まだ知らない、


 六月も折り返しを迎え、初夏を過ぎていよいよ本格的な夏の到来の兆しを感じるようになった晴天の午後。雄英ヒーロー科一年A組の生徒たちは、その日もいっそう難度と要求の高さを増す演習に励んでいた。
 組の入れ替えの声がかかり、アスレチックの度を大幅に超えて、もはや密林かゲリラ戦場かという器械運動場を離脱したメンバーが、口々に疲弊のうめきを漏らしながら待機スペースへ戻った。各自持ち込んでフェンス際に並べていたタオルやボトルを取り、交替組が所定の配置に付くのを待つ間の休憩に入る。
 轟も顔に流れた汗を肩口で拭い、左の個性の発動で上がった体温を冷気で下げつつ、ドリンクボトルを手に取り上げた。姉の忠告に従い、夏前に大容量のものに新調して正解だった、などとぼんやり考えながら、太いストローを咥えて中を吸い上げる。冷えた液体がシリコンの筒を登り、薄い酸味と香料の混じったスポーツドリンク特有の風味が唾液で粘ついた口に広がる――はずであった。
 ――甘、酸っぱい。
 舌を覆った予期せぬ味の濃さに混乱が生じ、慌ててボトルを口から離して、異物を追い出すようにげほげほと咳き込んだ。隣にいた緑谷と麗日がわっと驚きの声を上げる。
「ど、どうしたの轟くん」
「あらあら。大丈夫? 轟ちゃん」
 はい、と逆隣の蛙吹が代わりに取ってくれた自分のタオルをすまねぇと言って受け取り、濡れた口を押さえた。一体何が、と持ち上げたボトルを見て轟より先にあっと大きな声を上げたのは、交替時の何やらの確認で最後に運動場を出てきた飯田だった。
「轟くん、それは俺のボトルだ! ひょっとして飲んでしまったかい?」
「ん?」
 指摘を受け、手にしたドリンクボトルを見直す。色も形も今朝自宅から持ってきたもので合っている、と思っていたが、よくよく見れば、確かに模様や形がわずかに異なっているかもしれない。
「お前のか、これ」
「うむ。良く似ていると思ったから遠ざけておいたつもりだったのだが、逆にわかりづらくなってしまったようだな、すまない」
「いや、俺こそ悪ぃ」
 飯田はデザインの類似に気付いていたのだから、置いた場所をしっかり記憶していなかった自分の責任だ。こちらが君のだな、と差し出されたボトルを受け取り、飯田のものを交換に返す。並べると細部の違いが見て取れたが、全体がほぼ同じ濃青色で、ちらりと眺める程度では判別がつけづらい。
「こういうのって同じようなデザインが多いからね」
「そうなんよねー。私も誰かのと色が似とったから、わかりやすいようにストラップか何か付けとこっかな」
「そうね、いいんじゃないかしら」
 緑谷たちはそんな雑談をしていたが(あとで思い返すと取り違えをした轟へのフォローの会話であったのかもしれない)、轟の興味、あるいは気がかりはボトルそのものではなく、誤って口にしてしまった中身に向いていた。
「お前、それ……」
「ん?」
 指差したボトルはちょうど飯田の口元を離れるところだった。浮き出た喉仏が上下するのを見て、先ほどのどろりとした甘酸の味を思い出し、無意識に眉が寄る。
「そんな濃いスポドリ飲んで、逆に喉乾かねぇか?」
 粉末タイプの物とて、規定の水量に何袋も溶かさなければああまではならないはずだ。ヒーロー一家生まれの飯田のことだ、市販されていない特注の品だろうか、などと推理しつつ口にした問いに、え、と反応を見せたのは飯田だけではなかった。
「これはスポーツドリンクではないぞ、轟くん」
「オレンジジュースやんね?」
「間違えて飲んだらそりゃ噎せちゃうよね……」
「……ん?」
 ひとつ、ふたつ、みっつ、不可解な言葉が次々と、中身に反したごく自然な声音で飛び出てきて、今度はこちらが声漏らす番となった。四人きょとんと顔見合わせ、さすがに会話が噛み合っていないことに気付いたのか、緑谷が首傾げながら言う。
「あれ、轟くんは飯田くんのガソリンのこと知らなかったんだっけ?」
「ガソリン?」
 なお理解の及ばない語が登場し、咀嚼できないままおうむ返しにした。口を挟まずにいた蛙吹の様子もうかがったが、特段の疑問の表情は浮かべておらず、立ち位置は向こう側であるらしい。改めて問う。
「ガソリンってなんだ」
「いや、俺のエンジンを稼働させるための燃料がオレンジジュースで、演習中にも摂取しているというだけなのだが。確かに轟くんと直接この話をしたことはなかったかもしれないな」
