融雪



 研究棟の廊下を全力で駆けてきた足音は壁ひとつ隔てた真横の位置に止まり、何事かと首傾げる間もなく、直前まで聞いていた(もしくは聞いているかのような姿勢でいた)くどくどしい言葉の全てを撥ね散らす勢いで、部屋の中へと飛び込んできた。
「インフェルノ分隊長、大変です! 来てください!」
 上ずった声で間違いなく自分の名を呼んだ顔に、かすかな見覚えがあった。誰か、を思い出しにかかるのは後へ回し、停滞していた思考を長年の経験に培われた反射でもって完全に切り替え、足踏み出す前に訊ねかける。
「何がどうした?」
 大変だ、と報された話が本当に大変な事態に結び付く例はそう多くもない。非常時の特攻をためらいなどしないが、状況把握および拙速を尊ぶべきか否かの判断は必要な手間であると、やはり長年の失敗と説教の経験を経て、今ははっきり理解している。
 インフェルノの問いを受け、闖入者は落ち着きない身振りを交えつつ再び叫んだ。
「レッドアラート教官が大変なんですっ」
「そりゃ大変だ」
 事態報告の言葉としては完全に失格であったが、その語、その名を聞けば、初手からあれこれと無駄な考えを挟もうとは思わなかった。してみると、どうやらこの若者は彼の生徒であるらしい。うっすらとした顔の憶えに納得し、ここでこれ以上の話を聞くのは無理と見て、向かうべき場への案内を頼む。
「こちらです!」
「あ、こらインフェルノ、話はまだ済んどらんぞっ」
「悪ぃな、次にツケておいてくれ」
 部屋主に軽く手を振り、慌ただしく駆け出す機体に続いて戸を抜ける。後ろから腹立たしげな声がひとつふたつ追いすがってきたが、前を行く訓練生にはそれを聞き止め気遣う冷静さもない様子であったので、目下の議題としていた我が分隊における機材無断持ち出しの件については、道々説明しなくとも良さそうだった。


「なんでお前まで来るんだ……」
 研究棟を出る前から、さらに言うなら名を呼ばれた瞬間から薄々予想できていたことではあったが、いざ現場に着いて目にした実態は、やはり緊急とも非常とも言いがたいものだった。それでも行き先に教習棟の医務室を挙げられた時にはよもやと不安を覚えたが、名指された相手は診察台に寝てさえおらず、こちらの姿を認めるなり脱力し切ったような呆れ声を漏らしてみせたのだから、深刻な想像もすぐに散り消える。
 が、報告に使われた「大変」という言葉をあくまで主観のものと捉えるなら、あながちに的外れな表現ではなかった。医務室に詰め寄せた訓練生たちにはもちろん、彼の永年の相棒たるインフェルノにとっても、その大仰な語を想わせる光景ではあった。
「アラート、それ……どうした?」
 大小の機体に取り巻かれて椅子に腰かけているアラートの様相に、普段とこれという変わりはない。
 ただ一点、右のアイセンサーから滂沱として落ち続けている、涙の流跡を除いては。
「――おそらくは頭部の冷却機構の不具合でしょう」
 驚きが過ぎて曖昧な言葉にしかならなかったインフェルノの問いに、部屋の奥から端末を手に戻りながら答えたのは、当直であろう工医師だった。訓練生たちに占拠された部屋の光景にほのかな苦笑を浮かべつつも、ディスプレイを示して丁寧に説明を続ける。
「表れている症状は冷却液の過放出のみですし、スキャンの限りではほかに機能不全を生じている部位も見られませんので、さしたる損傷ではないかと……回路の疲労によるものかもしれません。もっともまだ簡易的な診断ですから、後で念のため内部の精密検査も行いましょう。時間のほうは大丈夫ですか?」
