夏留めし
「お前、焼けねぇよな」
狂おしくも甘やかな睦みの夜に幕を引き、眠りの訪れを待ちつつ寄り添いまどろみながら、名残惜しく傍らへ伸ばした手で愛しいものを好きに愛でるだけのうたかたの時間。頬から首へ、首から肩へ、肩から腕へ、と順に指で撫でおろした恋人の肌を眺めながら呟くと、とろりと心地良さげに細められていた目が方形を取り戻し、数度の目瞬きとともに、枕に沈む黒藍の頭がさらに深く傾いだ。
「……焼ける?」
「日に焼けねぇよな」
ごく最近似たようなやり取りを交わした気がする、と思いつつ、言葉を補う。ぱちぱち、と四角いまぶたが瞬きの数を増やした。
「……焼けるぞ?」
「焼けてねぇだろ」
不思議げに返った声をこちらも即座に折り返しつつ、するすると指たどらせる太い二の腕に、日焼けを示す線はない。顔も首も腕も、今は掛布に隠れた胸から下、脚のつま先まで、ひと繋ぎほとんど同じ色だ。
「そうか。確かに今年はあまり焼けていないかもしれないな……。外でスーツを脱ぐ機会も特になかったから」
轟の言わんとしたことを汲みつつ、しかし焼けないわけではないぞ、とあくまで正確な理解と言い回しを求めるのが飯田らしい。お返しとばかりに、大きな手でするりと轟の肩を撫ぜてくる。
「君だって似たようなものだろう?」
「俺は焼けてるぞ」
たくましい上腕筋のふくらみの感触を楽しんでいた指を離し、互いの顔の間に持ち上げる。手の甲と前腕の半ばに角形に付いた、やや間抜けな日焼け跡。轟のコスチュームも露出の少ない装いではあるものの、常に素手でいるうえに、人の忠告を聞き流してたびたび腕まくりをするため、プロテクターの形を残して焼けてしまっているのが薄明かりの下でもわかる。特に気にしているわけではないが、飯田との差がはっきり表れていたため、ふと見たままの気付きがこぼれたのだ。
ほんとだ、と飯田は丸みのある声で応えた。轟がごくたまに自分の外見のほころびのようなものに触れると、眩しいものを見た、とでも言うように、寄こす視線と言葉が妙にやわらかになることがある。朝の寝ぐせへ嬉しげに手を出してくるのと同源の情なのだろうか。
「君も日焼け止めを塗ったらどうだい」
しかしそこで「そのままがいい」とは言わず、解決策を述べてくるのがやはり飯田だ。そして自分が返す回答も、おおよそ常に同じ方向である。
「別に焼けたくねェわけでもねえし」
積極的に焼きたいわけでもないが、どうにも面倒が勝る。仕事や暮らしに支障が出ない限りは、進んで手間を増やしたくはない。そんな思惑を相手も想定済みだったのだろう、そうかと頷いたあとに説教を続けもせず、ただ口ゆるませて微笑した。
笑みに惹かれて顔を寄せ、重ねた唇を上下に軽くついばみ合いながら、また手を伸ばして抱き込むように腕へ触れる。肩の下と肘近くの前腕部に古傷が小さく残るほかは、見るにも触れるにもほとんど荒れを感じない、なめらかな肌。一瞥で目につく大きな裂傷痕も、今は横臥の姿勢の下側に隠れている。
離した口の間に、ん、と吐息混じりの声がわだかまる。誘いを得た気分で今度は布団の中の膝を折り上げ、足裏で下肢をくすぐりにかかれば、飯田は身じろいで笑いを深めた。
手より感覚の劣る足先にもその頑強さが伝わる、伸びやかな健脚。肌の上のみならず、おそらく目に見えない内側にも、腕の何倍、ともすると何十倍も、まさに走者の
勲たる傷の刻まれた部位だが、触れ心地は大変に良い。たしなみやパフォーマンスの向上を目的に処理しているのではなく、強力な内燃機関を宿す影響で、腿にはごくうっすらとした産毛しか生えず、膝から下に至っては産まれてこのかた無毛である、と語るのを聞いて、女子を中心とする級友たちが羨みの声を上げていた記憶がよみがえる。
発達しきった大腿筋をするすると撫で遊び、膝頭から前脛までの皮膚と腱をゆっくりと愛でてのち、いざ裏へ向かわせた指で排気筒のふちをなぞり、格納孔へつま先を差し入れると、こら、と今度はすぐに咎められた。どうぞ君の望むまま愛して、と従順に明け渡される閨の恋人の身体の中で、ただひとつだけ断りなく触れると叱られる器官。しかし事ここに至って贈られるのがやけに間延びした、文字に起こせば語尾にハートの記号が付いてくるような声なのだから、叱責の力はほぼゼロと言っていい。
「急に火を噴いても知らないぞ」
それでも毎回律儀に注意をくれる飯田に、自分なら平気だと反駁はしない。そうした問題でないことは理解している。
「ん。触りてぇ。触っていいか?」
「いいよ」
ふふ、と笑いの息とともに半秒の間も空けず答えが返る。飯田もそんなところ触って楽しいのか、とはもはや訊ねてこないどころか、手の届く位置まで脚を上げてくれと言えば素直に応じてくれるので、つまりこれは付ける薬もない閨中の戯れのひとつだ。
予定調和の許諾を得て、抱き込んだ背と脚を手で、首まわりを口で慰撫する。性感を再起させる意図はない。飯田も敏に反応することなく、完全に脱力してこちらへ身を任せている。このまま続ければあっけなく寝付いてしまいそうだ。