 だけ、と言いつつなかなか突飛な説明が述べられたが、ほか三名の平然の様子につられて、驚きの乗らない声でただ「そうなのか」とだけ返した。普段の飲食が個性の原動力となるのは誰しも同じで、轟とてなぜ米だの蕎麦だの茶だのが炎と氷を生み出すのかと問われれば、そう生まれ付いたから、としか答えられない。フルーツジュース、それも一種限定とはかなり珍しい部類だが、ことさら騒ぎ立てるようなことではないのだろう。
 などと考えていると、
「話が広まった時に結構クラスで盛り上がってたから、轟くんも聞いてると思ってたね」
 と、推測と真逆の話を緑谷が漏らしたので、三たびの驚きが表面には漏れずに湧いた。
「いつ頃の話だ?」
「ええと、USJでの事件のすぐあとぐらいだっけ?」
 確認の言葉に、うむ、と飯田が頷く。
「緑谷くんと麗日くんにはその前に話していたが、皆に広まったのは体育祭前だったな。確か昼食の時に峰田くんと蛙吹くんも一緒で」
「梅雨ちゃんね」
「失敬! 梅雨ちゃん君たちも一緒で、俺が飲んでいたオレンジジュースの話題になったんだ。翌日に峰田くんが教室で上鳴くんに話したらしく、その日のうちにはクラス内に完全に知られていたようだった」
 まあ俺のガソリンのことは秘匿事項ではないから別にいいが、峰田くんと上鳴くんは少々口の軽いところがあるな! と妙な手振りとともに委員長らしい苦言を漏らす横で、麗日がおかしげに笑う。
「でも飯田くんがオレンジジュース、って面白くてつい話したくなっちゃうのわかるんよね」
「君は初めて話した時も盛大に噴き出していたな。峰田くんには狙った体質だなどと言われるし、何が皆にああまで面白がられたのか、俺には良くわからないんだが……あれからやけにオレンジ味の飴やガムなどをお裾分けされるようになってしまった。ジュース以外は燃料にならないと断るのもなんだから有難く頂戴しているが」
「んふふ、真面目や……」
「みんな飯田ちゃんに親しみが湧いたのよ。偶然だけどいいきっかけだったと思うわ」
「うむ。委員長としては常にクラスの皆からの相談や会話の門戸を開いておきたいからな! 何かしらの糸口になったのなら僥倖だ」
「んふふふ……」
 何やらほのぼのと続いた会話を聞く限り、A組内では一度大きな話題ともなった、とうに周知の情報であったらしい。この分だと今日まで知らなかったのは自分だけだろう。まあ何しろ、
「でもそっか、轟くんは知らんかったんや。皆と全然話してなかったもんね」
「う、麗日さん、そんなはっきり……」
 という次第であったので。
 別にクラスメイトたちとの会話がくだらないとまで思っていたわけではない。しかしほかに優先すべきこと、ここで得るべきものがあると考えていた。競う相手としての才や力への興味は湧いたが、それだけだった。体育祭で緑谷に横っ面をはたかれ、それまで己の唯一と信じ込んでいた執着こそ真に不要なものであったと思い知ってから、ようやくほかのものごとに気が向くようになったのだ。知らなかったのも当然だ。
 当然、なのだが。
(……俺だけ知らなかったのか)
 今の今まで全く気にせず飲み流してきた事実が、今日は妙なほど胸につかえ、もやつきさえ感じる。ひとり首ひねる間に、飯田がまた青のボトルからドリンク、もといオレンジジュースをひとあおりした動作をきっかけにして、穏やかな会話はさらに先へと進んでいく。
「飯田くんて意外と、かんせ……その、回し飲みとか気にしないよね」
「ん? ……ああそうか! 轟くんはひょっとして気にする人だったろうか? だとしたら断りもせずに申し訳ない!」
「……いや、俺も別に気にしねぇ」
 急に話を回されてワンテンポ遅れつつも短く答えると、そうか良かった! と即座に相槌が返った。飯田はずっと真面目で堅いが、それこそ意外に、どんな話題でも良く喋る。
「いやそうなんだ。世間的にあまり行儀が良くないのはわかっているんだが、幼い頃から兄さんと普通にしていたもので身に付いておらず……母にも外では注意するよう言われていたんだが、つい」
「なんか話聞いとると、飯田くんのお兄さんて飯田くんとそっくりって感じじゃないんやね」
「うん。顔は似ているが性格はあまり似ていないとよく言われる」
