遠火の直火(或いは焼き餅のツボ)
「いっ……!」
びきん、と激痛が走った脚で地面に踏みとどまることが叶わず、出久はもんどり打ってその場に倒れた。咄嗟に背を丸めて肩から落ちたため、頭を打ち付けるようなことにはならなかったが、脚をつんざく痛みは消えず、我なくうめき声が口から漏れる。
「どうした緑谷」
「あ、脚が
攣って……」
ペアを組んでいた轟が氷炎を収めて走り寄ってくる。今日の演習前半はクラス対抗戦から数回にわたって続けている必殺技の洗練強化に時間が充てられ、出久は轟に協力を頼み、放たれる炎を高速でかいくぐりつつ、地面から連続して生える氷柱をターゲットに攻撃を繰り出すという反復特訓を行っていた。回避からの切り返しを急ぎ、やや崩れた体勢のまま蹴り足を上げた瞬間、思わぬ激痛を受けて身体が硬直してしまったのだ。
「曲げねぇほうが……」
「緑谷くん! 攣ったのか?」
「え、大丈夫?」
地面に倒れた出久とそばにかがみ込む轟の様子に気付いたのだろう、ひとつ隣で麗日の空中制動の補助をしていた飯田が声を上げ、さすがの俊足でひと息に駆け寄ってきた。麗日もくるりと宙返りして地面へ降り立ち、あとを追ってくる。
「どこが攣ってる?」
「右の膝下が……、いてて」
「こむら返りだな。ああ、起きなくて大丈夫、そのまま後ろへ寝転んで。靴を脱がすぞ」
地面から背を起こしかけるのを制され、脚先にしゃがみ込んだ飯田に宣言通り靴を外されたかと思う間もなく、かかとを包み持って前腕で足裏を固定し、逆側の手で膝を押さえてふくらはぎを伸ばす、という手本のような処置の姿勢が取られた。
「こむら返りは
腓腹筋の痙攣だ。痛みは強いがすぐ治まるよ。このまま少し伸展させておくから、力を入れずに深呼吸を続けて」
「う、うん……」
指示に従って大きく息を吸い、吐く。ここ幾日かで急に深まった冬の空気が肺に染みて冷たい。立ち上がった轟の向こうでオールマイトが一瞬こちらへ踏み出すそぶりをするのが見えたが、対応に問題なしと判断してかすぐに足は止まり、代わりに「適宜休憩を取りながらやるように」と全体へ向けた注意が発された。
個性を飛ばし合いながら追い追われをしていた逆隣りの峰田と芦戸のペアも号令を受けて休止し、なんだなんだと多少の野次馬っけを見せつつ出久たちのもとへ歩み寄ってくる。
「脚つったって? いったいよねーそれ」
「男が悶えてても見応えねーぞー」
冷やかしにははと笑う出久の様子に、こちらも大丈夫そうだと見たらしく、飯田が脚を抱え持ったまま訓練の内容を訊ねてきた。
「シュートスタイルの改良かい」
「うん。教えてもらった高速移動からの蹴りを実践しようと思って……でも速さをゆるめずにそのまま攻撃体勢に入るのは難しいね」
対抗戦後、まさに飯田から教えを受けた動きを会得するための訓練であったが、まだ身ごなしに不適当なところがあるらしい。そうだな、と教授者から頷きが返った。
「素早い動きを止めずに蹴りを繰り出そうとすれば姿勢の変化がより大きく速くなるし、踏ん張りを利かせようとして脚に強く力を入れるから、慣れないうちは筋肉の使い方に偏りが生じやすいかもしれない」
「努力に痛みは付き物やね……」
「鍛えたら攣らなくなるもんか?」
自身の訓練での吐き気を思い出したのか麗日が顔青くして口を押さえ、轟が飯田へ訊ねかける。
「鍛えたからと言って攣らなくなるというものでもないな。ランニング時の脇腹痛などと同じで、ある程度は仕方ない部分もある。気温の下がる冬は特に多くなるが、予防はできるぞ。筋痙攣の主な原因のひとつはナトリウムやマグネシウムといった電解質――いわゆるミネラルのバランス異常だ」
運動中にありがちなのは塩分不足、そして水分不足も原因になるからスポーツドリンク等でしっかり補給するように! と説く飯田はさすがの知識量で、教師かトレーナーのようだ。出久の脚を保持していなければ例のごとくぴしぴしと腕振って語る様子が見られただろう。
「置いとくぞ、緑谷」
頷いた轟がすぐに脇へドリンクボトルを取りに行き、顔横へ寄せてくれた。ありがとう、と礼を言う声が飯田とぴったり重なって、芦戸が笑う。
「なんかそうしてると緑谷と飯田って兄弟みたいだよね」
へ、と思わぬ評に身を起こしかけ、また痛みを得て地面に沈む。こらと叱声を発した飯田には意外にも怪訝の反応はなく、俺も昔こうして兄さんにやってもらっていたのをちょうど思い出したよ、と懐旧の言葉が続いた。
「兄弟の儀式なんや」
「儀式と言うほど大層なものでもないが……緑谷くんのような素晴らしい弟がいたら誇らしかったろうなあ」
