Shake hands, Shake hearts.


 休憩中や仕事終わりに「こんな記事出てましたよ」あるいは「このニュースもう見ました?」と同僚から軽い口調で声をかけられた時は、七割から八割程度の確率で、自分ことエアコンヒーローのパートナー、すなわち当代ターボヒーロー・インゲニウムに関わるメディアやプレスの話題があとに続く。恋人どのの動向をぜひ教えてやろうという親切心なのか、聞いてどんな反応を見せるだろうという好奇心なのか、どちらとも判断しがたいが、悪意がないことは承知しており、特に気にせず耳を傾けるようにしている。
 重篤な負傷や重大なトラブルに関する話題なら、暇な時間を待たずに即刻それと報されるはずなので(幸い今日までそうした事態が生じたことはないが)、そうして見せられる文章や写真のうち九割九分は、そのまま軽い雑談の端緒となるたぐいの、ごく他愛ない内容のものだ。事件や事故を円満に解決した活躍を伝える報道記事であったり、ファンや同業者との交流の様子を描くイベントレポートであったり、当人の人となりを語るコラムであったりする。なるほどと頷きながら読むこともあれば、これは少し誇張がありやしないかと首傾げ、笑いながら読むこともある。
 今日のニュースはまさにそのうちのひとつで、インゲニウム事務所のスポンサー企業が運営する体育施設のオープン記念イベントとして開催された、チームIDATENによる握手会の取材記事であった。仕事内容については昨日のうちに本人から聞いていたため、ああ例のか、と思いつつ横から差し出されたタブレットの画面を見やったが、気になる文言が即座に目に飛び込んできた。おそらくそれをこそ雑談の種としたかったのだろう、太字の一文。
〝インゲニウム握手会 開始早々にハプニング発生も笑顔で対応〟
 穏やかではない語が穏やかに結ばれたタイトルのすぐ下に、これまたいきさつの大いに気にかかる、奇妙な写真が表示されている。眉根を寄せつつ、笑み浮かべる事務所員からタブレットを受け取り、なんだどうした、と逆隣りから覗き込んできた同期のサイドキックと一緒になって、頭から本文を読み進めた。
 イベントと関係組織の概要説明から始まる、ごく一般的な形式のレポート記事は、四段落目の冒頭から「さあここから注目ですよ」とばかりに語り口のテンションを上げ、その〝ハプニング〟を綴っていた。
『――と、なごやかに始まった握手会であったが、開始三分で思わぬ事態が発生。一番に並んでいたファンの個性の効果で、なんとインゲニウムの頭に「イヌミミ」が生えてしまったのだ!』
 ……イヌミミ、すなわち犬の耳が、生えた。
 確かに生えている。写真中央、笑顔でファンと握手を交わすヒーローの頭頂部に、まごうことなき犬の耳が。
 実に単純明快、誰が見てもそうとしか書き表しようのない、実にわかりやすい個性事故。原因となった個性の持ち主は、両親に連れられてイベントにやって来た、六歳の少女であったという。
 ファンとの交流イベントの際に問題になりがちなのが、この手の個性事故だ。犯罪対応中や救難活動中の突発的な事故は致し方ないが、不特定多数の人間と相対することがあらかじめわかっているファンミーティングなどの開催に際しては、接近や接触で作用する個性によってヒーローがなんらかの害を受けてしまわぬよう、事前に対応策を講じる必要がある。このご時世に少々の個性トラブルは付き物、とおざなりに済ませてきた時代もあったが、かの大戦を省みての議論を経て、ヒーローのみならず、ファンにとっても望まぬ事態が生じるのを防がねばならないと、より秩序立った活動が双方に求められるようになった。