「ああ。いきなり大勢で押しかけてしまって申し訳ない。止めても聞かない者ばかりで」
「実に迅速な救助行動でしたよ」
 笑う医師に、対象を見誤っては意味がないんだが、とアラートが深々と排気して返す。その間にも、水は右の頬を流れ落ち続けている。
「なあ、何があったんだよ」
 独り立ち入り線の外に置かれてしまい、遠慮せず横から口を挟んだ。アラートもインフェルノに非がないことは承知しているのだろう、渋い表情を浮かべながらも、教え子に代わって急の呼び立てに対する詫びを口にしてから、事のいきさつを語った。いきさつ、と言うほど込み入った話でもなく、要は、演習中に突然この不具合が生じ、気付いて仰天した生徒たちにより、止める間もなく医務室に担ぎ込まれた、というだけの出来事であったらしい。
「まさかこいつまで呼びに行っているとは思わなかったぞ。一体誰が言い出したんだ……」
「誰だっけ」
「そういえば研究棟で見かけたって誰かが」
「じゃあ呼ばないとって自然に……」
「誰ともなく……」
 気の抜けたような(我らが教師に大事ないとわかって実際に抜けたのだろう)言葉を口々にする教え子たちに担当教官が肩を落とし、わかった何にせよ後で全員説教だ、と宣言がなされ、流れが次へ進みかけたその時、呼び出しの通信音が鳴った。場の全員が即座に自回線の確認動作を取ったが、実際の応答に及んだのは、部屋の受話装置を取り上げた医師のみであった。
「はい、医務室。……ええ、意識は……いえ、そのまま動かさないように……六階ですね。了解しました。すぐに向かいます」
 素早くやり取りを終えて受話器を置くや、携帯用の医療器具入れを取り上げ、言う。
「上の階で急患が出たそうです。機体をその場から動かせない様子で……診察中に申し訳ありませんが、少しだけ外してしまってよろしいでしょうか? 本局の医療班が到着次第すぐに戻りますので」
「問題ない。留守居は請け合おう」
「こっちは俺が付き添っておくぜ。早く行ってやりな。なんか手に余ることがあったら連絡するからよ」
「助かります」
 熟練の保安員と現役救助員による保証は充分信頼に足りたと見え、医師は短い謝意のほかには何も述べず、駆け足に医務室を出て行った。
 その足音が遠ざかるまで戸口を見送り、戻した視線で周囲の顔を見回したアラートは、またひとつ小さな排気を落としてから、次の指示を口にした。
「お前たちも演習場に戻れ。自主訓練だ」
「何かあったら俺たちにも連絡してくださいね」
「そうそう。インフェルノ先輩、演習場ここのすぐ下ですんで、窓から呼んでもらってもいいですよ!」
「わかったわかった」
 アラートには座ったままでいるよう手振りで示し、離れがたげにする訓練生たちの背を押してまとめて廊下へ追い出す。みな去りぎわにインフェルノへ丁寧なよろしくの言葉をかけていくあたり、こう見えて担当教官の教えは確実に浸透しているようだ。
 ほほ笑ましく思いながら手を振って応えていると、最後に残った訓練生から、ほかと響きの異なる声音で話しかけられた。
「インフェルノ分隊長、……少し、よろしいでしょうか」
 やはり見知った顔ではあったが、個人的に話を交わした記憶はない、おそらくは保安員候補生の一人。一見で真剣さを感じさせるまなざしに見上げられ、こちらも笑みを収めて、どうしたと先を促す。
「はい、あの……」
 閉じた医務室の戸をそっとうかがい見てから、若者はためらいを振り切るように語り始めた。


      *


「みんな戻ったか?」
