互いの作業がほぼ同時に終わり、交わした誘いを果たすべく、私たちは連れ立って本局の門を出た。かの探察遠征で得たきりそのままなのだという、異星式のビークルを先導し、街の外れへ向かって走る。歴年の士たちが同様に有する、当時の遠征参加者の証とも言える特徴的な外形の車両は、旧式という評を超えて、今や若年のトランスフォーマーたちの憧憬の的でもあり、ともに走るのは常ながら少々誇らしい気分であった。
その鮮やかな赤白の車体から、止まれ、と号令が発せられたのは、街の幹線を離れ、目指す店まであと数ブロックという狭路へ至った時だった。
「どうかされましたか?」
「今、西から爆発音が聞こえた」
え、と反問するより早く、鋭いドリフト音とともに、口にした方角へ車体が返される。私は慌ててステアリングを切ってその後に続いた。
「保安本局、応答願う。こちら保安部所属レッドアラート教導官。第七セクター一〇五地点を走行中、爆発および建造物の倒壊によるとおぼしき異音を補足した。通報の有無を確認したい」
低い車体の屋根の上では既に赤色灯が回っており、面食らうばかりの後続をよそに、緊急通信が飛ぶ。応答はすぐにあった。
『レッドアラート教導官へ、こちら本局通信部。たった今、第三工業区域より爆発事故の通報と救援要請が入った。貴隊が最近傍にある。現場へ急行されたし』
「了解。ただし引率部隊がなく人員若干名につき、至急応援を頼む」
『了解した。逐次連携する』
会話の間にも、フロントディスプレイには本局から送信された情報が流れ始めていた。どうやら建設中の地下工場で爆発があったらしく、複数の負傷者が発生しているようだ。配置図を見ると確かに我々が最近辺を走行しており、他の部隊の到着までにはいくらか間がありそうに思われた。
店に仲間たちが、と前へ声かけようとしてやめる。ひと山いくらの訓練生を何人呼び集めたところで、この急場では監督に手が取られるだけだろう。無論それは私にも当てはまることであったが、待機を命じられない限りはと決め、夜闇に浮かぶ鮮やかな警告灯の軌跡を無心に追った。
大型プラントの並ぶ区画に入っていくらも経たないうちに、正面の空に白煙が立ち昇っているのが見えた。その根を目標と定めて一段速度を上げ、やがて到着した現場には、恐慌の様子こそないものの、既にそれなりの数の観衆が集まり、地面に開いた長大な亀裂へ視線を注いでいた。
「おお、待ってたぜ保安部さん」
警笛とともに建築フェンスの内へ滑り込んだ我々がトランスフォームを完了させるや、一機の大柄なサイバトロニアンが駆け寄ってくる。ここの責任者かと訊ねる教官の言葉に頷き、興奮の面持ちで話し出した。
「今朝がた設置した発電機がイカれてたらしくってな。通電した途端にドカンだ。仮設の部分がほとんど崩れちまった。あんたら二人だけか?」
「近くにいた者だけ先着隊として急行した。じきに応援が来る。負傷者発生の報告も受けているが、緊急の要救助者が残っているようなら我々はそちらを優先したい」
「わかった。大体は引き上げるなり降ろすなりしたんだが、一人だけ手が出せない場所なんだ。頼む」
案内に従って白煙の中を進む。地面の崩落は予想以上の広範囲に及んでおり、亀裂と言うよりは巨大な穴と呼んで差支えなかった。比較的損壊の少ない足場を選んで回り込み、地下へ続く崖のようになっている場から、あそこだ、と指差された先を覗き込むと、断崖の上辺からおよそ三分の一地点に、周囲から浮き出す生身の影が見えた。どこの星系の者かまではわからなかったが、少なくともサイバトロニアンではない、一般的なミニボット程度の大きさの有機生命体である。作業に携わっていた工員だと横から説明があった。
「床は一応衝撃吸収パネルを敷いてるんだが……」
「いや、あの高さではほとんど意味がないようなものだ。内骨格型の有機生命体は我々と比較にならないほど身体がもろいから」
工員は壁から突き出た太い金属管の上に身を納めていたが、危ういところで平衡の保たれた姿勢であり、この状況では心身がいくらも持たないだろうことが明らかだった。思案の間はさほど長くも続かず、教官が決定を口にする。
「やむを得ない。多少危険を伴うが、懸垂下降で救助に当たる」
「応援の救助員を待ったほうが良いのでは?」
「次の部隊に航空要員はいなかった。手段が変わらないなら少しでも早いほうがいい。あの体格であれば私ひとりでも抱えられるからな」
事態を予測し、走行中に応援の人員確認を済ませていたらしい。手際の良さに感服する間もなく、教官は数歩後ろへ戻って肩のランチャーを下向きに構え、ザイルの連なるハーケンを発射した。かつては実弾を込めていた砲が、その威力ゆえ今は人命救助に大いに活躍しているというのは皮肉だと、演習の初めの頃に教官は語っていたものだが、そうして地面深く打ち込まれた支柱具を実際の現場で使うのを見るのは、まさしく今が初めてのことだった。
下降器を噛ませたザイルを機体の腹部に取り付けて余りを肩にかけ、一度強く引いて強度を確かめてから、降下の姿勢を取りつつ、教官はこちらへ指示を述べた。
「安全確保までは上でバックアップを頼む。そのまま下へ降りるから、戻るあいだの本局と応援部隊との連携を代行してくれ。見物はまだほうっておいていいが、あれ以上は近付けさせないように」
「かしこまりました。お気をつけて」
「頼んだぜ。ここいらのやつじゃないが、腕っこきの技師なんだ。どうにか助けてやってくれ」
「もちろんだ」
力強い答えを残して、降下が開始される。内から倒壊した建物だけに、足がかりになる壁が欠落している空間も多く、難度の高いオペレーションであるに違いなかったが、教官はさすがの経験の深さで適切な進路を選び、危なげなく機体を下へと運んでいった。救助対象の真上を避けて右側から回り込み、並ぶ高さまで降りたところで、工員が手振りを示して何やら呼び交わしたようであったが、声は上まで届いてこなかった。
慎重に進んで金属管の横に身を寄せてから、腕伸ばして支えた身体にハーネスを装着させ、ザイルに連結するまでの間は、ものの数瞬にさえ見えた。その鮮やかな仕事と、ひとまずの落下を免れた安堵に、隣に立つ工事官と排気の音が重なる。すぐに通信が入り、聞こえた声には、こちらの十分の一ほどの高揚の気配もなかった。
『要救助者の身を確保した。最下層まで降下する。引き続き待機せよ』
