ハピネス
あ、と落とした声は思いがけず高く響き、渋色の路傍に映える立ち姿をこちらへ振り向かせた。視線のかち合う一瞬の間のあと、記憶のものと変わらぬ穏やかな笑みが、ふっとその顔に浮かび上がる。
「久しぶりだな」
「ご無沙汰しております、教官」
無言の会釈のみで済みとされない光栄を得て、自然に口から発された音の懐かしさを噛み締めながら、駆け足に距離を詰める。まさしく懐かしの名だ。世に出されてのちに、誰かを師と呼ぶ機会などそうはない。
忘れじの学び舎の師、レッドアラート教導官は、かの人らしい落ち着きを持って、しかし見てわかるだけの喜色を表へ示して、かつての教え子を隣へ迎えてくれた。
「中央まで、何かの任務か?」
「危険物運搬の警備隊として参りました」
「そうか。輸送局前にいるということは、もうほとんど完了の段階だな」
「はい。授受手続きの待機中です。中に一人しか入れないとのことで、ほかの用を済ませてきました」
「なるほど」
長旅ご苦労だった、とねぎらいの言葉をかけられ、面映ゆく頬を掻く。要人警護などであればともかく、決まったルートを注意して走るだけの仕事と言えばその通りであるから、自分のごとき若輩の後方支援員が何を苦労したとも言いがたい。
教官は曖昧に返じた声の含みをすぐ察したようで、何事も貴重な経験だぞ、と言葉を続けて、不肖の元生徒の肩をさらに縮めさせる。
「遠地から中央への運搬ともなれば、複数の部隊がかかわる規模だろう。既定の行路とは言え、それだけの長期間、付き合いの浅い者たちがひとつ事のために寄り集まっていれば、大なり小なり衝突も起きやすい。そうした時にこそ隊を円滑に回すのが、指揮官とその補佐の重要な役目だぞ」
「はい。心しておきます」
確かにここまでも何度か騒ぎはあったな、と見識の正しさに感じ入っていると、
「私は苦手なほうの仕事だけどな。どちらかと言うと我慢できずに進んで衝突を起こす側でやってきたから」
そんな言葉を平然と重ねられ、思わずその顔をまじまじと見つめてしまいながら、またかつての日々を思い出した。師が自らの落ち度や失敗を、文字通りの反面教師としてさらりと語ってみせる様を見るたび、我々は侮りを覚えるどころか、むしろ大いに気を引き締め直させられたものであった。
「お前ならそういった問題はないだろう。ただ普段からおとなしいからな。もう少し強気が必要な場面もいずれあるとは思うが」
「実は既にそうしたことも……」
「言われたか?」
みんな足りない部分にはすぐ気付くからな、と苦笑し、まあ、と教官は続ける。
「苦手なものは補ってやればいい。自分独りでどうしようもないのなら、別の何かを頼ることもできる」
静やかに語った一瞬、その淡い青の灯が、目の前の教え子ではなく、今ここにないものを映したことには、それこそすぐに気が付いた。
それが何か――誰か、ということも、私はもう充分に知っていた。
「だが、いい評判も良く聞いているぞ。地方支局は中央とはまた違った苦労があるだろうが、今の姿勢を崩さず前向きに続けていってくれ。成果はおのずと付いてくるはずだからな」
「はい。ありがとうございます」
教導者という存在は、自分の手から世に送り出した者のことを驚くほど良く記憶し、現況を驚くほど良く知って、篤く気を配っている。それはレッドアラート教官に限った姿勢ではなく、また、かつての仲間たちが自慢のごとき(いや、まさしく自慢なのだろう)態度で知らせてくる、我らが教師との邂逅のやり取りを見るに、特別の相手へ限ったひいきでもない。
それでも、おざなりなごまかしでないことの伝わる激励を受け、ひがみなど挟む余地なく、胸が震うのを感じた。
「私も、教官のお噂は聞いています。現場へ入られるようになったとか」
「ああ。育成を強化するにしろ、あまり実態から離れ過ぎるのも良くないと感じてな。配備の優先度を少し上げてもらった」
今度こそ悪い手本とならないよう、以前より余計に緊張して事に当たっている、と語る声は平らかだが、昔日に見た揺るぎない信念をひしひしと感じさせる。今の訓練生たちは、さぞ胸躍らせて師の活躍を見ていることだろう。羨ましい限りだ。
