スリーピングマベリクス


 なんだ先客があったか、とすぐにきびすを返して立ち去っても良かったが、足を止めてしまった以上は前にあるものを眺めるほかなかった。樹の幹を背に地面へ脚伸ばして座り、前に浅く頭を垂れた人の姿。ゆるやかに肩を上下させる深い呼吸は不自然なものには見えず、確かに寝入っている。これが村の子どもなどであったならほほ笑ましいという感慨も湧いたかもしれないが、無意識に口を漏れ落ちたのは呆れに近い息の音のみだった。
(自分の立場がわかってんのかねえ、この坊ちゃんは)
 いや、訊くまでもなくわかっているだろう。諸侯同盟の頭たるリーガン公爵家唯一の後継者として、さらには外つ国の――自分の推測が正しければ、至上の貴家の――血を継ぐ者として、己の命がそこらの宝石や金塊などよりよほど値の張る品であることなど、とうの昔に理解しているはずだ。
 そんな奇貨が、供も連れずに独り人けのない森の中で昼寝をしている。いくら主の知ろしめす大修道院の壁の内とはいえ、こんな外れまで常に騎士団の目が届くわけもあるまいに、あまりに無防備の様であった。何を考えているのか、涼やかな寝顔からその思考は読み取れない。
 二度目の息をつきつつ、特段の思惑もなく前へ踏み出しての数歩目、おそらくはすんでのところでバルタザールは再び足を止めた。靴先が見えない何かの線を越えかけた一瞬、確かに寝入っているらしい相手の、無造作に草の上に投げ出されていた褐色の手指が、ぴくりと反応を見せたのだ。明確な目的を持った手は腿の高さまで持ち上がったが、バルタザールが大きく一歩身を引くと糸切れたように動きを絶え、また草の上に落ちた。
 なるほど、と頷く。自棄でも油断でもなく、慣れと学習に基づいた行動と言うわけだ。懐にあるのは切れ味の良い短剣か、それとも痺れ薬の塗られた鏃か。何にせよ、仮にも仲間と首の獲り合いを演じる気はない。自分に直接誘いの声をかけてきたのは変わり者の教師だが、この変わり者の生徒はその教師が受け持つ組の級長で、今のところ友好関係の内にある。金鹿の学級にはかつて自分が所属したという事実が残ることはもちろん、今年の顔ぶれについて言えば、同じ共同体の出身というだけではない縁を持つ者も幾人かいる。このクロード=フォン=リーガンと名乗る生徒も、そのうちの一名と言って間違いではない。
 似ていると言えば確かに似ている。まだはっきりと男へ寄り切らない丸みを残す寝顔と、想像の短剣を眺めて、考える。
 不可視の線を踏まぬようにゆっくりと脇へ回り、伸びた草の中に朽ち転がっている木箱のひとつに腰を下ろした。斜め前方の位置にクロードの寝姿が見える。短剣はともかく弓の射程内ではあるものの、起き抜けの警戒に一射、などということはさすがになかろう。いつだったかの話のごとく用心棒に収まろうというわけでもないが、見つけてしまったからには捨て置きがたい。相手がすぐに起きれば二、三話す機会にもなるだろう。
 胸に転がす関心と打算はいくらの間も形を保たず、すぐに初夏の風が誘う眠気の中へ紛れ始めた。もとより思索にふけるために来たわけではなく、これこそが当初の目的であったのだ。まあ良いか、と雑多な念を投げ捨ててあくびを吐きながら、目を閉じる前に周囲の足場の様子を確かめた己にふと気付き、苦笑した。似ていると言えば、確かに似ている。


 目の前、とまでは行かずもそれなりの近距離に姿が見えたことに多少は驚いた。起きた時には既に去っていても不思議はないと思っていた相手は、来た折とは逆しまに、バルタザールのうたた寝姿を前で眺めていたようだった。陽の傾きを見るに、それほど長い時間は経っていない。自分が目を覚ましたのは足音が近付いたからだろうか、それとも、と、またそぞろ思う間に、数歩を置いて立つクロードが小首かたげて口を開いた。