了解の言葉を返すや、眼下で機体が再下降を開始する。張り出した壁にはばまれて様子をうかがえなくなったため、工事官は崩落の恐れのない離れたシャトルから地下へ降りて案内役を務めると言い、小走りに場を離れた。そこへちょうど本局からの連絡が入り、支柱の安定を再確認しつつ、私も数歩後ろへ下がって無線に応答を返した。
『こちら本局通信部。間もなく応援部隊が到着する。現場の状況を確認したい』
「了解。現在、危険域からの避難救助を優先して行っている。一名救助、一名保安待機のため負傷者の確認ができていない。応援部隊に緊急治療と搬送の準備を――」
現状の報告に続けて要請事項を唱えかけたその瞬間、通信に寸時のノイズが走るが早いか、
割り込みの合図が飛び込んできた。初めて耳にすると言っていい強い焦りをにじませる、レッドアラート教官の声であった。
『崩落孔付近、東の地表近くに高密度のエネルギー反応を補足、急激に膨張している。爆発破砕の恐れあり、総員、退避せよ!』
一瞬、何を聞いたのかわからず、私は保安部員にあるまじく場に呆然と固まってしまった。が、作法通りにくり返された二度目の警告の途中でどうにか我に返り、メモリの内から呼び出した言葉を反復再生することができた。示された方角は現在位置から見て左手側にあり、工事官も後ろへ戻っていったため、少なくとも視界内には、要避難者は残ってない。
「現場四方に避難対象はありません。教官、一体……」
『了解。お前もフェンス外まで速やかに退避しろ』
問いをさえぎる指示の声に、かすかな金鳴りが混ざっている。日々の演習で聞き馴染んだその音は、懸垂下降がまだ続いていることを教えるものにほかならない。経過時間から言っても、ザイルに繋がれた二名の身体は、まだ穴の中腹を過ぎたあたりにあるはずだ。
再度、穴の東側を振り向く。不具合の生じた発電機から最も遠い位置にあったのだろうか、砕け残った地面が広く亀裂に張り出す状態になっているのを見て、身の熱が急激に下がるのを感じた。もし地表近くで爆発があれば、あの地面が多量の岩塊と化し、穴になだれ落ちる――
『何をぐずぐずしている、急げ!』
こちらからの呼びかけより、叱責のほうが早かった。しかし、と言い差して開けた口を、ぐっと結び直す。どんな声をかけたところで、事態を好転させることはできない。教官の思い過ごしであってくれれば、と祈る一方で、それがあり得ないことと知っていたからこそ、私はただはいと応えて駆け出した。初日の大仰な演技を思い返さずとも、彼に学ぶ日の中で、我々は既にその鋭敏な感知能力と、歴年の経験が生む言葉に、心から信頼を寄せていた。
前へ駆けながらトランスフォームして全速で進み、指示されたフェンスの横手に車体を滑り込ませたのと、後方で爆発音が響いたのとはほぼ同時だった。細かな金属片を散らす熱風が過ぎるのを待ってから、もう一度トランスフォームして機体を振り向かせ、湧き上がる煙に目を凝らす。我々が立っていた手前側の地盤は、少し側面を削られただけのようで、打ち込まれたハーケンも残っていた。しかし爆発の生じた東側は、恐れた光景そのまま、穴の縁を大きく奥へ広げていた。つまり、一瞬前までそこにあった、重たい合金で固められた地面は。
後ろで観衆のざわめきが広がるなか、私はほとんど意味をなさない形ばかりの安全確認をしつつ、よろよろと前へ歩いていった。常に最も深刻な事態を予測して行動せよ。教え込まれた鉄則を、今は打ち捨ててしまいたく思った。
十歩あまり足を進めた時、通信機がノイズを鳴らした。そうだ、割り込みのあと、本局との会話を断ってしまったままだった、と、ぼんやりとした心地で応答する。返ったのは、疑い挟まず予想した通信員の声ではなく、激しい雑音混じりの、しかしいつも通りに凛然とした指揮者の声だった。
『こちら、レッドアラート。総員無事か?』
「教官!」
思わず声を上げてしまってから、相手のセンサー感度を思い出して慌てて口を押さえ、答える。
「爆発は中規模、亀裂の拡大を認めましたが、人的被害はありません」
『そうか。こちらも二名とも軽症で済んだ。だが地下に多数の負傷者がいるようだ。このまま応急処置に当たる。後続が到着したら至急応援に回してくれ』
「了解しました」
指示の声はごく落ち着いており、軽症の言葉も気休めのものではないようだった。一体あの崩落からどうやって身を守ったのだろうか、運良く当たらなかったのだとも思えないが――と、そこまで思考を巡らせて、電波の向こうの相手が既に最下層に到達しているらしいことに気付く。警告時点での位置を考えれば異常な速さである。ということは、おそらく降下を間に合わせたのではなく、「落ちた」のだ。衝撃吸収性の床だということであったから、宙吊りのまま落下物を浴びるより、一度の衝撃に備えて自ら落ちてしまったほうが、被害が少ないという咄嗟の判断だったのだろう。
推測の正誤を確かめる間もなく、今度は応援部隊からの通信が入り、誘導を求める数度のやり取りを経て、現場に一小隊が到着した。現況を伝えるとすぐに人員を分けての処理が始まり、私は引き続き連絡係に任じられた。いかにも新人向けの使い走りのようなものであったが、邪魔だと言って現場から追い出されなかっただけましと言わねばならない。教官は地上の管掌を応援部隊の隊長に預け、地下での作業指揮を担当したため、それからしばらく私的な会話を交わすことは叶わなかった。
野次馬を追い払って現場を封鎖し、負傷者の応急処置と搬送、崩落地点周辺の探測と安全確認に奔走するなか、漏れ聞いた報告によると、二度目の爆発は、エネルギーを拡縮・放散する特殊な鉱石が発電機爆発の熱量に二次反応を起こしたもので、かつての兵器の一種が何かで埋没したままになった、いわば不発弾のようなものであったらしい。近くに残存の反応はないものの、これをきっかけに多くの保安員が街の地下探察に駆り出されるだろうと、隊員たちは苦笑とともにこぼしていた。
――戦いが遺すのは禍根ばかりだな。
事務連絡の通信の際、聞いた報告を伝えると、教官は色のない声音でひとこと述べたきり、それ以上の言葉を続けなかった。