 中へ戻るとすぐにアラートが問いかけてきた。まだ不具合は治まっていないらしく、止まらない水を首元にかけた織布に吸わせている。
「全員行ったよ。駆け足じゃあなかったけどな」
「そうか。とんだ騒ぎになってしまったな……まったく」
「ま、普段落ち着いたセンセイが急に泣き出したら、慌てるのも無理はないと思うぜ」
「どんな局面であってもまず冷静になれといつも言っているのに」
 どこまでも彼らしい言葉に笑いながら、正面まで歩み寄る。アラートは奇妙な泣き顔を上げ、面倒をかけた、と再び謝した。
「研究棟にいたのか? 今日は本部詰めだったろう」
「ちょいと野暮用でな。どうしようもねぇ話聞いてただけだし、こっちに呼び出されて良かったぜ」
 説教を受けにきた実情を雑に濁したが、そうか、と頷きが返ったきり追及の言葉はなく、疲れたように口を閉じてしまう。無表情に涙が流れている様子は、不可抗力のものとは言え、あまり見つめ続けるのに向く姿ではなかった。
「アラート」
 静かに呼びかける。
「ん?」
「俺だけだぜ」
「……え?」
「俺と、お前だけだ。今ここにいるのは」
「インフェルノ……?」
 訝しげな声に応え、脚折って椅子の前の床に膝を付き、困惑をたたえた顔を正面に捉える。ゆっくりと手を伸ばし、頬を滑る涙を指の背で受ける。拭うそばから湧き出る流れに、我なく苦笑いの声が漏れた。
「んっとに強情っ張りだよな。こらえ過ぎて元栓をぶっ壊しちまうなんて話、聞いたことねぇよ」
 淡色の青の灯が揺らぐ。濡れた輪郭が緩慢にゆがみを生じ、唇に震えが宿るのを見届けてから、一度離した手を背に回し、その身を腕の中に抱き込んだ。
 さえぎる物なくこぼれ落ちる涙がはたはたとフロントガラスに当たり、ようやく音立てて存在を語る。
『誰かに話してしまって良いことなのかどうか、非常に迷ったのですが……インフェルノ分隊長にならと、思いまして。……今日、私たちの組はサーチングの演習をしていました。私の機体センサーはごく平凡な性能ですが、集音に特化した補助デバイスを使っております。検索中に偶然、聞こえてしまったんです。「それ」が』

(久々に帰ってみりゃ、なんであんな奴が教導官に?)
(動かすのに都合のいい駒でも作ろうってんじゃないか)
(元部長サマだぜ。降格人事だろ)
(部下を現場に放り出して、後ろでそっくり返って説教垂れてりゃいいんだから、昔っから楽なもんだな)
(なんでもかんでもキケンだのやめろだの騒ぐしか能がないくせに、あれじゃ教わるほうが気の毒だぜ。おおかたあの戦争も最後まで逃げ回ってたんだろう)
(ほかに生き残るべきやつがいたんじゃないのかね?)

『姿までは見えませんでした。三人か、四人か……支局の隊員だと思いますが、人を護るべき者があんな心ないことを軽々しく口にするなど信じられません。教官も指示のためにセンシングを行っていましたし、私でも捉えられたほどですから、おそらくは……』
 すぐにも声の主を探そうと思ったが、異常を示したアラートの様子が不安であったため捨て置いた、と憤りをにじませて語られた判断を正解と認めてやり、迷いに迷っての末であろう報告に感謝を告げて、周りには黙っておくよう言い含めてから送り出した。あとは自分が任された、と頷くインフェルノを見てようやく全身に張り詰めさせていた力を抜いた訓練生は、幾度も後ろを振り返りながら廊下を遠ざかっていった。
「心配性の教師のとこじゃ、やっぱ心配性の生徒が育つもんかね……」
「……く……、う……」
