電気羊の幸福な夢
ああいた、と思って足の運びをゆるめたほとんど次の一瞬には、その後ろ姿が捜した相手ではなく、背格好の良く似た同型機のものであることには気が付いていた。それでも止めた歩みをすぐに再開させなかったのは、まあついでに訊ねてみようかと考えたから、というのは確かながらも言い訳に近く、並んだ影の中にひときわ丈高い赤の機体を見たことが理由の半ば以上を占めることにも気付いていたので、アラートは抱えたデータパッドの上にひとつ苦笑混じりの排気を落とした。
ラウンジに集まっていたのは、現在非番または休憩中の(はずである。少なくともうち一人は確かにサボタージュではない)仲間四名と、地球で知り合った小さな友人たちだった。大小の機体の影になってこちらからはしかと窺えないが、輪の中心にいるスパイク少年が何やらの仕草を見せたらしく、黄色いミニボットの賑やかな声が上がった。
「ねぇスパイク、前から思ってたんだけどさ、その口をでっかく開けるのはなんの意味なの?」
彼の所作をなぞっているのだろう、顔の前に手を上げ、言葉通りに口を大きく開いてみせながら言う。俺も気になってた、と同意したのは隣に立つクリフだ。
「あくびだよ。あれ、みんなはあくびってしないのかい?」
ゆうべテレビを見ていたらつい夜更かししちゃって、と説明が続くが、四人のサイバトロニアンたちは揃って首を傾げた。車椅子に座ったチップが代わりに答える。
「僕はついこのあいだ同じことをパーセプターに訊かれたよ。『少なくとも我々の仲間にはそういった挙動を見せる者はいないね』だってさ」
「へえ。じゃあ眠くならないってこと?」
科学者のしかつめらしい口真似に笑いつつ、でもみんなちゃんと寝ているよね、と今度はスパイクが首を傾げる。周りの四名がそれぞれの意見に口を開きかけるが、チップがまた声を先んじて、
「その時はすぐ別の話になっちゃったからなぁ。けど眠くならないってことはないはずだよ。……あ、ねぇアラート、サイバトロンのみんなにも眠気みたいなものはあるんだろう?」
そうこちらに呼びかけてきたので、虚を突かれたアラートは、え、と思わず間の抜けた声を漏らしてしまった。一瞬静止してから、振り向き手を上げる仲間たちを見て我に返り、応えて部屋に歩み入る。入りあぐねているように見えて声をかけてくれたのか、はたまた、中のメンバーでは問いに対して芳しい答えが得られなさそうだと考えたのか。おそらくそのどちらともだろう。年端の行かない少年たちの実に良く気の回ることと言ったら、時に舌を巻くほどだ。
「ようアラート、休憩か?」
輪に加わり、チップへの回答に口を開くより早く、インフェルノが問いかけてくる。昨日互いの今後の予定を再確認していたから、相棒はアラートが朝一番から警備室に詰めていることはもちろん知っていた。
「いや、プロールを捜していたんだ。だいぶ前に警備室を出ていったんだけど。こっちに来なかったか?」
見てないな、とストリークが答え、他のメンバーも首を振る。
「通信は?」
「ノイズが返るんだ。受信機の調子が悪いと言っていたから、そのせいだと思う」
必要なデータが欠けて手が止まってしまったこともあり、各所の監視カメラの調整がてら捜しに出てきたのだが、そう広大とは言えない基地でも、いざ歩くとなかなか目当ての姿に行き当たらないものだ。連絡手段が個人通信頼りなのも良くないな、と思案し、ふと思い出して目線を下へ向ける。
「ああ、すまないチップ、質問に答えてなかった。君たちと全く同じものではないのだろうけど、私たちも『眠気』を感じたりはするよ。現に先日、任務の帰りに居眠りして通信に応えなかった部下がいるんだ」
「お、おい」
名を出さずとも誰のことかは明らかで、場に起こった笑いと対照に、不意の面当てを受けて泡を食った声が上がった。
「あれは……言ったろ。夜廻りからそのまま現場に入ったから」
「そうだったな。私はすぐ救援を向けるから戻れと命令したのに」