 もちろん、個性を発動させなければ良い話ではあるのだが、憧れのヒーローを間近にして抑制が利かなくなり、能力を暴走させてしまった結果の悲喜劇も、過去には少なからず起きている。イレイザーヘッドの【抹消】のような希少個性の持ち主が各事務所に在籍しているはずもないので、参加者に一定の安全基準を満たす個性認定証の提示を求めるか、それぞれの事務所の備えで対処できる範囲で、あらかじめ参加資格を限定するといったやり方が一般的だ。若年者ほど個性暴走の危険性が高いため、ある程度の年齢制限が課されることも多い。当然、一律に枠外とされてしまったファンからは不満の声が上がり、過剰な保守姿勢は批判につながる場合もある。
 では本日のイダテンでの握手会は、といったところに話を戻すと、ここ数回の継続施策として、初めから参加制限を課すのではなく、門戸は最大限に開きながら、会場での事前検査やサポートアイテムの活用によって危険を排除する、という方針が採られていたのだという。その結果、【獣化(仮称)】の個性を持った少女も参加資格を失うことなく、憧れのヒーローと会うことができた。まさか一番に並べてしまうとは思っていなかったらしい付き添いの両親は、まだ制御が難しいからと気兼ねし、チーム側が用意していた個性の作用を遮断するグローブの着用を自ら申し出たが、危険性が無いことは確認できたからと、インゲニウムが快く素手での握手に応じた、と事の経緯が述べられている。
『その後、ファンの驚きの視線を集めつつ、「イヌミミ付きインゲニウム」の握手会は通常通りに進行し、集まった三百名のファンとの交流をなごやかに終えた。かわいらしい騒動を巻き起こした少女は、また両親とともに個性の制御練習に取り組むと少し反省の様子を見せながらも、「だいすきなインゲニウムと握手できてよかったです。またがんばって早起きして会いに来たいです」と語り、小さなインゲニウムのマスコットを両手に抱えて笑顔で帰宅していった。
 チームイダテンでは、昨年から独自の安全管理基準を策定、明示しての――』
 記事は近年のファンイベントの課題点や、対策を進める公安委員会の活動を紹介しつつ、今回の事故は、ベテランチームの管理体制が正常に機能したからこその〝予期されたハプニング〟であった、と結論付け、今後同様の取り組みが広まることを期待するメッセージで締めくくられていた。なかなかに読ませる筆致で、おそらくはプレスリリースをもとにした単純な記事ではなく、事務所と調整を行ったうえで書かれたものだろう(ハプニングはハプニングであったに違いないが)。チームの安全管理体制の盤石さ、そうした土台があるからこそ発揮できる鷹揚さと同時に、ルールは人を締め付けるためではなく、人を守るためにある、という看板ヒーローの信条も伝わってくる。
 良い記事だ。それは確かなのだが。
「あちらは毎度モデルケースになってて凄いですね」
「公安委員会からの依頼だ委託だなんだで、裏での綱引きだの舵取りだのが大変らしいけどな」
 さすがですねえ、と老舗の大事務所の権能を讃える会話に頷きつつも、轟の意識はそうした真面目な感想から遠く離れた場所にあった。口には出さずただ画面の一点をじっと見つめていると、心中を察したのかどうか、代弁するように同期が呟いた。
「にしてもイヌミミ似合うな、インゲニウム……」
 そう、そこである。いやそこではない。正確には。
 文章は真面目に書きましたが、皆さんご覧になりたいのはこれでしょう? とでも言うかのごとく、明らかに通常のニュース記事より枚数多く掲載された、「イヌミミ付きインゲニウム」の写真。ぴんと天突くように立ち上がったやや縦長の三角形は、宿主の姿勢や表情に合わせて微妙に形と角度を変えており、ただの飾りではなく、生きた耳であることがわかる。おそらく実際の現場では、飯田の癖である大きな手振りよろしく、頭の上でひょこひょこと活発に動いている様を目にすることができただろう。