「あんた、そんな硬いところで良く寝られんなあ」
 妙に年相応な、素直な呆れと感心のこもる言葉に、思わず噴き出してから答える。
「放浪生活が長かったもんでね。寝床の具合に贅沢は言わねえ。獣だの虫だのがわんさと巣食うほら穴ん中だろうが、呑んだくれがそこらにぶっ倒れてるような裏町の道端だろうが、いつでも熟睡できるぜ? ……得物を振る間合いさえ周りにあればな」
 お前と同じに、と続きを言葉にはしなかったが、クロードは飄然と漂わせていた安気を収め、わずかに眇めた目でこちらを見た。敵なのか、味方なのか、相手の拠るところを見定めんとしている射手の目。
 ほうそれをするのか、という感想を漏らしかけて飲み込んだ。もう少し知れた間柄であったなら、口笛を吹いてみせていたやもしれない。感慨の伝わらぬよう沈黙に努めていると、今度は実齢をぬぐい消した言葉が落ちた。
「前にも言ったが、そのへんの適当な噂だの推測だのをこね回したところで、実のある話にはならないと思うぜ。うちの家の事情がどうだったとして、あんたに得なことなんて何もないさ」
 淡々と言いつつも、双眸はまだこちらの一挙一動を油断なく量っている。それは結局、その発言に偽りが含まれることを証す態度にほかならなかった。
「そうかね? お前の家の事情はともかく、お前自身のことで損得があるかもしれんぜ。何を考えてだか『ここ』にいる、『ここ』のもんでないやつのことでな」
「……たとえば?」
「そのまんまさ。何を考えてるか次第だろ。お前さんが名乗ってるのは俺の故郷くにの盟主の家名で、まとめてる学級には縁のある顔もいる。それでひとつの損得もなしってわけにゃ済まないねえ」
 相手へ倣って淡然と返せば、翠の目は宿る光を揺らがせこそしなかったものの、ぱちぱちと素早く瞬いて何かの感情の動きを表した。次いで落ちた、へえ、という短い相槌とともに、まだその意を汲むには互いに理解が足りない。
 とはいえ、幾らかなりと拾えるものはあったようだ。議論を続ける代わりに首を振り、両腕を横へ開いて、当座での対立の意思がないことを示す。
「ま、いっぺんに全部を聞こうとは思っちゃいねえさ。俺はもうちっと寝ていくが、お前はなんか学級のほうで用があるんだろ。遅刻でもさせるとあのセンセイに叱られちまうからな」
 また暇な時にでも話そうぜ、と一方的に断じ、木箱に座り直す。クロードは深々とため息を落とし、あんたが暇な時に俺が暇とは限らない、と釘刺すように言い置いて、それでも軽く手を上げてからきびすを返し、学舎の方向へ歩き去っていった。
 そうとも暇などないだろう、と遠ざかる背を眺めて思う。次期盟主として級長として、何をか企図する異端者として、二重の暮らしを送りながら、常に周囲へ探察と警戒の目を向けている。自身をして「猜疑心の塊」などと称してみせたこともあるという。たとえうたた寝のさなかだとて、芯から休まる暇なぞあろうか。
 値札の掛かる首、異端の血脈、どこへ居てもそこに全ての根の無き者。確かに似るが、等しく理解が届くわけではない。
(後から嫁いだ女房の子どもってのはどんな気分でいるんだろうな。あの女のせいで……いやお陰でっつーのか、俺はあいつ自身を憎く思うことなんざできなかったが。一歩違えば、血のつながった兄弟で恨み合うこともあったかもしれねえ)
 身近に護り、護られる者もなく、ただ敵意と害意ばかりにさらされて育ったなら、世を斜に見た自称も生まれるものだろうか。
