Kiss me, Darling !
~司令官と副官の場合~
(……キスがしたいな)
ブレインに転げた不意の思考に、おやおや、とマイスターは他人事のように応えを返した。昼日中からと苦笑を漏らしつつ、特段の言い訳もせずにその衝動を認める。おおよその理由も察していた。ひとつきりではなく、色々な事象が重なっている。まず、会議が人員入れ換えの微妙な休憩の間にあり、いささか手持ち無沙汰でいること。昨夜観た地球のドラマにその手の話題が出てきたこと。自身のパートナーとの接触をここ何日か欠いていること。追加の資料を取ってくるだの急の呼び出しだのと言って、偶然ほかの仲間たちが揃って席を外してしまったこと。その結果、隣席のサイバトロン総司令官――我が唯一の上官兼パートナー・コンボイその人と二人きりになったこと。
前回彼とキスをしたのはいつだったろう。七日、いや十日ほど前のことになるかもしれない。確か寝所で交わしたもので、つまりどちらかの休みが関わっている日のはずだから、おそらくそうだ。それなりの間だが、別段したくないと思って過ごしていたわけではないし、逆に無理に我慢をしていたわけでもない。用事が立て込んでくると、そのあたりのことはあまり意識しなくなるものだ。もちろん話し合ったことなどはないが、相手もまあ似たようなものだろう。公私ともに長い付き合いだからこその自然の態度とも言える。
センサーを動かし、大きな機体を横目に見上げる。コンボイはマスクを付けているため、日頃その口元は隠れている。ほかの仲間の幾人かにも見られるこうした特徴を、地球の人間たちは奇妙に思うことがあるらしい。理由を訊ねるスパイクに「一度も考えたことがなかったな」と返して驚かれていたコンボイはさすがにやや大雑把ではあると思うが、自分にしても、もしバイザーの理由を訊ねられたとしたら、そういうふうに生まれついたから、とでも答えるほかない。同種であればおのずと似た姿に収斂していくという有機生命体に比較して、ロボット生命体は一口に同じ種族と言えど、多様な姿かたちをしているのが普通なのだ。
だが確かに、大抵はセンサー拡張などなんらかの機能を有しているバイザーやゴーグルといったオプティカルパーツに対し、マスクはそれ自体に大きな意味がない場合も多く、持たない者から見れば不要に感じられるのも事実である。自分のバイザーなどは、付けた状態で調光制御を行っているため無理に取るほうが手間であり、治療班を除けば直にオプティックを見せたことがある者はあまりいないはずだが、コンボイしかり、マスクパーツを有する者は、経口摂取を行う際などにはあまりこだわりなくそれを収納してしまう。そうした一連に関する冷やかしや笑い話は、サイバトロニアンにとってのお約束のやり取りでもあった。
見るだけならさほど珍しくなくとも、触れたことがある者はそう多くはないだろう。自らのものと重ね合わせ、その熱を受け取る恩恵にあずかった者は、さらに少ないだろう。彼の口は機体の他の部位と同じく大作りで、鷹揚な笑みが良く似合う。深色に輝く蒼に見つめられながら、その唇が刻む低い音に名を呼ばれる瞬間が何より好きだ、などと、議事の合間の気だるさ任せにつらつらと考える。これが実際の会議中や、任務のさなかであれば、背徳や罪悪の感をも得るだろうが、休憩時には好きに休むものだ、と思うマイスターはあまり気にしなかった。ひとたび時間が来ればすぐに霧散する他愛ない思考だ。公私の切り替えは達者なほうだと自負している。
キスがしたいな、ともう一度考えて、銀のマスクの奥をまじまじと透かし見るように眺め続ける。あくまで顔は手元の資料に向けたままであり、こんな時に目線を隠すバイザーは便利だ。
キスがしたい。唇を重ね、広い胸に身を寄せ、昇る熱を分け合いたい。逞しい腕に抱かれ、組み伏せられ、面に秘されていない精悍な顔を見上げながら、この身の奥に彼を迎えたい。
ああさすがにこれは行き過ぎの夢想だな、と二度目の苦笑とともに自重を唱え、そろそろ再開の時間だろうと、センサーの向きを本当に正面へ戻したその時、かしゃりと頭上で覚えの音が鳴った。反射的に追って上げかけた首を、横から顎先を掴まれてさらに引き起こされる。