 事もなげに飛び交う言葉。会話のテンポの早さもしかりだが、こうしたやり取りも、轟が追い付けていないことのひとつだ。
 〝ヒーロー殺し〟との戦闘で瀕死の重傷を負い、引退を余儀なくされた飯田の兄、ターボヒーロー・インゲニウム。堅すぎるほど堅い優等生を無軌道な復讐に駆り立てるほどの衝撃であったらしいその事件と、あの夜の戦いを経てのちも、飯田はその名をあえて避けることなく、仲の良い兄として、憧れのヒーローとして、折に触れ口にする。緑谷と麗日も、当初はやや気遣わしげな反応を見せていたが、さまで日を置かず、おそらく配慮は続けながらも自然に飯田の話を受けるようになり、時に今のような踏み込む問いを発することもある。その横で、何をどこまで話して良いものか自分はいまだわからずにおり、最低限の相槌を打ちながら、小気味良く連なる会話をただ聞くままに聞いている。
 事件後、飯田と緑谷から誘われて昼食を共に取るようになった。麗日を加え揃って好奇心が強く、物怖じしない三名からの問いかけを含む会話のなか、自身のことは好物から生活習慣に至るまでそれなりに話をしたように思うが、こちらからはあまりものを訊ねていない。確かに飯田は毎日オレンジジュースを飲んでいた。思い返せばあの病室でも口にしていた。麗日の言ったように、印象に反すると感じたこともないではなく、そうしようと思えばもっと早くに知ることのできた話のはずである。だが轟が努めて気にかけていたのは、飯田の負った怪我ときずだけだった。一度かばい叱咤を飛ばした人間の責任として、無事に治るまでを見届けねばと、義務的に思っていた。
 路地裏の地面に倒れ伏した飯田の姿を見て、ヒーロー一家のエリートの脆さを見透かした気がしていた。肩を落としほろほろと涙をこぼす姿を見て、生真面目な委員長の弱さを見通した気がしていた。その半分は確かな事実で、半分は浅い思い違いだった。病室で自省と決意を語り、退院後、級友たちの目前で再出発を宣言した飯田は、その誓いの言葉の通り、驚くほど速やかな立ち直りを見せていた。まるで無理をしていないというわけではないのだろうが、はた目にはそうと感じさせないほど、即座に前へと向き戻り、元と変わらない、いや、よりまっすぐ伸びたようにさえ見える姿勢で、先ごろ包帯の取れたらしい腕をきびきびと振って歩き出している。
 飯田は轟が一度は決め込んだ以上に強く、深みを持った人間だ。あの夜に覗いた姿はほんの一部で、底などまるで見えていない。まだ知らないことばかりなのだ。秘めごとでもなんでもないらしい、些細な個性の事情でさえ、自分は今ようやく聞いた。
「……轟くん、どうかしたかい? やはり何か気を悪くさせてしまっていたようなら、遠慮なく言ってくれ」
 黙り込んだのを機嫌の低下と見て取ったのか、情けないことだが俺はそうしたことにあまり気が付けていないようだ、と眉下げて訊ねてくる飯田の隣で、蛙吹が微笑を浮かべている。彼女も近ごろの飯田の姿に何か感じるところがあるのだろうか。
 轟は知らず知らず地面へ落ちていた視線を上げ、首振って答えた。
「いや、なんもねぇ。取り違えねぇように俺も次から気を付ける」
「そうか、ありがとう」
 一転わかりやすく破顔した飯田にケロケロと笑い、でも飯田ちゃん、と今度は蛙吹が問いかける。
「あなたのボトルはそれだけなの? 運動中にオレンジジュースだけだと、摂れるものが偏ってしまうのではないかしら」
「確かに、もともとスポーツ用の飲み物じゃないもんね」
「スポーツドリンクと両方飲むとお腹たぽたぽになってしまいそうやけど……」
「うむ、良い質問だ!」
 疑問を重ねる三名に、しゅば、と腕を直角に上げ、教師じみた言葉で飯田が答える。
「実は柑橘飲料は運動に非常に適した成分配合になっているんだ。糖分もビタミンCも疲労回復に欠かせないし、柑橘類に多く含まれるクエン酸はスタミナの持続に高い効果がある。カリウムも豊富だからミネラル補給にももってこいだ!」
「ほえー、そうなんや」
「だがナトリウムがほとんど入っていないから、いわゆる塩分不足は防げない。そのため運動時用として売られているオレンジジュースは加塩されているが、俺の場合それでは燃料にならないし、エンジンに回るエネルギーも多いから百パーセント身体に吸収されていないようだ。なので不足分はこうしたもので補っているぞ」