「今日も現場の関係でこちらに?」
「いや、実習用の資材移動の打ち合わせなんだが、一人遅れているから外で待っていた」
「大がかりですね」
「山岳救助の最終演習でな。懐かしいだろう」
「傷だらけになった記憶しか……」
当時の記憶を語って笑い合っていると、後方から名を呼ぶ声が届いた。振り向き見やった扉の中から航空型の大型機が歩み出てきて、こちらへ手を振り示す。
「お前のところの隊長か? 手続きが済んだようだな」
「はい」
正しくは隊長ではなく副隊長であったが、わざわざ訂正を挟むほどの話でもない。自分がいると合流しづらいだろうと考えたのか、教官はもう遅刻はほうって先に始めることにする、と施設内に戻る旨を語った。
「では、帰りもしっかりな。またこっちに来る機会があれば、局のほうにも顔を出してくれ」
「はい。教官も実習ではお気を付けて」
「その言葉は私より生徒たちが拝領すべきだな。先達からの忠告として」
伝えておこう、と笑ってきびすを返しかけるのを、
「レッドアラート教官――」
ひと言、呼び止める。不思議げに焦点を向けられた青のセンサーの中に、今は確かに自分が映っている。
(私は)
「……どうか――」
我を指して唱えかけた語を呑み、咄嗟に言葉を言い換えた時点で、一瞬の決意のほどなど知れていた。改めた先さえ続けることができずに、自分の小心を呆れながら、ただそのうつくしい灯の色から逃れるために、言った。
「どうか、ご健勝でお過ごしください」
いかにも滑稽な言葉だった。教官は少し首を傾げ、だいぶ改善したつもりでいるが、まだ不健康に見えるのかな、と思い深げに呟いたが、こちらが慌てて弁明を入れる前に、
「ありがとう。お前も元気でな」
そう、確かな親愛の声で応えてほほ笑み、若輩の背伸びの気概を晴れやかに散らした。
もはや捧ぐ言葉のひとつとてなく、ただ深々と拝礼を返した私をもう一度おかしげに笑って、軽い別れの手振りを最後に、教官はゆっくりと前を離れた。途中、反対に歩んでくる機体と間近に行き違ったが、決して堂々たるものと言えないその背は、大型機と並んでわずかの遜色もなく、かつてと変わらず、かつてよりもなお、凛と輝いて見えた。
「さっき話してたのは誰だったんだ?」
中央局の手続きの煩雑さに対する愚痴をひと通り並べ立ててから、その問いはようやく発された。もはやないものと思っていた質疑に、やや面食らいながら応答を返す。
「私が訓練生だった頃の担当教官どのです」
「へぇ。あれが」
顔を振り向かせるが、既に遠く背向こうとなった施設の前に影はない。それでも途上の話の種と受け止められたらしく、そのまま言葉が続く。
「んじゃ、久々の再会ってやつか」
「そうですね。配属されてからは一、二度、複数人で集まったところに居合わせた程度でしたし」
「ふぅん」
頷き、やや間を置いて、
「確か元保安部長さんだよな。……なんか、あんまりいい噂は聞かねぇが」
おそらくそれが本題であったのだろう言葉が、常になく探るような音で落ちる。しかと記録反復する間もなく、口突いて声が出た。
「噂は噂であって、事実の全てではありません」
驚きの気配を隣に感じたが、半ば無意識に言葉があとへ連なり、また、強いてそれを止めようとも思わなかった。
「あの方の噂や悪評のことは知っています。中には否定できない事実や、それに近しい想像があることも存じ上げています。しかし、私はそれ以上の事実を、自分自身のこの目で見てきました。深い悔いや気高い信念を、あの方の下で感じてきました。噂ひとつで全てを悪し様に語られることを許容することはできません」
早口にまくし立てるのを、唖然とした顔に見下ろされていた。晴れがましさと同時に虚しさが湧き、自分自身の荒唐を呆れながらすぐに謝罪する。
「……申し訳ございません。過ぎた口を利きました」
「え、ああ、いや……」
歯切れ悪く返る音は、憤りより困惑を強くにじませていた。しばしまごつくような間があり、再び常ならぬ柔弱な声が落ちた。
「その……すまん。お前の先生を悪く言うつもりじゃなかったんだ。ただ、せっかく久しぶりに会ったってのに、やけに浮かねー顔してるから」
