雨過ぎて、天青し
探していた黒藍の頭がソファの背もたれから覗いているのを見つけて、横へ回り込みながら、飯田ちゃん、と呼びかけかかった声を、寸前で口の中にとどめた。それでも足音と気配は伝わったようで、太くたくましい首がゆっくりとこちらへ振り向く。
「やあ、梅雨ちゃん君」
クラスでただひとり、飯田しか使わないおかしな呼び名。こちらの求めた主旨とは少々ずれていたが、変で面白い、と訂正をせずにいるうちに定着し、今では少し気に入りでもある。
「俺に何か用かい」
「ええ。でもそんなに急ぎじゃないから大丈夫。資料を見ながらお話したいから、また夕飯のあとに少し時間をもらえる?」
「ああ。ほかにも何人かと話を保留しているから、しばらく食堂に残っているようにするよ」
常の状態であれば遠慮せず今でもいい、と言っていただろう飯田は、改めての申し出にすぐに了解を唱えた。人を寄りかからせた体勢での会議はさすがに難しいと判断したらしい。その右肩に乗っているのはクラスの誰か見誤りようもない紅白二色の頭で、顔をほとんど伏せて、すっかり寝入っているようだ。
「お邪魔でなければ、ここで少し休憩していってもいいかしら」
「もちろん」
ありがとう、と礼を言い、正面のソファへ腰を降ろした。少し距離が空いてしまうが、肩に寄りかかられているから、声が大きくなるのを気にかけるより首を横へねじって話させるほうが良くないだろう。
ただ休むのであれば、部屋へ戻ったほうがいいことはわかっている。だが慣れ親しんだハイツアライアンスから最低限の物だけを持ち込んだ殺風景な空間に、自室と呼ぶだけの愛着を持つことはできておらず、身体はともかく心を安らがせようと思うと、自然と共用スペースに足が向かった。想いは皆同じようで、まだ新しいトロイアのソファには、既にいくつかの座り癖が付いている。空き時間に寄れば必ず数人の姿がある場に今ふたりのみが座していたのは、ほかの仲間たちが寝ている轟に気を遣って、すぐに離れていったからだろう。いくつか保留にされているという話もそのいきさつで生まれたものに違いない。
友人たちの優しさに目を細めながら、梅雨はそれでもその場に残ることを選んだ。轟を起こしてしまいたくはない。しかし同じだけ、飯田を独りにしてしまいたくなかった。
窓の外には重たい雲が浮かび、雨の気配と決戦を待つ灰色の空気が要塞を包み込んでいる。
「轟ちゃん、ぐっすりね」
「ああ。しばらく起きそうにない」
肩に乗った頭は飯田が声を発して身じろいでも全く動じない。級友たちから冗談交じりに「お父さんみたいな安定感」と言われたこともある広い肩を枕にしていることを差し引いても、相当の眠りの深さがうかがえた。以前からこうしたうたた寝の際の熟睡ぶりに定評のある轟である。今のように少し声量を抑えていれば、うっかり起こす心配はなさそうだ。
「準備の話をしている途中で寝てしまってね。よほど疲れているんだろう。夜はしっかり睡眠を取れているといいのだが……」
もし眠れていなくとも無理はない、と、ずばり口にはしなかったが、推量はおそらく共通のものであった。眉寄せる飯田へ声をかける。
「飯田ちゃんも、疲れているでしょう」
「ん? いや大丈夫、体力には自信があるからな!」
クラスのまとめ役として、プロヒーローたちとの協議および伝令役として、朝から晩まで文字通りに駆け回っている委員長は、はきはきと応えて自由なほうの腕をいつものように直角に上げてみせた。
空元気というわけではないのだろう。ただ疲れ知らずでなければならないという必要に迫られて、限界の底を掘り下げているだけだ。良いこととは思わないが、大なり小なり今はほとんどの人間がそうした対応を演じている。承知済みの無理をお互いに咎め合っても詮無いことだと、そう、と頷くのみにとどめた。
「でも休める時はちゃんと休むようにね」
「ああ、ありがとう。梅雨ちゃん君も」
労いを贈り合い、精悍な面立ちに浮かべたいつもの朗笑が、ふっと沈み込むように絶える。間を置いて、ひそやかな声。
