Come in, Dear.



 その日の夕刻、まだ集まる影もまばらな食堂の一角で、歳若い声がひとつひときわ高く上がった。
「わぁ、それひょっとしてラブレターかい? マイスター」
 耳馴染まないと言っていい語に、自然と近くの視線が集まる。斜向かいの卓についていたアラートも、いつの間にか前と横に寄り来ていた兄弟機とほぼ同時の動作でそちらを見やった。名を呼ばれたサイバトロンの副官に向き合い、地球の友人たち用に特別にしつらえられた椅子に座った少年・スパイクが、小さな紙片を手に興奮の面持ちを浮かべている。
「おまけに二通も! どこで貰ったの?」
「ああ、今日街でパトロールをしている途中にね」
「へえー、すごいなぁ。いっぺんに渡されたんですか?」
「別々にだよ。市庁舎の近くでと、帰りぎわの信号待ちの時に」
 スパイクの隣に座るハウンドの問いに答え、後ろの車にクラクションを鳴らされてしまってね、とマイスターがその時の様子を笑って語る。近隣の街のパトロールは基本的に当番制で回しているから、二人とも今日がその日と知って待ち受けていたのか、何にせよビークルモードの時に声をかけてきたということも含め、一日や二日のファンではないだろう。
「ラブレターってのは、要するに好きだとかなんだとか書いてるんだろう、スパイク」
 マイスターの隣の席についたゴングが言う。そうだよ、とスパイクが頷きを返すと、両手を横に上げ、怪訝の顔で続けた。
「なんでそんなまどろっこしいことをするんだろうな。直接言えばいいじゃあないか」
「きっと恥ずかしかったんだよ。パトロールの邪魔をしちゃいけないと思ったのかもしれないし、可愛いじゃないか。俺はこういうのもいいと思うな。電信のメッセージとかとも違って、紙って形に残るものだしね」
 スパイクの代わりにそう言葉を挟んだのはハウンドで、いいなあマイスター副官、と羨ましげに言うあたりが、普段から冗談か本気か「人間になりたい」と語っている彼らしい。ゴングは今ひとつ共感しなかったようで、そんなもんかね、と肩をすくめてみせる。
「直に言えなくても文章でなら、っていうのもあるんじゃないかな。僕も羨ましいよ。ラブレターなんて貰ったことないもの」
 スパイクが笑って言い、二通の手紙をマイスターへ示して問いかける。
「もう中は読んだんでしょ? どうするの?」
「そうさなぁ。まあもちろん返事はちゃんと返さないとならないね。地球の手紙の文化や書き方も知りたいし、良ければあとで先生を頼まれてくれないかね、スパイク」
「もちろん! ……でも人が貰ったラブレターの返事の書き方を教えるって、なんか複雑だなぁ」
 ほんとに、と笑いが起きる。それからあとのやり取りは、より近くで始まった会話にさえぎられて聞こえなくなった。
「……相変わらずモテんなぁ、マイスター副官」
「二通ってとこがやけにリアルだよな」
 赤と黄の兄弟機が頬杖ついて呟く。倣って感想を述べるのは控えた弟に、ランボルが視線を上げて訊ねかけてきた。
「なんで副官は貰えて俺は貰えないんだ? なぁアラート」
「知らないよ」
「副官にあって俺にないもの……バイザーか?」
 ちょっと謎めいてたほうがウケるのかもなぁ、と首をひねる兄を黙殺していると、もう一人の兄が興味なさげに手を上げ、
「俺は地球の人間にラブレターなんて貰っても別に嬉しくないね。俺たちの美が正しく理解されるとは思えないからな」
 と言って、そうだろうアラート、とまたこちらに話を向けてくる。なんでいちいち自分に振るのかと思いつつ(まあ暇つぶしに使われているのだろうことはだいたいわかっている)、あまり黙っていてもまたうるさくなるので、適当に答えた。
「そりゃあ、彼らと私たちの美意識は違うとは思うけど、デストロンみたいに嫌われてるよりは、好かれてたほうがいいんじゃないか。マイスター副官は地球の文化に理解が深いし、そういうことをしても嫌がったりしないと思うから渡すんだろう」
「ふぅん。ま、好かれてたほうが何かと仕事もしやすいか」
「地球の人間にはクールな大人ってやつがモテるんだろうな」
 言って顔を振り向かせるランボルにつられ、再び前方の白と黒の機体を見やる。
 具体的にどんな内容の手紙だったのかはわからないが、もしも真剣な告白めいたものであったとしたなら、いつも瀟洒な副官はその言葉に対して丁寧な感謝を述べてから、しかし、で始まる断りを告げる返事を書くのだろう。種の違い云々をいったん脇に置いたとしても、既に彼には唯一と言ってはばからない(公言しているわけではないが、ことさら隠し立ててもいない)パートナーがいるからだ。
 その返事を読むことになる手紙の贈り主たちの心境のほうに気を馳せかけるアラートへ、再びランボルが軽い声音で問いかけてくる。
「クールか。アラート、これ以上クールに決めるにはどうしたらいいと思う?」
「だからなんで私に……」
 副官に訊けばいいだろう、と答えかけるのをさえぎり、
「あーよせよせ。アラートはクールな大人より暑苦しい若造のほうが好みなんだから、参考にならないって」
「そういやそうか」
「なっ……!」
 そんな聞き捨てならない掛け合いが始まるので、思わず声を上げる。場の幾人かがこちらを振り向くのを見て慌てて声量を絞りつつ、拳を握って抗弁をした。