「けどよ、あれだけ近くにいてみすみす……」
「うるさい。だいたい腕にあんな大穴が開いていてなんで居眠りなんてできるんだ」
ぴしゃりと撥ね付ければ、さすがに反論しかねてか巨躯を縮めるようにして俯く。つまり、とバンブルが口を挟んだ。
「出先で大ケガしたって聞いて応答もなくて不安で仕方なかったのに、相手は単にぐーすか寝てただけだったもんだから俺の心配返せってことだね」
「なんだいつものやつか」
「いいからチップに答えてやれって」
ぞんざいになだめてくる仲間へごほんとひとつ咳払いを返し、気を改めて足元へ向き直る。
「実は私もパーセプターの受け売りなんだ。急に講釈を始めるからなんだと思ったら、そういうわけだったんだな……」
チップに訊ねてからすぐに自分で調べ上げたのだろう、『地球人類とサイバトロニアンの眠りの類似と相違についての一考察』とでも題を掲げられそうな突然の講演会が警備室で催されたのは、つい三日前のことである。早々に場を退散した者もいたが、監視モニターの前を離れられなかった自分は、初めから終わりまで彼の高説を拝聴するに至った。
いわく、心身の回復や記憶の整理構築をうながす基本作用に関し、睡眠の有する意義と意味はロボット生命体においても地球の有機生命体においても大きな差異はない。しかし、望めば自らの不調や消耗を定量的なデータとして把握することが可能であり、ほぼ随意にスリープモードへ移行できるサイバトロニアンに対して、人類はそうしたものを曖昧な感覚でしか捉えることができず、眠りのコントロールも難しい。ゆえに、残稼働時間その他の明確なデータとともに発せられ、警報そのものとして感知されるサイバトロニアンにとっての「眠気」に対し、人類の「眠気」は同じ警告の性格を持ちながらも、ずっと漠然として不明瞭な現象であり、信号というよりは印象や気分に近いものとして処理される。詳細なメカニズムもいまだ全ては解明されておらず、「あくび」もその一例で、どのような働きで生じるのかは明らかになっていないらしい。反射的な運動ではあるが、外へ表出するからにはやはりなんらかの警告の一助を担うものではないか? と思われる――
「……だそうだ」
唐突にデータバンクへ放り込まれた記憶の塊をほぐし、ごくかいつまんで教えたが、それでもやはりいささかくどくどしかったのだろう、チップ以外の面々は呆気にとられたような表情を浮かべていた。
「つまり僕らの眠気よりサイバトロンのみんなの睡眠や眠気のほうがはっきりしてるし、あくびもしないってことだね」
聡明な少年がそう短くまとめて、ようやく合点の空気が流れる。
「警告を無視して起き続けていたらどうなるの?」
「普通はフェイルセーフが働いて稼働レベルを落とすし、持続すれば強制的にスリープモードへ移行するよ」
だから、実際は先の日のインフェルノの居眠りにしても、当人の捉え方はどうあれ、半ば必要な処理であったのは確かなのだろう。だが命令無視のうえ報告が不足していたことに変わりはないし、帰還までこちらがどれほど気を揉まされたかと思えば、多少の当てこすりは許されるだろうとアラートは結論した。
「でもバンブルはこの前、メインルームでうとうとして壁に頭をぶつけそうになってたよね」
「えーあれ見てたの? やだなぁ」
覚醒とスリープの間を行きつ戻りつして体をぐらつかせていたらしく、多分それが『警告を無視している』状態なんだろうね、とチップが笑う。
「またお前誰かとの話に夢中で夜更かししたんだろ」
「誰かって言うかストリークだよ。ずっと話してて部屋に帰らせてくれなかったんだもん」
「そうだっけか」
「ロボットが船を漕ぐなんて、なんかおかしいな」
むくれるバンブルの隣でスパイクがふと口にした言葉に、またもや首が傾げられる。どうかした、と問うので、奇妙な語の意味をクリフが訊ねた。
「眠くて身体がぐらぐらしてるのを、『船を漕ぐ』って言うんだよ。僕らが使うボートは、ほら、こうやって身体を揺らしてオールを漕ぐから」