「……皆そうだと思うのだが、何かしていないと落ち着かなくてね。特に俺は皆より負担の少ない配置だから、今しっかり働いておきたいんだ」
珍しい、と思った。飯田はどんな仕事も役目も等しく重要だと理解しているはずであるし、健全な自負と自尊の持ち主でもある。普段こうした他責へ裏返りかねない、卑下に近い言葉を軽々に口にする人間ではない。
それでもついこぼれてしまうほどに、自分の役目と並べ比べてしまうほどに、彼は自分と同じ戦場へ向かい、実の兄と対峙する、傍らの友人のあまりにも重くつらい役目を気にかけている。
自分が荼毘――兄の燈矢を止めると轟が級友たちに語った時には、既にその布陣は本部で協議を重ねた末の決定事項で、学生の自分たちが覆すことのできる話ではなくなっていた。皆こぞって轟を心配し、思い直させようとする言葉も飛んだが、当人の決意も固く、もはや引きとどめること叶わぬとわかったあとは、複数名から自分が補助として同行する、と手が挙がった。気持ちは嬉しいが身内だけで、と首を振り続ける轟と、それだけは許すまじ、と説得を続ける仲間たちのあいだで議論が紛糾し、あわや衝突となりかけた時、輪の外からやり取りをじっと眺め見ていた委員長が、両者を手で制じ分けつつ一歩前へ進み出、言った。
『そこまでだ。互いを気遣って争うなど本末転倒だろう。これ以上議論しても平行線のままなら、現実的な妥協案を探るべきだ。無論、本部への上申は必要となり、そこでの決定が優先される。まずもって、本部の課している制約上、彼の兄との直接的な戦闘は俺たちには許可されない。炎と熱に耐える術を持つ者がいない以上、俺たちの中の誰も轟くんと肩を並べて共に戦うことはできない。つまるところ、その場において、今回の作戦全体において、ほぼ戦力外の駒とみなされるということだ』
あえて極端な語を選んだのだろう物言いに、幾人かが後追って開きかけた口を結び、顔を俯けた。力の及ばぬ事実の宣告を自らも呑み下し、飯田は静かに続けた。
『それでも皆が彼を案じて、独りで行かせたくないと願うなら、その条件のもとで、俺が手を挙げさせてもらう。A組の委員長として、皆の心を背負う代表として、……俺を、行かせてくれないか』
穏やかに、しかし揺るぎない熱を宿して発された言葉に場の視線の全てが集まり、いくつもの声なき声の交錯があった。誰もすぐには意見を発しなかった。立場を利用するななどとこぼす者も、無論のこと一人もいなかった。足を踏み出したその瞬間、飯田が背負おうとした、いや、既に背負いかけていた覚悟に、皆気付いたからだ。
飯田は他の幾名かと異なり、自分が必須とされる作戦や戦場が特にないことを理由として補足的に述べたが、そんな事情を一切無視したとしても、彼を置いてほかに任せられる者はないと、妥協ではなくそれが最上の案であると、皆が理解し、認めた。
よし、と大きな了解の声を発した切島を皮切りに、信任と支持の言葉が飛び交い、轟を除くA組全員の推挙により、即日の本部上申が決まり、戦闘不参加の条件を維持したまま即日の認可が下った。急転直下の成り行きに反対と困惑を続けていた轟も、本部の裁定を持ち帰り、常の明快さのまま「ではよろしく」と言いのけた飯田を言葉なく見返し、最後には頼むと頷いたが、その顔に笑みはなかった。
確かに、作戦遂行の上では特別にこれと課された役割のない配置ではある。しかし実働の負担は少なくとも、仲間たちの想いを一身に請け負い、轟の心身を護り支えるという任は、単純な言葉では計り知れない重みを持つものだ。決して軽んじられて良い役目ではない。
「飯田ちゃん、少し前に百ちゃんともお話したのだけど、クラス委員だからってクラスの子の問題を全部自分の問題だと思ってはダメよ。心も体もひとつきりしかないんだもの。ひとりで頑張り過ぎたら、どちらも擦り切れて傷付いてしまうわ」
「……そうだな。大丈夫、無理はしていないさ」