造営作業者を中心とする応援の第二陣を加え、崩落地点の処理が本格的に開始されたところで、教官から幾度目かの通信が入り、本局の指令で我々二名の任が解かれたことが告げられた。緊急時には一部隊として任務に当たるとはいえ、教導官も訓練生も本来的には補助要員である。全くの非番の時間でもあったから、決して早い令達とは言えなかったが、私は実際の現場任務に立ち会えたことに興奮と充足を感じていた。とは言え、疲労していたことは確かだったので、ためらわず帰還を受け入れた。時刻はもう夜明け近かった。
「君、ちょっと」
地下から戻った教官が小隊の隊長へ申し送りを済ませるのを待っていると、隊員の一人に声をかけられた。
「これは君のとこの隊長のだろ。返しておくよ」
差し出されたのは懸垂下降に使用したザイルとハーケンだった。丁寧に結ばれた救命具を礼を言って受け取った瞬間、異変に気付いたが、訊ねる暇もなく隊員はきびすを返して去って行ってしまい、残された私はぼんやりと手元を見つめて、「それ」が意味するところを考えた。
「ご苦労だった。帰るとしよう」
いつの間にか前へ歩み来ていた教官の声に、はたと顔を上げる。首を傾げた彼は、一瞬後、私が手にする物に気付き、同じくはっとした表情を浮かべた。差し出し、ごくゆるやかな動作で受け取られるのを見つつ、言う。
「切れてしまったんですね」
ああ、と教官は頷いた。
「仕方ないな。来るべき時が来たというわけだ。……だが」
その先を彼は続けなかったが、どんな言葉が選ばれるはずだったのかは、おおよそわかった。まさか、切れるとは思わなかった――。半分の長さになったザイルを隊員に手渡された時、私も同じことを思った。整備台の上に見た合金のザイルは確かにひどく傷んではいたが、一日二日で切れてしまう物とは感じられなかったし、教官もそう判断して今日の救助に使ったはずである。
ザイルを手にしたまま、道に向かって歩き出しながら、教官はこちらが問うのを待たず、あの瞬間の顛末を教えてくれた。私の推測は半分は当たり、半分は外れていた。地面が崩れる前に落ちて横穴に身を隠し、大事を逃れたのは確かであったが、それは自ら意図したことではなかったという。
「ただ握っていただけならともかく器具連結してしまっていたし、救助対象を保護する動作で精一杯だった。ザイルが切れたのは完全に予測外のことだ」
私に叱責を飛ばした直後にザイルが切断され、落下中咄嗟にトランスフォームして、車体内に工員をかばい入れたらしい(多くの保安部員のビークル同様、積載したものを護るための仕組みをもちろん教官も有している)。ルーフから落ちて警告灯が割れたのが一番の損傷ということであるから、初めの爆発でも多くの工員を助けたという衝撃吸収パネルは、二度目も有効に機能したようだ。
共に落下した下半分と巻き合わせたザイルを、対の青がじっと見下ろす。彼は言っていた。次はもう直せないと。
「最後に……持ち主の身を救ったのですね」
陳腐な台詞ではあった。だが弾かれたようにこちらを向いた教官は、その顔に思いがけない驚きの表情を浮かべていた。逆に意表を突かれた教え子に気付いてか気付かないでか、すぐに首を前へ戻し、そうか、と落とす。
「そういう見方も、あるな」
深く感じ入るような声音だった。口元には笑みが浮かんでいた。それはごく穏やかでありながら、同時に、ひどく――
「――教官」
足を止め、呼びかける。ここ十幾日かで我が胸に感じ始めたもののうち、最も強い情動だった。数歩過ぎて立ち止まり振り返った、急の任務に汚れてなお鮮やかな赤と白の機体に向かい、もはや散り消えもせず、鎮められる余地もない疑念を、呑まず、紡いだ。
「先ほどおっしゃいました。誇っている。認めていると。では」
全てを克しているのならば、全てを容れているのならば、なぜ彼は、いつもその横顔を憂いに翳らせるのだろう。こうして穏やかに、ひどく哀しく、笑うのだろう。
「その道に、悔いは、無かったのですか?」
青の灯が揺らいだ。呆気に取られた表情が、数瞬ののち、再びゆるやかに、微笑に変わる。
洞察が冴え過ぎるのも困りものではあるな、と彼はささやくように声を落とした。
「ひとつもない、……と、言いたいところだが」
止めた足をまた前へ送りながら、語る。
「悔いてばかりだった。いつも後で気付いて、そのたびに周りに救われていた。情けなく思って過ごした時間も長かったが、支え分かち合うことを学んだから、報いるために、懸命に努めもした。視野を広げて、柔軟に考える努力をした。……だが結局、心を向けるのが遅れて、踏み出すことを後回しにしたままで……救いの手も求められずに、残してしまった後悔があった。……今もまだ、ここにある」
胸に置いた掌が、ふたつのインシグニアをなぞる。その堅い盾の紋様の奥に守る心を、今わずかに覗いているのだと思うと、湧き上がる念は誉れよりも背徳に近しかった。
「過ぎた日の話だ。長く持ち続けて、手離しがたくなってしまったが」
整備室で使った語をくり返し、その言葉の先にあった、もはや使い物にならない古い救命具を手の中に見つめて、彼は続けた。
「そろそろ、置いてしまわなければならないのかな」
それは己に、そして、切れたザイルにまといつく記憶に、投げかけた問いのようであった。私は自分がそれに答える立場にないことを知り、過去との声なき対話をただ見つめるのみであった。
やがて未舗装の道が尽き、行きそびれた店のことなど、何歩前かの会話とはなんら関わりのない数言を交わしてから、我々は朝の気配の迫る道を走り始めた。一夜のうちに目まぐるしく起きた出来事、聞いた言葉の全てが夢の中のもののように感じられた。ただひとつ、赤と白の車体の天辺に据えられた、砕けた警告灯の疵だけが、今ここの現実を黙して語っていた。
◇
予告通りに現場での演習が始まったこともあり、それから二十日あまりの時間が瞬く間に過ぎた。
教官はなんら変わらず我々の指導に当たり、もともとよそよそしいわけでもなかった距離がさらに近付いたということもなく、事故に関して必要なだけの報告を交わしたほかは、個人的な話をする機会も得られなかった。私自身、それを疑問視するほどの自惚れは持たなかったが、胸の片隅に惜しむ気持ちを抱いていたのも、また事実ではあった。
久方ぶりの休日が巡り来て、私は同郷の友人と連れ立って街へ出た。現場演習の開始とともに正式に準隊員として認められ、わずかながらも初の給金を得た直後とあって、使い道をあれこれと愉快に談じながら店を回り、その何軒目か、友人が器具の修理を頼んでいたという小さな整備屋で、ふと、それに目が止まった。