 記事に付けられた読者コメントも、ページ下部に表示されたSNS上の反応も、その半分以上は、謹厳実直で知られるヒーローの、思わぬ、そして妙にしっくりと来る容姿の変化に対してのものだ。
『違和感ゼロで記事読んでから耳に気付いた』
『ターボわんこヒーロー良すぎかよ……』
『これドーベルマンの耳? 知的で勇敢で足の速い犬種だって。インゲニウムにぴったりだね』
『ガタイのいい眼鏡の男前にイヌミミとか需要しかない』
『俺の推しのとこも制限ゆるくしてくんないかな。んでネコミミ生やして?』
『子ども相手でも真剣に接してくれるから好きです』
『嘘でしょ……なんで今回に限ってスルーしたんだ私……ワンゲニウム生で見たかった……』
 俺も見たかった、とファンの嘆きに同調する。幾人もが類似の感想を述べている通り、そのイヌミミは飯田の風貌に非常に良く似合っていた。端的に言ってかわいらしかった。犬の形質表出系の個性持ちなどそこいらにいるじゃないか、といった正論もあろうが今は知ったことではない。真面目一徹の性質と、アーマー型のスーツごと「厳つい」に片脚を突っ込んだ見目を併せ持つ飯田の頭に突如現れたからこそ、おかしみを伴って実に愛らしく映るのだ。
 もちろんイヌミミがあろうが無かろうが、轟のパートナーは常に愛くるしく魅力にあふれた人間なのだが、それはそれ、これはこれ。目下の問題は、そんな誰が見ても善しと評価する姿が、三百余人のファンたちの眼前にさらされた、のみならず、その状態で触れ合いが行われた、ということである。
 知らぬ間に手に力がこもっていたらしく、霜降りてるぞショート、と横からタブレットをつつかれた。はたと我に返って薄く張った氷を揺り融かし、事務所員へ端末を返す。
「ショートさん的にはどうです、ワンゲニウム」
「いい。かわいい。撫で回してえ」
「素直でよし」
「今日は夕メシどうしますか? いつもの店空いてるみたいですけど」
「帰って食う」
「ですよね」
 飯田はイベントの流れで立食パーティに出席し、軽く食べてから帰宅すると言っていた。夕餉を共にすることはできないが、先に帰り着いておき、一秒でも早く出迎えたい。そしてあわよくばまだ生えているかもしれないイヌミミを拝みたい。撫で回したい。できればパーティの場ではメットを着けていてほしい。
 どこまでも素直かつ率直な望みを述べた事務所代表の意を汲み、退勤前の事務作業を請け負ってくれた(会食中にメットは無理だろうとの意見も頂戴した)同僚たちに感謝しつつ、一介の轟焦凍に戻ったエアコンヒーローは、かわいい愛犬、ならぬ恋人の帰りを巣で待ち構えるべく、一路我が家へ向けて帰宅の足を急がせた。


       ◇


『このイベント行ってました! 寝坊しちゃって握手はダメだった……でもインゲニウムは遠くから見れたよ! 耳すっごく似合ってたし、ずっとにこにこでほんとにわんこみたいだった』
『妹に頼まれて車出して整理券もらったからついでに、ぐらいの気軽さで並んだら超さわやかスマイルの男前(イヌミミ付き)に手握られてハート持ってかれた俺は安い人間』
『ワンゲニウムぬい欲しい! ショートのネコミミぬいと並べたい!』
『もともと可変形アーマーとか六気筒エンジンとかで男心くすぐってくるヒーローだったのに、この変化球は卑怯だろ……フィギュア買います』
『なんか列の先頭のほうがざわざわしてて、なんだろうと思いながら前に立ったらワンゲニウムで、舞い上がって「凄く似合ってます!」なんて気持ち悪いこと言っちゃって……頭真っ白になってたら笑って「わんっ」て応えてくれた……気絶するかと思った……』
