Pulsate with You.


「火が点いてないぜ、ダイスケ」
 不意の声にはたとして首を振り向かせると、覚えのある顔がわざとらしく突き出した口を指差して笑っていた。
「……ああ」
 呆けた反応までもを指摘される前に向き戻り、胸ポケットから取り出したライターで煙草に火を点ける。義務的に吸って吐き出した紫煙はまといつくような湿り風のなかにすぐ散り消えた。
「親父さんは?」
「幕ん中で隊長たちとシケこんでるよ」
「会議で霧が晴れるのかね」
「さあな」
 足音が背からこちらへ回ってきたので、相槌しつつ尻をずって座る間を空けた。錆びた水管が二人分の体重を受けてきしみ、耳映ゆい音で鳴る。
「テッド・バークスだ」
「憶えてるよ」
 簡潔な名乗りに間を置かず答えれば、そうか良かったと笑いが返った。久しぶりだな、との言葉の通り二年は姿を見ていなかったろうか。次元より四つか五つほど歳嵩の、出会った頃はともに少年兵であった同僚は、既に成年者の兵装を身に着けていた。
「でかくなったな、ダイスケ」
「嫌味にしか聞こえねえ」
 東洋人の哀しさ、若年の傭兵仲間たちと並んでもいまだ明らかに体格が小さく、銃を担いでいてさえ現地の子どもに間違われることたびたびだ。苦虫を噛む返しにテッドはいやいやと笑みのまま手を振る。
「初めて会った頃に比べれば見違えたもんだ。今なんざあんまりサマになってるんで一瞬気付かなかったよ。モクに火ぃ入れるのも忘れてため息ついて、……故郷クニにイイ子でもできたかい?」
「はあ?」
 唐突な問いに思わず顔を向けると、少年の面影の残る目が愉快げにこちらを見返し、重ねて言う。
「好きな子でもできたのか? ってこと」
「んな、……違ぇよ」
 そんなんじゃねえ、と言い捨てた言葉を上からさらに濁すように、煙を吐き広げる。手慰みに擦ったライターから伸びる火の影は濃く、あたりは黄昏を過ぎて夜に差しかかっていた。極東の国ではちょうど陽が昇ったころだろうか。宵っ張りの盗人ぬすびともまだ我が家であくびをしている時間だろう。
 手の中で揺れた炎が一瞬赤みを増したように見えて、ようやく気付く。火を点け忘れていたわけではない。全く無意識に待ってしまっていたのだ。軽い声かけとともに、隣からマッチを持った手が伸びてくるのを。
 ち、と舌打ちを漏らしたつもりだったが、霧に呑まれて音は鳴らずに、ただ唇だけをわずかに震わせた。湿気た巻紙の感触が思い出させようとする出国前のやり取りの記憶を、次元は諦めでも許容でもない曖昧な心地で受け入れた。



「ほれ」
 良く晴れた放課後の、屋上に据えたいつものソファの上、マッチに続いて差し出されたのはガリ版刷りの紙一枚だった。煙を飲みつつ受け取り目を走らせる前に、進路調査だとヨ、とルパンが教えてくる。
「進路?」
「来月からサイジョーキュー生だかんな」
「はあん」
 出がけに急な支度を言いつけられ、次元が学校に着いた時には既に本日の授業は全て終了していた。そのどこかの時間で渡されたのだろう。不在の際の配布物やら何やらは今や当たり前にルパンづてに回ってくる。
「進路ねえ……、お前はどうすんだ」
「俺様はまー一応、高校までは足かせにならねぇ程度に行っとくかと思ってんのよ」
 なんとも実感伴わない語を避けるように切り返すと、存外に現実的ないらえがあった。軽々しい謂いだが、事実、中学生の域を大幅にはみ出したその頭脳をもってすれば、単なる学業受験など遊びにすらならないだろう。不自由なく被れる身分が当面あってもいい、といったあたりの考えだろうか。
「お前は?」
「俺は……」
 相手に合わせて現実の線を答えるべきか、と考えるより早く、
「お前は、いつ向こうを廃業すんだよ」
 さらに問いが続き、輪にした煙を追っていた視線がこちらを捉える。
「向こうって、傭兵か」
「そ。どうせまーた行くんだろぉ。お前がこの時間までガッコに来ないで、それでも休みはしねえで勿体ぶったツラ張ってアジトに出てくる時はいっつもそうだ。またカンボジアか、はたまたナイジェリアかぁ?」
「……ドミニカだ」