 つらつらと立て板に水の様相で語り、荷置き場へ腕伸ばして取り上げたのは、手に乗るサイズの、おそらく小銭入れとおぼしき合皮の鞄だった。ファスナーを開けて広げ示した中に、個包装の大粒のラムネのような物が詰め込まれている。
「あ、塩タブレットだ」
「レモン味のや」
「これなら手軽に補給ができるし、水分過多にもならない」
「なるほど。夏場は水を沢山飲みがちになるし、スポーツドリンクと一緒に持ってても良さそうだね!」
 緑谷の同意を受けて大きく頷き、よしと言って飯田は包みをひと掴み取り出した。
「いくつかお裾分けしよう!」
「え、いいの?」
「先日近所の店の特売に出ていて、大量に購入してしまったからまだまだ家にあるんだ。遠慮はいらないぞ」
「飯田くんも特売品買ったりするんや……」
「もちろん。親元を離れた暮らしだからこそ浪費は控えねばな!」
「ほんとに真面目ねぇ」
「小銭入れから飴ちゃん配るって、大阪のおばちゃんみたいや、んふふふ……」
 タブレットを受け取りながら肩震わせる麗日に、何がおかしいんだね、それにこれは飴ではないぞ、と手刀を繰り出してさらに抱腹させてのち、飯田は轟にも手を差し出してきた。
「轟くんもどうだい。君は自分で体温調節できるようだが、全く汗をかかないわけではないのだろう?」
「……ああ。すまねぇ、もらう」
 礼を言い、手のひらにころりと落とされた三つの包みを眺める。これも飯田の「未知」であったものの一片。今「既知」とされたのは、蛙吹が踏み込み訊ねたためだ。自分はそこに居合わせたというだけだが、きっとほかのクラスメイトたちより早く「既知」を手に入れた。そう気付いて、心の動くまま口を開き、訊ねた。
「ガソリン切れたら個性使えなくなんのか?」
「全く使えなくなるというわけでもないが、出力はかなり落ちてしまうな」
「そういうの、俺らに教えて良かったのか。言っちまえば弱点みてぇなもんだろ」
 轟の言葉に、あ、と緑谷たちが気付きの顔を浮かべる。どうやらこれまで誰もしていなかったらしい問いに、飯田は焦る様子も気を悪くする様子もなく、ああと頷き答えた。
「昔は俺もそう思っていたんだ。身内以外に明かすべき情報ではないのではないかと。兄はそんなことはないと、むしろ仲間たちに積極的に話してもいいぐらいだと言っていたが、良くわからなかった。最近ではどちらとも気にしないようになっていた」
 だが今なら、あの頃の兄さんの言葉がわかるように思う、と、常の勇み気を収めて、よどみなく語る。
「少々みっともない話になってしまったとしても、人に自分の思うところを打ち明けたり、強みや弱みを開示したりするのは大事なことだとようやく学べたんだ。無用な隠しごとは回り回って自分も他人も傷付けかねないし、仲間の強みを理解していれば素直に頼ることができる。弱みを理解していれば助け合うことができる。麗日くんの吐き気だって、皆が知っているからフォローできているだろう? 俺のガソリンも同じさ。弱点のどうのと言って、プライドだけを理由に隠すのは無駄なことだ」
 話を向けられた麗日がうんうんと頷き、私も飯田くんが走れなくなったら助けるよ、とその場で駆け足してみせる。とても頼もしいが、俺はエンジンを使わなくてもきっと麗日くんより速いぞ、と飯田は笑って応えた。
「……かっこいいなあ、飯田くん」
 小さく独り言のように発せられた、おそらく隣の轟の耳にしか届かなかっただろう緑谷の呟きに、異論は浮かばなかった。飯田の言う〝学び〟はおそらく例の一件をきっかけとするもので、その時の自分と緑谷は結果的に飯田を救けた立場だ。しかし、こちらが一時気にかけたような救助者と被救助者の関係も、それに伴う責任と義務も、ましてやわずかばかりの上下の差異も、生まれ残ったようには思われなかった。
「あ、後半組が準備できたみたいや」
 前方に設置されたスクリーンに交替で運動場に入ったメンバーの姿が映し出され、めいめい雑談を終えて横並びに集まり、観戦の姿勢に移る。スタート合図までの一分のカウントダウンの間に、列端の轟の隣に立った飯田が、声をひそめて話しかけてきた。
「ガソリンの件、君にもちゃんと話しておくべきだったな。先ほど話していた通り、てっきり既に伝わっているものだと思っていたんだ」
