The sky's the limit.


 宿へ戻ると、人が宙で寝ていた。
 何かの喩え話ではなく、本当に、ただ見たまま、宿泊中の部屋の中央で、親友の魔法使いが寝ながら空中に浮かんでいたのだ。両腕を頭の下、片膝を逆の膝の上に組んだ昼寝のような姿勢で、人の目の高さのあたりに、ぷかぷかと。
 戸口に足を止め、名を呼びかけていた口をいったん閉じて、眺める。姿勢はまったく自然なもので、無理に浮かんでいるようにも、無理に寝ているようにも見えない。浮き上がった状態で寝たというより、やや高造りのベッドで気持ちよく昼寝をしていたら、ベッドが消えて人だけその場に残されてしまった、とでもいった様子でさえある。ぷかぷかと、と形容したが、実際は縦にも横にも微動だにせず、ただ腹に伏せた本がゆっくりと上下して穏やかな呼吸を数えている。
 見る側の視力に疑問を生じさせるような奇妙な景色のなか、唯一薄地のマントだけが、世界の則に従って肩から下へ垂れ下がっている。幾人か顔の浮かぶ綺麗好きな仲間の誰かがここにいれば、床の埃をさらう布に眉をしかめ、苦言のひとつもこぼしてみせたろうが、今はあいにく二人旅。そして旅の相方たる自分も大概に野生児として育ったので、あまりそうしたことを気に留める性格ではなかった。
「ポップ」
 とは言え、寝姿をぼうと見ているだけでは話が進まないと、苦言の代わりに名を改めて投じる。反応なし。
「ポップー」
 歩み寄りながらもう一度。よほど深く寝付いているのか、やはり反応なし。もともと寝汚いたちであることは知っているので今さら呆れはなく、小言を吐く倦みもないが、慣れたぶんだけ遠慮もない。
「……ポップ!」
「わっ……あでェッ!」
 隣に立ち、ひとつ大きく息を吸って、耳元で大呼する。効果てきめん、不意の覚醒に見舞われた身体から魔力が散り、どすんと音立てて床へ落ちた。
「いっててて……なんだよダイ、いきなりでけえ声出すんじゃねぇよっ」
 木板に打ちつけた腰をさすりつつ、尻もちの姿勢のままこちらを見上げたポップが、口尖らせて不平を言う。
「人に用事を任せておいて昼寝してるポップが悪いんだろ」
「昼寝じゃねえよ。瞑想だ瞑想」
 指摘も即座に跳ね返されたが、本当の意味で寝入っているわけではないことはダイにもわかっていた。いかに熟練の呪文であっても、完全に意識を失してしまえば微細な制御は難しい。あれほど完璧な姿勢を保つにはどこかに集中を残していなければならなかったはずだから、一応起きてはいるのだろう、と気付いてはいた。だが結果的に二度呼びかけて目を覚まさないほど深く沈んでいたのでは、ほとんど寝ていたのと同じなのではないだろうか。
 用を任せたのだってお前が外れクジを引いたからだろ、とぶつくさ言いながら、腹から落ちた魔道書を拾い(おそらくこれを読むうちに思索に入り、瞑想と昼寝のあいだに落ち込んだのだろう)、服とマントの埃を雑に払って立ち上がったポップへ、はい、と「用」の成果を差し出す。
「ああ、なんかわかったか?」
「やっぱりここでも夜中に妙な叫び声を聞いた人がいるって。前の村で噂になってた洞窟の場所を町長さんが知ってたから、地図にしるしを付けてもらってきた」
「悪魔の穴だかなんだかってやつか。どうにも眉唾もんだけどな」
 平和な世を見て回ろうと始めた気ままな旅の道も、万事平坦に続いてはおらず、大小さまざまな騒動の種は今もそこかしこに転げている。弾けた騒ぎの芽に不意に行き遭うたび、ポップは億劫を隠さず深いため息をついてみせるが、お前はすぐ面倒に巻き込まれやがるなぁ、とダイの肩を叩く顔はいつも笑っていた。
 不気味なうなり声、怪しい生き物の影、戻らない冒険者。珍しい風聞ではなかったが、一度耳にして協力を求められた以上は放っておくわけにもいかない。
「ま、善は急げっつーし、ちゃっと行ってちゃっと見てくるか?」
 受け取った地図に目を落としつつ軽い声音で言うポップに、調査に向かってくださるなら馬車を用立てる、との町長からの申し出を伝えた。
「ただ道が大回りになってて、今の時間からだと陽が沈むって」
「わざわざ馬車なんざ必要ねえよ。まっすぐ飛んでいきゃすぐだろ」
 紙の上を言葉通りになぞる指の軌跡は、これもまたごく軽く吐かれた言葉に見合うほどの短さではなく、さらに言えば地図に描かれた線と記号の何もかもを無視している。