 誰に何を聞いた、とアラートは問い詰めてこなかった。ただ固く唇を噛み締め、漏れ出る嗚咽を必死に耐えている小さな機体の震える背を、己の腕で能う限りに強く抱き、やわらかく撫ぜる。
「声出していいんだぜ、アラート」
 ささやきかけた言葉に、胸元でかすかに首が振られる。こうまで来ても、とまた呆れ笑いが漏れたが、でなければそもそもこの状況へ転んではいない。
 支局の隊員たちがそれを聞こえると知って言ったのか、それとも知らずに言ったのかは定かではなく、今となっては考察にも値しない。いずれにせよ、悪意はその矛先とした相手の胸を、おそらくは口にした当人たちの想像などかけらも及ばぬほどの正しさで切り裂いた。目を背けず認めた過去であるからこそ、悔いのくびきは強く、弁明の盾を持たない心の受ける傷は深い。
 今のように唇を結び、悲嘆を押し込め、教え子たちに一片の動揺も見せまいとしたのは、彼の意地でも、気遣いでも、ある種の恐怖でもあったろう。平然を装うあまり逆に処理熱が生じ、それを治めるための水さえもまた背理の命令で抑え、強烈なコンフリクトに陥った結果、最後には根本の機構が破綻した。いや、防衛本能が勝った、と言うべきだろうか。
「う……ぅ、ふっ……」
 なんとも下手な泣き方だ。誰より安全を尊ぶ機体でも、感情に揺さぶられるシステムの制御は思うに任せぬものであるらしい。もっとも、これには自分の責が大いにかかわっているから、とやかくやとからかうことなどできはしない。
 はるか昔、氷のようだなどと言われていた初めは、泣く姿などまるで見なかった。やがて長い付き合いのうちに、激高や感動や悲哀のためごく普通に涙することを知った。青の星で過ごした終わりの数年、彼は冷徹を忘れ、感情豊かな多弁家にさえなっていた。その地で最後に見た涙は、組み伏せた寝台にひとすじこぼれ落ちたものだった。
 長い喪失の時間があった。もはや「昔」ではなく「今」にごく近い記憶として語られるその日、腕の中に得たのは、なんとも下手な泣き姿だった。
『もう何年もろくに使っていなかったから、すっかり錆び付いてしまった』
 立つために強さを求め、進むために強く在り続けることを誓った教導官は、穏やかな声でそう言った。
「アラート」
 名を呼ぶ。背を叩き、肩を撫ぜ、耳先へ口付け、呼び続ける。詫びればまた首を振られるだろう。ならばせめて心だけ、彼を慕う想いだけでも、この声から伝わればいい。
 つたない嗚咽はそのぶんだけ長く続き、涙が文字通り枯れると同時にようやく絶えた。
「……水が切れた」
「大丈夫か?」
「ん」
 小さく頷く頭をそっと胸から起こさせる。確かに水は止まっていた。燃料が無くなったようなものであるから状態が好転したわけではないが、表情も落ち着いており、昇った熱の残っている様子はない。インフェルノの胸にそっと指を触れさせ、言う。
「……すまない。濡らしてしまった」
「拭きゃいいだけだろ。お前もすごいぜ。待ってな」
 立ち上がり、窓際の棚に積んであった新しい織布を取って戻る。濡れそぼった頬をぬぐう手をアラートは抗わずに受け、その下からぽつり呟いた。
「あの程度、昔は始終言われていて……気にもならなかったのにな」
 弱くなってしまったんだろうか、と、いつもまっすぐ前を見る淡色の瞳が、憂いに沈んで床を見つめる。
 常に冷静で聡明な教官がこんな頼りなげな顔をすることを知ったら、あの賑やかな生徒たちはどう思うだろうか。驚き、慌てはするだろう。だが、アラートが恐れ、怯えるように、笑い、嘲ることなどあるだろうか?