 だが。
「敵か、味方か、ねぇ」
 そんな態度を見せるのなら、まだ――
「……あー、いや、やめだ。そこまで行っちゃあ、それこそ実際話さなきゃわかりっこねえ」
 落ち込みかけた思考の澱みから、今度は自らへ首振り立てて抜け出る。
 いずれにせよ、まだ推測の域だ。暇がなくとも意志さえあれば機会はいくらも作れる。縁の形も変わり得る。その後がどう転ぶかは、賽の目の出方次第だ。
(今頃あいつはうまいことやってるかね)
 離れて久しい家に心馳せつつ、再び目を閉じる。もはや帰る当てもないのだから、せめても夢で一度ぐらい顔を合わせたいものだが、などと似合わぬ望みが浮かび、思えばそこへ至った連想の根も道筋もおかしく、ひとり笑いを噛んだ。悪い気分ではなかった。


       ◇


「なあ、この布陣どう思う?」
「どう思うって、お前らが考えるような複雑な策を先に見せられたところで、俺には良くわからんって前にも言っただろうよ」
「見てすぐわからないやつの意見がほしいんだよ。わかるやつからの意見ならローレンツかリシテアあたりに貰うさ」
 全体がわからなくてもあんたは個々の立ち回りなら想像できるだろう、と評価されているのだかいないのだか微妙な言葉を重ねられ、肩越しに寄こされた紙束を息つきつつ受け取った。金鹿の盟主は満足げに頷き、自分の手元のさらに厚い束を上手へ示して、俺たちはここだぞ、などと言いながら愛騎の鼻先を撫でてやっている。白鱗の竜が主人の教導に応え、クウ、と誇らしげに喉を鳴らす。
 迫る会戦を前に、清風抜ける新緑の景に背かぬ穏やかな軍議に興じていられるのも、この大修道院を拠点に選んだ卓見の賜物に違いなかった。五年前には良い昼寝の場であった森は、多少は余計に枝葉を伸ばしているものの、変わらずそよぐ木立の下、やわらかな草の褥を息衝かせている。少年の影が取れた大人のみならず、両脇に巨躯の男ひとり、飛竜一頭を懐に抱いて、なお静やかに風は過ぎる。
「おい大体見たぞ。……おい、クロード?」
 渡された陣図を適当にまとめ直し、横へ呼びかけるも、答えは返らなかった。自分の資料をめくる音も少し前から絶えていたようだ。首ひねって見やれば、竜の首にもたれかけていた頭が前に垂れ、手から取り落としたのだろう数枚の紙が長座の上に散っていた。
「……人に頼み事ふっといて早々に寝るか、普通」
 思わず愚痴をこぼすと、間に入った飛竜の眼がじろりとこちらを向く。そのまま口元に牙覗かせそうに見えたので、慌てて腕を振り示した。
「わかってる、わかってるよ」
 主人に似て賢い竜は、軍に連れられ来てすぐに仲間の輪にも溶け込んだが、バルタザールに対しては、なるほどさすが見事なものだと眺めた視線を我と我が主の故郷を知るゆえのものと気付いてか、あるいは金目のものを見るまなざしとみなしてか、初対面から険が強く、今ひとつ相性がよろしくない。
 ついと戻った頭にやれやれと息落としながら、その動きにもなんら反応を示さない盟主へ再び目をやる。ゆるやかに肩を上下させる深い呼吸は、無論、偽りのものではない。
 わかっている。頼みも、その手の中の紙束も全て事のついでで、本当はただ休息を求めにこの場を訪れたことなど。五年前と変わらぬ穏やかな森の景に、少しの和らぎを探しにいくことなど、皆わかっている。しかし、その内で本当に気を安んじていられる程度は、かつてと比べるべくもない。何もが一変した。世界の有り様も、大して幅の育ったようにも見えない、その双肩に負う荷の重さも。