 眉を寄せたこちらの様子に気付かずでかあえて構わずでか、早速とばかりに窓辺へ向かう背にダイは慌てて待ったをかけた。マントが翻り、首が横へ傾ぐ。
「なんだよ。陽が沈む前に行って帰ってきちまおうぜ」
「まっすぐって、要するに山越えじゃんか」
「おう」
「おうって、簡単に言うけどさぁ」
 確かに自分たちにはそれをこなす術がある。しかし「可能」と「容易」は常にひと揃いで語れる言葉ではない。まっすぐ飛べばいい、それはその通りだ。しかしどれほどの高さで、どれほどの速さで、どれほどの時間を、などの点をまったく無視している。
 渋くさせた顔と声音で憂慮を察したのだろう、ははっと笑いを返された。
「お前、いつまで経っても長距離飛ぶのが苦手だよなぁ。いざ戦いとなりゃあんなにびゅんびゅん動いてやがるのに」
「あれは紋章の力も使ってるからだし……」
「図体でっかくし過ぎたからじゃねェのか?」
「でかくなっちゃったものは仕方ないだろ」
 離れているあいだに背も体格もひと回り、それ以上に追い越したことを再会から今に至るまでちくちくと刺してくる親友は(帰還が遅くなったことへの嫌味の段を過ぎ、自分の体格を気にしていることが丸わかりになり始めているのでいい加減よせばいいのに、と思うが)、唇尖らせるダイを眺め、兄弟子の立場を強められた際にお馴染みに見せる、言葉と逆しまな上機嫌の様子でまた笑みを深めた。
「心配すんなって。お前が墜落しそうになったらおれが抱えてってやるからよ」
 別に抱えてもらわなくてもいいんだけど、と呟けば、へへんと鼻が鳴らされ、平たい胸がいっそう得意げに反り返る。事実、得意になるだけの術の腕前を相手が持っていることはとうに知っているので、意固地に異を弁じる気はさらさらない。
 ポップの得手と言えば火炎系呪文だが、実は飛翔呪文にも同じほど、ややもするとそれ以上の適性があったのではないか、とダイは以前からぼんやりと思っている。当人はルーラができればこのぐらい、などと軽く口にしていたが、それ以降から今に至るまで、並の人間の魔道士で飛翔呪文を容易に扱える者など、ほんの数えるほどしか出会ったことがない。自分も高速と長距離を両立する飛行には指摘通りいまだあまり自信がなく、単にポップがこの呪文を規格外に得意としているだけなのだ、と気付いてそれなりの日が過ぎた。
 師匠の生きざまに倣ったというわけでもなく、ただ己の心向きのまま、多方面からの仕官の声かけを逃亡一歩手前の流れで辞去し、安住を蹴って飛び立った気軽で身軽な魔法使いを捕まえられる者など、今やこの世にほんのひと握りだろう。
 そのうえ、
「ま、蹴落とされてもそこからまた追い付くぐれぇの差は付けとかねぇとな。二度と自分ひとりで飛んでいかせちまったりしねぇようによ」
 そんなことを、本当に鍛錬に鍛錬を重ねたらしい身から口にされてしまえば、反論の言葉など何ひとつ出てこない。
「何度も謝ってるじゃんか」
「おお一生かけて謝りやがれ」
 軽口し、笑い合う。他愛のないやり取りが、このさきずっと、それこそ一生続けられればいいと、素直に思う。
 さて、とまるで気の入らない声を置いて音もなく足が床を離れ、するりと窓枠を抜けて屋根の上に浮かんだ。外套がはためき、空に広がる。雲ひとつ浮かない、天へ突き抜けるような蒼穹を背に、若き大魔道士が、こちらへ腕伸べ、呼ぶ。
「お手をどうぞ、勇者さま」
 また笑い返して指握り合わせた刹那、身体が大地のくびきを逃れて、風とともに宙へ舞い上がった。世界の全てを見渡すような高みまで、軽く、速く。
「いい陽気だな。次はどこ行く? ダイ」
「まだ今回のことなんにも解決してないだろ」
 気が早いなと息つけば、どうせ行くなら先も後も同じだろ、と愉しげに肩が揺れ、こちらの愉快も誘い出す。そうだなあと地上を見下ろし考え始めてしまうのだから、この自由な魔法使いに劣らず、自分も大概な冒険好きだ。
 前途に伸びる果てなき道、尽きせぬ空。
 どこへでも、どこまでも、お前となら。
 とは言えそのまま口に出せば「ちゃんと頭使え」と怒られてしまうのだろうな、などと考えながら、山を越え河を越え、ふたり高く高く、ただ笑って翔び続けた。




The sky's the limit――(未来は限りなき空ほどに、)


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