「い、いきなり何を言い出すんだっ。私は別に……」
「好みの話をしただけだろ?」
「そうそう、別にどこの誰ってことじゃないし。暑苦しいやつなんてここには沢山いるじゃないか」
「だからって……」
 ほかの仲間にその手の話をされるのは、まあ多少気恥ずかしくはあるだろうが、雑談の範疇ということでまだいい。だが、この兄弟たちに限っては、ましてこんな人のいる開けた場所では、そちらの方面に話題を持っていってほしくないのだ。素知らぬ言い方をしつつも口元はそっくりににやついていて(普段はさほど似てもいない二人だが、こんな時には本当に双子だと実感する)、明らかにわかって言葉を選んでいる。
 とにかくやめてくれ、と言い差したのを止めたのは、今度は声ではなく機械音だった。傍らに置いていた端末が点灯し、最前面の窓に受信通知のメッセージを浮かべる。確認の目を走らせるとほぼ同時に、後ろの戸が開いてがしゃがしゃと大きな足音が近付いてきた。
「よぉアラート、今報告書送ったぜ」
 呼びかけに、お、とサンストリーカーが口角上げたまま言う。
「ほら、噂をすれば暑っ苦しいのの代表が……」
「サンストリーカー!」
 名を呼んで続きを制し、話断ち切るように体ごと振り返る。現れた赤い大型機の相棒、救助員インフェルノは、口を歪ませたアラートを見下ろして不思議げに首傾げた。
「なんだよアラート、変なツラして」
 またそいつらと喧嘩でもしたのか? と言うのに、双子がわざとらしく顔を寄せ合って呟く。
「あんなこと言ってるぜ」
「喧嘩なんてしてないよなーアラート。ただちょっと好みの話を」
「ああもう、うるさい! 報告書を見るんだから静かにしてくれっ」
 そんなのあとでいいのに、と口尖らせる兄弟機たちを無視して、端末に届いたメッセージを開く。平静を努めてレポート文書に目を走らせていけば、焦りもさほどこびりつかずに抜けていった。
「……なんだ、五日前のものしかないじゃないか。おとといの事案の分は?」
 投じた指摘に、うっとインフェルノが詰まった声を漏らす。
「あー、それはな、また次に……」
「そんなことをしているからどんどん事務仕事が溜まるんだぞ。ひとつひとつは大した作業じゃないんだから、面倒がらずにその場ですぐ終わらせてしまえばあとになって困らずに済むんだ」
 代筆はしないから早めに出すように、とはっきり言い切れば、巨躯を小さくしてわかったよと頷きが返る。後ろで笑い声が重なった。
「おーこわ。上司してんなあ」
「そんなつんけんしないで、もっと可愛く言ってやったほうが部下のやる気が出るんじゃないか、アラート」
 これである。身内とはつくづくやりにくいものだ。
「うるさい。そういえばランボルもサンストリーカーもまだ提出していない報告があるだろう。プロールに聞いたぞ!」
「やべ、飛び火した」
「出す出す。だからもっと可愛さ割り増しにして言ってくれよアラート」
「そんなものないっ」
 やいやいと言い交わす間にインフェルノは補給用のエネルゴンを取りに行き、いくつかのカップを手にすぐに戻ってくると、サンストリーカーが座っているのとは逆のアラートの隣席に腰かけた。それを見て、ランボルが自分の隣の椅子を指しつつぼそりと言う。
「お前、この配置で座ってたら普通こっちにくるんじゃないのか?」
 三・一の変な図になってんだけど、とぼやくのに、特に意識もしていなかったらしいインフェルノはそういやそうだなと笑い、しかし立ち上がって座り直すこともなくそのままでいる。馴染んだ場所にある赤の腕をそっと横目に見て、そんな行動に少し心弾ませてしまった自分が恨めしい、とアラートは胸の中で静かに嘆じた。



「……ここも間違ってる……」
 自室に戻り改めて開いた報告書は、いつもながらになかなかの惨状を呈していた。こうした仕事が不得手なのはわかっているが、今少しの上達を見せてくれてもいいだろう、と肩を落とす。向上するのはこちらの添削スキルばかりで、喜ばしい成長とはさすがに言えない。
 初めは頭から修正を加えていたが、ほとんど代筆の形になってしまいそうだったため、一度全て消去し、代わりにレポートの末尾へ要訂正事項を書き並べることにした。
『1、まず第一に、冒頭の日付が間違っている』
 書き出し一行で、やはりおかしいだろうこれは、と脱力した。間違えるほうが難しいはずだ。にもかかわらずしっかりきっちりと間違っている。
「俺の注意の仕方が悪いのか……?」
 思わず声漏らし、そういえば先ほど、どちらかの兄がこの手の話について何やら述べていたな、と思い起こす。確か、言い方で部下のやる気がどうとか……と回想してメモリに残った言葉に行き着くや、いや駄目だ、と首を振る。効果がある気がしないし、実行できる気もしない。
『2、件名は一目で中身の判別できるものにすること』
『3、見出しおよび本文のフォーマットは標準の記載例に倣うこと』
『4、データバンク容量節減のため画像は極力圧縮すること』
 書き並べながら、そのいかにもな文章群にまたひとつ排気が落ちる。確かに、細かな事務が苦手な者からすれば、こんな仕様書のような注意を有難く読む気にはならないのだろう。と言って、自分には砕けたおかしみのある文章を書くこともできない。
(まあ、うるさい上司だと思われてるのだろうな)