 申し訳ない、とささやかれ、わざわざ謝ることかと思う一方で、自分だけが知らなかったことにもやつきを感じたのが伝わってしまったのかと、ほんのわずかにたじろいだ。相手に気付かれるほどの反応にはならなかったらしく、言葉が続く。
「ぼ、……俺は、二度と自分の馬鹿な矜持や勝手で、君と緑谷くんを傷付かせたくない。だから知っておいてほしい。できることなら、君にはもうあまり不甲斐ないところを見せたくはないが」
 今さらだしな、と浮かべる苦笑に濃い翳りはなく、かすかな自嘲の色だけがにじんでいた。それを否定してやる言葉も、助け合いは当然のことと麗日のように意気込みを返してやるための言葉も、「仲間」たちとの、「友人」たちとの距離をいまだ掴みかねている轟の頭には、ついに浮かんでこなかった。
「……おう」
 無味乾燥な相槌に、よろしく、と頷きが返り、笑みが喜色に塗り替わる。
 あの路地裏で、病室で紡がれた三人きりの秘密と、正負両面の高揚から生まれた連帯感。見つけた脆さと弱さ、捉え直させられた強さと明るさ。あとから知ったものもあれば、おそらく先に知ったものもある。
(先に、のほうがいいな。なんか)
 思いがけず近付いた距離と、まだこなれないながらも友と名の付いた関係には、「あとから」、まして「最後に」の言葉は、あまり似つかわしくない、望ましくないもののように思える。
「ひゃーすっぱい!」
「こら麗日くん、もう始まるぞ、口にチャックだ!」
「ごめぇん」
「チャックて」
「委員長改め幼稚園の先生」
「オイラの頭越しにイチャつくんじゃねー!」
 賑やかなやり取りで手に握ったままの包みの存在を思い出し、袋をひとつ破いて大粒の錠菓を口に放り入れた。強い酸味が耳下腺を刺激し、湧き出た唾液に濡れて粒が融け崩れていくとともに、向こう気じみた奇妙なもやつきも、いつの間にやら胸の内から融け消えていった。

 二日後。演習開始前の準備時間中、クラスの一角が驚きと笑いに湧いていた。
「委員長、何それ?」
「俺のボトルだが」
「いやわかるよ、わかり過ぎるぐらいわかる!」
「名前でっか! なんの主張だよ?」
「名前の主張に決まっているだろう?」
「こっちに向けるな飯田、麗日が笑い死ぬ」
 盛り上がる場になんだなんだと近付く人間が次々に腹を抱えて撃沈していく。呼吸困難に陥りかけている麗日をかばった障子の腕の横から顔を出し、轟が目にしたのは、例の青色のドリンクボトル――に、毛筆のごとき太く黒々とした線で胴をはみ出さんばかりに書かれた、「飯田」の二文字だった。
「お前それ……」
「お、轟くん。どうだい、これでもう取り違えないだろう!」
 朗らかに言うのにまた周囲の誰かが噴き出しうずくまった。取り違えは起こしようなくなったが、デザイン性が壊滅している。
「……おう」
「もっと暑くなればふたつ以上持ち込む場合もあるだろうし、余計に自分の物がわかりづらくなるからな。皆も記名をお勧めするぞ!」
「俺は目印にストラップでも付けるわ」
「それもいいな!」
「ぶはははは、だからこっち向けんなって!」
「置け置け!」
 賑わいの中、轟は手にした自分のボトルに目を落とした。じき暑くなるからと注意を発した姉に任せて買った、男子高校生が使うのに無難だと選ばれたのだろう、濃い青色のボトル。飯田は以前から同じ品を使っていたので、企図せずとは言え轟が被せてしまった形であるのに、自分は気にせずそのまま持ち込み、飯田は対処せねばと決めて名前を書いてきた。一度は四角四面の石頭と見定めた優等生の幾枚目かの面が、誰も目にしたことのない場所から現れ出てて、底がまたいっそう深くなる。
 まだ知らない。自分も、ほかの誰も、まだまだ。
 胸を抜けたのはもやではなく安堵の息に似た風だった。どこからか柑橘の香りが昇ったように感じ、無性に甘酸の実を口にしたくなった。


       ○


「このあたりで休憩しよう、轟くん。ペースは大丈夫だったかい」
「ああ。ちょうどいい」
「良かった」
 公園の奥、大きな欅の横手に据えられたベンチの前で足を止め、共に息をととのえてから、並んで腰を下ろした。風の吹き抜ける日陰はまだだいぶん過ごしやすいが、日なたは初夏の太陽が照り付け、じりじりと地面を焦がしている。近場だからと横着せずに髪色隠しのキャップをかぶってきた甲斐はあったようだ。