「賢いくせに、そういうとこは勉強が足りねぇんだよなあ、お前」
 涙を拭くのと逆の手を伸べ、俯いた頭を子どもにするように上から撫でる。しかと地を踏みしめ揺らぎなく立つ姿と、いつまでも自信を持たないやわらかな心の裏腹を、哀しく、愛おしく思う。
「そういうのは、弱いって言わねぇんだよ。へこんでも大丈夫だと思うからへこむんだろ。こいつになら落ち込んでる顔見られてもいいと思うから、独りで納得して押し込んでねぇで、こうやって泣いてられるんだろ?」
 あの頃も、傷付いていたはずなのだ。ただその傷をさらけ出すことも、癒すことも知らずにいたから、自分を護るために、傷ついた心ごと、あって無きものとごまかしていただけだ。
「溜めて溜めて最後にドカンになっちまうよりは、へこむたびに表に出してたほうがずっといいと思うぜ」
 笑って告げた言葉に過去の記憶を突かれたのか、アラートは渋い表情を浮かべ、口を開いた。
「相手の意はどうあれ、ああして言われること自体は、俺がこれまで残してきたものの結果だから、仕方がないと思ってる」
「そうか」
「今までもそうだったし、これから先も、覚悟はしているつもりだ。……でもそのたび、こうしてゆるんで脚を折りかけてしまうなら」
 一度言葉を区切り、お前は、とインフェルノの顔を見上げ、
「……面倒じゃあ、ないか?」
「全然」
 訥々と紡がれた言葉を待ち構え、青が不安に揺れる間さえ置かず即答した。虚を突かれた灯の瞬きへ、にっと口の端(は)上げて返す。
「俺だってお前にはさんざん面倒も苦労もかけてきたんだぜ。ただでさえ置いてかれちまってるとこも多いんだ。そのぐらいさせてくれよ、相棒」
 ただ強く、強く、と、必死に身を律し続けてきた小さな体に、ほんの時おり腕へ寄りすがられる程度、重みのうちにも入らない。
「どうしても立って歩けませんって時は、こうやって抱えてやってもいいぜ」
 言って両腕を胸の前に構えてみせると、それはもうよせ、とそっぽを向かれた。口尖らせた横顔に、もう憂いの翳はない。過去を消すことはできないが、ありのまま見つめ受け入れられるなら、ただ悔いて涙するだけでなく、こうして笑うこともいつかは叶う。
「なあ来てみろよ、アラート」
 拗ねた肩を叩いてなだめ、手を取って立ち上がらせる。首傾げるのを構わず、窓の前まで連れて歩いた。
「お前、あれ見ても自分が弱くなった、悪いほうに来ちまったって言えるか?」
 指し示す窓下の演習場に、じっとこちらを見上げて立つ一団がある。先ほど棚から織布を取った時の顔触れとは入れ替わっているが、浮かべる表情は笑ってしまうほどみな同じだ。
「俺の隊の部下たちだって、隊長さんをあんなに心配してくれやしねぇぜ?」
 それはお前が無茶ばかりするからだろう、と普段であれば即座に返る言葉も、わななく唇からは出てこないようだった。

(教官、大丈夫かな……)
(驚いたよな。お前らにはもう愛想が尽きた! って泣かれたのかと思ってひやひやしたよ)
(いいなインフェルノ先輩……俺も教官のそばに残りたかった……サーチング苦手だし……)
(なんかもう逆立ちしても敵わないわー)
(あれ、ひょっとして教官じゃね? こっち見てる?)
(うわ予想と違う窓だった。やばい。俺らサボってたみたいじゃないか?)
(サボってません! 待機列ですから! みんなで同じ方向見上げて順番待ってるだけですから!)
(関係ないとこ見てる時点で言い訳にならないな……)
(演習はちゃんとやってますからー!)