無理ではないから問題ないなんてことはないのだけれど、と内心に感慨が漏れ落ちたものの、それを口にして、飯田のくり返す「大丈夫」を否定することはやはりできなかった。いつもは周りを叱り諭す側だ。飯田も当然わかっているのだ。しかし今、無理をし続ける者たちを叱り飛ばして止めることの許されない状況で、自分に休止を与えることもまた許し得ずにいる。学生の立場ながら作戦に欠くことのできない特別の人員として数えられている幾人かのうち、ごく特殊な事情を抱え、直接に敵と相対する者の両名ともが、ただクラスの仲間というだけではない、彼の特別の友たちなのだから、抱える想いはなおさらのもののはずだ。
雄英入学二日目、得票ゼロからの推薦委譲でクラス委員に成り上がった飯田は、その特異な就任の経緯通り、初めは言ってしまえば名前ばかり、勢いばかりの委員長だった。真面目で意欲旺盛、常識も良識も持っていたが、思考が硬く俯瞰が苦手で、自分の唯一と信じる基準で物事を考え、他者に押し付けがちな人間だった。
もちろん、クラスのほとんどがただただヒーローという存在に憧れ、その実像を知って学ぶ以前の折であり、飯田ばかりが特別に未熟だったわけではない。とは言え、良くも悪くもであったのかもしれないが、かねてから明確な目標を掲げ、ゆえに同期より先んじて成熟した思考を持っていた緑谷や轟と比べると、その前のめりの意気高さに伴わぬものが多々あり、明らかに一歩遅れているように見えていた。
それが、いつの頃からであったろうか、ふとそちらを眺めやると飯田のほうが道の先にいて、ふたりに背を見せていると感じるようになった。変化の端緒はおそらく、彼と彼の家族が渦中に巻き込まれた痛ましい事件。級友たちには経緯の詳らかにはされなかった、体育祭後の二十日足らずの日のあいだに、飯田はきっと「自分の問題」に誰より早くぶつかって、そして乗り越えたのだろう。そこにはきっと緑谷と轟が深く関わっていたのだろう。
包帯を巻いた傷跡と、三人でひそかに繋げていた輪をあとへ残した事件を境に、飯田は元の性質を残しつつもその発露の形を確実に変え、まっすぐに着実に前へと進み始めた。目は行くべき先を迷わず見据えながら、周りを共に歩む仲間たちに声をかけ心を配り、遅れかけた者を見つけて気遣い、時に背を押し、時に手を引いて導くことすら自然にこなしてしまうようになった。そうして、名実ともにA組のリーダー、頼れる委員長となった頃には、あとから「自分の問題」に直面した友ふたりの疲弊の足を、いつの間にか追い抜かしていたのだ。
飯田自身がそのことに気付いているのかどうかはわからない。しかしふたりの歩みが止まってしまったことを知った飯田は、当然その手を差し伸べ、共に荷を背負おうと決めたはずだ。しかし彼らの直面した大き過ぎる「問題」は、己のみにとどまらず、社会、世界に複雑に絡んでしまっていて、援けたくとも手も心も容易に届き得ぬ場所にある。
「無理をして代われるものなら喜んで代わりたい。だが、それは叶わないことだとわかっている。だからせめてその時まで、自分が果たせる限りのことをしたいんだ」
委員長の責任を解いてなお険しい、親友たちを想う顔で、飯田は言う。ちらとその目が傍らの寝姿を見て沈痛の色を浮かべ、ひそやかに続けた言葉は、ほとんど怨嗟に近い響きをしていた。
「……なぜ、彼らばかりがこんな重荷を背負わねばならないのだろう」
耐えに耐え、とうとう裂けた喉からあふれた血のにじみ融けたような吐露だった。膝に乗せた拳が震えを宿すほど固く固く握られる。手のひらに喰い込む爪の痛みさえ伝わるようで、近頃とんと笑みの減ってしまった優しい親友の顔を思い起こしながら、梅雨は何か言葉を挟もうと開いた口を、また静かに閉じた。
もはや何もかも覆しようのない事態であり、それぞれの持つ強い力と心に託された、代えの利かない役目であるとわかっている。それでも嘆かずにはいられないのだ。親友たちが置かれた遇の不条理と、立ち向かうべき壁の高さを見上げ、その勇気と志を知りながら、傍らにただ添うしかない己の非力を噛み締めて。
「なぜ彼らばかり、こんな苦しい想いをしなければならないのだろう……」
僕にもっとできることがあれば、と、心を絞り出す悲嘆の声が漏れ、
「彼らの力になりたい」