「ここで折り返しだから、十分ほど休んで出発したらちょうど十二時ぐらいに家に着きそうだな。昼食の時間にもぴったりだ」
 ランニングウォッチの表示を時刻からGPSデータに切り替え、おお、と飯田が明るく声を漏らす。
「一年でずいぶん距離が伸びたなあ。君も学生時代より足腰が強くなったんじゃないか」
「まあ、正直あの頃よりあっちこっち走り回ってるしな」
「違いない」
 俺も追いつかれないよう精進せねば、と意気込んで拳を握るので、どれだけ置いていくつもりだ加減しろと笑って、今日は一度も稼働していないエンジンを靴先で小突いた。出力も持続力もますます長じた個性を使わずにいてさえ、自分は遅れないように付いていくのがやっとだ。
「走りでおいそれと負けるわけにはいかないからな」
 飯田も得意げに、そして愉しげに笑みを浮かべ、帰りも同じペースで走るから君もしっかり水分補給するんだぞ、と言いつつランニングバッグのホルダーからドリンクボトルを引き抜いた。深い青色の胴を見て、今ほど話題にのぼったところの学生時分の出来事をふと思い出す。さすがに記名はしていないが、十年経った今も中身の〝ガソリン〟は変わらずだ。うっかり取り違えて飲んでしまっても、もう驚いて咳き込むようなことはないだろう。
 まあ運動中にあの濃い果汁を大量に飲み下すのは自分には厳しいし、そも今は取り違えようもない、と自分のボトルを取り出す。飯田が昔から常用しているストロータイプのボトルとは色も形状も異なる、軽量のスクイーズボトル。三年に進級したばかりの頃であったか、うっかり高所から落として壊れてしまったボトルの買い替えにと、連れ立ってスポーツショップへ出かけた飯田が見つくろってくれたのが、これと同型の品だった。
 君は自分で温度調節ができるから、保冷性より機能性や重量を優先してもいいのでは、と語って次々と候補を取り並べてくれた当人は、どれが何やらと選びあぐねる轟から少し離れて、棚の一角の前で立ち止まっていた。どうしたと背後から肩を叩くと比喩ではなく飛び上がり、あたふたと腕で縦横に空を斬りながら振り向いた飯田がじっと見つめていたのは、青から緑へグラデーションする地に、光沢のある灰色の線が模様を描く、発売間もない商品だった。
 これがいいのかと訊ねた轟に、いや違うんだ、いや品は悪くないが、と落ち着きなく首を振り、
『……君の瞳の色だと思って』
 そう観念の声音で答えた顔が、自分の瞳の色を融け出させたように真っ赤だったのを憶えている。
 あの日からずっと、轟は同じメーカーの同じ型、同じ色のボトルを使い続けている。一度何かのインタビューで愛用の品として由来を話したことがあり、売り上げが伸びたとかで、同じ色形の最新の品を含む関連商品のぎっしりと詰まった箱が、後日メーカーから事務所へ愛顧感謝の手紙とともに贈られてきた。記事を読んだ飯田からは、話すのはいいがもう少しエピソードをぼかしてくれ、とお叱りの言葉を頂戴した。とうに周知の関係となったパートナーとのやり取りをことさら隠す必要は感じていないが、そうした思い出話を漏らすたび、インゲニウム側のファンから「ありがとうございます」と感謝のメッセージが届くのは、良いとも悪いとも判別しがたい点だ。
 ボトルを絞ってスポーツドリンクをひと飲みふた飲みし、渇きを流した舌と喉が次に欲したのは、青春の思い出に連なり記憶の中から引き出された、塩と柑橘の酸味だった。お、と自分の衝動に声漏らし、傍らへ問う。
「なあ飯田、塩タブ持ってきてるか?」
「ああ。あるぞ」
「一個くれねぇか」
「いいとも」
 飯田は軽く応じてバッグを開き、ナイロン製の小ぶりのポーチを取り出した。準備のきめ細やかさはあの頃と変わりないまま、重たい合皮の小銭入れが出てこないのはおそらくなにがしかの成長と言えるのだろう。
「……あ、しまった」
「ねぇか?」
 ぽつりと落ちた言葉に重ね問う。無いなら無いで問題ない、と続けかけたのを先んじて首が横に振られた。
「いや、補充をし損ねただけだ。ちょうどひとつ残っていたよ」
 はいどうぞ、とつまみ出した包みをあっさりと差し出してくるのに、轟も首を振り返した。
「残り一個ならお前が食えよ。俺は別にスポドリ飲んでりゃ足りるし」
「俺も出がけにひとつつまんできたから大丈夫さ」
