アンスペシャルアニバーサリー
昔から朝に強く、定刻五分前の起床の習慣が身体に染み付いている飯田も、年に何度かは寝過ごしてしまうことがあって、今朝は目を開けた瞬間にああやったな、と気付いた。正確には、ああやっぱり起きられなかったな、と思って苦笑が漏れた。ころりとベッドの中央側へ寝返りを打って、隣に空いたスペースを見る。腕伸べて探った空白から伝わるほのかなぬくもりが、おおよその時刻を指先に伝える。
枕元の時計を見上げて答えを確かめる前に、足向こうのドアがそっと開いて、隙間から紅白の頭が覗き、双つ色の瞳と目がかち合った。
「お。……起きてたか」
「うん。今起きたところだ。おはよう」
おはようと応えながらこちらへ進んでくるので、身をよじって布団に腕をつき、上体を起こす。あ、と言って轟が少し歩を速めたが、止められる前に長座の姿勢になった。
「大丈夫か、まだ寝てていいぞ。朝メシこれから作るから」
「いや大丈夫。もう眠くないしな」
「痛ぇとことかしんどいとことかねぇか?」
「ああ。なんともない」
「そうか」
頷きつつも、信じ切ってはいない顔だ。まあ致し方ない。改めて確認した時刻は概ね推測通りの八時半。大寝坊というほどではないが、自分が多少でも寝過ごしたという事実のみで、変調の有無はごまかしようもなく伝わってしまう。少し面倒で、嬉しくて、面映ゆい。
自然に浮かぶ笑みを向け、言葉を足した。
「いつもの通り、遅寝したぶん長めに寝てしまっただけさ。つらいところはひとつもない」
そんなに気にされると恥ずかしいよ、と、奥底の本音もつい漏れ出る。
寝過ごした朝のお決まりになりかけていたやり取りを、数年前に飯田は頼むからそうまで気遣ってくれるな、と半ば強制的に打ち切りにした。だってそうだろう。前夜の情事が少々激しくて長くて疲れたから普段通りに起きられないだけです、なんて毎回説明して赤くなっていても仕方ない。もう二十四――いや、二十五歳だ。四捨五入すればもはや三十路。そんな初々しい照れが可愛らしく見えるような歳でもないのだ。
いやまあ十代の頃だって照れて可愛いなんて見目ではなかったろう、と埒もないことを自省していると、轟が独りごつように呟いた。
「さすがに気にするだろ。お前、誕生日だったのに」
好き勝手しちまった、とこちらもすっかり反省モードに入っている。さてどう浮上させたものか、とあたたかな呆れとともにしゅんと落ちた肩を眺め、今朝ここへ至るまでの一日、ターボヒーロー・インゲニウムこと飯田天哉、二十六度目の誕生日に思いを馳せた。
飯田の誕生日は八月二十二日。数字の並びとしては割と小奇麗な、憶えやすいと言える日付で、時期としては大きな特徴がふたつある。
まずひとつは、旧盆期間の翌週であること。
祖父、両親、兄、そして自分と、飯田家が三代五名にわたって務めるヒーローという職に就く者は、その担う仕事の性質上、いわゆる「盆暮れ正月」は絶対に休めない、というのが定説である。人の往来とともに事件事故の急増する連休の時期は、あらかじめ危険レベルの高い場での警戒任務に就いておくか、いつ緊急出動の要請が入っても対応できるよう身体を空けて待機しておくのが基本だ。人々の帰省や行楽に伴って生じる交通混雑の報道に並び、非常事態を解決したヒーローの活躍を伝えるニュースが季節の風物詩ともなっているほどで、役割の拡大が進む近年でもここに大きな変化は見られない。
天哉が産まれたのが盆の週じゃなくて良かった、と家族は良く話していた。もしひとつ前の週だったら、とてもこうして誕生日をゆっくり祝ってやれていなかったろうと笑いながら、時にわざわざ休みを取ってまで団欒の時間を作ってくれた。ケーキに並ぶ蝋燭の火を吹き消しながら、産まれたのが今日で良かった、と自分も素直に頷いたものである。
そしてふたつめの特徴が、学生の夏季休暇真っ只中の日であること。
このお陰で小中学校の友人から誕生日を祝われた経験は一度もなかった、と言いたいところだが、中学時代までは誕生日を気にかけてくれるような親しい友人はいなかったので、そもそも問題の俎上に載らなかった。あまり胸を張って語れたことでもない状況ではあったが、この頃は家族が祝ってくれていたので、そういうものなのだと理解していた。