 戦の幕が上がり、卒業の証を受ける間もなく、否応なしに子どもは大人に、学友は戦友に、級長は盟主になり、軍の頭になった。求める夢と理想は変わらずとも、変わった名はなおさらに暇を吸い上げ、もはや教団の庇護下にない立派な大人だからとて、簡単に独りにさせるわけにはいかなかった。にもかかわらず、型にはまらぬ当代リーガン公は、昔のごとく往々にして人に護衛を頼まず出歩いてしまうので、兵が泡を喰って探し回る羽目になっている日も少なくない。
 今日はふらりと部屋を出たのを目ざとく見つけたヒルダが、バル兄ついていってよ、と多少押し付け気味に頼んできたので、親衛の代わりに自分が後を追う流れとなった。森の手前で後ろに追い付き、首傾げた相手へ用心棒だといつかと同じ言葉を述べると、へえ、と軽い相槌が返ったきり追い払われもしなかった。いざ森の奥へ潜れば既に白竜が主人を待ち構えており、自分は不要であったのでは、と思うも暇人にはきびすを返す用事もなく、片や愛騎の胸を、片や五年分太った樹の幹を背に座り込んでからのここまでの一連である。
 膝に散った紙を拾うだけは拾ってやり、眠りの深さをもう一度確かめてから、こちらも樹へ深くもたれ直した。ふと、前へ投じた視線の隅に汚れた塊が映る。風雨にさらされ朽ちた木箱。穴が開き、泥にまみれ、今は上で寝るどころか腰かけることさえできそうにない。
 記憶より離れていた、と頷き、傍らに目をやるでもなく、我が出自を教えて不可視の線を踏んだ過日の会話と、つい先日、相手からの呼びかけで始まったひとつの会話を思い返す。
 一方は半端の所属ながらも、一年近くの日を同じ学級の中で関わり、実のない話も含めて言葉を交わすうちに、似るところのみならず、やはり異なるところも多いと互いに理解した。だが、いまだ己の事情を周囲に伏せ続けている盟主は、かつて「事情はだいぶ違う」と唱えた口で、バルタザールを自ら〝同類〟と呼んだ。そこには、地位と立場を得てなお根深く満たされぬ餓えのようなものが感ぜられた。
(言えば少しは収まるんだろうが……言えねぇよなあ。この状況じゃ)
 見えない鳴子の線は薄れれども消えはせず、内へ踏み越えさせるのは今もいくつかの例外のみだ。
 ほんのわずかの暇であれ、休息のためにこの一種いびつな近しさを使い得るなら、いくらでも利用したがいい。まだ少々の打算、ならぬ忘れじの心は残るが、今や確かな仲間と認める者に、こんな些細な面倒の対価を求める気はない。竜一匹に睨まれる程度のおまけは、まあ許容の範囲だ。
 つらつらと考え流す間にもいくらかの時が過ぎ、特段の先触れもなく、前方から人影が近付いてくるのが見えた。一瞬の警戒は目を凝らす前に解ける。そも敵であれば先に竜が騒ぐはずであり、翠風に灰の外套を揺らしてゆるやかに歩く姿は、遠目からでもすぐにその名を知らせた。
「クロード、バルタザール、ここにい……」
 声が途中で消え、足が止まる。気配を感じた白竜が首を上げ、その胸元でクロードが寝ていることに気付いたのだろう。迷いを浮かべた顔へ笑いを向けて、逆に呼びかける。
「お前なら起きねえよ。いいから来な」
 寸前まで立てていた足音も、名を呼んだ声も、決して控えめな高さではなかったが、クロードは覚醒の兆しを見せていない。それを求める言葉でも受けぬ限り、見せることはないだろう。この奇妙な教師、兼同盟軍指揮官の大樹がごとき気配の波立たなさは、今や誰もが認めるところである。加えてその存在は、金鹿の盟主が認める例外中の例外だ。
