「飯田」
ほんの少し身を寄せて呼べば、途端に言葉が止まり、肩が跳ね、伸びた背すじがかちんと固まって、みるみるうちに頬に朱が昇る。飯田は轟の表情を驚くほど良く読み取る。まだ何とも言っていないのに、固く伏せられた目と引き結ばれた口はこちらの次の行動を正確に予期していて、読まれ過ぎるのも善し悪しだなと場違いなことを思った。
ともあれ、だからやめたとなるはずもなく、そのまま伸び上がるように上体を添わせて、結んだ唇にちょんと口付けた。少し触れ合うだけで震えの伝わる唇が、見た目の印象よりずっとやわらかいことを知ったのは、ついひと月ほど前、寮でふたりぼっちの二日間を過ごした明くる朝のことだ。
前夜にとんでもない大きさの不発弾を渡されて色々な限界を超えた轟は、しっかりと踏むつもりでいた段階を何もかも一足飛びにして、寝起きの親友に爆弾を投げ返した、もとい、告白した。幸い朝は強い飯田は轟の言葉を夢と受け取り違うこともなく、盛大に飛び上がり、盛大に取り乱し、盛大に照れ入りながら、寝台の上にたくましい身を縮め、真っ赤に染まった顔を伏せ、初めて聞くような極小の声で、よろしくお願いします、と応えてくれた。頭上でりんごんと鐘が鳴るのを聞いたようなその瞬間、遂に理性のたがが外れ、押し倒すほどの勢い任せにしてしまったのが初めのキスだった。正直しくじったと思っている。
あれ以来、消灯前に飯田の部屋を訪れるのが三日と置かない轟の習慣となった。特に何をすると決めたわけでもなく、ただ傍らで過ごす。飯田と共にいるのは無性に心地いい。一時間に満たないこともある短い逢瀬だが、ふたりでいたいという望みを面映ゆげに、しかし前向きに了承してくれた飯田も、この時間を楽しみにしているように見えた。
こうして、触れ合う時以外は。
「なあ」
「ぅ、はい」
赤面のままおずおずと目を開ける。赤い瞳が濡れて、熟した桜桃のようだった。
「お前、キス嫌か?」
「えっ」
「いつもそうやってガチガチになるだろ」
轟とて何もかもが初めての経験だ。初めのうちは緊張したし呼吸も乱れたし手も震えた。それでも数を重ねるうちにさすがに慣れてきたのだが、飯田は何回目になってもこうして身を固めてしまう。最初が悪かったのだろうと反省している。同意も取らず一方的に押し倒されかかったのだ(強靭な体幹のせいで実際には倒れなかったが)、恐怖も警戒もするだろう。
何より困るのは、そうして反省し、相手の緊張にも気付いているというのに、怯える飯田の姿が愛らしく見えてしまうことだった。飯田は決してか弱くなどない、心身ともに強く立派なヒーローだ。だというのに、轟の一挙一動に過敏に反応して、触れるたびに鍛えた身を縮こまらせる様子を目にすると、何を置いても護りたいという庇護心とともに、もっと触れたい、暴きたいという、背反するからこそ高まり合う激情が湧いてきてしまう。まるで己の個性のようだ。
「お前が嫌なら、なるべく我慢する」
こちらの内情がどうあれ、まず優先すべきは飯田の心だ。しない、と言い切れないのが情けなかったが、初めに行き過ぎてしまったことは重々反省して、歩みを合わせなければならない。そう思って告げた言葉に、飯田は首と腕をいつも以上に大仰に、同時に振った。
「嫌だなどということはないぞ! 決して!」
「ほんとか? 無理すんなよ。俺はまあしてぇけど、お前が嫌がったり怖がったりするようなことを無理強いするつもりはねぇ。部屋に来るのももう少し間空けるようにするし……」
「無理もしていない! お、俺だって本当は、その……怖いのではなく……」
勢い込んで轟の言葉を遮り、すぐに気勢を落として、恥ずかしいんだ、と消え入るような声で言う。
「し、したいと、恥ずかしいは、両立するだろ……」
つまり嫌なわけではない、むしろしたいのだと、そう理解するのは決してこちらの都合のいい解釈ではないだろう。わかるぞ飯田、と内心で頷いた。相手を強いと思うことと護りたいと思うことは両立するし、大切にしたいと思うことと暴き開かせたいと思うこととは両立する。
「君が触れてくれることも、そうして気遣ってくれることも、俺はとても嬉しい。だが、なにぶん不慣れなことばかりで、申し訳ないが身体が勝手に反応してしまうんだ」
真っ赤な顔で手振りしながら語る様はいつものようにおかしみを誘うが、言葉は真摯そのものだ。轟も真剣に受け止める。
「俺も、何もかも君任せにするのではなくて、きちんと自分から踏み出せるよう努力する。ふたりのことなのだから……。ただ、少し時間はかかってしまうと思うから、呆れずに待っていてくれると有難いし、引き続き部屋にも来てくれると嬉しい……勝手な言い分なのは承知しているが」
君と一緒にいたいんだ、と不安げに潤んだ目で恋われて、撥ね付けられる人間などいるだろうか。反省の甲斐あって勢い任せにその身に飛び込むという愚は犯さずに済んだが、堪えた情が熱に代わって腰から上の左半身が一瞬燃え上がったようで、結局飯田を慌てさせた。
「だ、大丈夫かい」
「おう、悪ぃ。布団焦がしちまってねぇか」
「それは問題ないようだが……」
「じゃあもう一回キスしてぇ」
「えっ?」
じゃあとは、と困惑を示すのに構わず、熱こもる上体を再び寄せる。飯田はやはり身を固くしてしまったが、手がそっと肩のあたりに触れてきたのはなかなかの進歩だ。いつか互いに望んで触れ合えるようになれればいい。今は飯田が少しでも気を安んじていられるように自分が部屋を訪っているが、いずれは彼のほうから轟の部屋へ会いに行きたいと思ってくれるようになるといい。
とは言えこのやわらかな唇を開かせるまでにもまだ少し時間がかかりそうだ、などと思いながら、それもまたふたりで重ねる楽しみのひとつかもしれないと、次に目指す場所を教えるように、照れ屋で努力家な恋人の背にひそかに笑って腕を回した。
Fin.