雄英高校に入学して実家を離れ、もう誕生日を祝ってもらうような歳でもないな、立派なヒーローとなるため勉学に集中せねば、などと思っていた初年に始まった、予定外の寮生活。奇しくも飯田の誕生日の直前の導入となったため、本当に驚愕してしまった(ついでに大変な動揺を演じてしまった)一年次のサプライズパーティに始まり、二年目も三年目も、家族と入れ替わる形で、寮で寝食をともにする仲間たちが盛大に祝いの会を開いてくれた。どの年の出来事も今なお鮮明に記憶している、飯田の大切な思い出のひとつだ。
とこのように、総じて善きものとして続いてきた誕生日に、高校卒業以降、またひとつ、特別な意味が加わった。雄英の仲間たちはメッセージを贈り合う形で卒業後も変わらずその日を
言祝いでくれていたが、その中の一名、轟焦凍が、ただの友人ではなくただひとりの恋人として、そばで祝ってくれるようになったのだ。
誕生日おめでとう、産まれてきてくれて、俺と出逢ってこの手を取ってくれてありがとうと、互いのその日に祝福と感謝を伝え交わして、傍らに寄り添って過ごすのが、誕生日の新たな習慣になった。お前が盆の週の生まれじゃなくて良かった、と家族と同じことを言われて、おかしくも嬉しく同意した。君が正月三が日の生まれじゃなくて良かった、とも伝えて笑い合ったものだ。
そうして今年、ひと足早く二十五歳を迎える誕生日、プロデビューして初めての事態があった。昨年までは必ずその日に休みを取ってくれていた轟が、他の事務所の欠員の穴埋めで、盆前からの二週間、泊りがけで出張任務となったのだ。当日、下手をすると日付が回る夜遅くまではどうしても帰れない、とうなだれた真面目なパートナーを、いつかは来るとわかっていたことだから気にするなと背を叩いて送り出し、自分は一日事務所に詰めていた。休暇申請がないことに気付いたイダテンの同僚たちが、なら今年は自分たちがと、夕方からパーティ、と呼ぶほどの規模ではない身内での夕食会を開き、ショートばかりずるいと思っていたんだなどと言って賑やかに祝ってくれた。
つくづく自分は人に恵まれている、と思いながら帰宅し、時計を見上げること数度の二十三時前。ターボヒーローもかくやの勢いで駆け帰ってきた恋人は、迎えに出た廊下で顔を合わせるなり、遅れて悪い、誕生日おめでとう、二十五のお前も好きだ、ずっと格好良くて可愛い、愛してる、と完全な素面だというのに完全に酔ったようなことを矢継ぎ早に述べて、おそらくは疲労による疑似的な酩酊状態からの滅多に見ないハイテンションのまま、喰いかかるような口付けを仕掛けてきた。差し入れられた熱く冷たい舌の二律の感覚で酔いが伝染したごとく思考がぼやけ、あれよという間に寝室に身を持っていかれ、踏ん張る隙もなく押し倒されて――あとの顛末は推して知るべし。
途中で一度風呂に入った際にも中断なく、ほとんど休まず睦み合って、落ちるように寝付いたのは夜明け前の頃だったろうか。朝起きと体力には自信のある飯田も、さすがに普段通りには起きられなかった。むしろ疲弊状態だったはずの轟のほうが、無理を押した様子もなく先に起きていることが驚きである。こうした朝には常の状況なのだが、何か不思議な補完法則でも生じているのだろうか。
「轟くん」
「ん」
ともかく今はこの沈んだ空気の払拭が優先と、ちょいちょいと手招きをして二歩向こうに神妙に佇む恋人をそばへ呼ぶ。サイドスツールに座るよう促し、どうぞ叱ってください、と特大の字が書かれたような反省顔を真横に見て、思わず噴き出した。
「……なんだよ」
「いや、ちょっとへこみ過ぎだろう」
何もそこまでと笑ったが、轟の顔は晴れないままだ。記念日を台無しにしてしまったとよほど後悔しているのだろう。まず根本の認識の差を埋める必要がある。
「なあ轟くん、そんなしょげた顔しないでくれよ。叱らないから」
「叱っていい」
非難の色込めて向けられた視線は居直りなどではなく、またそうやってお前は俺を甘やかす、という意のものだ。別に甘やかしているわけではない。また笑ってしまいそうになったが、どうにかこらえて首を振った。
「叱らないよ。だって何も怒ってないし咎めるようなこともされていないのに、叱ることなんてできないだろ」
「怒ってねぇのか」
「ああ、全く。恋人に抱かれて何を怒るんだい」