 帰宅後改めてSNSをチェックすると、くだんの記事に対しての反応はすぐに沈静化するどころか、イベント参加者の声も混ざって、さらに賑わいを増していた。「ワンゲニウム」の呼称もトレンドワード化したらしく、興味を持って調べた人間の感想が次の興味を呼ぶ、定番のバズり状態だ。
 ――わんっ、て言ったのか。俺以外のやつに。
 次々に飛び込んでくる生々しい事後レポートを前に、轟の悋気の膨らみもピークに達していた。もっとも、いくらもともと飯田に犬じみたところがあるからといって、ぜひ自分に「わん」と言ってほしい、などと思ったことも頼んだこともないわけで、先を越されたと考えるのは筋違いではある。だが今やまさしくそれはそれ、これはこれ、だ。
 身辺管理の厳しくなったプロデビュー以降はともかく、動物の耳が生えるどころか動物そのものの姿になる程度のトラブルは、学生時代に皆身近に経験している。ひょっとすると飯田が「その手の事故」に遭遇していたこともあったかもしれないが、轟が彼への思慕を自覚したのは、卒業も目前に迫った時分のことだ。「その手の見方」も未修得の頃であり、たとえ事故があったとしても、現に記憶に残っていない程度の些事として見過ごしていただろう。
 だとすれば実に実にもったいないことをしてしまった、と、あったかどうかもわからないティーンの青春ハプニングを惜しみ、今日は確実に生じていた話題のハプニングの目撃者たちを羨む。
「ファンばっかずりぃ……俺だってワンゲニウム見てえし触りてえ」
 俺はこいびとだぞ、ふうふだぞ、と、ことさら主張してもこの状況ならまあ許されるだろうぼやきを漏らしていると、
「轟くん、ただいま!」
 背後の戸ががちゃりと開き、待ちに待った相手が快活な声とともにリビングに入ってきた。手元の衝撃レポート群に集中し過ぎて、玄関や洗面所の開閉の音は聞き逃していたらしい。
「おかえり」
 帰宅するなりパートナーが余裕なくがっついてきた、と格好悪いことを思われたくはないので(二十四時間ハート振りまきポジティブ人間である当の相方は、何かやらかしても大抵「ちょっと格好悪い君も好きだよ」と笑ってくれて、ますます愛慕が深まるのだが)、努めて冷静を装い、ゆっくりと振り向く。最近おおよそ砕け散ったと言われる、自分では特に被っているつもりもなかった鉄面皮よもう一度、の気概だ。
「……ある」
「ん?」
 ぴこん、と愛らしい書き文字が見えるかのような動きで、こちらの呟きに反応する頭の上の三角耳。間違いなく犬の耳だ。勝った。よし撫で回そう、と気早に持ち上がる手をごまかしがてら、しらりと声をかける。
「ニュース見たぞ。大変だったな」
 心にもない感想というわけでもなかったので、言葉は自然に舌を転げた。返事は「ああ」も「いや」もあり得る、さてそこからどう触れ合いに進む会話へ持っていこうかと、何がなんでも野望を遂げたい心は脳のめったに回転しない部位を働かせにかかったが、答えを導き出すより何手も先に、飯田はすたすたと歩いて轟の座るソファの前までやって来た。
「……犬の耳だな」
 生での目撃叶ったイヌミミはまたなんとも良い具合で、策も何もあったものではない、見たままの言葉が思わず口を突いてこぼれる。飯田は「うん」と短く相槌した。ファンが語っていた通りのにこやかな顔。
「かわいい」
 またしても思考を介さず直接出力された賛辞に、ぴこぴこと三角耳が反応する。これは不興の仕草だろうか、それとも、と犬に詳しくない轟が判断を下す前に、飯田はふふふと笑って自ら轟の隣に腰かけ、肩の触れかける距離まで寄り添ってきた。
「お」
「君の声がとてもよく聞こえるよ」