棚の隅に置かれたその救命ザイルには、鮮やかな赤と白の金具が付いており、かの人を思い出させるのは半ば必然の品と言えた。あの日以来、レッドアラート教官は部局の備品を演習用に使っている。切れたザイルを彼がどう処分したのか、あるいはしていないのか、私はまだ聞けないままでいた。
「おう、お待たせ。……なんだ、買うの? 誰かにやるのか?」
無意識に取り上げていたザイルを手の上で転がし、値を確かめていると、カウンターから戻った友人に声をかけられ、私はその唐突さよりも問いの中身に面食らい、あたふたとぎこちなく振り向いた。
「誰かに、って。なんで」
そうと明確に考えたわけではないが、断じて違うと否定もできない言葉に、我なく声が上ずる。
「だってお前、ほとんど新品のを持ってるじゃないか」
「ああ……、まあ」
怪訝な顔で返された答えは単純な事実に過ぎず、驚きを収めて曖昧に頷いた。相手は誰だとうるさくつつかれ、ほかの客の視線を避けて結局白状させられることとなったのだが、初めの収入で世話になっている相手に何かを、と考えるのは、実際そう奇妙なことでもないのだろうから、友人は興深げに笑いながらもさほど勘繰ってはこなかった。代わりに、こんな指摘をされた。
「そっちのはサイズ違いじゃないのか? お前のとこの教官って中型だったろ」
友人は違う組に所属していたが、「噂の教官」についてはもちろん知っていた。確かに、指差す先の棚の表示は、我々、そして彼よりひと回り以上大きな機体の適合品であることを示している。私もそれに関しては以前から気付いていた。
「ああ。でも刻んであった号数を見たし、この規格で間違いない。射出用にランチャーを使われているから、その口径に合わせているみたいだ」
「ふぅん」
語った推測を特に掘り下げるでもなく軽く相槌し、
「で、買うの」
本題の問いを寄こしてくる。いや、と私はまた曖昧に答えた。
「あまり気軽に買える値段じゃないな……」
本業のついでのように並べられた品はどれも既成品ではなく、素材も造りも特注さながらで、値も相応についている。払えない、というわけではなかった。しかし、訓練生が持つにはだいぶん分不相応で、人に渡すには意味を持ちすぎる代物だった。ほとんど使い捨てのような安物であれば、逆に気兼ねなく差し出せただろうし、教官もすんなりと受け取ってくれたろう。数度使ってあっけなく壊れ、のちの笑い話にもなったろう。だが、あの日切れたザイルに代えて、この真新しい品を贈るのは、あまりにおこがましく、あまりに無恥な行為であるように思えた。
沈思に落ちる横で友人が肩をすくめ、なんでもない口調で言う。
「じゃあ、お前の組で何人か集めて買えば?」
金額だけの問題と捉えて挙げた案であるらしいものの、思いがけず胸に落ちるものがあり、聞いた次の一瞬には、そうする、と飛びつくように頷いていた。それが言い訳であり、妥協であることはわかっていたが、今の自分に許された分が、そこまでのものであることもわかっていた。
胸が揺らがないうちにと値段を記録し、組の仲間の名を指折り数え始める。提案した当人は意外げな顔を浮かべ、そんなに金がないのかと見当違いな呟きを漏らした。
身の回りの品だけでそれなりに散財し、夜は贅沢を控えようと保安局に戻ると、同じ考えに至ったらしい仲間たちの姿が食堂のそこここにあった。適当に席を取り、先ごろ始まった現場演習や、互いの組での出来事について意見を交わし合う。
「そういや演習の成果踏まえて変えたって、明日からの新編成出されたんだけどさ、見てくれよ」
言って差し出された端末には、例の名簿が表示されていた。上から二名ずつ並ぶ名前の列から、友人の名だけが末尾に飛び出している。
「三人バディになったのか?」
もちろん通常は二名ずつが基本形のバディシステムだが、訓練中の身においては、編制がたびたび変わることも、人数が流動的になることもさほど珍しくはなかった。友人は世過ぎの器用なたちであったので、おそらく緩衝役として三名の組に入れられたのだろうが、当人は不満らしく、口尖らせて愚痴をこぼす。
「余りものの扱いだろこれじゃ」
「数が合わないなら仕方ないんじゃないか」
「けど普通、こういう時は教官が気を遣うもんだろ?」
なんで俺が、とぶつぶつ言うのを聞きながら、私はふと小さな引っかかりを感じ、もう一度その文書を見直した。一見、のみならずくり返し眺めても、なんの変哲もない名簿である。だが、どこか、何かが――
「あ、お前のとこの教官じゃないか?」
愚痴に代わって落ちた言葉に、巡り始めた思考が断たれる。顔を上げて振り向けば、ちょうど食堂へのゲートを入ってきた赤白の機体は、確かにレッドアラート教官のものだった。入り口近くにいた同じ組の一団から誘いの声が飛んだようで、手振りして応えつつカウンターに向かい、補給膳を受け取ってまたこちらへ振り向くまでを、ぼんやりと眺める。その姿、その名。なんの変哲もない文書の上に不意に立ち現れた違和感が、何かの形を取りかけた、その時だった。
食堂の一角、まさに見るともなく向けていた視線の先で、二種の音が床を叩いた。数個の器が転がり弾ける金属音。砕けたカップからばしゃりとあふれる水音。さざ波のように広がったどよめきの円の中心に、トレイを取り落した手を半端な位置に上げたまま、彼は一人立っていた。呆然の面持ちで、立ち尽くしていた。
しかと観察していたわけではない。だが、わずかの前触れもなかったと、確かに断言できた。突然の異変であった。場はしんと静まり返り、教官、と横から訓練生が呼びかけた声が、私の座る席まで届いた。だが、誰より鋭い聴覚を持つはずの彼は、その気遣わしげな言葉にすぐには反応を返さなかった。
目線は床に落ちていたが、何を見ているようでもない。身は今ここにありながら、心は遠くいずこかを彷徨っている――かつてなく際立って映りはしたものの、それは、おそらく初めて目にする姿ではなかった。彼を成すものの一部であるかのごとく、消え沈んではまた不意に浮かび上がる影。ここに無い何かをまなざす、淡色の
瞳のおぼろな揺らぎ。それは、彼が折々その横顔にのぞかせた、いまだ語られぬ日、忘られぬ時に触れる者の姿だった。
「レッドアラート教官?」
三度目の呼びかけでようやくぴくりと背を跳ね動かして、演算遅延が起きたかのようなぼうとした動作で傍らを見、また床を見る。あ、と漏れた声は、ひどく弱々しく頼りなげに聞こえた。