祈りのような願いのような言葉とともに、ぽつり、涙の粒がひと雫、握り締めた拳の上に降り落ちた。
「飯田ちゃん……」
声も嗚咽もあとには続かず、三人きりでは広すぎる空間に、しんと静けさが満ちる。空の名を持つ彼の心に共鳴るように、窓の外で雨が降り始めていた。景色を白く覆い隠す、夜更けまで続きそうな小糠雨だ。
ひとつゆっくりと呼吸をして胸を落ち着け、飯田ちゃん、と、一瞬前には衝撃とともにただこぼしてしまった名を再び呼びかけた。頼もしく長じた皆のリーダー。いつも真面目で世話焼きで少し愉快なおかしみもある、仲間想いの優しい優しい友だち。その憂いは痛いほどにわかる。
「彼らにしかできないことがあるように、私たちにしかできないこともきっとあるわ」
わかるからこそ、ただ頷き、痛みを深め合ってばかりでいてはならない。飯田へ、自分へ、言い聞かせるように語りかける。
「諦めるつもりなんてないのだけれど、本当に、ただそばにいてあげられるだけかもしれないって、私も覚悟しているわ。自分が願うような力にはなれないかもしれない。手を伸ばしても掴んでくれる余裕なんてないかもしれない。傷付くことを止められないかもしれないって」
あまりにも高い壁、あまりにも深い溝。自身をすり減らしながら懸命に挑む彼らの姿を、ただ見届けるので精いっぱいかもしれない。それでも。
「でも、だから。ずっとそばにいましょう。そうしていつか彼らが必要としてくれた時に、すぐに駆け付けて支えてあげられるようにしましょう。いつになるかはわからないわ。戦いの前かもしれない。戦いの最中かもしれないし、全部終わってしまったあとかもしれない。きっと私たちにできることがあるって、信じていましょう。彼らはとっても強いけど、自分で自分の手を引くことはできないし、自分で自分を抱きしめてあげることもできないでしょう?」
雨は好きだ。けれどこんな冷たく哀しい雨はすぐに過ぎてしまうといい。彼に、彼らに、涙雨は似合わない。
ゆっくりと、俯いた顔が起き上がる。涙の雫はひとつこぼれたきり、頬に跡を残してもいない。四角いまぶたが閉じ、また開き、じっとまっすぐこちらを見て、うん、とほんの少し幼げに、しかし力強く
肯ずる。雨を映して
煙りかけた赤い目の中に、また新しい灯がともったように見えた。
「余計なお世話だったかしら」
「いや、そんなことはないぞ!」
少し気持ちが楽になったよ、ありがとう、と丁寧に礼述べて浮かべる笑みは、去年の今頃とは見違えてやわらかい。あの頃は晴れやかな笑いの良く似合う人間だとは思ってもいなかった。早く全ての憂いがぬぐわれて、また満面の笑顔を見られるといい。
「梅雨ちゃん君はきっと誰からも頼りにされる、素敵なヒーローになるだろうな」
「あら、飯田ちゃんこそとっても頼もしいヒーローになれるわ」
いつも皆を大事にしてくれてありがとう、とはあえて続けなかった。自分ひとりが抜け駆けず、いつか揃って伝えたい言葉だ。そのためにも、と、想い重なるように、ふっと微笑が決意の色に塗り替わる。
「皆きっと無事で、笑顔で帰りましょう」
「ああ。必ず全員でここに、雄英に帰ろう」
すべきこともできることも、担うものの大きさも重さも、皆違う。それでも誰ひとり欠けられない。欠けさせない。祈り、願い、固く誓う。
「……君もだぞ、轟くん」
ささやきを贈る彼の親友は変わらず覚醒の気配を見せず、深い眠りの淵に沈んでいる。兄との戦いを三日後に控える今この時、一度は同行を拒みながらも無意識の信頼を預ける友に肩を借りて見る夢が、せめて穏やかで幸福なものであればいい。降り続く霧雨の音無き音を聴きながら、きっと飯田と同じ想いを、先の祈りに重ねて唱えた。
○
「やあ麗日くん、梅雨ちゃん君。朝からお出かけだったのかい。おかえり」
「おお飯田くん、満員御礼や……」
「あらあら、ふたりとも子どもみたいにぐっすりね」
世界を揺らがせた騒乱が決し、寮制が緩和されて以降も変わらず皆の憩いの場であるハイツアライアンスのソファスペースには、今日も変わらず陸まじい仲間たちの姿がある。