言いつつ実演してみせるのに、なるほど、と返った感心の声は、輪の外から飛んできたものだった。
「なかなか洒落た言い回しじゃないか」
バイザーの下に常の涼やかな笑みを浮かべ、サイバトロン軍の副官・マイスターが輪へ歩み寄ってくる。湯気の立つカップを手にしているところを見ると、彼のほうは休憩に立ち寄ったものらしい。アラートは自分がそうではないことを思い出し、入れ替わりに退出しようと後ろへ向き直りかけた。そこへ、ああと声がかかる。
「アラート、もしプロールを捜しているなら、少し前に司令室を出ていったよ。受信機の具合を診てもらいにリペアルームに寄ると言ってたが、もう戻ってるんじゃないかな」
「そっちに行っていたのか。ありがとうございます」
プロールからデータのことを聞いていたのか、アラートの手元の端末を見て察したのか、相変わらず良く気が付く。音楽を初めとする文化への興味といい、ひょっとすると地球人類と感性を同じくするものがあるのでは、と思わせもする副官は、礼にひらりと手を振ると早速スパイクたちの話に加わりにいき、代わりに呼びかけてきたのはインフェルノだった。
「アラート、戻るのか?」
「ああ」
「お前もあんま根詰めてやらねぇで、ちゃんと休み入れろよ」
わかってる、と答え、軽く手を振り交わしてからきびすを返す。廊下へ向かって三歩進んだところで、じんわりと熱持って揺れるスパークを押し込めるように、端末を胸の前に抱え直した。運びがにぶらぬよう努めてきびきびと足を動かしつつ、背の向こうでまた盛り上がり始めた会話に混じる無骨な声を探す。
「それで、地球にはほかにどんな眠りにまつわる話があるんだね」
「そうだなぁ。羊を数えると良く眠れる、とか」
「スパイク、羊ってどんなやつだい?」
「羊っていうのは、牛や山羊の仲間の動物だよ」
「このあいだ見たぜ。牧場で草食ってる毛むくじゃらのやつだろ」
「地球ってだいたいのやつが毛むくじゃらだけどな――」
通りがけのカメラの調整をしてから警備室に戻ると、プロールがはやばやとデータの整理に手を付け始めていた。入れ替わりに休憩に入らせたらしく、部屋を出る際に監視の代理を頼んだハウンドの姿は見えない。アラートに気付くと、キーを叩く手もそのままに口を開いた。
「捜してもらってたそうだな。すまんね」
「ああ。でもついでにカメラを見てきたから」
席に戻りつつ答え、流れてくるデータを端末へ送る。監視モニターが順繰りに拡大する映像の中にラウンジ前の廊下の画を見つけて、何ともなく横へ問いかけた。
「プロール、『羊を数えると良く眠れる』って話、知ってるかい」
「さあ」
聞いたことないな、と寡黙な戦略家は必要最小限の答えを返し、それきり話は続かなかった。
◇
あいだにデストロンとのひと悶着を挟み、それから十日が経った。
深夜、科学者の論説もラウンジでの談話も記憶庫の隅へ移し、独りいつもの席でモニターを見つめていたアラートのもとへ、騒がしい足音とともに赤い機体の部下がやってきた。
「うるさいぞインフェルノ。もう寝ている者もいるんだから静かに歩け」
「お前で少しうるさい程度なら誰も起きてきやしないさ。それよりアラート、まだ上がらないのか」
今日の夜番はアイアンハイドだろ、と怪訝な顔をするのに、夕刻に外から急の援助要請があり、戻るまで自分が代わりを務めることになったと伝える。が、表情はゆるまなかった。
「だからって、お前は今日早番だったろ。手の空いてるほかのやつに任せりゃよかったじゃねぇか。デストロンの奴らはついこのあいだ痛めつけてやったばっかりだし、オートモードで充分だと思うぜ」
「そうやって気を抜いて何度してやられたと思ってる……それに、適当な人員もいなかったんだ。アイアンハイドからは日が変わる頃には向こうを出れると連絡があったし」