「教官、大丈夫ですか? 何か不具合でも?」
「いや……、その、うっかり指を滑らせてしまって」
それがごまかしの言葉であることは明らかだったが、指摘する者はいなかった。床に落ちたトレイやカップは近くの者の手に拾われ、一瞬の異変の画は既に消えている。
すまない、と周囲に謝し、後始末を頼んでから、教官はゆらりときびすを返し、今入ってきたばかりのゲートへ向かって足を踏み出した。怪訝な視線を背に集め、しかしそれを一顧だにすることなく、ゆっくりと歩き去っていった。
「ありゃ、補給はいいのかね? どうしたんだろうな、レッドアラート教官」
事故か何かの音でも聞こえたんかな、と軽い声音で落ちた言葉へ頷きを返しながらも、私は一方で大きな疑問を覚えていた。事件や事故の兆しを掴んだのであれば、それが重大なものであるほど冷静になるべきだと彼は日ごろから語っていたし、実践していた。初めの挨拶で例に挙げた、生徒の共謀や陰口の声については、「聞こうと思えば難しくないが、そんなものにずっと気を配っていたらこっちが参ってしまう」と、後日〝パフォーマンス〟の一部であることを明かされた。
では、何があれほどの動揺を生んだのだろう。彼だけがその瞬間に捉え得たものと考えれば、友人の見当の通り、やはり何かの音のように思える。平静の閾値を超えて、過去の影さえ呼び覚ます事故の音、事件の声。
追うように知覚器を働かせても、私の平凡なセンサーに捉えられたのは、ようやく落ち着き始めた周囲のざわめきと、常よりわずかに騒がしい外の雑多なノイズだけだった。
友人は一連の出来事をさほど気に留めなかったらしく、首をひねるのもそこそこに、話題を目前にあるものへと戻した。
「それ、もういいか?」
「ん、……ああ」
伸べられた手に、傍らに置いたままでいた端末を差し出す。画面にはまだ名簿が表示されていた。少し遠ざかった全体の画を眺め、ああそうか、とようやく違和感の説明に足るだけの言葉を得たものの、最前の大きな異変への疑問に紛らせ、私はそれを口にせず、ことさら考えもせず、ただ事実として受け止めた。
指揮者以下、奇数名の人員編成が示されたこの名簿では、友人の名が末尾にひとつ飛び出している。
私の組の所属者は友人の組と同数である。ひとつ飛び出しているのは――中央に寄せられもせず、隣が空白にされているのは、先頭に記された、本来は配下と変わらぬシステムの中にあるはずの指揮者、すなわちレッドアラート教導官の名であった。
◇
翌日からの変化はと言えば、初日の前半、他の組との合同演習に教官が所用で姿を見せなかった、という一事が目に見える最初で最後のもので、その日の後半に合流して以降は、普段通りのやり取りがあるだけだった。前夜の出来事については特に触れもせず、常と変わりない様子でいたし、その場にいた生徒も、仲間うちで首を傾げ合っただけで、本人へ訊ねようとまではしなかった。日常が日常らしく進んでいた。
だが――実際には、確実に変化は起きていた。我々は「生じた」異変にはすぐに気付くことができる。しかし、「生じない」という異変は、あとで振り返ってようやく認められるものだ。
訓練再開の五日目、その日最後の教習を終え、生徒たちがばらばらと去っていくなか、レッドアラート教官は演席に残って手元の端末を操作していた。彼は日の終わりに一日のデータ整理をする習慣を持ち、室内でそれが行われている折はたまの雑談の機会でもあったので(もはや勝手に手が動くとのことで、この時は横から話しかけても叱られなかった)、すぐに幾人かが声をかけにいった。
「教官、時間もあるしメシ行きませんか?」
「今日はこのあと用事があるんだ。すまないな」
「ちぇ。じゃあまた今度ヒマな時に!」
「ああ」
「あの、教官。昨日の内容で質問が……」
「お前はいつもあとから来るな。皆のためでもあるから、質問はできればその場で出してくれ」
「その時は何がわからないかもわからないんですよー」
「現場志望とはいえ、少しは思考演算も鍛えるべきだぞ……まあいい。どこだ」
今夜はどうやら居残りで小講習会が開かれる気配である。同じ話題で説教を受けそうな者はそそくさと出ていき、興味のある者が前へ集まる。私は友人と約束をしていたが、演習の終わりを待たねばならなかったため、時間潰しを兼ねて傍聴の座に加わることにした。
奇妙な状況にようやく気が付いたのは、演習は終わったが今からでも大丈夫か、と友人からメッセージが届き、思わぬ時刻を確認した時のことである。本来の教習の終わりから相当の時間が過ぎ、人数もだいぶ減っている。だが、教官はまだ場の中心に残っていた。データ整理どころか、初めの問いに関する講義も終えてしまっているにもかかわらず、解散を告げる態度を一度ものぞかせていない。少なくなった聴講者に合わせて演壇を離れ、車座に入って、自ら場を延ばしているかのようにさえ見えた。
用事はいいのだろうかと気にかかりはしたが、とりあえず自分の約束を果たさねばと、軽く挨拶を交わしてから教習室を出た。廊下は既に明かりが落とされており、他の教官や訓練生たちの気配もない。
友人への返信を端末に打ち込みつつゆっくりと歩いていくと、シャトルへ至る途中の三叉路に、常夜灯に照らされて立つ機体の背が見えた。がしゃがしゃと足音を鳴らしながら、分かれた廊下の先をのぞき眺めている。
「また分かれ道かよ。なんだってこんな妙な増築しやがったんだか……。訊きに戻るのはめんどくせぇし、迎えを呼ぶのは格好悪いしな……」
何やら葛藤しているらしい独り言が続く間に、足がすぐ後ろに至り、道をさえぎられる形で立ち止まる。鮮やかな赤色の機体のトランスフォーマーだった。仰ぐほどの体躯の大型機だが、その目立つ姿に見覚えはない。声をかけるべきかと迷っていると、こちらが口を開く前に長身が振り返り、お、と喜色を示した。
「よぉ、ちょっと道を訊きたいんだが、いいか?」
気安い口調だったが、我々のような若輩へ与えられがちな、偉ぶった態度というわけでもない。はいと答えると、笑み深めて言う。
「教習棟のほうに入るにはどっちに行きゃいい?」
「それならこちらですが……どの部屋ですか?」
「確か四○二だか三だか、そのあたりだったと思うんだけどよ」
