しず


「汗をかいてる」
 ふと頭の隅によぎらせただけのつもりの言葉は、閉じ切っていなかった唇の隙間からほろりと敷布の上にこぼれ落ちて、愛する人をこちらへ振り向かせた。光量を最大にしたベッドサイドランプの灯かりに浮かび上がる、堂々たる厚みを描きつつもしなやかな輪郭の内に、不足なく備わった体幹の陰影を刻むシルエット。絵画の中の英雄のごときうつくしい裸身に見惚れ、今度はほうと吐息が漏れる。
 ぱちぱち、と玉散らすように長い睫毛の影差す二色の輝石が瞬き、ぐるりと我が身を見下ろしているので、頭を枕に横たえたまま、文字通りの指摘ではなかったことを笑って伝えた。
「グラスのほうだよ」
 言えば、轟は今まさに手にしていた大型のタンブラーグラスを顔の前に掲げた。半分近くまで減った水がガラスの内側で揺れて、ランプの灯をきらりと照らし返す。
「……汗?」
 呟きとともに首傾げられ、ああなるほど、と初めの反応の所以を理解した。自分たちのあいだではままある言葉の行き違いだ。
「グラスが結露して表面に水滴が付いている様子の喩えだよ」
「初めて聞いた」
「文語的……というか創作的な表現だから、日常ではほとんど使わないかもしれないな」
 へえ、と納得と感心の相槌が返る。知識のすれ違いが生じたあとの説明を煩わしげに聞く人間もいるが、轟にその種の反射を起こされたことは一度もない。平易に伝える、という配慮を忘れてしまいがちな自分を甘やかすような性質の持ち主である(そのぶん、ほかの人間と話す時にはこれほど気を緩めてはならぬと自戒させられている)。
 会話の間にガラス上の「汗」が揺れて玉となり、下側のふちまで流れて、ぱたりとラグの上へこぼれ落ちた。あ、と追うように声落とした轟が手のひらで底を覆う。今度は拭くものを探してぐるりと動いた視線がベッド上のタオルケットに一度止まり、いやこれは叱られるな、という思い直しで逸れていったのがわかって、また笑いを誘われた。
「コースターでも買ったほうがいいかな……」
 今はともかく、別の情夜のさなかにおいては、少しの間もこの場から、そして相手から離れるのが惜しい、という状態になることもしばしばである。しかし熱にかまけて水分補給を怠ってはならじ、と幾度かの「のぼせ」の失敗と反省を経てのち、あらかじめ水を注いだグラスをそばに用意するようになったのだが、飲用にはウォーターサーバーの冷水を使っているため、特にこの季節は室温との差で結露が生じてしまう。滴る「汗」でサイドテーブルの天板を痛ませる前に、何か対策はしたほうがいいだろう。
 そうか、と飯田の呟きに頷きつつも、轟はほとんどうわの空の様子で水をあおった。こちらにしても、ちゃんと聞け、などと説教を始めるつもりは毛頭ない。それぞれ十日を超える連勤を終えて共につかの間の休みを控えつつ、またその先に、盂蘭盆という年に一、二を争う繁忙の時期を待つ夜の、まだ宵の口も口の刻限である。ふと漏らした思案も夜明けまで記憶に留めていられることやら、濡れた唇をそろりと舌で拭う恋人へのときめきに負けて、あっけなく頭の隅に追いやられた。
「お前もまだ飲むか?」
 じっと注いでいた視線を別の欲求の表れと捉えてか、グラスを揺らして訊いてくる。少し考え、答えた。
「じゃあ、もうひと口」
 ぱちり、また輝石が閃いて、次の瞬間ふっと笑みの形になごんだ。一杯、ではなくひと口、と求めた欲が今度は正しく伝わったらしく、再度あおったグラスをサイドテーブルに置き残し、轟はそのままベッドの上へと戻ってきた。