なんか思うところがあるのかと先走っちまって、と弁明された言葉に、今度は私が意外を得る番だった。普段から付き合い良く人の気を察するのに長けた上官ではあったが、そこまで如実に見えたのだろうか。それそのものより、自覚以上に心の揺らいでいた事実に驚かされ、我なく胸に手を当てる。
「沈んでいたわけではありません。思うところがあるのは確かですが、決して悪い意味では」
「それはまあ、さっきの感じでわかった」
何やら考え深げに頷いてみせ、言う。
「よっぽど好きなんだな。その先生が」
「はい」
「はい?」
私としては単純な相槌のつもりであったのだが、少々ずれて伝わったらしい。またぽかんとした顔をされたので、否定の言葉を足そうと口を開いたが、寸前で声をとどめた。本当は、ずれてはいない。そう、本当は、否定などできないのだ。
はい、と、同じ音で答える。
「お慕いしています。……お慕いしていました」
いざ向き合った時には舌に乗せることさえできなかった言葉。遅れて声にすれば、やはり晴れがましく、やはり少し虚しい。
「あ、あー、そ、そうなのか。あー……なんか、あの、いや、……ごめんな、ほんと」
「いえ」
「その、なんだ、俺でよきゃ、相談乗るし……」
日ごろ剛勇を誇る上官が長躯を縮めてあたふたと弁解する様がおかしく、思わず噴き出してしまいつつ、首を振って答えた。
「相談するほどのことでもないんです。始まる前に終わってしまったようなものなので」
「でもよ」
よほど先の「浮かない顔」が気にかかっているのだろうか。あくまで聞く姿勢を示されて、まだ友人たちほどに気心知れたと言える相手ではないぶん、むしろ口の結びがゆるんだ。
「……『お幸せに』」
「え?」
「そのたったひとことが、言えなかったんです。ずっと、それを祈り続けていたのに」
かつて訊ねることができず、しかと叶ったことを知っていて、今日もまた。
「それが自分の成したこと、自分の成せたことではないとわかっているから、……単純な羨みです。私自身、少し驚きました。随分時間が経ったのに、まだ引きずってしまっているなんて」
「そりゃ、そういうのは簡単にハイ終わり、ってできるもんでもないだろ。誰だって」
「そうですね」
気遣いの言葉を有難く受け取り、それでも、と自戒を込めて、唱える。
「いつかは言わなければならないし、いつかはしっかりと自分の言葉でお伝えしたいとも思います。先ほどお会いした時も、本当にお幸せそうに見えました。ずっとそうあって頂けるなら……次にはきっと、ためらわずに伝えられる気がします」
我こそが彼を幸せにせんと狂おしく願う心が恋慕であるならば、たとえその所以が自分になくとも、かの人の幸福をありのまま言祝ぐことができるようになった時に、盲いた情の火も穏やかにゆるび、ほのかな熱だけを残して消えるのだろう。
「そう、か」
かつての日々、かつてのレッドアラート教導官を知らない副隊長には、おそらく半分も理解及ばぬ話であったに違いない。相槌とも感想ともつかない声にはまだ戸惑いが入り混じっていたが、首ひねって唸るひと間を挟み、やがて上官の立場から意を決したのか、よし、と明朗な口調に切り替わった。
「そういうことなら、次に胸張って言えるように、お前も成長しないとだな」
「はい」
「んじゃまあ、慣れてくしかないよな。お前は押しが弱いから、もっときっぱりはっきりもの言って、自分から前にしゃしゃり出てくぐらいになんねーと。いくら賢くても意見を通せなかったら意味がないからな。さっきの口上なんてなかなか良かったぜ? 俺が練習台になってやる。言ってみろ、『お幸せに』って」
「副長に言えても意味がないんですが」
「なんだよ、俺の幸せは祈れないってのか」
「そういうわけでは……」
あれこれと言い交わすうちに、走行可能な道まで歩き着いていた。トランスフォームの前に一度街を振り向きかけ、ふと思い直してやめる。振り返って眺めるだけの幸福に別れ、ただ前を見据えて走るのも、次へ続く道のひとつなのだろう。
○
「なぁ、アラート」
自室に荷物を置いて居間へ戻るなり、ソファで珍しく自分の端末をいじっていた同居人が名を呼びかけてきた。