「し、」
れいかん、と呼びかけた名ごと呑まれるように、熱が重なる。軽い水音を立ててすぐに離れた唇がまたマスクの向こうに消えるまでを、ぼんやりと見届けた。
音立てて椅子に座り直したコンボイがごほんと咳払いをし、
「……いや、その……君があまりに見てくるものだから、ついしたくなってしまった……」
すまない、待ちきれなかった、と決まり悪げに言う。しばし言葉なく見つめてから、はたと気付いて手を上げ、己のバイザーを確かめる。もちろん外れてはいない。傷や割れの入った様子もない。いささか場違いに思いつつ訊ねた。
「私のアイセンサー、透けて見えますか? 光度が上がっているとか……」
「ん? いや、いつも通りだが……、ああ」
首傾げかけたコンボイが途中で気付いたように声を区切り、頷く。
「まあ、そのぐらいはわかるさ。もちろん」
「もちろん、ですか」
簡単に言ってくれる。自分が(少々不本意ながら)時に「何を考えているのわかりづらい」と評されるのは、このバイザーが原因の一端でもあろうに。コンボイはマイスターの驚きが今ひとつ理解できないといった様子で、ああと軽く答え、言葉を続けた。
「君だって、私がマスクをしていてもすぐに何を考えているか当てるじゃないか」
いつも驚かされてしまう、と言う。
「それはだって……司令官は口が隠れていても、それこそすぐに態度に出されますからね。わかりますよ」
「そこまでではないだろう」
「いいえ、わかりますとも。たとえばこの休憩に入る前は『そんな細かい報告はもういいから早く小休止したい』と考えておられましたよね」
「む……それは、みんな思っていたことだろう……」
図星であったらしく、反駁しつつも次第に言葉をつぼめる上官へ、
「ほら、今は」
言い差し、はっとしてこちらも声をつぐんだ。拗ねて唇を尖らせていることを指摘しようと思ったのだが、それはまさにマスクに隠れた表情の話そのものであり、一見コンボイは表に何も示していない。だが、態度云々の前に、今の一瞬マイスターにはそれが視えたし、疑う余地なくわかったのだ。
ああ、そういうことか、と頷き笑う。
「マイスター?」
「いえ、はは。これは一本取られました。貴方の隣では盗み見にも気を遣わなければいけませんね」
「別に盗み見る必要はないだろう。普通に見ればいい」
「ふふ、そうですね」
実にコンボイらしい返事に笑みを向ければ、数瞬前までの拗ねが一転、どこかよそよそしい焦りめいたものがその顔に生じる。おやおや、と先には己に対して投げた言葉を内心に唱えた。
――そんな風にされるとこちらまで照れてしまいますよ、司令官。
じわりと胸ににじむ熱を感じつつ、この時間の自分の少々飛躍した思考の、第一の理由に思い当たった。会議の前に交わした短い会話が、ブレインによみがえる。
『マイスター、今日は早く上がれそうだな』
『ええ、コンボイ司令』
ただそれだけの、その場にいたほかの誰の耳にも留まらないような、なにげない言葉。だがそれが何を意味するものか、自分たちはわかっている。彼が何を伝えたのか自分は承知しているし、自分が何を答えたのか彼には届いている。「待ちきれなかった」と先ほどコンボイは言ったが、その台詞がなければ本当に一切何も確かめることなく、それでもごく自然に互いを訪い、迎え、夜の臥所を共にしていたろう。
そういうことだ、と、改めて認めてしまった事実への少しの照れとともに、それ以上の幸福をも噛み締める。
「次の議題で最後ですから、早く終われるようにしましょう」
「ああ……そうだな」
そうしよう、と答える様が妙に仰々しかったのでまた笑ってしまいつつ、同時に思う。
(キスがしたいな)
今度はちゃんと名を呼んで、顔を正面に見合わせて。
本日幾度目かの衝動を、もういっそ声にして伝えてしまおうと、傍らの恋人の腕を指でちょんとつつき、笑みとともに口を開いた。
「ねぇプロール、なんで廊下で仁王立ちしてんの?」
「ここ通らないと会議室行けないぞ」
「あと五……いや、十分待てと、私の長年の経験と勘が告げている」
「いつも大変だなお前さんも」
完。