ストレッチを終え、何か温かいものでも飲もうかと立ち上がった飯田に、そういやまだあれできるのか、と軽いジェスチャ―とともに訊ねると、もちろんと言って脚を上げた。
「おお」
学生時代よりさらに数センチ伸びウエイトも増したはずの長い脚は、ぴたりと体側に止まって震えひとつ起こさない。特別柔軟性に恵まれた骨格というわけでもないのだろうから、この稼働幅と体幹の強さはまさに飯田が重ねてきた研鑽の賜物だろう。今はゆったりとした部屋着の中で見えないが、太くかつ無駄な脂肪の一片もなく引き締まった大腿部と、誉れ高き個性の備わるたくましい脹脛は、足先まで鍛え上がった飯田の身体のうちでもやはり特別に魅力的な部位だ。
「やっぱすげぇな」
座った姿勢から見仰ぐとより一層の迫力を感じる。当時は口にできなかった称賛を捧げると、俺の自慢だからね、と飯田は謙遜なくにこやかに頷いた。
「脚に個性が発現したのがわかった時から、下半身の柔軟だけは絶対欠かさずやるようにと両親にも言われていてね。走りや蹴りのたびに脱臼してられないからな」
これだけは子どもの頃から兄さんに勝てたんだ、と笑う。しなやかに振り出される脚は護るもののために時に空すらを駆け、悪意を挫くために敵を打ち付ける。宿る信念からうつくしいこの脚に討たれるなら悪人も本望だろう。
つっとカーペットの上に降りる足の動きを見て、また轟の記憶は過去を訪ねる。
「……考えてみりゃ、雄英に入って初めにお前に本気で蹴り倒されたのって俺じゃねぇか?」
「む? ああそうか、一年の体育祭の時だな!」
トーナメントの準決勝で相対し、当時はまだ超短時間の秘技であったトルクオーバーの蹴りをまともに頭に喰らったのだ。思い出すだけでくわんと脳が揺れる気がして、思わず後頭を手で押さえた。
「すげぇ痛かったなあれ……」
「し、試合だからな! 本気でやるとも!」
君だって俺を遠慮なく氷漬けにしたじゃないか、と腕をぴしぴし振って反駁してくる。互いに苦みをも含む契機となった体育祭。先の雑談の回想と同じく、今振り返れば笑い話にすらできる場面も多々だ。思えば、轟にとって最大の転換点となった緑谷との試合に臨むこととなったのは、まず第二種目の騎馬戦での勝利があってこそ。そしてその勝利の最大の立役者となったのは、間違いなく飯田のこの脚だった。まだ大して年月を重ねていない自分の人生でさえ、当時はそれと気付いていなかった大小の奇跡が積み重なって、今ここにつながっている。
万感を胸に沸かせつつカーペットの上で腰をずって飯田の傍らへ進み、座ったまま片脚を腕に抱え込んだ。
「轟くん?」
「ずっとこの脚に助けられてんな」
体育祭の騎馬戦に始まり、雄英在学中も、あの大戦のさなかも、その後開かれた世界でも、幾度となく自分を導いてくれた彼の脚、インゲニウムの誇り。なぜあの時見過ごすことができたのか、今思えばやはり笑ってしまうほどに愛おしい。
飯田は反射に込めた脚の力を抜き、少し腰をかがめて脚に回る轟の手に触れ、そっと指を握った。
「俺も、ずっとこの手に助けられてきたよ」
氷漬けは冷たかったが、と苦笑して、寒さを反芻したのか少し肩を震わせてから、さあお茶でも淹れようとこちらの手を引く。ああと頷いて立ち上がり、キッチンへと向かう数歩、そのまま指先を触れ合わせて歩いた。無知の頃に置いた距離など笑い話の中に収めて、いつでも抱きしめられる場所にこの先ずっと在れればいい。想い込めて見つめた横顔があの頃と変わらぬ鋭敏さでこちらに気付き、あの頃よりやわらかな笑みで、重なる心の形を伝えた。