「なんだ?」
手招きに応じて歩み寄り、正面に立ち止まると、ぽん、と無言で隣のスペースを叩き示してみせる。逃げる理由もなく腰を下ろすや、後ろから腕が回り、肩を強く抱き寄せられた。
「インフェルノ?」
反射に声漏らし、見上げる。唐突な行為のまれでもない相手だが、視線は手元の端末に落ちたままで、一瞬前までは微塵もその種の空気が無かったことを思えば、さすがに妙な行動だった。何か見せたいものでもあるのかと腕の中で背を伸ばしたが、画面には誰かからの電文とおぼしき字の並びが浮かぶのみである。
首傾げつつ、この際だと思い切りもたれかかってやりかけると、
「こっちに戻った時、俺をお前のいる教室まで案内した訓練生がいただろ?」
また唐突な問いが落ち、しかし奇遇と言える言葉でもあったので、怪訝より興味が勝って答えた。
「ああ。その生徒なら今日の昼に偶然会ったぞ。今は指揮官補佐として地方支局に勤めてる」
「らしいな。そいつのいる部隊で、俺の昔の後輩が副隊長やってんだよ」
「そうなのか。知らなかったな」
今までに教えた生徒たちの近況は折に触れて確認しているが、共に活動する機会の多い中央所属の部隊であればともかく、地方の小部隊の周辺人員まではさすがに把握していない。素直に感想を述べると、俺もさっき知った、と言葉が返った。どうにも今ひとつ意図が汲み取れない。
そうこうする間にも腕はぎゅうぎゅうと幅を狭めるので、さすがにぼんやりほうってはおれず、一体なんだ、と訊ねかける。いや、と返った答えは、口にした当人の中でもふわついているようだった。
「そいつが新居祝い送るから家のアドレス教えろって連絡してきたんだが、祝い状ってより、どっちかっつーと脅迫みてぇな文面でよ。同居人を……ってお前のことな。お前をほかの誰かが入る余地ないぐらい幸せにして、絶対に離すな、とか書いてあるんだよ」
なんか心当たりあるか、と問われ、全くないと正直に答える。見ず知らずの相手に幸福を願われるよりは、まだ恨みを買っている可能性のほうが高いだろう。まるで自慢にならない話ではあるが。
「お前のほうに何かあるんじゃないのか」
「全くわからん」
「そもそも荷物なら本局宛に出せば届くんだから、わざわざここのアドレスを訊く必要もないと思うが……爆発物でも送ってくるつもりじゃないだろうな」
「まさかそんな陰険なやつじゃねぇって。……ま、考えるだけ無駄で、大した意味はないのかもな。なんせ俺と張るぐらいのバカだったし」
自虐なのか本気なのか良くわからない結論を発し、あとで返事しておく、と電源を落とした端末を脇へほうり出してしまう。逆の腕はアラートの肩を抱き込んだままで、どうやら後輩の「脅迫」に応じての行動であったらしい。にしても呑み込めないところはあるが、伝わる熱はただ純粋に心地よい。
「なぁ、アラート」
胴に寄りかかり、とろりと意識を崩しかかったところへ再び名を呼ばれ、再び見上げる。今度の音は、先のものより少し低く、少し甘い。
「今、幸せか?」
「……なんだ、いきなり」
深い青に覗き込まれ、胸の底がざわめくのをごまかすように訊ね返した。肩がわずかに揺れたのは、触れる指先から伝わってしまっているだろうか?
「なんか改めて言われると、気になるだろ、そういうの。俺は単純だから、こうやってお前と並んで座ってるだけで、割と簡単に幸せだよなーとか思うけど」
お前もそんな風に思ってくれたりすんのかな、なんて、と、深刻な声でなく、しかし決して茶化す響きでもなく、ただまっすぐに、インフェルノは言う。
ああこれこそがと、泣き笑いの衝動をこらえ、じっとその深色の灯を見つめて答えた。
「俺だって変わらないよ。幸せだと思う。思ってる」
「ずっと幸せでいてくれるか?」
文字通りに果てのない問いに、ああと、ためらいなく頷く。
「ずっとだ。お前がそうやって、俺と一緒に幸せでいたいと思ってくれる限り、ずっと」
「んじゃ、一生幸せでいられるな」
朗笑が浮かび、じんと震えた心を確かに感じる間もなく、差し伸べられた指が頬に触れる。甘く名を呼ぶ声が促す前に自分から首を後ろへ倒して、さらなる幸福の時間を最良の相棒にねだった。
Fin.