予定外の交代でばたつくよりは継続で就いたほうがスムーズだと思ったし、何より自分はこの基地の警備主任だ。不測の出来事の際に代役その他を務めるのは当然である。難しい顔をしたまま、しかしその理由を承知してはいるのだろう、インフェルノはそれ以上の反論をせず、代わりにアラートの隣へ大型機用の椅子を引いてきて、どっかと腰かけた。
「インフェルノ?」
「アイアンハイドが戻るまで俺もいる」
きっぱりと言われて、思わず傍らを見上げる。
「お前も帰ってきたばかりで疲れているだろう。デストロンの動きがないのは確かだし、別に二人体制でやるほどじゃない」
「俺は昼から出たからそう疲れてねぇよ。お前のほうこそだろ」
そんなことは、とアラートが抗弁の口を開くよりも早く、
「それに、俺は別に監視任務に就くつもりはないぜ。今日の仕事は終わりで、あとはここにいたいからいるだけだ」
そう言って、ここにな、とくり返し、アラートの椅子の側面をぽんと叩いてみせる。その口元に浮かぶ屈託ない笑みを見て反論は口の中に消え、アラートはそうかとだけ相槌を打った。じわり、胸の奥が熱に揺れる。任務中だと首を振って前へ向き戻った相棒の様子には気付かず、インフェルノは明るい声を続けた。
「そうだ。こいつを見せたかったんだよ」
部屋で渡すつもりだったんだけどな、と言いながら懐をさぐって取り出した何かを、ほらと上から放るように寄こされ、反射的に両手をそろえて受け取る。頼りなげな感触が手のひらに転がり、アラートはまじまじとその白い物体を見つめた。
「……なんだこれは」
「羊」
「ひつじ?」
確かそれは、と検索にかかる前に、このあいだスパイクたちと話してたろ、と言葉が続く。
「牧場で草食ってるやつ」
「ああ」
言われてみれば、布と合成繊維で作られた白い物体は四本脚の生き物を模した形をしており、地球製の玩具の一種の、いわゆる「ぬいぐるみ」というやつらしかった。
「そいつは今朝、カーリーが持ってきたんだ」
なんでも、ホームパーティーのゲームの景品として当たったのはいいが、大きすぎて置き場所もなく持て余している、と語っていたのを、その場にいたインフェルノが譲り受けたらしい。
「で、これをどう……」
「やるよ」
「え?」
俺に? と確かめれば、ああと当たり前のような顔で頷き、ちゃんと別のやつにやりたいって断ったぜ、とさえ続ける。アラートは困惑とともに手の上の「羊」を再び見つめた。人間が持つにはひと抱えもある大層な品でも、自分たちには両手にちょうど納まってしまう程度のサイズだ。丸みを誇張された作りときょとんとした目には確かに愛嬌があるが、軍の戦士が普通に持つような玩具ではないだろうし、少なくとも自分にはこうした物を部屋に置く稚気はない。
考え込むアラートの隣で声立てて笑い、インフェルノは言った。
「ほら、『羊を数えると良く眠れる』んだろ?」
お前、昔っから良く寝付けないって言ってたじゃないか。続く言葉に、はたと頭を起こす。見上げた顔にはアラートの愛する快活な笑みがあった。
「……そうか」
正面に向き戻り、先と同じ相槌をさらに小さな声でくり返した。もっと気の利いたことが言えればと、内心ではいつもそう強く望んでいるのに、胸に抱えた想いの何分の一も言葉にできない。
インフェルノは気にした様子もなく、慣れた顔でおうと応え、満足げに相棒の手の中の羊を眺めている。
(いつもそうなんだ。お前は)
声にならない心を、熱こもる身の内で鳴らす。
その言葉や行為は、たとえばマイスターのそれのように軽妙瀟洒ではないし、パーセプターのように理路整然としているわけでもない。けれどいつもありのまま飾らずに示され、まっすぐに、時に少々粗雑とも言える荒っぽさを交えて渡される気遣いや好意は、ほかの何よりも強い力で自分の小さくねじけがちな心を揺さぶり、冷えた胸に優しくあたたかな火を灯してくれる。