随分ざっくりとした探し方である。先ほど愚痴が落ちていた通り、教習棟は昨今の育成強化策に合わせて増築が重ねられている。部屋番号だけを頼りに歩くと思わぬところに迷い込んでしまうことがままあり、外部からの客の案内は訓練生の日常の仕事と言えた。
友人への返信はまだ書きかけの状態である。少し時間が厳しいかと考えていたところでもあったから、思い切るにはちょうど良かった。
「よろしければご案内します。構内図を見ても迷いやすいので」
「お、いいのか? そりゃ助かるぜ」
よろしく、と言って浮かべたいかにも人好きのする笑貌につられて笑みつつ、予定延期の返事を手早く送ってから、私はもと来た道を先導して歩き始めた。
「にしても随分変わっちまったもんだ」
きょろきょろとあたりを見回しながら落とした呟きからすると、以前にも訪れていたものらしい。しかし驚くほど様変わりしているということは、古いとまでは行かずとも、それなりの間が空いているはずである。保安部の所属には違いない、と機体側面の盾のインシグニアを見ているのに気付いたのか、
「だいぶ久々に来たんでな」
と自ら語ってみせた。
「救助員の方ですか?」
「おう」
近頃では保安部の正隊員たちとかかわり合う機会も増えていたが、支局の所属者はもちろんのこと、中央所属でも他星系への遠征続きで本局へほとんど姿を見せない者も多い。どことなく、この訪客は前者よりは後者に近いような印象を受けた。
あまりじろじろと眺めるのも悪かろうと視線を前へ戻したが、相手は別段気にした様子もなく、訓練生かとこちらへ逆に問いかけてきたので、はいと頷き答えた。
「第三教隊に所属しています」
「へぇ」
そうか、と相槌し、
「毎日訓練漬けってのも退屈なもんだろ。俺なんか、昔は早く現場出せって文句ばっか言ってたな。本部の隊員はやたら先輩風吹かしてきやがるし」
あっけらかんとそんなことを言う。すぐにも正式な隊員として認められたいというのは、気の早い救助員候補生たちのみならず、誰であれ共通の思いではあったが、さすがにそのまま肯定を返すこともできず(なかんずく、相手はその「先輩」であるわけで)、はあ、と曖昧に濁した。なおも言葉は続く。
「現場に行ったら行ったで邪魔者扱いだしよ。何度本部のやつらとやりあったかわからんぜ」
「昔は良くあったと聞いています」
今も皆無というわけではないが、それでも本隊との線引きや演習課程の整理が明確になされた結果、だいぶ改善されたらしい。時代の流れではあるにせよ、かつての中央幹部が今は教育の場にいるという事情も、おそらく全くの無関係ではないのだろう。
そんなことを考えていると、
「教隊長は毎日うるせぇしこまっけぇしな……。お前さんのとこのセンセイはどうだ。うるさいだろ?」
そう、今まさに思い浮かべていた相手へ話題の矛先が回ったので、一瞬ぎくりとしながらも、答えた。
「いえ……まあ、そんな風に言う者も何人かはいますが……。厳しい方ですが、我々の行く末を真剣に考えてくれているからこそだというのは、皆わかっていますので」
彼は不戦支持者ではあったが、従軍保安員の必要性を否定はせず、教え子たちがその道を選ぶことにも反対はしなかった。しかし決して一兵士としてのみ在ってはならない、と、ただその一点を強く我々に語った。
戦場に出れば、支援人員とて武器を手に立たなければならない時はある。だが、戦いに呑まれ、己の分を失い、戦士たちより先に斃れることがあってはならない、と彼は言う。誰よりも死を恐れ、誰よりも長く立っていてこそ、傷付いた仲間を救うことができる。身に盾の紋を刻み、保安と救助の号を名に戴く限り、我々は死に臨み討つ者ではなく、生き抜き護る者で在らねばならない、と。
『そうして、もし』
望んで考えたくはない事態だが、と置き、静かな声で語られた言葉が、昨日のことのように思い出される。
『お前たちがその使命を全うして、もし、戻らないようなことがあったとしたら……私はそれを咎めはしない。きっと、その名を誇るだろう。そしてそれ以上に、憤り、哀しむだろう。志に背かず進み、できうることなら、生きて帰れ。我々教導官も、そのための知恵と技術を成せる限りに伝えるつもりだ。煩わしいこともあるだろうが、今は充分に聞き、充分に学んでほしい』
言葉のいくつかは、初めの日に聞いた訓示と重なっていた。あれは大仰な演技の続きではなく、保安員としての長い経験のうちに得た、偽らざる彼の信念であったのだろう。
その回想をつぶさに伝えはしなかったが、隣を歩く救助員は一種反駁めいた私の言葉にさらに論を重ねることもなく、また「そうか」と言って頷いた。短い相槌に何か独特の色音を聞いたように思い、ふと傍らを見上げたが、仰いだ顔にはただゆるやかな笑みが浮かぶのみであった。
「四〇二でしたか?」
長い渡り廊を経て岐路に差しかかり、先ほど聞いた番号を確かめると、客人は一度思案の表情をよぎらせてから、さほど間も置かず、いや、と首を振った。
「正直合ってるかわからねェんだ。お前さん、今までここのどっかで勉強中だったんだろ?」
「はい」
「じゃあ、その部屋につれてってくれ」
「え?」
思わず足を止め、まじまじと見つめたが、冗談を言ったという様子でもない。頼んだぜ、と重ねて請われたため、問う余地もなく了解を返し、かすかな予想を胸の内に転がしながら、先ほどまで自分のいた教習室の方向へ踏み出す。会話は絶えて、しばし大型機特有の重い足音だけが響いた。
「あちらです」
二度ほど角を折れ、通路の内にひとつだけ明かりの漏れるドアを指し示す。礼を述べて頷いた客人は、迷わずその明かりに歩み寄っていった。ほんのわずかに早まったように見えたその歩みの隣に追いつくのとほぼ同時に、ドアが滑り開いた。
私が出た時とほぼ変わらず、部屋の中央に車座があり、レッドアラート教官は入口へ背を向けて座っていた。周りの訓練生たちは一斉にこちらへ顔を向けたが、よほど前から廊下を近付く足音に気付いていただろう彼が動いたのは、そうした瞬時の反応が全て終わってからのことだった。
椅子を後ろへ下げ、立ち上がり、直立の姿勢でひと呼吸の間を置いて、振り向く。全て予定されていたかのような折り目正しい動作のあと、最後にこちらをまっすぐ捉えた顔に、怪訝や驚きの色はない。
案内の経緯を告げるよりも早く、傍らに声が落ちた。呼びかけよりもささやきに近い、それでも相手へ誤りなく届くことを知る者の、穏やかな声音。