ああでも歳が近かったら今以上にライバル視してしまうかもしれない、と言って笑う飯田へこちらも感謝と感激に類する言葉を返したかったが、口を開きかけ、はたと気付いて隣を見上げた。そろりと窺う端整な顔は、常の無表情をわずかにゆるめた様子で飯田を眺め見ており、特段の不興の気配はない。ついでながらその横手で「義理の姉……眼鏡の委員長……女だったら……」などと並ぶ(さらに隣から芦戸が「ぶつぶつうっさいよ峰田」と軽くあしらっている)呟きも不興とは違う何かだろう。
自分が目撃しなかった現場、具体的に言えば試合後の保健室で何やらのやり取りがあったらしい対抗戦ののち、何やらに漂い始めた友人間の微妙な空気の読み取りに努める出久をよそに、頭上では別方の友だち同士の和やかな会話が続く。
「そういえば先日麗日くんと買い出しに行った時に、店のおじいさんに兄妹に間違えられたな」
「そうそう、思わずなりきってしもたもんね。『これどうかな天哉兄ちゃん!』なんて」
「『いいんじゃないかお茶子!』なんてな」
「てめぇ兄妹でいちゃついてんじゃねぇぞ飯田ァ……!」
今度の峰田の反応は明らかに不興の発露であったが、轟には同種の変化はなかった。意外を覚えてじっと見上げていると、峰田とは反対の愉快げな様子で芦戸が言う。
「飯田と麗日も確かにそーだわ。私の席の後ろ三人、たまに三兄妹みたいになってるもんね」
「あ、それはなんかわかるなぁ……」
思わず同意の声が漏れた。廊下側一列の後ろ三名、蛙吹、飯田、麗日の並びは、親友同士を含むこともあって普段からやり取りが多い。出久にとってもクラスメイトとなって早いうちから仲良くしてもらっている三人だけに、小気味良いテンポで進む会話ごと、何かとほほ笑ましく感じられる取り合わせである。
「三人だと一番上は梅雨ちゃんやけどね」
「むう……さすがに俺も梅雨ちゃんくんの兄を名乗れる自信はないな……」
すっかりクラスのリーダーの立場が板に付き、A組の父親(まれに母親)格のような扱いをされることの増えた飯田だが、クラス内でも飛び抜けて冷静かつ落ち着きのある蛙吹と並ぶと、途端にどこか隙のある弟気質が前へ現れ出てくるようだ。隣で紅白頭がうんうんと幾度も頷いているのはその姿に思うところあってのことだろうか。おおよそ察しは付くが、切り込んで問う勇気はない。
梅雨ちゃんはみんなのお姉さんだし、仲良し同士がまとまっていると兄弟っぽく見える、と頷きを交わし合ってのち、とすると、と芦戸と麗日が同時に首をひねった。
「緑谷と飯田と轟は三兄弟って感じ……? んー?」
「轟くんはちょっとどうやろ」
「主に顔面の種類がねー」
「イケメン爆ぜろ」
「何やら失礼ではないかね君たち。まあ結論に異見はないが」
「そうだね……」
飯田は轟のみを基準外と定めたのだろうが、出久から見ればふたり揃って自分など並ぶべくもない男前である。しかし数直線の端と端に轟と飯田の顔を配置し、どうしても自分をそのあいだに置かねばならないとしたら、轟寄りではなく飯田寄りという見解にはなるだろう。
遂にそのものずばりの話題になってしまったと、危惧とともにみたび轟を見やったが、やはりその表情に揺らぎはない。また自分の知らないところで何がしか落ち着くきっかけでもあったのだろうか、それならそれで助かるのだが、などと勝手でありつつごく真剣な期待とともに考えるあいだに、気付けば脚の痛みはどこかへ消え去っていた。
「さて。そろそろ治まったかい、緑谷くん」
「あっ……うん、全然痛くなくなったよ、ありがとう!」
慌てて思量の淵から戻り、感謝を述べてゆっくり上体を起こす。迅速な処置のお陰か、変に筋肉のこわばりが残ってしまったということもなさそうだった。
「体格がだいぶ異なるのに同じラインから教えてしまったのは良くなかったな……」
「生まれつきの差はわからなくても仕方ねぇだろ」
ふむと首ひねって自身の指導を反省する飯田はどこまでも真面目だ。すぐに口挟んだ轟のフォローも的確なものだったが、今のペースで脚に負担をかけていくと、筋痙攣にとどまらず思わぬ怪我につながってしまうようなこともあるかもしれない、と慎重な意見を持ち出し、そうだと手を打つ。
「ストレッチは演習終わりに皆でやるから、演習のあとに脚のマッサージをしよう。適切なアフターケアをすれば筋肉の回復も早くなるぞ。独りでできるものも教えられるし、入浴後に緑谷くんの部屋にお邪魔してもいいかい?」
「えっ、もちろんだけど、何から何まで面倒かけちゃって悪いなあ……」