 枕から浮かせた頭をスマートな仕草で支えられて、ねだった通りの口付けを受ける。唇の間から流れ込んだ水はまだ冷たかったが、昂ぶり果てた熱の中ですぐにぬるびた。次いで差し入れられた舌にからかうように冷やされ、小さな器には到底収まりきらず、にじみ浮き出る想いは結露ならぬ甘露の粒と転じて、たちまち心を潤していく。
「んぅ……ふ」
「飯田」
 思うさま咥内を遊んでいった舌が抜け出して、低い声が名を刻む。傾げた首裏をさらり撫でられ、
「もう一回、していいか?」
「……駄目だと言ってもいいのかい?」
 問われた言葉に、即座に返した。切れ長の瞳が一瞬丸くなり、すぐに苦笑の弧を描く。
「悪ぃ、思ってもねェこと言った。もう一回……いや、もっとしたい。しよう」
「ふふ」
 ぐりぐりと肩口に懐かせてくる紅白頭を撫でて、うん、俺ももっとしたい、と応える。もちろん思いやりの問いであったことはわかっているし。その心遣いは嬉しいが、この日、この状況だ。率直に欲をさらけ出して求めること、求められることに歓喜する夜もある。
「飯田、愛してる」
「俺も」
 愛してる、と返す前にまた口をふさがれて、続きを声の代わりに熱で受け取っていった舌が、唇から顎へ、顎から首筋へと降りていく。二律の熱にくすぐられるそばから、肌がひくんといやらしく応えるのがわかる。
「あっ、ァ……とどろきく、ん」
「うん」
 漏れ出るあえぎをごまかそうと呼んだ名に、うわの空の相槌が打たれた。あ、これは長くなる、と気付いて、触れられる皮膚の内側がまた一段熱を上げる。
 半月近く共寝の間が空いて、今夜は始まりからお互いに性急だった。なだれ込むように寝室へ入り、ベッドへ転げて、服を全て脱ぎ捨てる間も惜しく抱き合い、欲を注がれ、受け入れた。一度でグラスの水を半分以上使うほど、幾度も名を呼び合い、快にあえぎ、喉を枯らした。
 無論、厭わしいことなど一切何もなかった。轟もあえて一度離れて飯田の身体を気遣ってくれはしたが、詫びや埋め合わせなどと思っているわけではないだろう。ただ「もっと」と同じ望みを行き交わせたので、ならば二幕目はゆっくり、と考え至ったに違いない。想い通わせて五年、互いの身体を満たすすべも熟知しつつある。熱く冷たい指に舌に、ゆっくりと丁寧に愛され、暴かれる悦び、その果てに自分が演じてしまうだろう媚態を、早くものぼせ始めた頭で思い描いて、畏れと期待に淫らがましく全身が震えた。
 一糸の隔たりもなく重ねた肌は、沸き返った慾の気配をあっさりと恋人へ伝えてしまい、飯田の首元で顔を起こした轟が頬ゆるませて笑う。意地悪と色香を同時にまとう笑みがなんともうつくしい。ああずるい、と小癪に感じつつ、せめて尽きる前の余裕を今披露しておこうと、もう一度その頭をくしゃりと撫で回せば、お返しとばかり首すじを甘噛みされる。
「んぁ……う、んっ」
「飯田、かわいい」
「んん、あっ……こら……」
 直球の賛がこそばゆく、身じろいだ拍子にこめかみから頬を伝って滑り落ちた汗の粒を、喉仏のそばで遊んでいた舌にぺろりと舐め止められた。ちゅ、とそのまま唇が皮膚に吸い付いて、急所に印を刻むごとく、快い痺れを残していく。
 轟は飯田の肌を撫でるのが好きで、こうして唇や舌を這わせる行為も好んでしてくる。活動スタイル上、上半身は比較的荒れが少ないので、「触り心地がすげェいい」などと言うのもまだ少しは理解できるのだが(逆に下肢はエンジンの影響で体毛が無いかごく薄い代わりに傷だらけなのだが、それがお前らしくていい、と嘯かれる)、人の皮膚を舐めての感想が「甘い」であった時にはさすがに首を傾げた。汗の組成は九十九パーセントまでが水で、残り一パーセントのほとんどが塩分だぞ、と解説しても評をくつがえすことなく、具体的な果実の名を挙げて、やはり「甘い」と言う。