正午を待たず熱線と化した日差しに追われるように玄関を抜け、冷房の風にふらふらと引かれていくお茶子と並んでそばへ歩み寄ると、なんともほほ笑ましい光景の中心で飯田がしゅっと手を上げ、迎えの声をかけてくれた。
「外は暑かったろう。今日も猛暑日だそうだ」
「めっちゃ暑かったよー。寮はエアコンあって極楽やね……」
「荷物を置いたらお茶をいただいて休みましょう」
「そうだ、実家から差し入れに届いたジュースを冷蔵庫に入れておいたから、ぜひ飲んでくれ」
やった、と笑うお茶子とともにキッチンへ向かい、買い出ししてきた袋を食品棚と共用冷蔵庫へしまい入れる。入れ替わりに隅にきっちり積まれていた小さな(そして高そうな)缶の山から林檎ジュースを一本ずつ取って戻り、飯田の正面のソファに並んで腰かけて、いただきます、とプルタブを引き開けるのとほぼ同時に、横手の窓の外で光が走り、轟音が鳴った。間を置かず、ほんの数分前までぎらぎらと照る太陽に焼き焦がされていた地面に、大粒の雨が落ち始めた。
「うわ、間一髪やったね梅雨ちゃん」
「入道雲が出ていたし降るだろうとは思っていたけど、急いで良かったわ」
「予報でも昼過ぎまで天気が不安定だと言っていたな」
夕立と呼ぶにはだいぶん時間が早いが、まず間違いなくにわか雨だ。風があって雲の流れも速いため、長引くことなくすぐに上がるだろう。
にしてもなかなかの光と音であったと、三人揃って窓から飯田の両隣へと視線を移したが、状況は全く変わっておらず、また揃って苦笑をこぼした。
「これでちょっとは涼しくなるとええんやけど……飯田くんはよくこの暑さで毎日ジョギング続けられるねえ」
「早朝ならまだ多少ましだからな。今朝は二人も付き合ってくれたんだが、早寝をして備えるよう忠告しておいたのにこの有様さ。普段の生活が偲ばれるよ」
右肩に寝入った緑谷、左腿に寝入った轟の頭を乗せて、さほど重苦しげにも見えない顔と姿勢で飯田は言う。三名とも朝食の時間には食堂に顔を揃えており、ともにシャワーまで済ませてしまっていたようだから、よほど早い時間からロードワークに出発していたに違いない。趣味のために夜更かししがちらしい緑谷と朝に弱い轟は、飯田の早起きと体力に着いていけず、
午を前に昼寝に落ちてしまったという状況のようだ。
「今週は復興のお手伝いもハードやったしね」
「うむ。彼らは少々気張って働き過ぎるところがあるからな! 毎回朝礼の際に注意しているのにいつも力いっぱいで加減を考えないから、こうして俺の硬い膝や肩を枕に使わされることになるんだ」
いい薬さ、とごく真剣な口調で言う飯田の様子に耐えかねたらしく、お茶子が噴き出して笑う。梅雨もケロケロと声立てて笑った。薬は薬でも苦薬ではないと思われているからこそ、人の入れ替わりもありつつ近頃まれでなくなった光景である。しかも今回に限っては、飯田の説教とは別のところに二名の寝不足の原因があることを知っていたため、なおさらにおかしみが増して感じられた。
「なんか見飽きひん図やけど、飯田くんも身体凝っちゃうし、午後からはパーティの準備やし、お昼前には起こしてあげんとね」
「む、そうか。まあ俺の身体については全く問題ないが……準備の時間は何をしていればいいのだろうか?」
「何もせずに、緑谷ちゃんと轟ちゃんと自由にしてくれていて大丈夫よ。できればこのあたりからは外していてくれると有り難いけど」
かねてから決めていた答えを返すと、むう、と飯田は難しげな顔で首をひねった。
「皆が働いてくれているあいだに何もせずいるのはどうにも申し訳ないな……本当に手伝わなくていいのかい?」
「自分のお誕生パーティの準備を申し訳なく思わんでもいいんよ飯田くん」
「今年はもうサプライズではないけど、蓋を開けてからの楽しみもあるでしょうから、時間までゆっくりしていてくれたら嬉しいわ」
今日は八月二十二日、飯田の誕生日だ。昨年は寮制が導入されてクラスで初めに誕生日を迎えた委員長のため、サプライズパーティを催した。初の試みということもあって、寸前まで飯田に不審と不安の念を与えてしまいつつも、最終的には終わり善ければ全て善し、の言葉に収まったそのパーティをきっかけに、クラスメイトの誕生日のたび祝いの会を開くのがA組のお決まりになっている。