 筒抜けの態度を揶揄された不面目はいったん無視し、あさってから、と言い添えると、聞こえよがしのため息が落ちた。
「世界中の内輪揉め場を制覇しないと気が済まねえのかよ、お人好しも大概だぜ、次元」
「気が済むだのって話じゃねえよ、人が好くてやってるなんてもんでもねえ。何度も言っただろ。今日決めてはい明日抜けます、ってわけにゃいかねぇんだ」
 確かに自分はこの男、天下の泥棒一家の三代目、『ルパン三世』の相棒としてやっていくことを決めた。出会って一年で既にいくつもの場数をともに踏んだ。だが、それより前の十余年、泥棒の相棒としてより遥かに長い時間、次元はただひとりの父とともに、戦場の兵として生きてきたのだ。弾丸飛び交う荒れ野の上、硝煙うずまく風の下に、切り離せない因縁の糸や容易に打ち壊すことのできないしがらみが、まだいくつも残っている。
 ルパンは次元の言葉を流さずまっすぐに聞いていたが、そうかと頷きはしなかった。はや幾度目かのやり取りだ。近ごろはとみに機会が多く、返る反駁の数も増えた。
「んーなの、お前がクソ真面目に考え過ぎなんだよ。そうと決めりゃあ捨てられないなんてもんじゃねえっての。すっぱり切っちまえよ。俺様が責任取ってやっから」
「お前が向こうの仕事になんの責任があるんだよ」
「んで! いい加減あんなボロ舟なんぞ処分して、おかに生えた家を見つけろって」
「人の住処にボロたぁなんだ」
 まったく平行線だ。別に冗談に取りまぎれさせたいわけではない。と言ってあとへ引きずるほど激しく争いたいわけでもない。結果、毎度互いの主張を全て出し尽くして、煙草一本吸い終えるまで黙りこくって、成果のないままなんとなくお流れとなる。
 ルパンが現実を捉えることのできない、ただの世間知らずなどではないということは、もう知っている。ただその腕に抱え、その目に見据える夢や理想が、次元を始めとする凡庸の人の枠を超えて、あまりに広大すぎるだけだ。
 胸から取り出した二本目は根元から軸が折れ曲がっていた。はあとため息しつつ逆へ折り直し、火を点けようとライターを探す前に、しゅっと目の前に赤色がともった。
「あさってかよ、ホントいっつも急なんだよな。……なあ覚えてろよ、次元」
 いつだろうが、どこに行こうが、誰と会って何をやってこようが――マッチの火にも、次元の顔にも目をくれず、ルパンは静かに言う。
「お前が帰ってくるのは『ここ』だ」
 巻紙が燃え、煙が昇る。常の軽薄な調子を消した声に言葉を返せずにいると、せっかく点いた火も煙も目前から遠ざかった。代わりに見えたのは光宿る鳶色の瞳だった。古びたソファがぎしりときしみ、長い指が髪をかすめる。
「怪我して帰ったらタダじゃおかねぇかんな」
 吐息がかかるほど声が間近で聞こえたのは、それを刻んだ口がこちらの口に触れていたからだと気付いた時には、火の点いた煙草が唇の間に戻されており、相手の背中が数歩先まで歩き去り始めていた。
 ひらひらと後ろ手を振る姿を追いかけることも、立ち上がって呼び止めることもできず、ろくに吸わない煙草が灰になって落ちてしまうまで、次元はその場にひとり取り残されたままでいた。



「……そういや、何日がめどか言いそびれちまったじゃねえか」
 あれから十日。ひと足先に「サイジョーキュー生」になった相手は、日程の予告をしそびれた次元をぶつくさと言いつつ待っているのだろうか。何を思って待っているのか。何を思って、ああしたのか。わかりやすいようでいてまるでわからない。近付くほどに底が見えなくなっていくその様は、外へはっきりと存在を語りながらも覗くたびに深くなる、甘苦い水をたたえた井戸のようだ。
 ふふん、と横で訳知りげな息が鳴った。隣と言うには多少の間があるのは、あの古びたソファが狭いためというだけではない。
「やっぱり好きな子がいるんだろう」
「だから、そんなんじゃねえ」
 否定を唱えつつ、無意識の動作で胸に手を置く。静かなものだ。同僚の兵たちの卑俗なからかいも、森の奥から響く獣の声も、夜霧に乗じた奇襲への警戒も、十年付き合えば血をわずか騒がせるにも至らない、慣れた習いだ。