 おそらく鼻が慣れ切ってしまったかして、自分自身ではほとんどわからないのだが、そばに立った相手にオレンジの匂いを感じさせることは十年以上前から承知している。しかしそれはあくまでマフラーからの排気に混ざったガソリンの残存物質由来のもの、それが服や髪などに染み付いてしまったもので、皮膚その他の代謝によって気中へ柑橘成分が発散されているわけではない。
 ではない、と理解しているのに、くんくんぺろぺろと、甘え上手で水飲み下手な猫科の獣のごとく、飯田の肌にすり寄っては舌を使う美丈夫の様子を見ていると、もしや本当に甘酸を漂わせる何かが分泌されているのやも、彼という伴侶を得て体質に変化があったのやも、と妙な考えが浮かんでくる。それほどに非現実的で、こそばゆくも幸福な景が目前にあることに、いまだめまいを覚えてしまう。
「ひゃっ、ん」
 眼下で動く頭をとろりとした心地で眺めていると、腰脇に添えられていた轟の手が不意にずり上がって胸を揉み上げ、上向きになった頂きを口に咥えられた。唇の間でやわく食まれたと思った次の瞬間、尖らせた舌先にきゅっと潰され、下からいやらしく舐り上げられて、走った愉悦の刺激に思わず声が漏れ、腰が跳ねる。
気持ちひほひいいか?」
「んあっ……う、ん……」
 文字通りに舌足らずの声であけすけに訊かれ、きもちい、とそれ以上にあやふやな声で正直に答える。今さらごまかせるものでもないし、ごまかせたところで何か良いことがあるわけでもない。それこそなんの機能も持たない、ただの飾りでしかなかったはずの部位は、もう何年も前から恋人に愛でられて悦ぶだけの器官になり果てている。
 吸われ、つつかれ、捏ね舐められるたびに、ひりりと甘い信号が背を走って、下肢まで伝わり、奥のうろを切なくひくつかせる。いつの間にやら長い手指も慰撫の列に加わり、胴や腹、脚に至るまでのあちこちを愛しげに撫ぜられていて、はしたないと恥じ入る余裕もなく、身をよじらせてあえいだ。切れぎれに名を呼べばすぐに呼び返されて、幸福と官能の水嵩を押し上げる。
「あん……んっ、やぁ」
「もっと触ってほしいとこあるか?」
「んんッ……」
 美容師か何かのような問いを笑うことなく、ふるふると首を振り、答える代わりに「僕も」と言って腕を伸ばした。
「君に触りたい……」
「お」
 下へ下へと迫るうちに臍のあたりまで下がってしまった髪を指先で揺らす。すぐに起きた頭がまさにしなやかな豹のごとく伸び上がってきて、役者じみた美貌と再びまっすぐ相まみえた。ほう、と感嘆が自然に漏れる。
「……轟くん、かっこいいな……」
「お前はかわいいことばっか言うなよ」
 ゆっくりできなくなるだろ、と笑いとともに鼻頭へ口付けを落とされる。我慢などせずとも良いのだが、あくまでじっくり愛でてくれようというのなら、こちらがあえて水を差す必要はない。夏の夜とてまだ明けるには早いのだ。
 首を反らしてみせると望み通りに口へのキスをくれたので、両手を上げて背へ回した。たくましく長じた身体を腕いっぱいに感じ、胸が高鳴る。浮き出た肩甲骨と背筋の隆起を指で探り、ゆるりと撫でたどると、重ねた唇の間からくつくつと笑いの音がこぼれた。
「くすぐってぇ」
「む……気持ち良くないかい?」
「気持ちいいよ」
 もっとしてくれ、とねだられたのを幸いに、遠慮なく続けて手を動かす。とは言えこの体勢では触れられる部位も限られるので、愛撫を捧げているというよりは、飯田が轟の背の優美を好きに堪能しているだけに近しい。
「んっ……ん……」
「気持ちいな、いいだ」
「う、ん……、……んあッ」