 願ったり叶ったりの状況に咄嗟に反応しかね、意図せずして鉄面皮を継続させた轟の間近でぴるぴると耳を揺らし、嬉しげに言う。
 かわいい、かわいい。
 気絶しそうだとまでは思わなかったが、あまりにもすんなりと手の届く範囲に姿を得て、逆に可愛さ余って触れづらい、の域に入ってしまい、眼前のイヌミミをただ拝むように凝視した。きっと会場では同じ心境に至ったファンが何人もいたことだろう。まるで生来のものであるかのごとく似合う上に、ごく自然に動いている。
「ちゃんと聞こえてんだな」
「ああ。単純な形質付与ではなくて、身体強化系の個性だったようなんだ」
 ただ犬の形の耳が現れたというだけでなく、しっかり身体の一部位となり、本物の感覚器官として機能しているらしい。神経や筋肉がどう繋がっているのか定かではないが、個性の謎についてとやかく言うのは今さらも今さらである。
 解除方法は、と続けて訊ねると、二十四時間程度で自然に効果切れになるそうだとの答えが返った。握手会は今日の昼前に行われたはずなので、多少早く効果が失われたとしても、まず今夜いっぱいは確実にこのままの姿だろう。そして飯田の機嫌も常と変わらず上々の様子である。
 これは勝った。エアコンヒーロー、もとい、轟焦凍さん大勝利です。
 脳内の審判員が紅白の旗を掲げて勝ち名乗りを上げる。あとはなにげない興味を装って、触っていいかと切り出すだけだ。いや、別にもう何かを装う必要もないのではないか。大好きな恋人だから触れたい。そんな普段通りの姿勢でなんら問題ないはずだ。突然のイヌミミ出現というイレギュラーと、触れ合いを先んじられたファンへの悋気が絡まり、少々気が動転していたようだ。
「いい、」
 よしと決めて発しかけた名が、
「触ってみるかい?」
 軽くほうられた問いに上書きされ、「だ」の形に大きく口開いた間抜けな顔で、隣を見つめた。飯田の表情は変わらずにこやかで、近年少しだけ獲得した遊び心で冗談や悪戯をしかけようとしている様子でもない。誘いかけるようにぴるりと揺れる犬の耳は、今はしっかり身体の一部になっていて、「よく聞こえる」という。
 あ、と開いた口から気付きがこぼれた。
「聞いてたのか」
「ふふ」
 まだ飯田が帰っていないと思って漏らしたぼやきを、獣の鋭い聴覚が部屋へ入らずして捉えていたらしい。そもそもの初めから格好を付けようのない状態だったというわけだ。
 それならそれでまあ良し、と無駄なつくろいの努力は早々に放棄し、触りたい、触っていいか、と正直に問い返すと、飯田は「ああもちろん」と言ってさらに身を寄せてきた。「もちろん」と来たものだ。これぞ完勝、完膚なきまでの勝利。残すはウイニングランのみである。
 浮かれたことを浮かれた頭で考えながら、もはやあせる理由はなく、ためらう理由はさらに微塵もなく、肩へ寄りかかる頭へおもむろに手を伸ばした。――が、やわらかな感触を予期した指はするりとかわされ、背もたれから身体が浮いた隙を、文字通り見事に突かれて、上体が後ろへ傾いたかと思った次の間には、ソファの座面に寝転がされていた。
「……お?」
 不覚、と言うよりは、家でどれほど心身安んじているかの証明のような油断だった。反射的に起き戻ろうとするのをさらに先んじ、轟の胴を優しく突き転がした黒藍の頭が迫って、次の動きを封じるように胸の上に顎を乗せてくる。てっぺんのイヌミミがぴこりと愉しげに揺れる。
「とどろきくん」
 向けられる声も顔も、朗らか過ぎるほどに朗らかで、害意は一切感じられない。きらきらと音鳴らさんばかりに輝く赤い瞳で、組み敷いた轟へまっすぐに語りかけ、教えてくるのは、翳りない満面の喜びだ。
「きみだけのワンゲニウムだよ」