 親しい友人、息の合った相棒と、自他ともに認める仲ではあるが、それとこれとの話は別だ。むしろ「上司と部下」の関係こそが一番長きに渡って続いているのだから、当人にとってはその印象が最も強いものであるかもしれない。
 決して悪い関係ではない。だというのに、自分はそれに加えてもうひとつ、この手に想いを得てしまった。普通に付き合い過ごすにはまるで必要のないはずの、しかしいつしかスパークの奥にまで根を張り、我が身と分かてなくなってしまったほどの固く難儀な心。
「……インフェルノ」
 ほつり、口をこぼれ落ちた名と、その声の弱さに自嘲の笑いが漏れる。怖い上司、厳格な保安部長が聞いて呆れる。自分の心さえ思うようにならないのに、他人に良き指導などできたものか。
『5、地名は人に訊ねるのではなく正確な地図で確認のこと』
『6、関連人員の名の記載に略称は使用不可』
 しかし、あの兄弟機たちに言ってしまったのは失敗だったと、アラートは今日のみならず常々悔やんでいる。言ったというか、誘導尋問に引っかかったというか、未経験の想いの扱いに窮するあまり、勘繰られた部下への思慕をつい肯定してしまったのだ。おかげでいつどこで何を口走られるかと気が気ではない。アラートが進退窮まるほどのことまでは仕出かすまいと思ってはいるのだが、いいからかいの種を与えてしまった、と反省することしきりである。
 告白すりゃいいじゃないか、とサンストリーカーなどは軽く言う。自分とて、それを一切考えなかったわけではない。慕情を自覚した時にまず検討して、すぐに意味なしと却下したのだ。インフェルノは性格も好みも単純な男である。対する自分はと言えば、兄たちの評の通り、いつも上司ぶっていて愛嬌のひとつもない。可愛いと言われたところで別に嬉しくもないが、全く可愛げがないよりはあったほうが好ましいだろうと、いつも明るく人懐こい黄色のミニボットなどを見ていれば、アラートとてそう思う。初めから解の出ている問いに、意味などないのだ。
『7、経緯は時系列順にまとめ、簡潔に書くこと。過度の推測は不要』
『8、報告に私見が混じり過ぎている。何かあれば分けて記すこと』
 それでも、と、記述者の心の動きが良くわかる、日記じみた報告書を見つめながら、考える。
 隣で語り交わすたび、明るく笑いかけられるたび、その大きな手に親しげな所作で肩を叩かれるたび、もしかしたら、と思ってしまうのだ。本当に、万にひとつも望みはないのだろうかと。心の内がすぐ行動に反映される相手だから、少なくとも嫌われていないことはわかっている。ならば、可能性はゼロと言い切れないのではないだろうか、勇気を出して想いを告げたなら、応えてくれやしないだろうか、と。
 くだらない夢想だ。ゼロそのものでないとは言え、限りなくそれに近しい。それでも、そのほんのわずかの差のために、自分はいつまでも望みをなくしてしまえずにいる。当たる前から砕けているような想いなのに、そのかけらは打ち捨ててしまえるどころか日に日に増えていって、もうこのちっぽけな身には抱え切れない。
『9、全体にこの半分の文量で良いので、今後は当日ないし遅くとも二日以内に提出するように』
 最後の注意を記し終え、ごちゃごちゃと一見からして散らかっている本文を頭から尾まで眺め返し、ふと苦笑をこぼす。
 公用文書としての及第点は与えがたいが、ごく個人的な観点から言えば、アラートはインフェルノの書く報告書が嫌いではなかった。いつも意気盛んで、単純だがまっすぐ誠実な彼の心根がそのまま文章に表れているようで、読むとほほ笑ましいというか、和やかな気分になるのだ。無論、欲目が混ざった評価とわかっているから、それで点検の目を甘くすることはないし、我が事ながらいい趣味とは言えないと思ってもいるのだが、無味乾燥な事務業中の、ひそやかな息抜きのひとつである。日々ぶつくさと注意をしながら、その望み通りの「成長」がこの報告書に表れたなら、きっと自分は寂しさを覚えるのだろう。勝手なものだ。
(そういえば、このあいだ行った時、あいつの部屋またひどく散らかってたな)
 手元の文面の様子から連想して思い出す。ついでだそれも書いてしまえと、一度止めた手を再び動かし始めた。書き並べるだに小うるさい文章だが、ここまで来れば半ば開き直りである。
『追記1、最近、部屋の様子が目に余る。無駄な捜索や紛失を避けるため、常に整理整頓を怠らないこと』
『追記2、休みの合間に皆と体を動かすのもいいが、次の業務に遅刻しないように』
『追記3、共有の備品を扱う際は自分の握力と腕力を自覚のこと。今月の破損2、要修理1』
 挙げればすらすらと切りなく出てくるものだ。暮らしのゆるみを感じるよりも先に、自分がどれほどあの大きな赤の機体ばかりに心を傾けているかを改めて思い知らされ、重ねて呆れてしまう。
 思いつくまま記述を進めるうち、またふと思い返したのは、食堂で聞いた会話だ。直で言えなくとも文章でなら。そんなことを語っていたのは、確かスパイクであったろうか。 
『追記4、先日貸したスタイラスが戻ってきていない。紛失していないなら速やかに返却するように』
 面と向かってこの心を考え始めれば、挙動不審の体に陥るのは目に見えている。では文章でなら? 紙と言わずともせめて電信でなら、正直に想いをしたためて渡すことができるだろうか? 街で憧れの者を呼び止め、愛らしく封した言葉をその手に届けた人間たちのように。