 人の背中を撫でて陶酔していることは筒抜けであるようで、また愉しげな声が耳元に吹き入れられたのち、ぐいと横へ開かされた脚の根、奥の窄まりの上部に、硬く膨らんだ熱の穂先が触れた。つくつくと門のきわをつつかれるが、いざ割り入ってくるほどの勢いはない。
「ふっ……、と、どろき、くんっ……」
「ん……どうした」
 呼びかけに応えつつ、開いた下腿を撫ぜ支えたまま、既にゴムの覆いのかかった先端から半ばまでをゆるりと擦り付けてくる。飯田の秘所への愛撫であると同時に、交合寸前の自慰でもあるような動作のため、その声は白々しくも艶めいて、混ざる吐息も荒くなっている。
(汗をかいてる)
 すがり付く身を揺さぶり責められ、腰を逃げさせることもできずに啼き忍びながら、最前の会話と同じことを、違うものに対して思った。粒が流れるどころか浮き出るほどでもなく、しっとりと吸い付く程度の水気を指先に感じるのみだが、確かに轟の背が汗をかいている。
 激しい運動をすれば当たり前に汗だくとなる飯田と異なり、正負の熱を自在に操る個性柄、轟は生来から体温の上昇下降に鈍く、それによる影響も生じづらい体質だ。全く発汗しないわけではないが、個性を激しく使って動くほど、汗流すそばから蒸発するか氷結してしまうという事情もあって、騒動のあとでもひとり容姿を乱さず涼しげにしている印象が強い。彼が世間で佳人の麗人のと褒めそやされる理由の一端だ。
 そんなひとが汗をかき、走らずして息速めるほどに求められている。そう理解した瞬間、胸がどくんとひときわ高く鳴り騒いだ。衝動のまま腕の力を強めて背をかきいだき、横へ開き捕らえられていた片脚を自ら上げて、腰に巻き付け引き寄せた。
「あ、ぐっ」
「んぅ……」
 孔の口を虐めていた轟の陰茎が、じゅぷ、と濡れた音立てて中へ喰い込む。今夜はとうに暴かれゆるびていた内壁が、恋しい熱の再訪に喜悦し、無意識に蠢動してさあ中へと肉を誘った。
「いい、だっ」
「とどろきくん、もう……欲しい、よ」
「っ……」
「ああっ」
 浮き出た汗が玉となってこぼれ落ちるほどに、もっと強く激しく愛されたい、愛したい。心を吐露した刹那、奥までひと息に貫かれて、目の前に快楽の火花が散った。
「お前、反則……っ」
「だっ、て、んぁ、あっ……」
 君が意地悪するから、という詮ない反駁を声の一片にもできず、敷布に固く縫い止められたまま、きわまで抜かれたと思う間もなく最奥まで突き上げられる。そうしてまた快を沁み入らせるような緩慢な動きで抜き出され、浅瀬で止まった雁首のかかりに愉悦の腺を小刻みにえぐられ、もうだめ、と訴える寸前で再び奥を穿たれと、大きくゆるやかながらも容赦のない抽挿の刺激と、ずちゅずちゅと淫靡に響く音に呑まれながら、逃れようなく性感だけを引きずり出されては、深く深く撃ち込まれていく。
 やがてたちまちのうちに器は満ちて、汗の粒を見るまでももたず、あっけなく弾けて中へ外へあふれ落ちた。
「ひぁ、あぁあっ……! あ、んん……」
「ん、うっ……」
 びくびくと跳ねてすがる身体を強く抱きしめ返されて、深い愉楽と安楽が同時にもたらされる。全身を満たす多幸感と恍惚の余韻で湧き上がり、目尻から頬へこぼれ落ちた涙を、熱く冷たい舌が掬い取っていく。
「……甘い」
 無論そんなはずはない涙液の組成を思い出して解説をぶつより早く、そんなことより、と言いたげな美丈夫の笑みが間近に迫って、首反らせてねだるまでもなく、確かに甘い口付けをくれた。


 後日、互いにこっそりと買い求めていた轟購入のレザーコースターと飯田購入の断熱タンブラーが同時に披露され、それぞれ良く似た赤青一対の品を見て笑い合ったのち、早速の活用に至ったのは、また別の熱く麗しき一夜の話。


end.

NOVEL MENU