 だとしても、あまりに静かだ。
 もう一度ライターを持ち上げ、石を擦る。やや色異なりながらもまばゆく揺れる灯を受け、ほんの少しだけ早まったように感じた鼓動は、次の一瞬、にわかにふくれ上がった急場の気配と騒音に塗りつぶされ、またわからなくなった。
「ダイスケっ」
「ああ」
 遠くで歩哨の叫び声が上がり、乾いた銃声が陣を渡る。土を蹴立てて立ち上がったテッドに続き、次元も銃を構えて駆け出した。乱れ飛び交う令と怒号。霧は深く、夜闇は濃い。今この時にも地球の裏側では穏やかに陽が照り、その下であくびをしている誰かがいるのだろうと思うと、口元に浮かんでくるのは苦味ではなくむしろ笑いだった。
「親父さんと合流するだろう、ダイスケ」
 前を行くテッドが振り返り、言う。別にそうした心配りは要らないのだがと首振って答える瞬前、視界の隅に何かが閃いた。スコープの反射光だと直感し、声上げ、手を伸ばす。
「テッド!」
 引き延ばされた刹那に怒涛のような思慮が脳を駆けた。血が湧き巡って身を突き動かし、事成すための命令を求める。霧染める赤いしぶきが上がり、肌を熱い痛みが走るのを感じながら、硬い地面に倒れ伏す瞬間まで、胸だけがただただ静かだった。


       ◇


 出立を告げた日とよく似た晴天の下に、締まりのない様で長い足を前に投げ出し、泥棒がひとり座っている。
「よう」
 呼びかけに振り向いた顔は一瞬の驚きののち、案の定の露骨なゆがみを見せ、二十と二日ぶりの再会の挨拶より先に憤慨の言葉を吐いた。
「だーから怪我すんなって言ったろ! しかも顔!」
「やけくそみてぇな夜襲を三回も乗り切ったんだ。この程度で済んで褒めてもらいたいぐらいだぜ」
 しらりと言いつつ歩を進め、前を横切り、空いた隣に腰かける。誰が褒めるかよ、と膨らませた頬(ちょうど自分がでかい絆創膏を貼っているのと同じ場所)は肉で丸く、西欧の祖を持つとは言え東の血混じりでもあるからか、成長の度合いはまだ互いにそう変わらぬようだ。そのことに妙なほど安堵する心があるのを、次元はぼんやりと自覚していた。
「こんなもんかすり傷だよ。弾痕ですらない。転んで石に擦っただけだ」
「ちゃんと消毒したんだろうな? 顔に傷なんざ残ったら女のコにモテないぜぇ?」
「構やしねえよ」
 まあ本当に大した傷ではない。手当は多少おざなりだったがほとんど治りかけているし、あと一週間もすれば跡形もなく消えるだろう。軽く説明を付け加えると、そうかい、とルパンは口曲げたままソファの背もたれに倒れ込んだ。ぶっきらぼうに相槌してみせたが、大事ないと知って怒りはやわらいだようだった。そうしたところはだいぶんわかりやすい。
 ふと息をつき、
「心配かけて悪かったよ。予定も伝えてなかったしな」
 謝罪の言葉を述べれば、今度は跳ね起きるようにして身体ごとこちらに振り向く。ぱちくりと目を瞬かせてさえおり、よほど予想しない態度だったらしい。少々心外だが、非があるのは認めよう。
 出国前に渡してきたものの答えを、ルパンは強いてこちらに求めるつもりはないらしい。あったのかもしれないが、差し当たり五体満足で戻った事実で、及第と決めたらしい。ルパンは優しい。少なくとも相棒と呼ぶ自分には。そんな彼に、これまでの己はあまりに不義理でいた。
 ルパン、と名を呼び、ひと呼吸を置いてから、口を開く。
「こいつは、仲間を助けようとした時に付いた傷だ」
 倒れた時の打撲もまだ左肩に残っていると、表に見えない傷の存在を教える。暴かれる前に自ら明かしたのは、おそらく初めてのことだ。
「テッドって名前の、まだ俺がチビの頃からの知り合いだ。二回目の夜襲の日、敵に横から撃たれたのをよけさせようとして、砂利の上に転がった。その時にやっちまった」
「……助かったのか」
 次元の語り調子に何事か感じ取ったのだろう、ルパンは茶々を挟むことなくそれだけを訊いてきた。濁さず、答える。
「命が助かったかってことなら、そうだな。だが五体満足ってわけにはいかなかった。利き腕じゃあなかったが、肘から先がまるっと飛んじまった。……それでもほかに当てがねえから、落ち着いたらまた傭兵に戻るだろうとさ」