『追記5、夜間はもっと静かに歩くこと。せめて用もなく走るんじゃない』
 ――無理に決まってる。
 確かに口伝えよりは気が楽だ。相手と異なり、自分は文章を書くのも普段から苦には思わない。だがこうしてすらすらと、ほとんど無意識でいてさえ出てくるのは、結局は普段と変わらず愛想も可愛げもない、ただ日頃から胸に思うままの言葉だけだ。
『追記6、先月のリペアルーム利用回数第三位はお前である。重々反省しろ』
『追記7、そもそも無断出動は控えろと何度言ったらわかるんだ。』
(本当に、なんであいつのことでこんなに何度も悩まなくてはいけないんだ。馬鹿みたいに、何度も何度もわかりきったことを――) 
 深慮が行き場のない苛立ちに転化し、打ち込む文章が次第に口語調になるのも構わず指を動かし続けていたその時である。不意に目の前の画面が、のみならず、部屋の明かり全てが、ふっと消え落ちた。
「なっ」
 慌てて腰を浮かしかけるが、その動作も終わらぬうちの次の一瞬には、軽い明滅とともに明かりが戻り、端末も再起動を始めていた。一体何がと状況を探りかけるのをさえぎり、通信が飛び込む。
『あー、アラートくん、聞こえるかね? ホイルジャックだが』
「ホイルジャック! 今のは……」
 まさか、とみなまで問う前に、技術者はいやいやと否定の言葉を入れて答えた。
『吾輩のところじゃないよ。どうも外のエネルギー供給用のタワーに落雷があって、過電圧で瞬停したようやね。まあさほど支障はないと思うが、一応皆に連絡して基地内の異常を点検しておいてくれんかと思ってね。……や、今警備室のほうじゃないんかな』
「部屋にいるんだ。ああでも、司令官に報告してすぐに連絡するよ。皆も何かと思っているだろうから、早いほうがいい」
『そうやね、頼むよ。吾輩はギアーズくんとちょいとタワーを見に行ってくるから』
「わかった。気をつけて」
 通信を終えてすぐコンボイへ一報を入れてから、回線を全館警報の権限に切り替え、基地内総員に状況を伝える。それなりに大きな規模ではあったようだが、もちろんほとんどの機器において停電に対する備えはなされている。すぐに電源が復帰したこともあって、ホイルジャックの言う通り、さまで大事には至らないだろうと思われたので、各自念のため身辺の機器の動作確認をするように、との伝達にとどめた。重要な設備を預かる者は、この内容でも自主的に必要なだけの点検をしてくれるだろう。
 自分も警備室の点検に加わりに行かねばと腰を上げ、そういえばこれも、とデスク上の端末に気付く。固有電源であるから通常なら停電の影響などはないはずだが、充電台に載せたまま使っていたため、過電圧のあおりを受けてしまったのだろう。なんとなく嫌な予感を覚えつつ手に取り上げ、復元した報告書を開いてみると、幸いエラーの生じた様子は見られず、自分が打ち込んだ文章も残っていた。自動保存により数手順戻ってはいたが、問題のない範囲だ。安堵に肩の力を抜く。
 明朝に再確認してから戻そうと決めて文書を閉じ、自分の持ち場へ向かうべく部屋を出る。角をふたつ早足に曲がった頃には、自身の鋭敏なセンサーでもしかと捉えられない不穏な予感は、ほとんどメモリにも残されず消えてしまっていた。


      ◇


 翌日朝、通りすがりのメインルームに馴染みの後ろ姿を見つけ、アラートは自分の端末を掲げつつ声を投げかけた。
「インフェルノ、今お前の端末に……」
 と、そこまで言ったところで、大きな機体の陰に入っていた幾人かのうちに赤と黄の同型機の姿を見出し、思わず語尾がしぼむ。無論なかったことにできるはずもなく、すぐにこちらへ(浮かべてしまった表情も含め)気付いた二人が、これ見よがしに笑って手を振ってきた。
「ようアラート、朝早くからお勤めご苦労さん」
「なんだ? ラブレターか?」
「ば、馬鹿言えっ、ゆうべの報告書だ!」
 すぐに否定を述べ、遅れて振り向いた相棒の顔をうかがう。インフェルノは兄弟機たちのやり取りを特に気にかけたふうもなく、こちらもよぉと笑って手を上げてみせた。その手の中は空である。
「端末は?」
「あ、部屋に置いてきちまった」
「なんだ、ちゃんと携帯していてくれ」
 悪い悪い、と軽く謝罪が返る。この会話も何度したことかだ。報告書がなんだと問いかけられたので、短く言い落とした。
「再提出」
「うぇ、またかよ」
 うなだれるのに、あのまま出してもどうせ上で止まってまた返ってくる、と言葉を重ねる。
「記憶の新しいうちに修正して、三日前のものと合わせて早めに出してくれ。今日は昼過ぎまで暇だろう」
「そうなんだけどよ……」
「途中までは添削していたんだが、修正箇所が多かったからそれは消して下にコメントをつけておいた」
 それとと続けるのをさえぎり、横から双子の声が挟まれる。
「相変わらず几帳面だなお前も。もうほっといて減給処理にしちゃえよ」
「いいなーアラートの愛のコメント返し」
「だから違う! 二人とも任務はどうしたんだっ」
「俺らも昼からの出動待ちだし」
「なんでそいつのスケジュールは把握してて俺らのは知らないんだよ。兄ちゃんは悲しいぞ」