フルフェイスのメットに、顎下から足先まで全てを防護するアーマー、グローブ付きの地厚のアンダースーツ。轟など比ではないほど露出の少ないコスチュームに隠されたうつくしい身体に、指で、唇で、舌で、触れるのが好きだ。ただ快いという事実があるのはもちろんのこと、いともたやすくそれを許されて、こうして全身から愛情を返されるたび、幸福の極みに立った心地になる。
首元からちらと見上げると、穏やかに揺れる赤と目が合った。燃え立つ炎の色であるはずの瞳は、まるで暴威の性を感じさせない。
二週後に迫るその日にふと想いを馳せ、会話の初めに戻るように、ぽつり呟く。
「お前、夏生まれだけど、そんな夏男って感じでもねぇよな」
「そうかい?」
それらしいとも言われるが、と首傾げるとおり、夏空や夏の花が似合う点、爽やかさと裏写しの、ある種の暑苦しさのような性質を持つ点では似合いの季節だ。しかしたとえ秋や冬の生まれだと言われても、読書の趣味やどっしりとした落ち着きの様、身にまとう精白の色などから、「なるほど」という評を得ておかしくない。
「そもそも夏男の定義があまりわからないが……」
「切島みてぇな感じじゃねえか」
旧友の列から具体的な名を出せば、元クラスメイトたちの誕生日を全て記憶している委員長は「彼は秋生まれだよ」と言って笑った。
「先週会ったけどもう真っ黒だった」
「切島くんらしいな」
「俺もたぶん盆のあいだにもっと焼けるぞ。海水浴場だぞ、初めの現場。水着まで用意されてたし」
「あ……、ふふ」
そうだった、と頷き、海に照り付ける日差しの強さとその副産物を想像したのか、肩の揺れを大きくする。事務所のスタッフからはさすがに日焼け対策をするよう言いつかっているが、付け焼刃の策でどこまで防げるものやらだ。
「次に会う時は小麦色の君だな……楽しみにしているよ」
「お前はずっと屋内だっつってたよな」
「ああ。もちろん緊急対応はするが」
明日(零時を回ったので既に今日)の休みが終わってしまえば、どちらもまた十日ばかり家へ帰れなくなる。変事なく終わればまさに夏生まれの恋人の誕生日の直前が〝次に会う時〟となるが、夏男らしく日焼けした飯田と再会する可能性はかなり低そうだ。実のところ、「今年はあまり焼けていない」という言葉は、「ここ数年は」と改めたほうがより正確である。二代目インゲニウムは事務所の保護者たち、もとい先輩スタッフたちの忠告をしっかり聞き入れているし、私服で外出する際にも、美容ではなく健康の観点から皮膚の防護に気を遣っている。荒れの少ないなめらかな肌は、轟があえて求めずとも、この先ずっと守られることになるのかもしれない。
「そういうとこも夏男らしくないんだよな」
細かなことを気にかけない大雑把さや苛烈さといった要素も、夏男を夏男たらしめる要因のひとつであるらしい。別に夏生まれが夏男らしくなくたっていいだろう、と飯田はもっともな感想を述べ、
「君だって、真冬の生まれの割には……」
と、言いかけて半端に声をすぼめ、こちらを見下ろしてくる。なんだとじっと見つめ返せば、四角い目が眩しげに細められた。ゆっくりと伸べられて頬へ触れ、目尻を撫ぜていく指は、角張った形に反していつもやさしくやわらかい。
恋しい、愛しい、と声なく語って胸をとろかす仕草に、こちらも動作のみで応える。目前にさらされた日焼けしていない肌に唇を寄せ、きゅうと音の出そうなほどの強さで吸い付いた。あッ、と漏れた湿度のある声が、鎖骨の下、薄い皮膚に咲いた跡に気付き、慌て声に変わる。今度の「こら」はかろうじて説教に聞こえた。
「こら、俺は夕方からだって言ったろ」
「お前は脱ぐ仕事じゃねぇだろ」
「どの仕事でも着替えはあるんだぞ」
また更衣室で不審な動きをせねばならなくなる、とぼやくが、わずか一時間ばかり前、交情の熱でぐずぐずにのぼせふやけていた飯田の首裏に、同じくのぼせた勢いでこの何倍もの跡を付けてしまっていたので、実に今さらの注意である。十数時間後にお叱りのメッセージを頂戴するかもしれない。非定時の連絡と、当代ターボヒーローを慕う夏に浮かれた者どもの牽制が同時に叶う、一石二鳥の采配と思っておくとしよう。
「もう、こんなにくっきり……」
口尖らせながらも、自ら肌を撫でる仕草はどこか艶めかしく、語尾にはやはり思慕のかたちの記号が付属している。こんな愛おしいものを腕の中に納めて、のぼせるな、浮かれるなというほうが無理な話だ。
枕側へずり上がって視線を合わせ、遊ばせていた手を背中へ回して抱きしめ直す。じっと見入る赤が面映ゆげに揺らいで、涼しげに見えるのにな、とおそらくこちらの二色一対を評した。
「……焦げてしまいそうだよ」
夏の日差しより何より、今ここにあるもののほうがずっと熱い。そう言外に語るぼやきには棘の一片も生えていないので、つまりこれは草津の湯に漬け込んでも一生治ることのない、閨中の幸福な茶番のひとつだ。
ここまで来たなら陽の入らぬ場所でも今の季節を存分に思い出させてやろう、と決めて、首すじに口をうずめる。こらと落ちる叱声が甘く融け果てていたのを良いことに、うつくしい身肌の上、
思色の印をひとつ余計に焼き入れてやった。
夏を留めし 火焼けの肌は
君のまなこの 熱に焦がれて、
end.