さすがに毎回は多いということである程度人数をまとめる場合もあるが、今年は七月末の週末に日の近い三名を一緒に祝ったため、次の八百万の誕生日までひと月以上間の空く飯田はまた単独開催となった。会の流れ自体はいつもおおよそ同じなので、祝われる当人に秘密にしておくようなことはあまりない。本来ならば。
「そうか。ではお言葉に甘えて部屋でのんびりしているよ。緑谷くんと轟くんが付き合ってくれるということなら、三人で復興支援のレポートのまとめなどもできそうだし」
「真面目ねえ」
「それはのんびり言うんかな」
「しかし彼らは準備の人手にならなくていいのかい?」
「うん、二人の今日の仕事は飯田くんのお世話だから! ……今はどう見てもお世話され側やけど……」
昨年のサプライズ計画で飯田を独り右往左往させた反省を踏まえ、親友二名がパーティ開始までのエスコート役、という名の何かあった際のブレーキ役に任じられたのだが、初手から機能不全に陥っている。やれやれだな、と息つく飯田だったが、こぼした声に険はなく、むしろどこか愉しげな様子にも見えた。
「いつも通りプレゼントはその時のお楽しみなんやけど、飯田くん最近これほしいなーとか思ってるものあった?」
なんかあんまり想像つかんでさ、といつもの通りずばりを訊ねるお茶子に、飯田も気にせず思案顔になり、
「改めて訊かれると、これといったものはないかもしれないな……」
顎に手を当てて答えてのち、隣で寝入る親友たちをまた順に見やり、正直なところ、と事もなげに続けた。
「今は皆がこうして揃って元気で祝ってくれるというだけで、ほかに何も要らないような気がしているんだよ」
「飯田くん……齢十七にして人生の峠越えたおじいちゃんみたいな境地に達してしもとるやん……」
「今思えばなんて的確な委員長信任をしていたのかしらね。私たち」
もちろん本人の成長も任された役職に恥じないものであったが、元来その役にふさわしい資質を備えていたということだろう。これについては自分たちにと言うより、一日であっさりと立場を譲った緑谷に見る目があったのだと言える。
サプライズを計画しているわけではないが、皆の誕生日を祝い始めてちょうど一年ひとめぐりということもあり、改めて盛大なパーティをしたい、という想いが、仲間たちのあいだになんとなく共有されていた。いつも当たり前のようにクラスを引っ張り支えてくれている委員長に、自分たちはその献身をあって当たり前のものだなどとは考えていないことを思い知らせてやろうと、妙な使命感と少しのおふざけが混ざった目標が当人不在の話し合いの場で持ち出され、「委員長泣かせるぞバースデーパーティ」と裏で銘打たれることとなった(当初爆豪の台詞を引用して「泣かせ殺す」になりかかったが、もちろん却下された)。
昨年の企画もそうだったが、真面目で自発的な遊び心に乏しい半面、リアクションが大きく意外にノリが良いところもある飯田は、こうしたいじられ役、驚かされ役のターゲットになりやすいようだ。害のない遊びなら最後には許してくれるという期待含め、すっかりクラスの父親兼母親の立ち位置になっている。家長、もとい委員長が楽しめる企画なら全員が楽しめるだろうという、妙な信頼感があるのだ。
裏テーマが決まり、さて、となったところで、今はターゲットの膝で熟睡している轟が言った。
『あいつ涙もろいから、そんな特別なことしねぇでもすぐ泣くと思うぞ』
そうだね、と笑って同意したのが緑谷で、あとの仲間たちからは、はて、という反応が返った。
『そうだっけ。飯田は泣いてるより怒ってるイメージだな』
『あの爆弾事件の時のお迎えでは凄く泣いてたね。飯田くんずーっと緑谷くんのこと心配してたから』
激情家だけに涙もろくともおかしくない、という想像はあるものの、これまでに目にした限りではまあ普通の範囲という印象だ。危険を冒そうとする仲間に対して激しい怒りをあらわにしたこともあるが、皆が動揺に陥った場面で、まとめ役として理性的に振る舞っていた姿の記憶もまた色濃い。