 気の入らない声で呟くランボルの言葉を、同じチームなのだから当然だろうと撥ね返す。やはりこのタイミングで声をかけるのではなかったと悔やんだが、過ぎたことは仕方がない。この手のことは早めに言っておかねば、あとでうやむやになってしまうのが常だ。
 メインルームで自分の業務に従事している仲間の邪魔にならないよう声を抑え(仕事がないならよそへ移れと三人には言いたかったが、また何やら始まるだろうと自制する)、あとは適当にあしらいながらの会話を続けた。
「それと、ついでに最近のお前の生活態度について気になったことも書いておいた」
「マジかよ」
「なあ、もうそれ上司の域じゃなくないか?」
「愛されてんなー」
「うるさい。……ちゃんと読んで改めるように」
「へいへい。そんなにあるのかよ」
「報告書の注意と合わせて十六項目」
「長っ」
「アラート、兄ちゃんちょっと心配になってきたんだが」
「ウワーイイナーウラヤマシー」
「うるさい」



 昨夜の停電の影響はごく微少なものにとどまったようで、残していた懸念も早朝の点検でほぼクリアーとなり、昼までの業務は滞りなく終わった。
 時計を確かめ、そろそろインフェルノの出動時刻かと遠隔指揮の準備を始めたちょうどその時、警備室の戸が開いて当の救助員が現れた。振り向いて目にした巨躯を首傾げて見つめる。いつもは基地の出入り口で通信をするのみだ。珍しく直に出発を告げに来たのだろうか、と思ううちに重い足音が近付き、アラートの前に立った。その顔が、奇妙に渋い。
「どうした。もう出る時間だろう」
「お、おう。……あの」
 何やら言いよどみ、ちらちらと横をうかがっている。壁際に座ったパーセプターのことが気になっているようだが、彼は何やらの演算データを流しているディスプレイに集中し、こちらには頓着していない様子だった。それを確かめてか、目線が戻り、いびつな動きで口が開く。浮かんでいるのは渋いと言うより躊躇の表情だ。まったくらしくない。
 なかなか言葉が出てこないので、もう一度アラートのほうから促した。
「なんなんだ? 早く行かないと渋滞に捕まるぞ。この前もさんざん遅くなったろう」
「ああ、その、だからな、……俺も、だ」
「だったら早く――」
「違う、報告書を」
「報告書?」
 その言葉の指すところはひとつしか考えつかないが、今ここで話題になる理由がわからない。まさかわざわざ提出を報せに来たのだろうか。だとするなら珍しいを超えて妙である。傍らに置いていた自分の端末を振り返ると、来た瞬間には気付かなかったが、確かに文書の受信通知が表示されていた。
「報告書なら後で見ておくから……」
 言葉を返し、何ともなく差し伸ばした腕を、大きな手で横からぱしりと引き止められる。驚き見上げた顔に今度は焦りの色があった。
「待て、後にしてくれ」
「そう言ったじゃないか」
「だから、後ってのは……ああ、もう!」
 相変わらずもごもごとはっきりしない、かと思えば、不意に声を上げ、あろうことかアラートの腕を掴んだまま、きびすを返して歩き始めた。強く身を引かれてたたらを踏みながら、どうにか足を付いていかせる。
「おい、何するんだ! 業務中だぞっ」
「わかってる! パーセプター、ちょっとここ頼んだぜ!」
 全然わかってないじゃないか、と叫ぶアラートの抵抗もどこ吹く風で、インフェルノはずんずんと扉へ向かって歩く。ようやくディスプレイから顔を起こしたパーセプターの返事も待たずに廊下へ抜け、アラートを腕にぶら下げたような状態のまま、歩をゆるめることなくなおも進んでいった。
 アラートは途中幾度も叱責を唱え、その手を振りほどこうと試みたが、力では到底敵わず、いったい何を考えているのか、声ひとつも返らない。引きずられるようにして広い歩幅を追い、転げ込むごとくたどり着いたのは、インフェルノの私室だった。
 掴まれた時と同様に突然手を離され、よろけながら怒りの口を開く。
「お前――」
「悪かった! けどよ、無理だっての!」
 怒声を上げるより先に、さらに強い声音で謝罪を叫ばれ、反射的に言葉をつぐむ。無理って、と意味のわからない語をくり返すと、
「今パトロールに出たら、俺ぜってぇ事故るぜ!」
 さらにわけのわからない断言が返され、疑問符ばかりがブレインを埋めた。
「俺が事故ったらお前困るだろ?」
「そりゃあ困るだろ……」
 緊急車両が街中で事故を起こしたとなれば、誘導官である己ともども赤っ恥である。渋く頷いたが、インフェルノは求めた応えはそれではないとでも言いたげに口を歪ませている。その奇妙な興奮に反比例して、警備室を連れ出された瞬間の怒りが急激に冷めていくのを感じた。
「わかった、聞く。聞くから落ち着いて話してくれ。わけがわからない」
「俺としちゃお前がそんなに落ち着いてるのが不思議でならんぜ……」
 うめくように言い、情けない、だの、予定が、だの、ぶつぶつと呟き始めるが、それでも多少は平静を取り戻したらしく、少し目線をさまよわせつつも、ようやく対話の姿勢になる。
 一度アラートの顔を盗み見るようにセンサー光を揺らし、あー、と思考の散らかりを如実に伝える声を置いてから、インフェルノは訥々と語り始めた。