 そう言ってさらに手を近くへ伸べてくる飯田の顔にはごまかしの気配のかけらもない。轟の「欲しい」を聞くたび浮かべる笑みは、いつも少しこちらの予想に余って優しく、面映ゆく、愛おしい。
「ありがとな」
「ああ」
 遠慮は打ち交わさず、礼述べて最後の一粒を受け取る。軽く転げた包みを初めて分け贈られた日からさらにもうしばしのあいだ、こんなやわらかな表情をあふれさせ得る人間だとは知らずにいた。ふと気付いた時にはそれはごく身近に、傍らにあって、親しみの情が招く焦燥と、次から次へと湧き出る「欲しい」を自分に教えた。堅く真面目でわかりやすい、しかし底の見通せない優等生の、まだ知らない顔を、声を、心を、誰よりも早く、誰よりも深く、知りたいと思った。
 小さなプラスチック袋を破き、点々と果汁の色の混ざる錠菓を取り出す。つまんだ粒を口先に咥えて噛み割り、かけらの一方は口中に送って、一方は唇に挟んだまま、まだこちらへ向いている肩を掴んで引き寄せた。あっさりと前へ傾く無警戒な身体を右手で支え、左手でキャップを外して顔横にかざし、できた影の内側で、半開きの口に自分の口を重ねる。
「んんっ?」
 舌から舌へ、ころりと受け渡した半欠けの粒の酸味のあとに、もう既知と言っていい別の柑橘の残り香が触れて、賞味の間もなく引き離された。
「ふぉ、ろろひくんっ!」
 ひゅんひゅんと手刀が舞い、かけらが妙なところへ入ったのか、不明瞭に名を叫ばれる。頷き応えた。
「半分ずつな」
「手段がおかしい!」
「回し飲みみてぇなもんだろ」
 全く違うだろう、ここがどこだと思っているんだ、うっかり誤嚥したら喉に詰まらせかねないぞ、と赤い顔から噴出したひと息ひと繋ぎの説教の最後尾にのみ、確かに丸呑みは危ない、それは悪かった、と素直に謝罪し、
「お前がエロいからつい手が出た」
 とさらに素直に告白して、いっそうの惑乱の湯気を噴かせた。
 代名詞とも言える脚はもちろんのこと、生来の資質と長年の研鑽により全身を見事に鍛え上げた精悍なランナーの姿は、このところアスリート向けの服飾モデルの依頼が引きも切らないという話も納得の見目良さだ。当人の実直かつ明朗な言動も合わさり、実に似合いの評ではある。
 しかし、健康美、肉体美というものは、見る目が身体そのものへ向かうだけに、得てして艶気と隣り合わせだ。
 日差しが強くなってきたし、最近は眼鏡でいたほうが見つかってしまいやすいから、とかけてきたスポーツサングラスで前髪を額の上にゆるくかき上げ、ランナージャケットのフロントジップを胸元まで下ろし、大きな口を行儀よくつぼめてストローを咥え、喉仏を上下させてゆっくりと中を飲み下す姿は、爽やぎの逆端に水の滴るような色香を見出させる。襟元に覗く鎖骨のきわから胸の間へ汗が流れ落ちる様など、思わず息呑むほどの風情だというのに、気にせず口にする飲料が実はオレンジジュースだなどという〝ギャップ〟の妙も完備している。
「君のそうしたところの審美眼は以前から理解しかねるぞ!」
 かいつまんで伝えた評価に同意はもちろん得られず、ぷいとそっぽを向かれてしまった。膨らませた頬はまだ赤い。その感情豊かさにたびたび「意外」の語を贈られてきた元委員長だが、ここまで幼びた仕草を身近に見せるのは今もひと握りの人間だろう。
 実直なヒーローの顔、たくましい走者の顔、世話焼きなリーダーの顔、稚気漂わせる弟の顔。あれからいくつもの姿を知ってきた。そのうえこれから帰宅したのち、食の偏りがちな轟のために(のせいで)身に付けた栄養士ばりの知識を活かしつつ、慣れた手際で昼食を用意する家庭的な姿を拝むこともできるのだから、もはや飯田知識に関しては最強を自称しても間違いではないに違いない。
 相手の未知を拓き秘事を暴くたびに胸が高鳴って騒ぎ、よくこんな快い高揚に興味なくいられたものと、呆れが一周して自分に感心を覚えすらしていた未熟な学生時代は、自身と世の激変とともに駆け足で過ぎた。その後、自ずから発露させる一面のみならず、人の言葉や行動に応じて表す面までも全て見たい知りたいと、戯れを仕掛けもするようになったのはいつの頃からだったろうか。こんなことをしたらどんな反応をするのか、どんな顔を見せるのかと、ついあれこれ手出しをしてしまう轟に、「君は意地が悪くなった。昔はもっと純朴な人だったのに」などと口尖らせながら、頬を赤くする恋人は滅多に本気で怒りはしない。堅く真面目な委員長の顔の逆側、どころかすぐ隣の面には、ひとに甘い、とりわけ轟に甘いやわらかな人間の顔があって、少しの衝撃でたやすく切り替わってしまう。