 生まれながらに戦場で暮らし、銃を頼りとしてしか食っていけない者も世にはいる。戦えるだけ幸いだと笑って語る者たちがいる。
「あと二秒ばかり気付くのが速けりゃあな。指一、二本程度で済んだかもしれねえ」
 それでも大きな損失には違いないが、この先の兵士としての道に差す影はずっとましなものになったろう。
 けどよ、と次元の自嘲を先んじ、言葉をあとへ続けたのはルパンだった。
「それで済んでた場合、逆にお前が大怪我してたかもしれねぇってんだろう」
 どうやらよほどわかりやすい語り口になっているらしい。思わず見つめ返した顔に、適当な当て推量の気配は微塵もない。常々参らせられる過剰な巡りの良さにひとつ嘆息し、話を引き取って進める。
「敵に気付いた瞬間、俺にはできることがふたつあった。テッドの腕を引いて後ろの壁に入るか、前へ突き飛ばして隠れるか」
 腕を引いた場合、体格に劣る次元では力が足りず、テッドの身体が敵にさらされる隙ができてしまう。逆に突き飛ばした勢いで弾を転がりよけ、前の遮蔽物に身を隠すのが間に合えば、おそらくともに無傷か軽い打ち身程度で済んだ。だが後手に回った以上、それは賭けだった。五分か、それに少し満たないかの賭けを外せば、あいだに入った自分の胴が撃ち抜かれることは明白だった。
 迷う間はなかった。
「俺は、腕を引いた。あいつが撃たれちまうだろうことをわかってて、自分が安全なほうを選んだ」
 どうにか敵をしりぞけたのち、救護幕の中で手当てを受けながら、テッドは選択の瞬間があったことも知らずただ次元に感謝を述べた。ほかに場に居合わせた者もなく、続く戦いの中でそれはひとつの平凡な負傷として処理された。
「隊長や親父が気付いたかは知らねえが、俺からはなんの報告も上げなかった。……ま、冷てぇやつさ」
 それは間違いないことだと自ら頷く仕草まで、ルパンはじっと目をそらさず射すくめるようにこちらを見ていた。次元、と常になく低い音が名を呼ぶ。
「俺は見たことも会ったこともないお前のシリアイに同情なんざしねえ。地球の裏側の揉めごとで誰が撃ったの撃たれたの、全部どうでもいい。俺には、お前がその程度の傷で、生きて帰ってきたってことだけが大事だ」
 泥棒を名乗る者らしからぬ、一切の偽りを感じさせない声音で、ルパンは淡然と語った。あえて冷たく響かせる言葉の中に、次元の視線を逃さない瞳の中に、身が焦げ落ちそうなほどの熱があった。
 どくり、跳ねた音を手のひらの底で押さえつける。身が内側から震えるのを感じ、こらえ切れない笑いが口の端から漏れた。こちらを見つめる鳶色の目がまたぱちくりと瞬き、宿る光の強さをやわらげる。
「お前のせいだ、ルパン」
「へ?」
 間の抜けた声が返り、なお笑いを誘う。
「迷う暇がなかったんじゃない。俺は迷わなかった。テッドに悪いと思うのは本当だが、何があっても同じように選んだし、後悔もしちゃいない。胸が凍ってろくに動かなくなっちまってたから、冷たくしかなれなかったんだよ」
 だってそうだろう、と、自分の胸を指し、あの日の記憶に重ねるように、その中心に手を置く。
「お前が持っていっちまったから、離れて動くはずがないんだよ。向こうの慣れたスリルなんざものの数にも入らねえって、どれだけ脅そうがすかそうが、冷えて黙り込んだまんまなんだ」
 全部お前のせいだとなじる言葉とは逆しまに、指の下で鼓動が熱持って騒ぎ始める。銃も刀もものとせず、茨の糸も鉛の柵も軽く蹴散らし鮮やかに笑う盗人の手の中に甘えて、随分と愉快に過ごしてきたようだ。
 わかったよ。もうとっくにわかってる。仕様もないプライドを盾に、くどくどしく言い訳をするのはこれで終いだ。
「なあルパン。どんな奇麗なお題目を掲げていようが、戦場は夢だの理想だのを持ち込む場所じゃねえ。銃を抱えて敵と向き合う瞬間にゃそんなもん無駄な荷物になるだけだ」
「次元――」
 だけどな、と呼びかけをさえぎり、また優しい熱を渡される前に、自ら告解を行う。