含羞を押し込め、気遣いに聞こえぬよう努めて淡々と言う。それでもなお轟の表情はゆるまない。
「恋人だろうがなんだろうが、合意がなきゃ強姦だろ」
「ごっ……凄いことを言うな……もし俺がそんな風にみなしていたのなら、疲れた君なんて回し蹴りで一発だぞ。見くびらないでくれ」
「そりゃそうだろうが」
何か想像がよぎったのか、頷いた頭を自ら撫でる仕草を見て、今度はこらえられずにまた笑ってしまう。轟くん、と再び呼びかけ、告げた。
「本当に何も怒ってないよ。俺はむしろ、嬉しかった。今もとても嬉しいんだ」
切れ長の目がぱちくりと瞬いて、素直に疑念を表す。頷き、続けた。
「二週間ぶりに会えたのも、触れ合えたのも、我慢が利かなくなるぐらい欲しがってくれたのも嬉しかったし、とても疲れているだろうに、誕生日に間に合わせようとして急いで帰ってきてくれたのも凄く嬉しかった。でもね、一番嬉しいと思ったのは、今も思っているのは、今朝起きて、君が様子を見に来てくれた時、ああ俺も君も今日からが休みなんだった、と思い出したことなんだ」
休み自体が嬉しいというわけではないぞ、いやもちろん嬉しいことではあるが、と、まるで言葉の意味が取れないと言いたげに目を丸くしたままの顔を見ながら補足する。
「たとえば二年前の今日、八月二十三日からの五日間なら休みが取れそうだとなっていたら、取ったと思うかい。俺はたぶん取らなかったと思う。同じように一月十二日から五日間休めそうだとなっていたとしても、やっぱり休まなかったと思う。どちらも何もない日ばかりの五日だからね。君との約束もない時期に長々と休んでも仕方ないなんて、きっと思っていた」
轟との同居を始めたのが昨年の初め。二年前の今頃は、まだ東京と静岡で離れて暮らしていた。互いの誕生日には意地でも時間を空けて共に過ごそうと、スケジュールの調整に余念がなかった。ヒーローという日々予測のつかないことばかりの仕事柄、結果的に時間の半分が潰れてしまったとしても、休みの事前確保だけは怠るまいと、日が迫るまでも頭を悩ませ続けていたものである。
それが今年、どうも二十二日からの夏休みは無理そうだ、と轟がしょんぼりとした様子で告げてきたのは、ひと月近く前の七月下旬の頃だった。そうかわかった、じゃあ自分も翌日からの休みに調整する、と応じながら、実は今と同じ嬉しさを感じていたのだ。その時にしっかり伝えておけばよかったと、今朝の轟のへこみ具合を見て振り返る。
「今年は当日に休みが合わなかったから、無理せず翌日から休みを取ることにした。そうできたのは、誕生日の終わってしまった次の日だろうが、そのまた次の日だろうが、一緒にいることには変わりないからだろ? ああ君と暮らしてるんだな、特別じゃない日にも並んで過ごせる家族になったんだなと思って、なんだかとても嬉しかったんだよ。同居を始めて一年以上になって、何を今さらではあるんだが」
記念日にかこつけて、という言い方はあまり良くないかもしれないが、特別の理由を負って会う努力をしていたあの頃とは違い、今は出張中でもなければ同じ家に帰り、同じ布団で寝て、朝には相手の顔(時に寝顔)を直で見て、おはようを告げることができる。
どの日も特別ではないということは、裏を返せば毎日が特別な日だとも言える。月並みな歌謡曲の詞か口説き文句かのようだが、本当にそう思うのだ。
「それに気付いたら、ゆうべの君が少しぐらい強引でいやらしくてねちっこかったぐらいなんだい。そう〝特別なこと〟でもないじゃないか。いつもとそう変わらない、……とても幸せな時間だったよ」
説教があるとすれば帰宅後の手洗いうがいを飛ばしたことぐらいだ、と笑いかけると、端正な面立ちがぽかんと間の抜けた表情を作って、かと思えば、次の瞬間はあああと盛大な息をついてベッドの端に突っ伏した。
「どうした?」
「お前、何回惚れ直させたら気が済むんだよ……」
慌てて紅白頭のつむじに呼びかければ、掛布の隙間から地を這うような声が漏れ出てくる。
「む、それはこちらの台詞だぞ」
轟がこうしていつも誠実に心を差し出してくるから、自分もいっそう誠実であらねばと努めているに過ぎない。直接的な話をするのは気恥ずかしいこともあるが、言葉の裏が汲めない者同士の自覚も今や充分に持っているので、無駄な時間を使うだけの嘘やごまかしは不要と心得ている。