数秒の黙考の間があり、つまりそれってさあ、とおそらく全員共通に導き出した結論を誰かが言いかけて、緑谷と轟は絶句して顔を見合わせた。そこで初めて、というわけではないのだろうが、自分たちばかりが飯田を泣かせてきたという事実に、衝撃とともに思い至ったようだ。
緑谷はひえっと小さな悲鳴を漏らし、轟は無表情のまま見たこともないほどおろおろと動揺を始め、あとの皆が一斉に笑った。よし決まった、お前ら当日は飯田に張り付いて世話係、んで誕プレも代表で渡して散々心配かけて泣かせてごめんしろ、と任務が言い渡されたというわけである。
そうしてひそかに準備を進め、パーティまであと二日と迫った日、つまり一昨日のことだが、お茶子と二人で復興支援先の施設の中を歩いていた折、廊下の隅で立ち話をしている轟と緑谷の会話が耳に飛び込んできた。
『なあ緑谷、あさっての飯田の誕生日、俺らで手紙渡さねぇか』
『え、手紙? 飯田くんに?』
『おう。すげぇ心配かけてたみてぇだし』
『うん……なんか改めて反省しちゃったね……』
『詫びっつーか、もう一度しっかり礼とか言っておきてぇなって』
『そうだね。その場の流れでうまく伝えられるかわからないし……いざ手紙ってなると少し照れるけど、いいと思う! でも轟くん、僕と一緒で大丈夫?』
『……一緒でなんか悪いことでもあんのか?』
『あっ、いや、全然ないよ! じゃあ今日からそれぞれ書いておいて、明日の夜に二人の分をまとめようか』
『おう。頼む』
そんなこんなで約束の昨夜、よほど頭を悩ませたのか、早朝に予定を控えながらも遅寝と相成ってしまい、今は二人並んで夢の中、というわけだ。
うっかり盗み聞きをする形となってしまったお茶子と黙して頷き合い、くだんの手紙がパーティの最中にプレゼントと共に渡されるのか、その場で読み上げられるのか、はたまた三人の場でひそかに贈られるのか、あとの顛末を知るのは当夜までの楽しみにすることにした。いずれの場合でも、飯田は心から喜んで親友たちの気持ちを受け取るに違いない。
「二人ともほんまに気持ちよさそうに寝てるから、なんか私まで眠くなってきてしもた……」
言葉通りに小さなあくびをしたお茶子を見て、飯田がおやと気遣わしげな顔を浮かべる。
「麗日くんも疲れているのかい。胸ならまだ空いているから貸すぞ」
ぽんと胸を叩きつつ飛び出させた、おそらく全く他意のない発言に、実は肩枕の常連利用者であるお茶子もさすがにぶんぶんと首を振った。
「んんんんめっちゃ魅力的やけど絶対三奈ちゃんとかに何か言われるし、轟くんにも睨まれるから遠慮しとく!」
「な、と、轟くんはそんなことで人をからかったりしないぞ!」
「あらあら」
珍しい照れの反応に、ケロ、と笑いが漏れた。ひゅんひゅんと振られる抗弁の手が、自分たちがここへ歩み寄る前に膝上の紅白をそっと梳き撫ぜていたことを指摘したら、倍増しに頬が赤く染まってしまうに違いない。
オール・フォー・ワン、そして死柄木弔との死闘に幕が下り、病院で再会した飯田は級友たちの怪我の様子をずっと案じてはいたものの、決戦前からその顔にわだかまっていた陰りは消え去り、どこか誇らしげな表情さえ浮かべていた。病室を見舞い見舞われしていた轟とふたり、言葉少なに、しかし確かな理解を通わせて話す姿を見て気付いた。ああ貴方はやり遂げたのだ、と。
また知らぬところで深められていた絆の一端を、雄英へ戻ってのち、ふとした会話の流れで轟からひとり聞き教わる機会があった。あの日彼らの戦場で起こったことを、飾りなく訥々と語る様子は口巧者とはほど遠かったが、淡泊に響く言葉の端々には、報告書や記録映像では伝わらなかった確かな高揚と、飯田の尽力への感謝の想いがにじんでいた。
『そうだったの。お話してくれてありがとう。轟ちゃん、飯田ちゃんにとっても大事にしてもらっているのね』
『え』
何気なく口にした感慨に、ぽかん、と轟が口を開き、あっけに取られたように声を漏らした。