「いや、正直、お前があんなことするなんてよ……全然思ってなかったっつうのか、本気で椅子から転げ落ちかけたっつーか、とにかく驚いちまってよ。……あ、いや、俺も考えてたんだぜ? 地球に来てそこそこ経って落ち着いてきたし、双子もいい加減うるさいし、そろそろかなってのはあって、まあ、準備ってわけでもないが、色々と……まさか先越されるなんて思いもしなかったんだよ」
 まとまりのない言葉を集積し、分類し、どうやらこれは何かの言い訳であるらしい、というところまでは判断できたが、そこからの理解が一向に進まない。インフェルノ、と呼びかけの声を挟んだ。
「もう少しわかるように言ってくれ。注意にも書いたろ。報告は簡潔に要点をまとめて――」
「だから、それだ。報告書だよ」
「報告書?」
 冒頭のやり取りに戻ってしまう。一体何があるのかと、再提出された文書を確かめようにも、端末は警備室に置いたままだ。
「……お前が、あそこまで言ってくれるなんて思わなかったんだ」
 落ちた言葉はほとんど先のくり返しのようなものでありながら、奇妙なほどに真摯な音で響き、アラートははたとしてその顔を見つめ直した。ひたり、深い青と視線がかち合う。
「あ、あれぐらい当たり前だろう。俺は上官だし……部下の指導をする義務があるんだ」
 どぎまぎと、逆に視線をそらしてしまいながら答える。こんな時に何を馬鹿なと、熱持ち始める胸を叱咤する視界の端で、インフェルノがにっと口角を上げて言った。
「そうか? にしちゃ随分情熱的な感じだったぜ?」
「……情……?」
「ああいうのも悪くないとは思ったんだけどよ、どうも俺は得意じゃないからな。返したこたぁ返したが、やっぱりこういうのは面と向かって言いたいだろ? 先手取られたってのもあるしな」
 次第にいつもの調子が戻ってきたのか、はっきりとした口調でインフェルノは言葉を続けるが、アラートはまだ理解に至らなかった。むしろ認識がさらに遠ざかってしまったようにも思える。自分が送った程度の指摘で椅子から転げ落ちかけるほど驚くとは到底考えられないし、あれが情熱的に感じるのだとしたらインフェルノの読解力がますますもって疑われるし、面と向かって「わかりました、以後気を付けます」などと今さら言われるたぐいの話でもないし、そもそも先を越すだの先手だの、一体なんの話なのだ。
 報告書、報告書――昨夜、自分はそこに何を記した?
「インフェルノ」
 ぽつりと呼びかける。
「すまない。わからないんだ。俺はあの報告書には注意しか書いてない」
 ゆうべも、そして今朝送る前にも確かめたのだ。間違いない。何か別の文書が紛れてしまったのかとも考えたが、インフェルノはアラートの言葉をあっさりと肯定した。
「ん? ああ、ま、そうだよな」
「なら……」
 先ほどから一体何について話しているのかと、問うより早く、
「保安部長から部下への十九の有難いお言葉な」
「十九……?」
 返った答えに、サイバトロンに冠たるはずの聴音センサーの感度を疑う。追って示された頷きで聞き違いでないとは知れたが、次は思い違いを怪しんだ。
「何か勘違いじゃないか。報告書の注意が九で」
 言い差したのを引き取り、
「追記が十だろ。最後のは番号はなかったけど、数は合ってるぜ」
 さすがにそのぐらいの演算は間違えねぇよ、と笑って渡された言葉を、ゆっくりと処理する。
「俺は、追記は七までしか」
 呟きながらもメモリを探るブレインの中に、ゆらり、影のように何かの予感が立ち現れる。不意の事態に取り紛れてしまった、無意識下の一事。心の赴くままに書き並べた言葉。
 まさか、そんな、と否定を願う心を、眼前に落ちる声と、記憶の中で鳴る声とが、明るい音で切り裂く。
「だからほら、あれだよ、履歴のも入れて」
(直に言えなくても、文章でなら――)
 嘘だ、と首を振った。
「……俺、消したのに。……履歴だって、残るはずが」
 必死に記憶を探る。そうだ、確かに書いたのだ。メモリにほとんど焼き付かないほどの無意識の中で、確かにそれを書いていたのだ。だが、残っているはずがない。残しているはずがない。あれは全て消してしまったのだから。全て――
 そこで、違う、と誤りに気付く。
 ――「消した」のではない。あれは、「消えた」のだ。
 瞬停によるシャットダウンと復元の合間に、その言葉は消えていた。もともと消すはずのものであったから、ちょうどいいとしか考えなかった。しかしあの不測の出来事により、通常の消去操作では残ることのない編集の履歴が、一時保存が入ったためか、それとも何か別の不具合でか、文書の中にしかと記録されてしまっていたのだ。
『追記7、そもそも無断出動は控えろと何度言ったらわかるんだ。何度俺を不安で倒れさせようと思ったら気が済むんだ』
 瞬間、吸気が乱れ、ひっ、と悲鳴に似た声が口から漏れた。機体内の油圧が急激に下がり、鈍重になった機動回路が足をふらつかせ始める。訝しげに首を傾げた相手から呼ばれた名は己のものとして認識されず、音のまま身の横を通り過ぎていった。
 緩慢に首をねじり、周囲を見やる。この場から消えてしまわなければ、その言葉の矛先にした相手の前から、なんとしてもいなくなってしまわなければと、ただそれだけしか考えられなかった。
「おいアラート、どうしたんだ」
 ゆらりと踏み出した足は三歩で言うことを聞かなくなり、目指した扉とのあいだの道をさえぎるように前へ立たれる。いつも深い安堵をもたらしてくれる赤の機体の影が、無性に恐ろしかった。