「アラート」
彼の旧友たちの口から幾度か聞いた短かな愛称が、途上での予想を肯定する。しかし、次の瞬間に私を見舞ったのは、納得ではなく驚愕だった。
私と、名を呼んだ相手にのみ見えた彼の顔。平静がはがれ落ちるように頬がゆがみ、表に色を昇らせる。結んだ唇が震えて開き、澄んだ青の中に滾つ火が灯る。それは出会って初めて目にする、明確な激情だった。私は思わず一歩後ろへ足を下げた。彼が怒声を放つか、さもなくば――声上げて泣くのではないかと、思ったのだ。
客人は初め身じろぎひとつしなかった。かすかな驚きを示したのは、そのさらに次の間、赤と白の機体がまとった全ての炎が、跡形もなく絶えた刹那のことだった。
青の灯が穏やかに瞬き、一度閉じた唇がやわらかに弧を描いて、またゆっくりと開く。
「ずいぶん遅かったじゃないか。……インフェルノ」
静かな声に巨躯が揺れたのも一瞬、同じく笑い混じりの言葉がすぐに返る。
「悪い悪い。なかなか船が飛ばなくてよ」
頭を掻きつつ、数歩部屋の中へ進み入る。教官も皆の視線を受けながらこちらへ歩み寄ってきたが、伸ばす手の届かない少々半端な間を置いて、互いの足が止まった。そのまま会話が続く。
「これでも着いてからは相当急いだんだぜ。けど検査だ検疫だっつって離しやがらねぇからよ……。なんでも、どっかの誰かが必須対応終わるまで死んでも出すなとかなんとか、裏から手ェ回したらしくてな」
「そうか。どこの誰だか知らないが最善の処置だ。遠征のあとにそうした対応を怠って、周囲や本人に害が及ぼされた例は山ほどあるからな。まあ、このぐらいが最速だろうとは思っていた。結局ごね勝って後回しになった分を加味するとな」
「おー、一生分頭下げてやったよ。このあとその倍ぐらいまた頭下げる予定なんだけどな」
皮肉めいた言葉に笑って返し、にしても、と顔を上げ、ぽかんとした顔でこちらを眺めている訓練生たちを見て言う。
「聞いちゃいたが、本当に教導隊に移ったんだな」
「ああ……色々あって。似合わないだろ?」
「初めはちょっと驚いたけどな。お前ぐらいこまっけぇほうが向いてるんじゃねぇか? いいと思うぜ。レッドアラート教官」
「お前が呼ぶな。変な気分だ」
「んじゃ、主任」
「それだってもうずっと昔の呼び名だろう」
小気味よく進むやり取りを、我々はただ驚きとともに見つめた。今まで案内したどの客も、彼をこれほど多弁にさせることはなかった。立つ位置に距離はあったが、それを感じさせない確かな付き合いの長さと親しさが、言葉の内に外に表れ出ていた。
そのまま少し掛け合いを続けたのち、さて、と仕切り直すように言葉を区切り、客人が言う。
「本題ってのも今さらあれだけどよ、このあと空いてるか、アラート。ずいぶん遅くなっちまったが……良けりゃあメシに誘わせてくれ」
「ああ、もちろん。これだけ待たせたんだ。さぞ豪勢におごってくれるんだろうな?」
投げかけられた問いにもそれに対する答えにも、私は奇妙を覚えた。初めから約束をしていたのではなかったのだろうか。確かに、していたのなら客側の大雑把な探し方はおかしかったが、教官はもともと用事があると言っていたはずだ。
疑問を解く隙もなく、周囲の反応を一顧だにもせずに、なお対話は続く。
「あー、いや……そうしてぇのはやまやまなんだけどよ、なんせ先立つもんがなァ……。今度のことで特進したかってちょっと期待してたのに、そのままだったし」
「ああ、話は出たが俺が却下しておいた」
「げ、マジか」
「理由もなく昇進させるのはおかしいだろ」
「そうだけどよ……」
「まあ、すぐに上がるさ。直近の成果報告の完了次第だ」
「それなんだよな。どんだけ長い報告書こさえなきゃならねぇのか、今から気が遠くなるぜ……アラートも手伝ってくれよ」
「自分でやれ、と言いたいところだが、さすがに今回は仕方ないか」
「頼む。どうせ全部話すんだし」
「そうだな」
「お前もだぜ?」
問うでなく発された言葉へかすかにほうけた顔を見せ、うん、とどこか幼げな仕草で頷いてから、改めて意を決めたように、教官は前へ足を進めた。会話の中身に見合う近さまで間を詰め、長躯を仰ぎ見た一瞬、淡く光る青にほんのひと刷きの翳がよぎり、すぐに消えた。
笑みが行き交うひと間のあと、
「ようお前ら、センセイ借りてくぜ」
不意に客人が手を上げて部屋の奥へ呼びかけ、周りを忘れていたわけではないらしいことが知れる。教官も半身を返し、明日は昼に現地集合だから間違えないように、と注意を述べた。
「っし、行くか、アラート教官」
「だからやめろって。気色悪い……。案内ご苦労だった」
「あっ、は、はい」
戸口をすり抜けざま声をかけられ、姿勢を正して返す。客人がおかしげに笑いを立てて手を振り示した。
「どこ行く?」
「静かなところがいい」
「そうだな。ゆっくり話したいしよ」
「ああ。本当に……話したいことばかりだ」
そのままふたつの声と足音が遠ざかり、対照的な後ろ姿の並びが通路の角の向こうに消えるまでを、ぼんやりと見送る。きびすを返し、部屋の中央へ進んで仲間たちの輪に加わった途端に質問攻めにあったが、今ここで実際に見聞きした以上のことはほとんど何もわからない、と答えるしかなかった。みな一様に、急の嵐が過ぎていったように感じたに違いない。
「なんか聞き覚えがある気がするんだよな。あの名前……」
一人がぽつりと漏らし、それぞれ声を重ねようとした次の間、部屋のドアが再び開く。あわただしく駆け込んできたのは、私より先に帰ったはずの同輩だった。慌て者が何か置き忘れでもしたのだろうと、戻ってきたこと自体に不思議はなかったが、その様子は尋常ではなかった。背後で戸が閉まるなり、組の中でも一、二を争うもともとの騒がしさに、さらに輪をかけた調子で叫ぶ。
「い、い、今、そこですれ違っ……、きょ、教官と……!」
せわしない排気にまぎれた言葉はほとんど聞き取れず、落ち着け、と声が飛んだが、我々の冷静もそこまでだった。
「インフェルノ! 救助員のインフェルノだろっ? ほ、ほんとに生きてたんだ……!」
がたん、と誰かが椅子を蹴立てて立ち上がる音が響いた。たちまち周りを取り囲まれた事情通が、二重の動転にあたふたと手を上げる。
「な、なに、どうした」
「今のが誰か知ってるのか?」