 くふ、と笑う様はまったく機嫌の良い犬の風情である。ひょっとしてこれは夢だろうか。待つ間にうたた寝を始めてしまったのだろうか。あまりに都合の良い展開に畳みかけられて、轟は我が知覚を疑った。冗談でもからかいでもないなら、さすがに〝異状なし〟を通り越している。
 だが胴にかかる重みと触れ合う身体から伝わるぬくもりは、夢幻のものとみなすには現実感があり過ぎる。飯田も近ごろようやくあまり気を遣わなくなってきてくれた、身体が育って良かったとしみじみ思う体勢の産物だ。しかと身に記憶されている。
「酒呑んだか?」
「一杯だけ」
 瞠目しながら問えば、すぐに答えが返った。嘘ではなさそうだ。スポンサー企業との懇親の席で乾杯の酒を断ることも、酔うほど大量に呑むこともないだろう。酒精の気配も感じられず、ほとんど素面の状態と見て間違いない。で、あるならば。
「熱出てたりしねぇよな」
 常日頃からテンションが上向き調子の飯田は、急な顛倒を起こすまいとする防衛本能なのか、周りへの無意識の気回しなのか、身体の不調に対し、精神の変調のベクトルが反比例してしまうことがある。やけに口数多く機嫌がいいと思っていたら、風邪や過労で高熱を出していた、といった事件に一度ならず立ち会って以降、過度な興奮の様子は警戒対象だ。
 この妙な高揚の理由が判明しない限り手を出さない、と決めて確認の言葉を重ねた轟に、飯田は胸の上でふるふると首を振った。つられて左右にひょこひょこ動く三角耳は魅力満点だが、伸びかかる手をぐっと体側に抑え付けてこらえる。
「熱も何も出てないぞ。イベントのあとに念のため検査もしたし」
 そこは抜かりなし、であるようだ。かのチームの管理下でいたのだから不思議はない。もちろん嘘もないだろう。
 だがしかし、と迷って見つめる頭の上で、イヌミミがへたりとしおれるように垂れ曲がった。まるで「触ってくれないのかい?」と言われているかのよう、いや、これは言っている。表情ごとそう語りかけてきている。
 うぐぅと苦渋のうなりを立てた自分の喉鳴りに混じり、何やら別の音までもが聞こえてきた。今度こそ煩悶由来の幻聴かと思ったが、どうやら違う。ぱたぱたばたばたと、布をこするような、叩くような音。
 あ、と轟の怪訝な表情に気付いた飯田が半身をひねり、
「実はね、仕事中は隠していたんだが」
 そう言って自身の下腿へ手を伸ばす。追って肩向こうへ視線を投じた轟の目の先で、ためらいなくずらされたスウェットの隙間から、ひょこり、弓幹ゆがらがしなるように現れたのは。
「尻尾もあるんだ」
「しっぽ」
 見たまま、聞いたまま、その語を口にする。ズボンの中に(昼はアーマーの中に)無理やり押し込められていたらしい、耳と同じ色合いの犬の尾は、ようやく狭所から解放されたのを喜ぶように、しぱしぱと元気よく左右へ振れ始めた。
 頭にはイヌミミ。腰(というか半分がた尻)にはイヌしっぽ。ひょこひょこ、しぱしぱ、愛らしい擬音の今ひとつ似合わない、その事実が却って愛らしさを増幅させる宿主は、ぺたりと轟の胸の上。
 かわいい、かわいい、かわいい。
「……それはなんか強化してんのか」
 あまりの光景に、心にもないことを訊ねた。心中をそのまま口に出すと会話にならなくなってしまうので致し方ない。飯田もごく真面目に答えを返してくる。
「どうだろう。ずっとしまい込んでいたからな……平衡感覚が良くなっているのだろうか」
 走ってみればわかるかもしれない、などと言い出すので、やめておけと一も二もなく止めた。そろそろ時間も遅いという以前に、今日はもう一歩も人目に触れる場所に出させたくない。
「耳と尾が生えただけで、本当にどこも悪くないんだよ、轟くん」
 説明する、というよりは訴えるに近い調子で、飯田が語る。
