Girl in the dark


 修道院での所用を済ませて戻り、通りがかった書庫の中に目にした光景の物珍しさに、ユーリスはふと足を止めた。
「まあ、素晴らしいですわ! 確かにこの解釈なら無駄がありませんわね」
「やっぱり黒魔法よりは闇魔法に性質が近いんだと思います。先行文献もそちらの方面を重点的に当たったほうがいいかと」
 高らかに喜色を響かせる馴染みの声に続く、落ち着いた、しかしやや幼い声。積み上がる本と紙束に囲まれ、灰狼の同輩・コンスタンツェと話し交わしているのは、士官学校に籍を置く同盟領家の令嬢であった。近ごろはある変わり者の教師を介して活動を共にする機会もあったが、この場で姿を目にするのは初めてのことだ。
「よう、何やってんだ?」
 中へ歩き入って問いかけつつも、聞こえた会話と人物の取り合わせからおおよその察しはついた。だが、アビスでの変事はどんな些末なものでも見逃せない。念には念である。
「あらユーリス。御覧の通り、偉大なる魔道の研究ですわ。私の手持ちの文献をリシテアに貸す用事がありましたから、その交換に意見を頂いてましたの」
「邪魔してます」
 返った答えは予想に違わぬ域のもので、常の態度を崩さない同輩はもちろん、少々愛想に欠ける挨拶をしたリシテアにも含むところはなさそうだった。何をどのように説明したのか、今年の生徒の中では最も年若ながら「魔道の天才」と名高い少女の英明さを気に入り、コンスタンツェが地下までいざなってきたのだろう。
 ふぅん、と気のない相槌を打って横手の椅子へ座りかけたユーリスへ、構わず次の言葉が続く。
「これでまた一歩ヌーヴェル家再興の日に近付きましたわ! 貴方の唖然とする顔が楽しみですわね、ユーリス」
「は? 俺がなんか関係あんのかよ?」
 身を止めて怪訝を返したが、コンスタンツェはふふんと胸を張り、完成してのお楽しみですわ、などと言って笑うのみで要領を得ない。ため息しつつリシテアへ言葉を向ける。
「お前もこんな日陰女の妙ちきりんな研究にわざわざ付き合ってやる必要ないんだぜ」
「口が減りませんことね、貴方は!」
「確かに妙は妙ですけど……まあ、結果には少し興味がありますから」
 少し、と強調してみせるリシテアの考えもそれはそれで理解に至らず、まあ当面の問題はなかろうと流してようよう腰を下ろした。全体として問題にならずとも、ここで迂闊に目を離し、書庫で魔力の暴発騒ぎでも起こされようものならたまらない。
 机に向かい自分の帳面を開くユーリスを気にせず、魔道士二名はまた高度な術式の話で盛り上がり始めた。