「え? 知ってると言うか、中央の知り合いに聞いたことがあるって言うか、救助員志望で詳しいやつなら憧れてるのもいると思うし……」
洗いざらい吐け、とほとんど脅しめいた言葉で問い詰め、
「だから、俺らの先輩だって! 例の戦争で死んだって言われてた……レッドアラート教官の元相棒!」
短く叫ばれた言葉で、拍子抜けするほど簡単に問いが氷釈した。と同時に、夢見がちの若輩には信じがたくも、この世の全ての再会がなべて劇的に行われるものではないのだと、我々は衝撃とともに学んだ。
「戦死報告が上がったのを教官が棄却して、それっきり不明者扱いだったんだと。けどまあ、ほとんど死んだんだろうって思われてて……それが、五日前だったか、街の入り口で馬鹿でかい声で帰還報告叫んでたとかなんとか……。あ、これ緘口令でたらしいから、俺が言ったってばらすなよ?」
続いて語られる真相へ口々に感を述べる仲間たちから一歩離れ、この数十の日のうちの出来事を思い返す。
一見何もかもが複雑に絡まり合っているように思える謎も、いざほどいてみれば、単純な一本の糸でしかない。彼は過去の仲間を常に複数形で語ったが、実際にはそのほとんどが、唯一の相棒の話だった。解のかけらなどではない。それこそが、全ての疑問の答えであったのだ。
我なく自嘲の笑いが漏れた。優れた洞察が聞いて呆れる。規格違いの古いザイルと、一度改修されたはずの、機体に合わない口径の射出機。他を拒むような名前の横の空白、食堂での奇妙な動揺、忘られぬ悔い。そして、何より堅いその信念。もっと巡りの鈍い者でも、同じだけの材料があれば、察することができたはずだ。この五日のうちに生じた変化――消えた憂いの意味を見出せたはずだ。
だが、何かをまなざし、何かを想っていることに気付けていても、私はその「何か」のことを真剣に考えてなどいなかった。私が眺めていたのは、そうして遠くかなたを見つめて佇む彼自身の姿、ただそれのみだった。
「あっ、あれ……」
ああでもないこうでもないの議論のさなか、一人が窓の外を指差す。我先に集まり視線を向けたはるか眼下、今まさに門を抜けようとしている赤と白の車体に、無骨な型の大型車両が続いていく。鮮赤冴える異星式のビークルは、あつらえたかのように指揮車の後ろの画にはまり、その一対の尾灯が夜の街ににじんで消えるまでを、我々はひとつの声もなく見つめていた。
○
正式な紹介までにはそれからだいぶ時間があったが、緘口令自体は間もなく解かれ、飛び交う噂の真偽を気ぜわしい者たちが教官へ訊ねに挑んでは、説教を喰らって舌を出して逃げ戻った。それでも少しずつ明らかになった話によれば、救助員インフェルノの最終戦歴は、例の大戦役の手前で止まっていたようである。
激化し始めた戦局の途中、月面基地の支配権を左右する大規模な戦いがあり、ほとんど死地に等しいものとなった場の救助支援と基地防衛のため、彼は数名の小隊の一員として戦線に出向いた。彼の直属の上官は別の重要任務に当たっており、その遠征にも指揮にも一切参加していなかった。
『夕飯前の船で帰る』
修理の間に合わなかったザイルを相棒の手に残し、そう告げて発った救助員は、主権回復の要となった重要施設と傷付いた仲間を全て守り抜き、最後の激突のさなか、爆炎とともに消息を絶って、それきり戻らなかったという。
その後の足取りは定かではないが、おそらく別の星系にあったのだろうという憶測が最も良く聞かれた。強制休眠の歳月のほうが長かったに違いないとも聞いた。落ちるように不時着した船とも言えない船から降りた、素人の手による継ぎ接ぎのリペアがくり返された機体が、帰還を叫んだ次の瞬間、場に崩れ落ちたのを見た者がいた。何食わぬ顔で教習棟に現れた日でさえ、その体は動くのがやっとの状態であったらしい。
ほかにも様々な噂が立ったものの、二度目の長い軟禁から解放された当人が自らあれやこれやと話し始めると、話の中身がまるで核心に触れない事実も、その快活で明け広げな語り調子に霞んでしまい、騒ぎは急速に凪いでいった。詳細は軍の基幹部へ報告されたのだろうが、それも要略に過ぎず、全ての真相を余すところなく知るのは、この世にただ二人のみであり続けるに違いない。
戦死報告を撥ね付け、形式上のパートナーの名さえ隣に並べることを拒否し、預かった救命具を持ち続けた相棒にとって、再会は劇的なものであるはずがなかった。それは相手の遅参を待つ日常の「用事」でしかなかった。たとえ、九割九分果たされぬものと、周囲のみならず、己でさえが時に心を揺らされたのだとしても。彼は交わした言葉を捨てず、ただひたすらに信じ、待ち続けていたのだ。
あの夜、彼――レッドアラート教官が、迎えた者の腕の中に静かに涙をこぼしたのか、はたまた怒鳴り、泣きわめいたのか、もちろん私は知らないままだ。いまだ、あまり似合わない言葉だと思っている。似合わないようにと振る舞われているのだから、それでいいのだろう。
それからしばらくのち、教官が軍営の宿舎から居を移すことになったという話を聞いて、当初の予定通りに皆で金を集め、新居の前祝いに新しい救命具を贈った。ただし、中型機用の規格のものだ。余った代金で店に話を付けておいたと伝えると、教官は気まり悪げに苦笑し、最善の働きのため、自分に合った規格にランチャーの再改修をすると我々に誓った。
誰かがマスタデータをいじり、名簿の空白にはいつの間にか注記付きで外部の者の名が入っていた。もちろん発見当初には極大の雷が落ちたが、犯人は見つからず、演習中の教官は状況に合わせて組む者を変えるため特段の支障もなく、なんだかんだとそのままにされている。
相棒の帰還によって、我らが親愛なる教師どのには、教え子から仕掛けられるちょっかいの種が増えてしまい、それに伴って表情も少し増えたようだ。一方で、ついぞ見なくなった表情もあった。私は結局、初めに抱いた個人的な質問を投げかけないままでいたが、それは不躾であるからと自重したためではなく、もはや返る答えがわかっていたためだった。浅慮な若者にも、居たたまれない会話を避ける程度の知恵はある。
その後、過酷な再治療とリハビリテーションを経て現場へ復帰した巨躯の救助員と、小柄な教導官、兼消防指揮官は、ともに災害救助のエキスパートとして、現場での活躍に後進の育成に勇名を馳せることとなるのだが、それはある若造の失恋の痛みがようやく癒えた頃の、もうひとつ別の物語だ。
fin.