「むしろずっと調子が良くて、昼から走りたくてたまらなかったんだ」
 轟は頷いた。目の前でここまで見聞きしてなお疑うのは、さすがにひねくれが過ぎるだろう。飯田は安堵した様子で頷き返し、さらに言葉を連ねた。
「でも仕事があったし、イベントが終わったあとはすぐ君に会いたかったから、我慢してまっすぐ帰ってきたんだ」
 胸に頬がすり寄せられ、うかがうように上目を遣う赤い瞳がきらきらと輝き、耳も尾もぴんと立ち上がって、轟の反応を待っている。えらい? えらい? と全身で問いかけられている。
「かわいい」
 求められた賛辞を述べたつもりだったが、舌を転げたのは遂に決壊した心をあふれ出た、二度目の本音だった。相手にはざっくり丸めて好意と受け取られたらしく、しぱしぱと尾が横へ振られ、どんな仕組みで奏でているのか、きゅうん、と嬉しげな鼻音が鳴らされる。耳がぺたりと後ろへ倒れたのは、「さあ撫でてくれ」の合図だろうか。
(……これ、犬だな)
 予想をはるかに超えた、見事なまでの犬っぷりだ。犬そのものになってしまっていると言うよりは、身体だけでなく精神や感性ごと、犬的な方向へ強化されている、とみなすのが正解かもしれない。聴覚などの身体感覚のみならず、ただでも豊かな愛想や愛嬌までもが、犬の持つ性質に応じて増幅しているように感じられる。当人はあくまで「耳と尾が生えただけ」と認識しているようだが、それどころの状態ではない。
 例の記事や参加者によるレポートの内容からは、ここまでの変容は読み取れなかった。ひょっとして進行性のある個性だったのだろうか、と首ひねり、ふと、ある情報を思い出す。
 飯田の帰宅前、轟はファンの声を羨ましく眺めるかたわら、待つ間にせめて想像だけでも馳せようと、ちらほらと見かけた犬の名前からその特徴を調べていた。映画などにも良く登場する、ドーベルマンという犬種。知力と運動能力の高さに加え、強い忠誠心や警戒心などの特性も伴い、警察や警備の現場で活躍する使役犬としての扱いが一般的らしい。ぴしりと背を伸ばして人の傍らに添い、時に勇敢に外敵と戦い、時に身を賭して仲間を護り助ける凛々しい姿は、なるほどヒーロー・インゲニウムの実直な佇まいに大いに重なるものがある。引き締まった筋肉質な肢体や、艶やかな毛並みなどの外見にも共通したものが感じられ、似合う、ぴったりだ、と口々に評されていたのも納得の人選(犬選)であった。
 が。
 羨みつのる勢いが嵩じて、隅々まで舐めるように情報を探った轟は見過ごしていなかった。愛好家が幾枚もの写真に添えて語っていた、自信と自慢たっぷりの解説を。
〝厳めしい見た目や警備犬などの活動内容から、「怖い」「攻撃的」「懐きづらそう」といったイメージを持たれがちなドーベルマンですが、実は親しい相手にはとても穏やかで愛情深く、甘えん坊な子が多いのです〟
 あるページでは、仕事の終わりを告げられた瞬間、張り詰めた様子で持ち場を守る姿から一変し、仔犬のようにトレーナーにじゃれかかる警察犬の姿が動画で紹介されていた。そのほほ笑ましさに骨抜きになった多数の視聴者が絶賛のコメントを寄せていたが、同じ状況が今ここにある。凛と姿勢正して明るくも真面目にファンやスポンサーとの交流を終え、家族とふたり静かに暮らす我が家へ帰った飯田の心は、ヒーローの使命を解かれてやわらかにほぐれ、中身は確かに飯田のままでありながら、外へ表れ出るかたちが甘えたな犬のものになっているのだ。
「とどろきくん……」
「おう」
 今日もがんばった、なでて、かまって、なかよくして、と甘えてくる相手にイヌミミが生えていようがいまいが、ここで応えてやらねば恋人の名がすたるというもの。つーかもう限界だ。触る。撫でくり回す。わしゃわしゃにする。と、結果的には必要のなかった(とは言え無駄であったとは思わない)忍耐を全力で脇へ放り捨てた轟は、呼び声に即座に応じて胸の上へ手を伸ばした。待ちかねた、と思ったのは双方同時であったろうか。