「あの日からお前が無駄なもんばかり見せてきやがるもんだから、それがあんまりキレイなもんだから、俺は」
 ――『ここ』に帰りたくなっちまった。
 テッドの腕を引いた瞬間、冷えて動かない胸に気付いた瞬間から、今日この時までずっと。
「戦いなんざ二の次で、自分てめぇの身を一番に守って、……早くここに帰りてえとばっかり思ってた」
 ただ座して笑っているだけで胸躍り心の騒ぐ、この場所に。
 しきりに目を瞬かせ、常の饒舌を忘れたごとき有り様で、次元、とくり返し呼ぶ声が、妙に幼く聞こえた。そうと決め込んでいるだけで、きっとまだ自分の声も同じほどに幼いのだろう。
「親父連中に言われたよ。戦場でただ生き残ることじゃなく、生きて帰ったあとのことを一番に考えちまってる奴は、本物の兵士にゃ向いてねえとさ」
 そうなんだろうな、と笑う。自嘲ではなく、ただおかしく思って浮かんだ笑いだった。気を取り戻したルパンが鳶色を輝かせて言った。
「いいじゃねえか。逃げ帰ってなんぼの泥棒にゃぴったりだぜ」
「車ごとバターまみれはもう勘弁だけどな」
 出国前にこなした仕事のでたらめな逃走劇を思い出して、くふくふと声漏らし、肩震わせ、最後には腹を抱えてふたりソファの背に倒れ込む。見上げる空は白くかすみ、いつの間にかずいぶんと春めいていた。
 胸から一本煙草を取り出し咥えると、手品のように前に火が現れた。煙がひとすじ立ち昇り、かすみ空へ融けていくのを見送りながら、またルパンと呼びかける。
「次の日曜、空いてるか」
「日曜? 空いてっけども。なになに、次元ちゃんからお誘い?」
 珍しー、とにやつく顔に、
「そうだ」
「はい?」
 あえて平坦な答えを投げると、上滑りした声が返った。いつも叩かれてばかりの軽口を、こうしてたまに打ち返してやるのは悪くない。
「親父が朝から家にいるんだ。説明に付き合えよ」
 相手の声を笑えないほど、こちらの言葉も精一杯だった。重たるく響くことに怯えて、しかし相手のように軽やかに飾って発することもできずに、ただ平板に、事実のみを口にした。
 全てから決別できるなどとは思っていない。過去のことと背を向けて、二度と振り返ることなく行こうとも、今日まであの血なまぐさい世界に身を置き、数も知れぬほど手を汚してきた業は、きっと死ぬまでつきまとうだろう。折ふし暗い影となってこの腕を取り、足を乱し、選んだ道を外れて歩かねばならないこともあるだろう。
 それでも。
「盗んだ責任、取ってくれるんだろ? 相棒」
 差す影を瞬きひとつで掃うほどの光を覗き、無駄なほどうつくしく広がる夢をともに追って、いつどこからも、熱く胸の高鳴るここへ帰ってこられるのなら、俺は。
 心の半分も言葉にはならず、ためらいに竦ませながらゆるゆると巡らせた首元へ、ほとんどぶつかるようにして長い腕が飛びついてきた。
「痛ってえ! 肩に青アザあるつったろ!」
 思わず上げた怒声も意に介さず、背に腕絡ませたままルパンは叫ぶように言う。
「まっかせとけ次元! きっちり正装して行ってやる!」
「正装って、あのけったいな緑ジャケットか?」
「けったいとはなんだよ! 緑がイヤなら赤でも青でもピンクでもいいぜ?」
 やめろ親父がひっくり返る、と忠告するが、上機嫌のルパンはどこ吹く風で、指折り何やらの計画を組み立て始めている。これは対面前にもう一度しかと釘刺しておかねばと決めつつ、つられて愉快に弾む心をたしなめはしなかった。
 苦笑の息に代えて吸おうとした煙が、いつかと同じ動作で長い指にさらわれ、あ、と思う間もなく、唇が触れ合う。
「一生わくわくさせてやっからな、次元!」
 憂いも衒いもない言葉。満面の笑みにまばゆく宿る光。
 望むところだ、と返すつもりの声はどくりとひときわ高く鳴った胸の音に負けて、喉を上がらずに消える。盗られた煙草を追うこともできず、次元は情けなく震えた手で帽子のつばを深く引き下げて、擦った傷よりも熱い頬の色が隠れてくれるのをただ願った。


Fin.

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