puppy love


 古馴染みとの面倒な商用を終え、夕暮れの迫る中ようやく帰路に就くと、我が家の前で見知らぬ毛玉が転げ回っていた。
「あ、お帰りなさい、先生」
 戸口にしゃがみ込んでいたノヴァが膝を払って立ち上がり、こちらへ踏み出しながら出迎えの声を発する。それに軽く頷きを返しつつ、ロン・ベルクの目は地面を駆ける毛玉を追った。倣うように視線を左右へ動かし、ノヴァは師の言葉なき問いに答える。
「ポップから預かったんですよ」
「ポップ?」
「正確には、近所の方から預かったスティーヌさんから預かったポップから、ですけど」
 なあ、と木枝くわえて足元に戻った毛玉に呼びかけてやってから、苦笑とともに弟子が語ったところによれば、この毛玉――小さな長毛の犬は、ランカークスの誰ぞかの飼いものであるらしい。所用で何日か村を出なければならなくなってしまった、と飼い主がスティーヌへ留守中の世話を頼み、この数日家で預かっていたのだという。ジャンクが良く承知したものとも思えるが、あれであの頑固親父は穏やかだが芯の強い妻に頭の上がらぬ部分があり、さもありなんといったところではある。
 そして今日、今度はスティーヌたちが夫婦で留守にする用事ができ、ちょうど実家にいたポップが面倒を見ておくよう言いつかった、まではいいが、そのポップ、自分もパプニカへの呼び出しを受けていたことをすっかり忘れていたらしい。遅れればパプニカの姫に、犬の世話を放棄すれば父親にどやされると泡食って飛んできたのが今朝の顛末ということだ。
「先生のお帰りの時間までには引き取りにくるはずだったんですが……すみません」
「まあ、工房なかに入れようなんざしなけりゃどうでも構わん」
「それはもちろん」
 聞き分けのいいやつで、ずっと表で遊ばせてましたから、と語る言葉は確かなようで、最前まで駆け回っていた犬はおとなしく「待て」の姿勢を取り、じっとノヴァの顔を見上げている。
 これが常の日であれば、ロンも何を暇なことをと呆れてやるところだが、今日はもともと朝からの外出を予定し、必要な日課仕事を済ませたらあとは好きにしていろと伝えた、言わば休日のようなものであったし、ポップはともかく、弟子ともども公私両面の世話にあずかるその両親への義理という点でも、苦言を吐く理由はなかった。
「あいつ、どこで引っかかってるんだろうなぁ」
 言いつつ地面から枝を拾い、ひょいと横へ放ると、犬は嬉しげにひとつ声を上げ、飛び立つようにノヴァの足元から駆け出していく。朝からずっとこうして構い遊んでいたのだろうか。たまの休みに、暇なことには違いない。とは言え当人は倦んだ様子もなく、枝を取って戻った犬を笑って迎え、大仰に褒め撫でてやっている。降って湧いた頼まれごとだが、気晴らしの種としては間が良かったらしい。
「慣れているな」
「え?」
「犬の扱いだ」
 目を瞬かせるのへ言葉を足す。特段の意図もなく、見て思ったままの感想を口にしただけだったが、生真面目な弟子はそうですね、と小首傾げて解となる理由を探す仕草を見せた。
「飼っていたわけではなくて……ああそうだ、昔もこんな風に人の犬を預かっていた時期があったんですよ。ボクはまだ子どもだったし、遊んでやってただけですけど。確か父の隊の誰かがベンガーナのほうへ短期派遣されるというので、そのあいだだけ」
 半年ぐらいだったかな、と過ぎた日を訪ねながらの言葉は続き、
「別れるのが惜しくて、返す時は拗ねて父を困らせた記憶があります。身体の大きな種類だったけど、そいつもまだ仔犬だったんじゃないかな。たぶん今頃は――」
 膝元の背を撫でる指の動きとともに、はたと、絶える。こわばった顔が表情を隠すように小さく俯き、震えを押しとどめて閉じた唇の内にあとの声が呑まれた。
 今頃は――主も犬も、既にこの世にないのだろう。
「す……すみません。変な話をして」
「いや」
 今のはこちらが迂闊であったと、思いはすれど口にしてやれるほどの器量も権も己にはなかった。人の、まして兵の犠牲は戦の常だ。どんな言葉を尽くしたとて、嘆きや慰めで過去を変えられるわけでもない。だが、ほんのわずかな不在の間に故国と多数の知己を喪った悔恨と悲哀の全てを振り切るには、二年にも満たない月日は、駆け足に生きる人間にとっても決して充分な長さとは言えないだろう。
「あ、ええと……そうだ」
 声かける前にノヴァは自ら顔を起こし、やや落ち着きのない動作で仔犬の身体を両腕に抱え上げた。そうして、
「あの、先生も撫でてみませんか?」
 そんなことを言う。
 唐突な提案へ眉を上げる間に、ノヴァはさっさと足を進めて目前へ歩み寄ってきた。
「別にオレは犬なんぞに興味はない」
「でも、いい毛並みですよ」
 理由とも言えない理由を述べつつ、ほら、と仔犬を胸の前に差し出してみせる。明らかに先の翳りを取りつくろうための突飛な挙であったが、実際の行動に移して興が乗ったのか、浮かべる笑みは次第に自然な色へ塗り潰されていく。