 やや言動突飛なところもある変わり者委員長で、オレンジジュ―スが燃料の俊足クラスメイトで、存外に心の強いヒーローの卵で、夢同じくする友人。初めに見出したそれなりに盛り沢山の知識の上に、あとから嵐の日の怒涛のごとく激しい衝撃をもってかぶさってきて、轟の心身を押し流しかかったのは、大きな大きな愛情だった。飯田が重ね持つあらゆる面が、底の見えない情深さに根差すものであることに気付いた瞬間、瞠目し、動揺し、怖じけづきかけながらも、知りたい、欲しいと手を伸ばした。誰よりも早く、誰よりも近く。
 そうして彼は今、自分の隣にいる。いいよ君に全部あげる、俺も君が欲しい、と穏やかにほほ笑んで、このさき一生の未知を共に拓いていくことを誓ってくれた。
「飯田、悪ぃ。もうしねぇからこっち向いてくれ」
「……もう。そんな声出してずるいんだからな君は……」
 意識したわけではないがよほどしょぼくれた声音だったのか、怒ってはいないぞ、と言って飯田はこちらへ姿勢を戻した。しゅっと腕をひと振りして注意を述べる。
「だが人目につくところでは駄目だ。もし君のファンが見たら、ショックを受けてしまうかもしれないだろ」
 いかにも正しげでいて優しい言葉に対し、それはお互い様だとか、とうに公表した関係だろうとか、俺を好きならお前のことも好きでいてくれないとだとか、いくらでも理屈をこね挟むことはできたが、
「……それに、俺は人に見られるのはまだ少し恥ずかしいよ」
 一拍置いてあとに続いた、情味に満ちた呟きに全てを上書かれて、衝動だけを口にした。
「じゃあ外でなきゃいいか?」
「え?」
「ふたりきりなら恥ずかしくないよな」
 問いのようで問いではない、既に得ているものの答え合わせの域を出ない言葉に、飯田はそうとは気付かずまた頬を赤くし、轟の良く知る甘さを伴う小さな声で、うん、と頷き応えた。
「そうか」
 調子の良い高揚を感じ、自分の耳にも浮かれて聞こえる相槌を打つ。ベンチの上の手を取ってまた飛び上がらせてやろうかとも考えたが、馬鹿な思惑を気取ったのかどうか、飯田はさあそろそろ時間だ、と言ってロボットじみた動きで身支度をととのえ、出発を促してきた。こちらは急がずボトルをしまい、自分のペースで立ち上がる。
「……前言撤回になってしまうんだが」
「ん?」
 走り出しに備えて脚を伸ばしていると、使わないはずのエンジンを一度空噴かしさせ、かけ直したサングラスのブリッジを押さえて、飯田がおもむろに口を開いた。
「帰りは少しペースを上げるから、そのつもりで」
「おっ……」
 轟が返事を発する前に、行くぞ、と合図を先んじて、一歩目から完璧なストライドで道へ走り出す。慌てて追いすがり、どうにか隣に並んで見やった顔は、偏光グラスの反射で目元を隠し、半分しか表情をうかがうことができない。
(やったな、こいつ)
 惜しさと愉快さが同時に湧いた。目は口ほどに、などと言うが、頬と耳先の赤さはなまじ熟練の走者だけに全くごまかせていないのだから、情の色もほとんど顕わになっている。どうせ君は「じゃあ早く帰ってふたりきりになるか」などと言うのだろうと読んで先手を取り、見事不意打ちに成功したものの、反動を受けて照れ入っている。痛み分け、と言うにはあまりにたやすく甘く愛らしい。
 暴いた場所に飛び込んで予想通りの反応を得るのも愉しいが、こうして不意に未開の場所を教えられて、思いがけない反応を得るのも喜ばしい。日ごと夜ごとに湧きあふれる想いの底を見ることは、もはや一生ないのだろう。なんと幸いな諦念だろうか。
 まだ知らない。自分も、そしてお前も。まだまだ。
「ほんとに速ぇな」
「まだ上げられるぞ」
 やけじみた宣言に加減しろと笑い、まずは隠れた赤い目の中に揺れているのだろう期待と、立ち昇る甘酸の香りの沁みた身の味が無性に知りたい、などと馬鹿なことを考えながら、高揚の熱を胸に満たして、まっすぐ前へとひた走る足を追いかけた。


end.

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