「頼む、忘れて……忘れてくれ」
 絞り出すように言う。伸べられる腕から逃げて後ろへ下がると、すぐに背が壁へぶつかった。
「お願いだ、インフェルノ……本当にすまない、俺が悪かったから、だから」
 あんな独りよがりな言葉、どうか忘れて。
 軽蔑しないで。嫌わないで。
 せめて今の親しさのまま、ずっとお前の隣にいたい。

『追記8、俺だってお前の熱意は美点だと思う。それでも、少しは待つ側のことも考えろ。お前との通信が途切れるたび、負傷の連絡が入るたび、俺はスパークが押しつぶされそうになる。ほかの何を置いてもお前を優先してしまいそうな自分が嫌になる。それでも、お前を失うことなんて考えられないんだ。行くのなら絶対に無事に帰ること。でなければたとえどんな理由があろうと許さない』

『追記9、好きだ。今までもこれからも、お前が心から好きだ』

「おいアラート、落ち着けって。なんで今の流れでそうなっちまうんだよ?」
 泣くなって、と戸惑いの声で言われ、頬を流れる水の感触に気付く。ブレインが高熱を帯び、処理限界を超えて気を失してしまいそうだった。
「だって、お前、あれを……」
 壁にすがってどうにか身を立たせながら、切れぎれに言う。ああ、と頷くインフェルノの脚が、いつの間にか半歩の距離にあった。
「読んだぜ。だから来たんじゃないか。……ひょっとして、わざとじゃなかったのか? 俺が履歴を見ると思って、途中まで添削したって言ったんだと思ってたぜ」
「……全部、消したつもりで」
「じゃ、カンニングして正解だったってわけだ」
 確かに添削のほうは残ってなかったな、と笑うのを言葉なく見つめる。何が正解なものか。こちらは今にも倒れてしまいそうだというのに。
「イン、」
「なあ、聞けって。お前絶対勘違いしてるぜ」
 名を呼んで再び許しを願おうとしたアラートの言葉をさえぎり、インフェルノが少し腰をかがめて言う。穏やかに光る青に覗き込まれてスパークが揺らいだのを、胸の片隅の冷静な自分が嗤った。
「勘違い、なんて」
「いいやしてるね。どうせ『ここから逃げ出さないと』だとか『あんなものを見られて嫌われる』だとか『メモリを消去して全部なかったことにしたい』だとか思ってるんだろ」
 驚き見つめた。三つ目の言葉までは具体的に考えてはいなかったが、そのうち行き着いていただろうことは想像に難くない。ほうけたアラートの顔を見下ろし、何年お前と付き合ってると思ってるんだ、とインフェルノがまた愉快げに笑う。
「嫌うわけないだろ。それに忘れないぜ。さっきまで俺がぐちゃぐちゃ言ってたの考えりゃわかるだろ?」
「……わからない」
「ほら、警備室で最初によ」
「あのとかそのとか言ってた記憶しかない……」
「あー……本気で情けねェな俺」
 頭を掻き、悪かった、と言う。その言葉の意味さえわからなかった。謝罪するべきは軽率に言葉を残した自分であって、相手ではない。そう考えたのが伝わったのか、インフェルノは呆れたように排気したが、その音はやわらかく、口元も笑んだままでいる。
「お前がそういう性格なのはわかってるんだから、濁さないではっきり言やぁよかったんだよな。本当は感動で泣かせるつもりだったのにな。なんつーかまぁ、いざとなるとやっぱ照れくさくってよ……お前が言った、つーか書いてくれたのに甘えちまったんだ。俺も、だなんざ、告白としちゃ最低だよな」
 言われてみれば、そんなような言葉を聞いた気もする。だが消したはずの文章を見られていた衝撃があまりに強く、それまでのやり取りなどほとんど上書きされてしまっていた。
 一連の記録を取り戻すべきかの判断は、
「アラート」
 ゆるやかに名を呼ぶ声で一度途絶え、次の言葉でその意味をなくした。
「好きだ。俺も、お前がずっと好きだった」

『インフェルノ、お前は俺をどう思っている?』

 今度こそ本当に、センサーが故障してしまったのではないかと思った。急激な演算負荷で指示を失った脚部ががくりと折れ、ずるずると壁を滑るように床にへたり込む。慌てて差し伸べられた腕を見つめ、呆然と呟いた。
「……嘘だ」
「んな趣味悪ぃ嘘言うかよ」
 即座に否定が返り、自分を追うように片膝ついてしゃがんだ大きな体と正面に向き合う。この世の何より愛する明るく優しい笑みが、目の前にあった。
「本当に、俺から言うつもりだったんだぜ? 色々考えて、そろそろいいかってなってた時にこれで、正直やられたと思ったけどよ、嬉しかったぜ」
 語る声は常のごとく明瞭で、そして常より少しばかりゆるやかに響いて、とても偽りを述べているようには聞こえない。じゃあ、とアラートはいまだ熱持つブレインで考える。じゃあ、この言葉は。自分が書きつけた、あの問いは。
「それは、感動で泣いてくれてるんだよな?」
 ほろほろと落ちる冷却液を長い指にそっとぬぐわれる。必死の思いで、しかし動きぎこちなく頷くと、見上げる笑みが色深まり、厚く形良い唇がまた快い音で言葉を刻んだ。
「好きだぜ、アラート」
 噛み締めるように聞いて、
「……俺、も」
 かすれる声を押し出し、そうかここで止めてはいけないのかと、あえぎながら続ける。
「好きだ、インフェルノ……」
 こんなに短く簡単な言葉が、ずっと告げられなかった。