 さあどうぞ、とばかりに伏せられた耳へ、付け根からそっと触れる。ぴくりとかすかに震えた三角には確かに血が通っているようだ。髪と同じ黒藍の被毛はビロードのようななめらかな感触で、尖った先端へ向かって撫でくすぐると、心地良さげに力が抜けていく。曲げたり伸ばしたりと少々雑にいじってみても、抵抗ひとつなく、轟の手の中でされるがままだ。
「きもちい……」
 感じ入った声とともに、きゅんきゅんくぅん、とまた奇妙で愛らしい音が鳴り、すりすりと胸に懐いてくるので、こちらも遠慮会釈なく両手を動員し、胸に決めた通りに撫で回して、艶やかな髪ごとわやくちゃにした。ぼさぼさになった頭を見て、そういえばシャワーを浴びてから帰ってきたのだな、とようやく気が付いた。
 さらりと額に落ちる髪を梳いた仕草で轟の気付きを察したらしく、飯田が律儀に説明の口を開いた。
「帰ったらすぐに君とくっつきたかったから」
 準備万端身をととのえて帰宅したのだ、と言う。
 これは負けである。そもそもの初めから完敗であった。轟焦凍さんお手上げです。
 脳内の審判員に嬉々として白旗を振り、俺も触りたかった、と正直に告白して、再びわしゃわしゃと頭を撫でる。すっかり脱力した広い肩の向こうで揺れる尾が目に入り、なあと声をかけた。
「尾っぽも触りてえ」
 うっとりと伏せられていたまぶたが上がり、一度、二度と瞬いてから、うん、と幸福に満ちた声音で応える。腕付いて身体をずり上げようとするのを今度はこちらが途中で制し、飯田、と名を呼んだ。
「ん?」
「ん」
 ことりと傾ぐ顔から見える位置へ、右手を差し出す。本日ここまで三百数人分を目にしたのだろう形をしげしげと眺めてのち、飯田も手を伸べてきた。握り合わせられない左手を。
 やや握り加減にした手をぽんと手のひらへ触れさせてくる仕草を体験したファンが幾人かでもいたなら、スクープ仕立ての写真が載せられていたなら、世の盛り上がりは今の比ではなく、個性の効果が切れたのち恥じ入ってしょぼつく飯田をなだめる一連があっただろう。
 それはそれで愉快な時間だったに違いないが、恋人の愛らしい姿は独り占めが望ましい。握手程度までが悋気の許容ラインだ。
 あれ、ちがったかい? とたとえ犬の部位がなくとも伝わる豊かな表情で語り、また首傾げる飯田へ、違わないと笑いで答え、握り加減の指の間に自分の指を差し込む。ひとつ息をついて腹筋に力を込め、乗り上がった飯田ごと上体を前へ起こした。
「ここ動きづれぇし、ベッドで触りてえ」
 エスコートの形の手を引きつつ言えば、数瞬置いて、見つめる顔がぽぽぽと赤らむ。やはり犬ではなく飯田だ。恋人同様に愛でていても、本物のドーベルマンが照れた赤面を見せることはない。
「いいか?」
 おあずけの解除を待つごとくじっとその目を覗き、引き寄せた手の上に口付けを捧げる。薬指の環にリードはないが、きっと幾本もの見えない糸が自分たちを結んでくれているのだろう。
 ひょこり、ぴょこり、と犬の耳尾を揺らし、
「うん、もちろん」
 器用な人の腕ですがってくる恋人が耳元で「わん」と言ったように思ったが、すぐにその愛くるしい大きな口を自分の口でふさいでやったので、あとに続いた甘い恋鳴きが果たして人と獣どちらのものかなど、どんな熱烈なファンも入れぬふたりきりの睦夜のうちの、ごく些細な一事に過ぎなかった。


end.

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