いくつもの媒体で大真面目に語られていた。
 あまり衛生的ではないし、何より恥ずかし過ぎる。自分のような可愛げに欠けた男に似合うはずもない、と端から案を却下しつつも、何か特別なことをしたい、日ごろ試みないことで轟を喜ばせたい、という想いは消えなかった。そうしてイベント直前まで頭を悩ませ続けた結果、やはり普段の己では考えつかない行動を選ぶべきなのでは、頭ごなしに無理と決めつけず、何にでも挑んでみるべきなのでは、との結論に到達した。妥協だが精いっぱいの努力として選んだのが、下調べ時のあれそれでは大層ロマンチックに描かれていた、「チョコレートの口移し」である。おそらくゴールではなく袋小路に入っていたのだと、今なら冷静に理解できる。
 冷静になったところでもはや引き返しようもない。いっそ速やかに介錯してほしい、と切腹前の武士の気分で両膝に手を置き、轟を父に会わせた時以上に腹をくくって処断を待っていると、笑いや呆れの代わりに落ちてきたのは、そっと頬を包む、左右温度違いの指の感触だった。一方に顎を支え上げられ、一方に耳の縁をするりと撫ぜられて、思わず声漏らして取り落としかけた抹茶のチョコのかけらごと、まさしく食い齧るように上から口付けられた。
「んぅ……」
 シルクのような、であったか、ビロードのような、であったか、いずれにせよ広告の謳い文句に誇張はなく、口融けのよい生地は咀嚼を意識する間もなくほろりと崩れた。唇がやわらかに触れ合い、空いた隙間から濡れた舌が忍び入る。いいだ、と熱こもる吐息に呼ばれ、顎から首へと滑った指にうなじをくすぐられれば、融け消えたチョコレートに次いで、頭の中までが熔解を始めたようだった。躊躇も羞恥も忘れて名を呼び返し、厚く長じた背にすがるように両腕を回す。
 こちらから驚かせよう、喜ばせよう、と思って仕掛けたことであるのに、体位置の上下ができてしまったため身動きが思うようにならず、噛まれ、吸われ、舐られと、気付けばされるがままに受け入れていた。時おり腰裏に痺れが走り、ん、あ、と情の昂った犬猫の啼き声のような音が鼻へ抜けてしまうが、みっともないと堪える理性すら、既に液化して床へこぼれ落ちている。互いの身の内で熱され蕩けた愛慕の粒が、唇から舌先から伝わって、官能とともに全身へ沁み渡っていくようだ。
 轟と恋い合って過ごすようになるまで、口付けがこれほど心地良いものだとは想像もしていなかった。氷炎の個性を持つ轟の舌は熱さと冷たさを同時に湛え、その不思議な熱に触れられると、やわらかな棘にやさしく撫でられるような、畏れと隣り合わせの快い刺激に、脳の芯から虜にさせられてしまう。きっと少々イレギュラーな感触であるのだろうが、この先ほかを知ることがあるとも思えず、知りたいと思うわけもない。生まれて初めて知った、敬虔にも淫猥にも感じられるこの二律の口付けこそが、自分にとっての唯一正真のキスだ。
 一方の轟も、飯田と交わしたのが初めてのものだと素直に語って、だから自分にとってのキスはおおよそオレンジの味であると、ティーン向けの物語のようなことをけろりと言う。
 しかし今夜のところは抹茶であろう、と言いたいところだが、とうにチョコも抹茶も口の中からは消え失せて、むしろ酒精がもたらす酔いにも似た、甘くかぐわしい恋情の味ばかりが舌の上を行き来していた。おそらくそれで良いのだろうと思った。今日はバレンタインデー。年に一度の公然たる恋人たちの日なのだ。滋養の摂り過ぎを憂うことも、眠れなくなるのを案じることも、世間への体裁を気にすることもない。ただただ、恋を愛を尊ぶ日なのだ。
「……とどろきくん」
 ふは、とともに息切らせて口を離す。愉楽に痺れた舌が刻んだ音はなんとも弱く甘たるく、次の菓子をねだる仔犬のそれだった。ソファに座り直していた轟と鼻先の擦れ合う距離で目が合う。左右色の異なる瞳に、左右同じだけの高揚が覗いたが、ぐいと抱き寄せられ、顔を肩口に伏せられて、すぐに見えなくなった。
「はぁー……」
 胸元に埋まった口から深々と息が漏れ落ち、どきりと不安が湧く。
「す、すまない……こんな」
「違ぇ。嫌とかじゃねぇ。良かった。興奮した」
「あ、うん、そ、そうか」
 口にしかけた謝罪を即座にさえぎり、お前の馬鹿な勘違いなどお見通しだとでも言いたげに、短い感想がぽんぽんと重なる。そうまではっきりと言い切られてはこちらも頷くしかないが、では今のため息はなんだったのだろうか、と説明を求める前に、感こもった言葉が続いた。
「すげぇ興奮したし、すげぇやっちまったと思った……」
「やっちまった、とは」
「親父さんが大事に真面目に育てた自慢の息子にこんなことさせちまって……」
「うぇ」
 腕の中で思わずのけぞる。脳裏によぎりかけた愛する家族の顔を、慌てて隅に押し戻した。
「そ、そんな風に言われると紹介を早まったと思ってしまうからやめてくれ……」
 何より恥ずかしい、夏には君のご家族にも会うのにと腕を振ると、そうだな悪い、と肩から起こした頭を改めて下げられた。轟も話題とした直後の流れでつい、という連想であったのだろうから、謝罪されるほどのことではない。気にかかるのはそれよりも。
「……『こんなこと』だったかな。みっともなかったろうか」
 ほつりと問うと、切れ長の目が瞬き、背に回った腕の力が強くなる。悪ぃ、と再び謝罪の言葉が返った。
「言葉の綾、っつーか、いや、間違えたな。ごめん。全然みっともなくも悪くもねぇ。バレンタインデーだから、俺のために特別なことしてくれたんだろ」
「うん……」
 改めて認めると、それはそれで恥ずかしい。さりげなくスマートに特別を演出してみたかったのに、普段が普段のうえ、見目がこれな自分には土台無理な話であったように思う。思うが、宝石のような瞳をきらきらと輝かせた恋人が、
「すげぇ嬉しい。ありがとな」
 嘘やごまかしなどではないとはっきり伝わる声でそう言うので、うん、と頷く自分の融解済みの頭は、もう幸せの蜜海の中にてっぺんまで漬かっている。
「ごと、でいいんだろ」
「ごと……?」
「チョコだけじゃなくて、『ごと』、もらって喰っちまっていいんだろ」
 とろんと見惚れていた輝石の中に飢渇と期待の火が宿り、なおいっそうに心を灼く。意志持つ熱い指に背と腰を撫ぜられて、その慾に従順に応えようと、身体が芯から震えを立てる。
 リボンをかけるだの、肌に塗るだの、口移しに渡すだの、結局はそう、全て同じ、恋にゆるびた脳が考えた、馬鹿げて甘い睦み言。
 うんと頷き、今度は自分らしく明瞭な発声で、はっきりと伝えた。
「どうぞ、召し上がれ」
 いただきますと丁寧な返事があって、笑いとともに唇が重なる。行き交わせる言葉も寄せ合う身体の外も内も、もはやぐずぐずのどろどろで、とても人に見せられたものではない。
 しかし良いのだ。何しろ今夜はバレンタインデー。まさに今の自分と彼のごとく、馬鹿で滑稽で胸蕩かすほどに甘い、幸福な恋人たちの夜なのだから。


end.

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