 どんな心の機微でかは計りがたいが、この若者は、師が見聞きするものを自分が見聞きすること、そして自分が見聞きするものを師が見聞きする、までは行かずとも、それに幾らかなりと関心を示すことを、妙なほど喜ぶところがあった。何がそんなに愉しいのやらと正直な感懐を述べると、村の友人は勉強熱心でいいじゃねぇか、などと言って笑った。
 無言で向ける目を二対の瞳にじっと見上げられ、思わず漏れ落ちかけた笑いを口の中に噛み潰す。犬が二匹、という見立てが頭をよぎったのは、実は森を抜け、家の前で転げる毛玉を目にしてすぐのことだ。もともとノヴァの気性はどこか犬じみている。あの初めて顔を合わせた折の、未知の相手へむき出しの険を向けきゃんきゃんと吠え立てていた姿にせよ、一転、馴れて信頼を結んでからの柔和で従順な態度にせよ、良きにつけ悪しきにつけ裏表がなく老獪な隠微さとも無縁の、愚直な犬に通ずるものがある。
 自分はどちらかと言えば向こう気の強い、容易ならぬ性質を好む自覚があったが、思いもよらず迎えた弟子からいざ隠し立てのないまっすぐな敬意を向けられてみれば、意外なほど悪い気はしなかった。悪い気はしない、などと持って回った表現になるが、かつての鬱屈を考えれば最大級の賞辞に近いのだから、ここに来ての暮らしの変わりようにやはり笑ってしまう。
「……先生?」
 内心を崩しながらも表では押し黙ったままのロンへ訝しげな呼びかけが飛ぶ。怪訝のみならず憂慮の響きが入り混じっていたので、軽く頷いてやってから片腕を前へ動かすと、途端に眼前の顔が明るくほころんだ。この二年足らずのうちに、剣や槌を振るうには程遠くも、さまで力を要さない日常の動作はかなりの範囲でこなせるようになった。二百年前の治癒の速度とは雲泥の差と言える。元より前回の負傷では自棄が先立ち、種の持つ再生力に頼むまま当初ろくな治療をした記憶がないので、当然と言えば当然のことだ。だがここまでの順境が、この一途な弟子のお節介なほどの献身に支えられてきたことを否定はしない。
 酒の量にうるさいのは閉口だが、と苦笑を今度は殺さず口の端に漏らし、ゆっくりと手を伸べる。やわらかな毛が風になぶられて揺れるのに惹かれるまま、指先で触れた。
「えっ、せ、先生?」
「まあ、確かに毛並みは悪くないな」
 突然の接触で目を丸くするのに構わず、氷水ひみず色の髪を梳き分け、先の言葉に応えてやる。年相応の若さのある髪だが、包帯越しにも炉の火に灼けた独特のきしみが伝わる。熱に弱く発赤の痕を残す頬も、煤の飛んで汚れた服も、ただ白く上等なばかりのものよりよほど好ましい。
「ちょっと……先生っ、ボクじゃなくて犬を撫でてください!」
 掌を置いて撫で回しにかかると、手の下で抗議の声が上がった。相手の負傷と抱えた犬を気遣ってか暴れ立てはしないが、子ども扱いしないでくださいって、と恨みがましげな目が指の間から見上げてくる。
 子ども扱いではなく犬扱いだった、と白状すればさらにつむじを曲げるだろう。そうした過剰な反応がいまだ子どもだというのだが、響く刃金は打ち甲斐がある。
 ああまったく、悪くない。
「うわもう、髪が……」
 ぼさぼさになったじゃないですか、とロンが引いたあとから自分で梳き収めようと上げた手を、再度伸ばした指で捕らえる。一端の剣士にあるまじく、主の前でゆるびまどろむ犬ほどに無防備な身を引き寄せるのに、力など幾らも要さない。
 わぉん、とひとつ抗議を上げて、放置の遇にあった犬の身体がゆるんだ腕から地面へ降り立ち、ぱたぱたと脇へ駆けていく。前髪かき上げて触れさせた唇の下、不満に寄せた眉根は一瞬で融け崩れ、湯気立つほどに額が熱を帯びた。
「――大人扱いされたいんなら」
 離した口を今度は側頭へ寄せ、ひそり、耳元にささやく。
「せめて仔犬の遊びは卒業するんだな。……ノヴァ」
 いつまでも「坊や」と呼んでじゃらし遊んでいてやれるほど、こちらも気長に生きてはいはないのだから。
 そっと体勢を戻してやり、あとの反応を待たずに横をすり抜けて戸口へ向かう。あえて確かめずとも様子はわかる。不意打ちとは言えここで二の句を詰まらせているようでは、酒瓶の蓋の開き具合もまだ半分といったところだ。
 いや、むしろこれは充分に気長な真似と言えるのか?
 悠揚と足進めつつ、直前の思考に疑問符を付ける。遅熟な青さに呆れもしつつ、一心に駆け追ってくる身を元いた場所へ戻そうなどと微塵も思っていない。今さら返せと強いられようものなら、拗ねるどころの騒ぎでは収まらないだろう。
「まったく、厄介なもんを抱え込んじまったな」
 そしてそれは、愉快とほとんど同義だ。
 後ろ手に閉じた戸の向こうで移動呪文の着地音が響く。現れた知己へ必死に顔色の所以をごまかす愛弟子の声を聴きながら、ロンはくつくつとこらえ切れぬ笑いを鳴らして手にした酒瓶の栓を開けた。


Fin.

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