「蹴りの伝授者としての責任があるからな! 脚のケアなら任せてくれ」
飯田家に代々伝わる技術だぞと胸を張る飯田に、わーええやん、と隣で麗日が手を叩いて笑う。
「イイダ式マッサージやね!」
そんなところだな、と笑み返す飯田にまず峰田から「男のゴツい手でマッサージか……」と忌避の反応があり、続いて他方から正反対とも言うべき反応があった。
「飯田、俺にも教えてくれ」
あくまで淡々と発された立候補の声に、おおっと、と忘れかけていた危惧を思い出す。部屋で二人でマッサージ。これは確かに乗り込まざるをえない字面だろう。にわかに緊張を増した空気の中、飯田がはてと首を傾げる。
「もちろん構わないが、君はあまり脚は使わないから、する機会もないんじゃないか」
事実に基づく正論に、
「憶えておけばお前にしてやれるだろ」
不意の速球が投げ返され、おおっと、と目を見開いたのは麗日と同時だった。芦戸と峰田からの特別の反応はなく、肝心なところの気配に鈍いと言うべきか、それとも二名との普段の近しさに起因する差と言うべきか。
さてどうなると注ぐ視線の先で、ええと、と委員長の常の溌溂が濁りを見せる。
「轟くんにマッサージをしてもらうのはなんというかおそれ多いというか、照れるというか……」
わあ。おそらく麗日と胸中の反応が唱和した。点になりかけの目ですかさずコンタクトを交わすのをよそに、芦戸たちは伸びなどしつつそろそろ再開するかと自分たちの持ち場へ戻っていく。ほかに察されずに済んだと言うべきか、ふたり置き残されてしまったと言うべきかはやはりわからなかったが、飯田が戸惑い調子のまま相手の申し出を承諾したため、幸いこちらの微妙な空気もそれ以上長くは続かなかった。
「じゃ、じゃあ部屋でふたりを待ってるね!」
慌てて口を入れつつ立ち上がり、腕回しての気合のアピールとともに訓練の再開を促す。麗日が心得たとばかり飯田の背を押して元の場所へ離れていって、轟とふたりその場に残った。ひとつ気を入れ、しかし声はひそめて、訊ねかける。
「轟くんは、飯田くんと兄弟みたいな感じっていいなーとか思ったりしない?」
先ほどから反応の鈍さが気になっていた点だ。対抗戦からこっち、予想外の角度から無自覚な悋気を発してくる友人の、予想外の位置にある琴線の具合を多少なりと確認しておこうと投げかけた問いであったが、答えはごく簡素だった。
「いや、別に」
「そっか」
言われてみれば、飯田の兄自慢(自慢て言うかもう惚気話みたいやね、とは麗日の評だ)にもさほど過敏ではないなと納得しかけて、
「兄弟は兄弟だろ」
峰田も言ってただろ、と続いた言葉で一転、やはり当人の自覚は届いていないのだろう真意を正面から浴びせかけられる。
――兄弟じゃ恋人になっていちゃつけないだろ。
「んんんんん」
「どうした不細工だぞ」
「君と比べれば誰でもね……」
何重にも呑んだ言葉に代えて先と同じ結論を返し、脱力とともに演習後のマッサージの約束を思い出して、絶対に誰か道連れに参加してもらおうと心に誓う、空風すさぶ冬の昼下がりであった。
○
それからなんだかんだの一語では到底語り尽くせない色々があり、世界がひっくり返ってはや幾年。無自覚の剛速球を投げ合っていた世話焼きで世話の焼ける友人たちも、晴れて交際を世間へ公表し、先頃からめでたく同棲を始めている。今は自覚して焼き餅を膨らませる紅白頭の親友から、いまだその手の話題を声高にはしない真面目な眼鏡の親友を一夜借り出して、久方ぶりに席同じくしての食事と談笑に興じる中、ふと当時の挿話が思い起こされて、なんの気なしに皿に載せた。
「そういえば、昔ふたり(と道連れにした瀬呂くん)で教えてもらったマッサージ、今も轟くんはしてくれたりするの?」
イイダ式の、と麗日の言葉を引いて訊ねれば、やや曖昧な答えが返る。
「うん、まぁ、たまにな」
「たまになんだ」
「いや、轟くんは進んでしてくれようとするんだが、彼の触り方はあまり、その……妙な気分に、いやあの、変なことに、なってしまったりするものだから……」
「あーそうなんだー」
久々だから引き際を見誤った、とこれも久々の脱力を味わうも、慌てず流せる程度に付き合いも長くなったと思えば感慨深い。
トドロキ式マッサージになっちゃったんだね、と冷やかしを贈ったら兄のような弟のような友だちはどんな反応を見せるだろうかと、そんな顔をさせたことを知ったもうひとりの友だちの悋気の反応まで想像しながら、出久は笑って次の言葉の口を開いた。
end