 捨てることもできず、渡すこともできず、両手いっぱいに抱え込んでいたそれは、当然の帰結のように表へぶちまけられて、結局、あまりにも回りくどい道をたどって届いてしまった。
 けれど、消えず残ったあの言葉も、みっともなく震えるこの言葉も、全て己の心の底から湧き出した、偽らざる想いだ。一生この手の中だけの付き合いだとさえ思っていた、行き場のない呼びかけに、まさか応えが返るだなんて。
「夢、」
「違ぇよ」
 語尾を奪うように返される。本当に何もかも読まれてしまっているのだなと思うと、情けなくもおかしく、それ以上に嬉しかった。
 頬を濡らしたまま笑みかけると、こちらを見下ろすアイセンサーの輝度が上がったように見え、奇妙を感じる間もなく顔が近付く。壁についた頭はそれ以上後ろへそらすことができず、このままではぶつかってしまうのではないか、と巡りの鈍いブレインで考えた、その瞬間。
『えー、こちらパーセプター。アラートくん、聞こえるかね? 研究室に戻るので、そろそろこちらに帰ってきてもらいたいんだが――』
 ノイズとともに聞こえた声に、ぴたりと場の空気が固まる。いつの間にか身を挟むように壁に置かれていたインフェルノの腕をくぐって横へ抜け、得体の知れない焦りを感じながら応えた。
「すまない、すぐに戻る!」
「くぐんのかよ……」
「インフェルノ、お前も」
 何やらぼやいているインフェルノを促し、手で床を押して立ち上がろうとするが、
「……あれ?」
 力が入らず、再びその場に座り込んでしまう。
「どうした?」
「立てない……」
 油圧調整機構に不具合が生じたままらしい。幾度か同じ動作を試みるも、やはりうまくいかなかった。がしゃりと音を立てて巨躯が近付き、手を差し出してくるのに、思わず肩が跳ねる。
「俺が抱えてや」
「いい!」
 反射的に言い放っていた。少し驚いたような表情を浮かべる顔を見上げ、あ、いや、とどもりがちに続ける。
「自己修復で済む程度だから……悪いがその、先に行ってパーセプターと代わっていてくれないか。直ったらすぐに向かうから」
 そもそもインフェルノの業務違反がもとの状況であるのだから、自分が引く謂われはないはずなのだが、へたり込んだままでは上官の威厳も何もあったものではない。頼む、と重ねて言えば、インフェルノもごねずに手を引いた。
「わかったよ。また後でな」
「あ、ああ」
 何がまた後でなのかも判断できないまま、ともかく形だけ頷く。よしと笑ったインフェルノは上機嫌の様子で部屋を出ていき、その背が戸の向こうに消えるのを見送ってから、アラートはようやく身の力を抜き、深く排気をこぼした。
 戻るときは適当に理由を付けて誰かを連れていこう。そしてインフェルノはすぐにパトロールに出させよう――。そんなことを考えつつ、ぼんやりと部屋を見回す。勝手知ったるとも言える相棒の部屋。相変わらず物が乱雑に置かれていて、果たして日々の注意の効果はあるのだろうかと疑問を覚えた。
(……でも)
 ふと目の止まった椅子の上、またも主に置き残されたデータパッドをそっと手に取り降ろす。この端末の内部にも、あの雑然とした文章が、堅苦しい注意と一緒くたになった、愛想や可愛げのかけらもない、ただ心のままに吐き出した言葉が、残っている。今は無意識下から浮かび上がり、自分のメモリにも、もはや彼のメモリの中にも。通常に考えるならば、とても記録に残すに足る麗しい告白の辞とは言いがたい。
(……でも、嬉しい)
 ほかのどの注意でもなく、その言葉に真っ先に応えてくれたことが。捨てられずに腕からあふれて散らばった、秩序も何もないひたすらの想いを、相手もまた捨てずに受け取ってくれたことが、ただただ、嬉しい。
 しかし、とんだラブレターになってしまったものだ。こんな情けない話、例の賑わしい兄弟機たちどころか、ほかのどの仲間にだって打ち明けられやしない。偉ぶった告白を消しそびれて、見つかって、騒いで、泣いて、インフェルノもさぞかし呆れたろう。次はもっとしゃんとして伝えなければ。
 とは言え、あれぐらいのことで倒れかけていては、それもしばらく無理な挑戦かもしれないと、座り込んだ床へ機体の余熱を逃がしながら、独り夢見心地に思考を巡らせる。
 ――その時アラートは、またいくつかの重要な事象を忘却していた。あの文書を通して自分が注意や問いだけでなく、あるひとつの課題を相手に与えていたことを。番号さえ振ることのなかった、想いそのままの呼びかけの語を。そして、今腕に抱えた端末から、警備室に置き残した自身の端末へ、奇妙な恋文への返信が既に届いているという事実を。

『インフェルノ、お前は俺をどう思っている? うるさい上司だと思っているだろうか? 仲間として、相棒として、少しでも好いてくれているだろうか? なんでも構わない。俺が好きな、お前のそのまっすぐな言葉がほしい。何か思うところがあるなら、以下の余白に十行以内で記せ』

 その夜、なんの気構えもなく開いてしまったその回答――インフェルノからの直線的すぎる熱烈な愛の言葉に、今度こそ本当のオーバーヒートを起こし、自室から基地全館に警報を響き渡らせて卒倒してしまうなど、幸福に身を浸す今の彼には、まだ知る由もない。


Best wishes,
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