 バルタザールの言葉に頷き、それでも少し気後れを見せながらゆっくりと歩み寄ってきた元教師は、クロードの正面に立ち止まって顔を覗き込んでいる。白竜が上機嫌の様子で首を前へ寄せ、撫でてくれるようねだりにいった。あまりの遇の差にもはや苦笑も漏れない。
「急用かい」
「それほどでも」
「ならそのまま寝かせとけ。こいつは一応見たぜ」
 手にしたままでいた紙束を差し出すと、ちらと目を走らせてすぐ柳眉が険しく寄った。
「ま、とりあえず暴れるのに難がありそうなとこはないんじゃねえか。つっても戦場が例の野っ原じゃ、計略も何も全部小手先だな。結局のところ最後は物量勝負だ。質で補える分は最大限に埋めてやろうと皆思っちゃいるだろうがよ。ひとつふたつの策で全体がどうにかなるってもんじゃねえ」
 それこそこの図を描いた策謀家の最も憂う、血の河を成す戦模様になるだろうことは、想像にたやすい。
「あとはお前の指揮次第だな。毎回そんなようなこと言ってる気もするが、大一番だ。気張れよ」
 陣図を受け取り、重々しく首肯してから、また視線は眠るクロードの上へ移った。当時と奇妙に色変わった瞳に浮かぶ、当時と一切変わらぬ教導者のまなざし。教え子の心身の労を憂う想いは、言葉なくともその瞳から雄弁に伝わる。
 この目を覗き、この目に覗かれて、今は夢の中にいる疑い屋は、いったいどの時点まで敵か味方かと考え巡らせていられたろう。
(敵なのか、味方なのか――か。こいつはまだ、そうやって周りを見てる)
 まだ、そうして見ることができている。幸いに。そう、幸いにだ。
「まったく、大したやつだな、お前は」
 今日はよくよく昔を思い出すと笑いを噛みつつ、浮かんだ賛をそのまま贈ると、はて、と首が傾げられた。どちらが先に伝染させたのか、その仕草は少し教え子に似ている。
「この大甘の盟主様を、大甘のまんま戦争に勝たせてやっちまおうとして、実際ここまでうまいこと持ってきてるんだからよ。……おっと、勘違いすんな。褒めてるんだぜ」
 べた褒めだ、と言葉を補ってなお胡散臭く聞こえるのは、もとよりその根が少々曲がっているのだから仕方がない。
 敵か、味方か。そんなことを思う心のある者を、猜疑心の塊などと評せはしない。本当の疑心暗鬼に取り憑かれた人間には、我と我が手の内にある(或いは、あると信じる)もののほかは、全て残らず憎むべき敵だ。慎重な警戒線など引く必要はない。近付くものは端から排すればいい。それが彼らの言い分だ。なぜなら人間はみな疑うべきものだからだ。信じられるものなどどこにもなく、不必要なものを消す事実こそ肝要であるからだ。
 敵か、味方か。看破がどちらへ転んだとしても、一度そこに留まる時点で、心根の幾ばくかはうかがい知れる。信じることをやめられず、つながることを諦められない。夢のため課した秘匿が生む餓えに苦しみ、線を踏み越えた者を〝同類〟と呼び、〝きょうだい〟と呼ぶ。
 クロードの生い立ちの全てを自分は知らない。この教師とて知らないだろう。だがおそらく、決して穏やかではなかったはずのその日々にも、護るもの、頼るものはあったのだろう。慕い、心を砕く者とのあたたかな思い出、はるか高みに輝く理想につながる、うつくしい記憶はあったのだろう。そうでなければ、これほどに人間の心と魂を賛じ、信じて生きてはこられなかったはずだ。
「どんな美談も戦争の前では儚く、ってのはありがちだがねえ。お前さんと会ったのがこの話の思わぬ山だ」
 突如として現れた変わり者の教師は、人への信頼を捨てられなかった子どもの心を決して裏切ることなく、五年もの不在の間も希望として想い貫かせ、人を信じ続ける大人にしてしまった。幸いに。そうとも、これほど幸いな話がほかにあるだろうか?