『……本当か?』
『あら』
思いもかけない、と背景に言葉の浮かぶかのような疑問調子であったことがおかしく、少し笑ってしまいながら答えた。
『ええ、もちろん。A組みんなを本当に大切に思ってくれている飯田ちゃんに特別に大事にされるなんて、凄いことだわ』
『……そうだな。本当に、そうだ。……すげぇな』
頬を紅潮させて幾度も頷きをくり返したあとも、むずむずと口が動き、落ち着かなげに足先が床を叩いていた。褒められ慣れていない子どもがどうにか嬉しさを表現しようとしているような、反対に内にこらえようとしているような仕草がなんともほほ笑ましく、飯田に見せてやりたいと思ったものだ。
他者や属する共同体との関わり方を雄英に入ってようやく学び始めたらしい轟は、自分の感情や他人の感情をいくつかの大きな枠の中に入れて、まとめて見聞きし、理解し、表出させているようなところがあった。血のつながりのある身内とそれ以外、程度の分類であったものに、今は「雄英」「A組」という枠が作られ、自分の居場所としてまなざし、親しんでいるのが伝わってくる。それこそ幼い子どもの抱えるごとき平易で平板な世界の中では全てが一律で、これと特別に取り上げ、特別に愛しむものは見つけていないようだった。
それが、この話をして以降、おそらくは半分無意識にだろう、飯田のあとをちょこちょこと着いて回り、できるだけ近くへあろうとしている姿を見ることが増えた。自分が大きな愛に包まれていることに気付き始めた轟は、その中でとりわけあたたかみを帯びて与えられる「特別」を喜び、さらにもっと、と求める期待や希求の心を得たのだろう。今では先ほどお茶子が口にしたような、悋気に近い反応を覗かせることすらある。
当初は困惑していた周囲も、ひと月ふた月と続くうちにカルガモの雛じみた級友の行動に慣れ、当然最も戸惑っていた飯田もどこかで何かしらの納得に至ったのか、近頃は鷹揚に受け入れている。そうして彼はさらに、轟より少し先んじて、まだ形定かにはならぬながらも、ふたり無自覚にひそかに育てていた、「特別」の名前に思い至り始めているらしい。
「パーティ楽しみね、飯田ちゃん」
「う、うむ。そうだな! とても楽しみだ!」
まだ真面目な友だちを冷やかしたげなお茶子を横からそっと制して、話題を戻す助け舟を出す。乗ってきた返事の声は非常に大きく、肩側の緑谷はさすがに身じろいでほのかな覚醒の兆しを見せたが、脚を枕にした轟はぴくりともしない。きっと良い夢を見ているのだろう。
「――あ、もう雨やんどるよ」
「あらほんと。雲もすっかり流れてしまったみたい」
「雨上がりって虹が出るんちゃう? どっかで見られへんかな?」
「ふむ。虹は太陽が高すぎると出ないから、この季節は早朝か夕方しか見られないのではないかな」
「そうなんやー。残念」
「俺はロードワーク中に見たことがあるぞ。麗日くんも今度一緒にどうだい」
「夕方出るのに期待しよかな……」
「でも雨上がりの空は青が濃くて、とっても綺麗だわ」
「ほんまやねぇ」
眺めやる空の下、驟雨に濡れた庭木と色豊かな夏の花が日差しに照らされ、虹の粒を撒いたかのごとく、きらきらと輝いている。
今夜の祝いの会で涙雨が降るとすれば、それはきっと大戦前のあの日に拳を冷たく濡らした花枯れの雨ではなく、盛夏の熱気をやわらげて降る夕立のような、爽やかな慈恵の雨だろう。そうして一時の雨降りが過ぎたら、青く澄み渡る
天を思わせる、彼に似合いの晴れやかな笑顔が見られることだろう。
その表情を間近に向けられて、特別に心震わせる者も、きっとあるに違いない。
「そろそろ二人とも起こしちゃおっか?」
「うむ、いや、……まあ、昼食の時間までは構わないさ」
窓の外では雨浴びた蛙が上機嫌に鳴き始め、珍しく言葉のはっきりしない委員長の代わりに子守唄を歌っている。膝に懐いた紅白をもの惜しげに撫でる優しい仕草を眺めながら、同じく笑顔の似合う親友とふたり、あたたかな心地でころころと笑いの輪唱を奏でた。
Happy Birthday, HERO!