 コンスタンツェ、と廊下から女の声がかかったのは、それから一刻と少しが過ぎた頃であったろうか。振り向いた顔が驚きを浮かべ、壁の時計を確かめる。
「もうこんな時間でしたのね。すぐに行きますわ。リシテア、申し訳ないのですけれど、今日はここまでで失礼しても構いませんかしら」
「私もつい集中してしまって……護身用の魔法の指導があるって言ってましたっけ」
「ええ。アビスもまた少し人が増えましたから」
「前みてえに壁ぶっ飛ばさない程度にやれよ」
「もう、わかっていますわ」
 横から入れた忠告に答えつつ、コンスタンツェは散乱していた資料をある程度まとめ、指導が終わったらもう一度片付けるからあとは構わないと言い置き、リシテアに一冊の本を差し出した。
「今日はとても有意義な時間になりましたわ。こちらの返却はいつでも構いませんことよ」
「ありがとう。お借りします」
 礼を言い交わし、それではご機嫌よう、と身をひるがえして書庫を去ったコンスタンツェに続いて、リシテアも本を手に歩き始める。が、出口まで数歩というところで、その歩みがぴたりと止まった。
 何ともなくその背を眺め、一度首を傾げたユーリスであったが、ほんのわずかにこちらへ振り向きかけてすぐに戻った横顔のこわばりを見て、合点がいった。何はさておきひとつの事実として、アビスは暗い。まだしも灯りの多い書庫から一歩踏み出し、人の寄り集まる場を離れれば、もうそこは煤けた闇の領分だ。
 そうとも普通はああしたものなのだ、と頷く。自分も多少麻痺していたが、ここに暮らす仲間たちの(そして平然とした顔で幾度もここを訪れる例の教師の)気に掛けなさがおかしいのであって、地下の闇深さを目の当たりにしたなら、恐れ、身をひるませるのが平常の人間の反応というものだろう。まして、生徒のうちでもまだ幼い部類に入る少女である。一歩も前へ進めない状態に陥ったとしてなんらおかしなところはあるまい。そも、廊下の先には暗闇のみならず、すねに大なり小なりの疵を持つ地下暮らしたちがうろついているのだから、単純な意味で安全とはほど遠い。
(仕方ねえ、送ってってやるか)
 コンスタンツェもあれで気の回らない人間ではないが、ユーリス同様、世間一般の意識を少し忘れてしまっていたのだろう。リシテアの側にしても、もう一度ここへ戻らねばならない相手に、送ってほしい、と頼むわけにはいかないと考えたはずだ(腹の据わりようはどうあれ、コンスタンツェも同じ女性であるからして)。仲間の不手際と言えばその通りで、となればその始末は自分の役目だ。
 ここで何かあればあのお人好しの教師にも悪い、と椅子を立ち上がりかけたその時、少女が立ち尽くす書庫の口にふっと影が差した。
「よおご令嬢、魔道の実験だかなんだかってのは終わったのかい」
「あ……バルタザール……」
 戸口をふさぐ小山のような影の主は、没落の女貴族よりよほど前から裏の世の闇に身を馴染ませた、男爵家の元当主であった。ともすると現役の頃ですら誰もその肩書きを信じそうにない厳つい風貌の男を見上げ、思わず、といった風情で名を呼んだ声に、恐慌の響きはない。
 おう、と相槌があり、言葉が続く。
「コンスタンツェのやつとなんやかんやしてたんだってな? 帰るんなら俺にも付き合ってくれねえかい。ちょうど上に行かなきゃならねえところだったんだが、どうも面倒で道連れがほしくってね」
「そう、ですか」
 リシテアの返事は素っ気ないというよりまだ萎縮を脱しきっていない調子であったものの、相手の声が連なるほどに、固くすくめていた肩の線が下がり、小さな背に安堵が宿ったようにさえ見えた。強面の大男と相対した反応としてはいささか奇異ではあったが、折しも先日これに関する話を当の大男と済ませていたので、今度は首を傾げるまでもなかった。まさしく奇異なこの組み合わせを地上で一度ならず見かけ、雑談の中で「女の趣味が変わったのか」と冷やかしてみたところ、令嬢の両親と面識があり、放浪時代に恩を受けたのだと、存外に真面目な答えが返ったのだ。
「いいだろ? 道案内するからよ」
「来た道ぐらい、ちゃんと憶えてます。この前の時も先生と行き来しましたし……」
「そうかい。じゃあ黙っておくか」
「で、ですけど、あんたにずっと黙っていられても不気味です」
「違いねえ。俺だって俺が神妙に黙り込んでたら不気味に思うだろうさ。んじゃまあ、適当に喋るから鬱陶しがるなよ?」
 親への恩義と言うから一方的な縁かと思えば、これもまた存外の親しさを感じさせる掛け合いが続く。リシテアは一度止めた足を再び前へ送り、バルタザールの隣まで進み出ていた。そこは既に書庫の外、廊下の薄闇の下だが、丈高い影の中に入ってしまえばどちらもそう変わらず見えるだろう。
「ユーリス、お前も何か上で仕入れるもんあるか?」
「いいや。今は特にねえな」
 こちらへ気付かずにいたわけではないようで、不意に言葉が投げかけられる。答えた自分ではなく向き戻ったリシテアがはっとした顔を浮かべていた。一度道案内を請いかけた(そして何かの理由で諦めた)相手の存在を、今の一瞬忘れていたらしい。別れの辞に代えてひらりと振った手から気恥ずかしげに目をそらされ、声に漏れかけた愉快を押し込めてひそかに笑った。
「じゃあ行くか」
 腰折るような体勢から発された促しにこくりと頷きが返り、大小が並んで歩き出す。純粋な好奇の念から立ち上がって数歩後を追い、地上への道を遠ざかるふたつの背を見送っていると、さらに後ろから気だるげな声がかかった。
「あれ、バルトまた上行くの? さっき戻ったばっかりじゃん。忘れ物でもした?」
「さっき?」
 ふわぁ、とあくびをしながら現われたハピからは、長躯の陰になった少女の姿は見えなかったらしい。言葉をおうむ返しにすると、
「今日は朝にユリーが出てったあと、バルトもコニーも昼前からずっといなかったじゃん。コニーが先に帰ってきて、ユリーがそのあと、バルトはついさっき」
 みんな熱心だよね、と非難するでもなく言う。常ならば鋭敏な感覚に賛を贈ってやるところだったが、今は先に、ぶは、とこらえ切れない笑いが口から噴き出た。
「あいつ、やりやがった。最高だな!」
 ハピの言葉が確かなら、バルタザールはアビスに戻ってすぐに、或いは戻る道すがらに、誰かから珍しい客の話を聞いたのだろう(たちまち噂の広がる場所であるから、それ自体は全く妙な経緯ではない)。そうしてその足でまっすぐ書庫へやって来て、何喰わぬ顔をして「ちょうど地上へ行くところだ」などと吐いてみせたわけだ。相手の問題を全て自分の問題にすり替え、少女に簡単に同行を許させて――正確には、そうと思わせずに頼らせてしまった。
「どしたの、ユリー」
 訝しげに問われ、なんでもないと手を振るも、なかなか抱腹の発作は治まらなかった。計算ずくなのか、それとも自然に仕出かされた態度だったのか、一端の詐欺師顔負けの手管である。
「なーにが『お前も何か仕入れるもんあるか』だ。ったく……」
 くつくつと笑いの息を噛み潰しつつ、そう経たないうちに手ぶらで戻るだろう文無し男へ今夜は一杯おごってやるかと、酒場へ向かって足を踏み出した。


「ぶえーっくしょい! ……なんだ、どこぞの美女にでも噂されてんのかねえ?」
「どこぞの借金取りの間違いじゃないですか」
「まったく、あちこちで首がもてて困ったもんだぜ。……っと、この次の角まで道が悪いから気を付けな」
「もう、さっきからずっと悪いのに……灯りをもっと増やしたらどうです?」
「あんまり明るくもできないんでねぇ。ほら、俺の服にでも掴まってろよ。ここで転びでもしたら脚くじくどころか折れちまってもおかしくねえ」
「うう……次はコンスタンツェに上に来てもらいますから……」
「そうしておきな。俺の腹も余計に減らねぇしよ」
「なんです?」
「なんでもねえさ」


end

NOVEL MENU