前へ倒れ伏した上体がゆっくりと起き上がり、こちらを見た異色の瞳に、ゆうべも散々に身を焦がされた飢渇の火が灯っていた。どきりと高鳴る胸の音が伝わったかのように、そっと手が差し伸べられる。触れかかる前に宙で止まり、問いひとつ。
「キスしていいか?」
「ああ、もちろん。してほしい」
何を今さら、などとは言わない。求められて嬉しいから、ただ素直に応えるだけだ。
「天哉」
腹を空かせた迷子のごとき頑是ない気配が一転、ふわと浮かんだ笑みの雄々しさとうつくしさに背すじが震える。
「いつも悪ぃ、ありがとな」
「焦凍く……ん、」
こんなに綺麗な人に欲しがられるなんて、と感じ入る間に顔が近付き、かさついた指に頬を取られ、呼び返した名ごと口と息を呑まれた。冷たく熱い唇と舌の感触で、昨夜、と呼ぶほど間の空いていない、酔い心地の時間を身体が思い出す。
「んン……ふ」
強引だなんだとは言ったが、本気で厭うようなことはひとつもされていない。むしろ根本のところで大事に甘やかされ過ぎて、彼の熱で溶けてしまうのではないかと思ったほどだ。成人してからの轟は、表面に固まったクールで飄然とした態度が年々軟化し、内に抱えた熱情があっさりと顔を出すようになっている。あんな相貌と声音で好きだ、欲しい、と恋われ請われて拒める人間がいたら、その心臓は機械仕掛けでできているに違いない。
「んぁ、う」
口から顎へ、さらに下へと滑る唇に首すじをなぞられて、噛み殺しきれない吐息が漏れた。ひくりと跳ねる背を支える手指が熱い。
「なんかお前、すげぇエロい」
なんでもないように感想をこぼされて、ぐぅと喉が引き攣れるように鳴った。
「誰のせいだと思ってるんだい……」
「俺のせいか?」
そうだよ、と頬を膨れさせる。どれだけ長く深く情愛を注がれたと思っているのだ。お陰でわずかな触れ合いでもすぐに器が満ちて、今にも外へとあふれ落ちそうになっている。そう今も、ほんの少しばかり力込めて肩を押されただけで、簡単に身が倒れて敷布に背が着いてしまった。
「……焦凍くん」
恋しい人を見仰ぎ呼べば、二色の輝石がまた煌めいて、伸べられた手が胸へ触れ、腹へ降り、するりと脇腰を撫ぜ掴む。長い指を見つめ、はあと吐息して待ったが、続く愛撫の挙止はなく、無意識に首傾げて再び見上げた。なぜだかまたつむじが見える。
「焦凍くん?」
「いや、悪ぃ、また流れでしでかしちまうとこだった……メシもまだなのに」
「えっ」
「すぐどく」
から、と言葉が先へ続いてしまう前に、深く俯いた紅白には届かなかったため、引き上げかかった左手を咄嗟に掴んだ。熱い手指に、こちらの熱は伝わってくれるだろうか。
「天哉?」
「流されてしまう気でいたのに、なんでそこで我慢しちゃうんだい……」
「え」
最前思わず漏らしたのと同じ声がこぼれてくる。誠実も時には毒だと学びつつ、きっと真っ赤になっているだろう頬の熱さをあえて気付かぬふりで、ありのまま伝えた。
「僕は我慢できないよ……もっと触ってほしい。キスもしたい」
君がいないと寂しい、と告白して、轟の指が触れた下腹を自分の手で撫で示すと、ひゅっと息を呑む音とぱちりと火の爆ぜる音が同時に聞こえた。メシは、と平坦に訊いてくるのは、逃げではなく火花と同じ、閾値を超えた動揺と興奮の表れだろう。
「ブランチになってしまってもいいし、昼を多めにしてもいいから。もう誕生日じゃないけど、……おかわり、貰えるかい?」
「いくらでもやる」
動揺しているかと思えば寸時も置かぬ即答。離れかけた手が戻って身が重なり、まずはぎゅうと抱き締められた。背を抱き返し、ありがとう、嬉しい、沢山欲しい、焦凍くん大好き、と幸酔い任せに耳元にささやくたびぱちぱちと火が跳ねて、こら遊ぶなと愉しげに叱られた。
「お前なんか年々エロくなってねぇか?」
「だとしたら誰のせいだい」
「俺のせいか……」
そうだよ、と笑って曲げた唇に、同じ笑みの形の唇が重なる。
普段の生活ポリシーには少々反するが、今日も明日も特別ではない特別な日だ。たまにはこんな自堕落な始まりの朝があってもいいだろうと、いつも熱く冷たく優しい指に甘え、内に抱えた豊かな情をねだって、きっと何年先の今日もずっとそばにいる、いつでも特別に愛しい人の名を呼んだ。
Fin.