 こちらの姿に気付いて周囲の生徒も集まり始め、賑々しく何を話し交わしているやら、傍らの表情を見ればおおよそ検討はつく。
 しばし声なくその光景を見下ろしていたアラートは、不意に窓から離れ、インフェルノの後ろに身を隠した。触れる指先がかすかに震えを立てている。
「水が切れてて良かったと思ってるだろ、今」
「……図星ばかり突くんじゃない……」
 ばか、と横腹に顔伏せた機体の背を片腕に抱き込み、いいんじゃないかと笑ってやる。
「お前は普段がカチコチだから、たまにちょっとゆるむぐらいがちょうどなんじゃねぇか? 難しいツラで黙り込んでるより、生徒にうっかり感動させられてびーびー泣いてるアラートのほうが、俺は好きだぜ」
「びーびーなんて泣いてない」
「そこまで行っちまってもいいってこと」
 未熟な激情をなだめ鎮める一方、凍てついた氷に戻ることを許さなかった心は、代わりに雪を降り積もらせて、湧き出る涙を隠したのだろうか。厚く固く層を成しているように見えて、ふとした弾みにほろほろとたやすく融け崩れていく。
「泣いてくれよ、アラート」
 降る雪を隣で見守ることさえできなかった。せめて、頼りなくゆるび、融けあふれる流れの中で、その身を支えていてやりたい。
 あの遠く懐かしい青の星では、冷たい雪の融けたあとに、花の咲き乱れるあたたかな季節が訪れたはずだ。
 やや突飛のものとも取れる言葉にアラートは怪訝の反応を見せず、インフェルノの胸に額を押し当てたままゆるりと頷いた。
「……今はもう、出ないけどな」
「お医者先生が戻ったらちゃんと補充してもらえよ」
「うん」
 もう一度背を撫でてやり、座って休むよう促す。自分も窓の向こうに手を振ってその傍らに戻った。
「いい生徒じゃねぇか。動きも悪くないぜ」
「そうだな。少し騒がしいのが多いが、良く育ってる。きっと優秀な隊員になってくれるだろう」
「じゃ、今日の騒ぎぐらいは勘弁してやったらどうだ」
「それとこれとは別だ。予告通りあとで説教はする」
 覆らない宣言にお前らしいと笑いつつ、けどな、と教えるべきことを思い出す。
「その説教、早くて明後日になるからな」
「え?」
「さっきあいつら追い出したあとに、お前のとこの同僚が通りかかってよ。これから明日いっぱい休みってことで了解取っておいた」
「は? な、何を勝手に……」
「お前、最近休日返上でやってたし、実際疲れてるってのもあると思うぜ? この前の現場演習のいざこざで作った貸し使って、お前の借りにはなってないからよ」
「そ、」
 そうは言っても、と継ぎかけたのだろう声を、
「ちなみに俺も明日は休み」
 低く告げた言葉でさえぎり、自信の笑みを贈ると、口を開けたままの顔が素直に赤らんだ。
 ああ愛らしい、と恋人の声なき答えに悦に入るが、
「いや、嬉しいんだけどよ……そういうの、少し心配になったりもするんだよな。あんまり耐性がないんで」
 昔ならまず抱かなかっただろう不安も同時に浮かび、今度は明らかな怪訝を向けられて曖昧にごまかす。
 まあいいだろう。雪舞う高嶺で棘を生やしていた蕾のほころぶ様を、今は一番近くで見守ることができる。その鮮やかさに気付き始めた者もいるようだが、もはや譲ってやるつもりはかけらもないのだから。
「なあアラート、いつかまとまった休み取って、二人で旅行にでも行かねぇか」
「旅行? どこへ?」
「地球とか」
「……だいぶ様変わりしていると思うぞ」
「それでも、まだ花の一本ぐらいは咲いてるだろ」
「まあ、春ならな」
「春か。そうだ、そんな名前だったな」
 一度見失った道を再び踏みしめ、ようやく前へと歩き始めたばかりだ。それはまだ遠い夢物語でしかない。
 だが信じて進み続けていれば、いつかは雪融けの河の向こうに、春の野を見つけることもできるだろう。
「花が見たいんだ。お前と二人で」
 何より愛しい赤と白の花は、恋人の突飛な言葉を拒まず頷き、薄く染まった頬を穏やかに咲きほころばせた。


Fin.
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