 お前のお陰でこいつは今こうやって間抜けに寝こけてられるんだ、と賞辞をくり返す。自分は確かに線を越えたが、もしあとから場にやって来ていたなら、やはりクロードは一度目を覚ましただろうし、そもそもこの教師の存在なくして今日の修道院に顔を揃えていたかも怪しい。
「家族でも親友でも仲間でも、信じて背を預けられるやつがいるってのはいいもんさ。なんだかんだと面倒な皮肉を言うやつもいるかもしれねえが、少なくとも俺はそう思うね。……あー、わかったわかった、お前みたいな竜でもだ」
 横から鼻で肩を小突かれ、苦虫を噛みながら名を足した。正面から言葉を受けた人間のほうが反応に乏しく、長い思考の間を置いて、それは自分だけの功績ではなく、と言う。
「きっと、皆のお陰でもあるから」
 あまりにこの相手らしい言葉に、隣で寝る人間がいるのも構わず大笑を噴いた。
「だとしても、お前が根っこだよ。お前から何かを受け取ったやつがほかのやつに何かを渡して、それが続いていってんのさ。流行り病の大元みたいなもんだ」
 さすがに喩えが悪かったか、今度はすぐに眉が寄せられる。曖昧になだめてごまかし、訂正まではしなかった。自分もこの快い病の輪の中に入れられてしまった自覚があるのだから、はいそうですかと翻すのは癪だ。
 そのままひとつふたつの雑談を交わすうちに、隣の寝息につられてか、前の抑揚薄い声につられてか、眠気の波に誘われ、くわぁ、とあくびが漏れ出た。ふと見ればこちらを睥睨していた白竜は主の膝に頭を懐かせ、早々に寝入っている。
「おい、護衛じゃなかったのか……」
 揃って寝るわけにもいかないと目頭を揉んでいると、前に立つ指揮官が、眠いなら寝てもいい、と胸を叩いて言った。
「二人とも……二人と一頭とも護るから」
 なぜか嬉しげに発された請負いの言葉に、はあと息落として返す。
「またお前は軽くそういうことを言いやがる……。そりゃあ感動の申し出だが、よく考えてみろ。軍の大将の片方と一緒にぐーすか寝こけて、片方を歩哨に立たせたのがばれたら、まず一番に説教を喰うのは誰だい。どう考えても俺だろうが」
「確かに」
 頷き、また首を傾げたかと思うと、なら親衛を数名連れてきて周りにいてもらおう、などと突拍子もない案が飛び出てくる。
「いや、まじで言ってんのか? なんでそこまで……あ、まさかお前も一緒に昼寝しようってのかよ?」
 半ば冗談での問いかけだったが、返されたのは我が意を得たりの笑みだった。目を見張る間に灰色の外套が翻り、駆け足に場を去っていく。間の抜けた空気とともに残され、数秒呆然としたのち、また笑いを噴いた。暇なく働いて疲弊しているのは同じだろうに、まったく、大した人間だ。あの教師も、この教え子も。命を賭けるに値する、大いに魅力のある賽だ。
 とはいえこの昼寝の賭けに関しては、到底分が良い勝負とも思われない。誰かしらに説教を喰らい肩落として戻るだろう指揮官と場所を替わってやるため、ひとつ気を入れて立ち上がった。許容の範囲を少々超えるが、一杯の酒で済む程度だ。いつか酌み交わす日にでも払わせればいい。
「さて、本命は勝ちの目が出るかねえ」
 この戦の行く末、この国の行く末、そして今はまだ心の内に眠る、異端の夢の行く末。果たしてどう転ぶか、転ばせるか。せっかく線の内に踏み入ったのだ。闘士として、賭け手として、特等の位置から結果を拝むとしよう。


Fin.

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