敵わないな、とどこか悔しいような、しかし決して厭わしくはない心地で羊のやわらかな体を撫でる。データベースの中に見た映像の羊は頭から尾先まで白かったが、このぬいぐるみの羊は胴回りこそ純白の毛に覆われているものの、肢先や顔が黒い。他のあれこれはともかく、この顔の色だけは贈り主を想起させるものがある、と思った。インフェルノの機体色は大部分が赤だが、頭部のパーツは黒色で、灰白の顔もいざ火災現場へ飛び込めばたちまち煤で汚れてしまう。消火救助の任を果たしたあと、勇壮な消防隊員の勲とも言うべきその変わり様を見るのがアラートは好きだった。もちろん、当人にたいした怪我がないことが条件だが。
そんなことを考えていると、横から「こいつあんまり賢くはない感じのツラだな」と評を述べられたので、思わず吹き出してしまった。きょとんとした視線が返り、慌ててなんでもないと手を振る。インフェルノは首を傾げたが、そう気には止めなかったのか、顔についての話を続ける代わりに別の問いを持ち出した。
「にしても、なんでこいつを数えただけで良く眠れるんだろうな」
「なんだお前、理由は知らなかったのか? あのあとスパイクたちと話をしてたんだろう」
「ちょうどその時廊下から司令官に呼び出されて、戻ったら別の話になってたもんだから聞き損ねた」
その後特に調べもせず流したきりにしていたのだろう。それでも結論だけは憶えていて、相棒のためにちゃっかり羊を貰い受けてくるのだから、なんとも彼らしいいきさつではある。
「実はな、俺は気になってあれから少し調べたんだよ。へえと思っただけで今まで忘れていたけど……。要するに、ちょっとした名前のもじりと、言葉をくり返す単調さが眠気を誘うってことらしい。長い話の最中にお前の意識レベルが落ちるのと同じだな」
「……あれは眠気とは違ぇよ」
「本当は必ずしも羊でなくていいそうなんだ。これはビーチコンバーの意見だが、地球の人間は羊や牧場のイメージに懐かしさだとか安心だとかを感じてリラックスするから、それが眠りにつながるんじゃないかって」
ふぅん、と相槌を打ってから、インフェルノは首をひねり始めた。
「てことは、俺たちなら羊より別のもんを数えたほうがいいんじゃねぇか?」
「そうだな……言葉のくり返しはともかく、イメージはもっと身近なもののほうがいいんだろうな。セイバートロン星の風景だとか、数えるなら機材とか」
「俺、とか?」
差し挟まれた声を追って見返せば、わざとらしく口元をにやつかせている。ふっと笑って答えた。
「お前が二人も三人もいたら、暑苦しくて逆に眠れなくなる」
「なんだよそれ」
ひでぇの、と漏らす不平とは裏腹に愉快の色が深まる。ひとしきり笑い合ってから、インフェルノはアラートの手にした羊を指でつんと小突いて言った。
「けどまぁ、それならこいつはあんまり意味がなかったってことか」
「まさか」
少し気勢を削がれたような声に、すぐさま否定を返す。
「確かに、俺たちが羊を数えても良く眠れるわけじゃないかもしれないが、別に実際こいつを毎晩数えさせるつもりでくれたわけじゃないんだろう?」
「まぁお守りっつーか、なんつーかな」
お前はそういうのは信じないとは思うが、と頬を掻いてみせる。再び湧き広がったあたたかな感情に背を押され、今度こそ濁さず伝えねば、と決意の口を開いた。
「その気持ちだけで充分だ。たとえそれ自体に効き目がなくたって、お前が俺のためを思ってしてくれたことが嬉しいよ。……本当に、嬉しい。ありがとう、インフェルノ」
改めて感謝を述べようとすればやはり面映く、終わりに向かうにつれ声は弱くなってしまったが、隣に届くには充分だったろう。火照る顔を隠してしまいたい衝動をこらえて笑みを向けると、頭上のアイセンサーの輝度が増したかと思った次の間には、長い指で顎をさらに引き起こされ、アラート、と甘く落ちた名ごと口付けられていた。
ただ押し合わせ、軽く唇を食んでいくだけの短い口付けに、それでも頭の芯がぐらついたのは、自分もそうしたいと思っていたからだろうか。そっと離れ、しかしまだ間近にある精悍な顔に見惚れて、言葉を失ったまま何かのゆるやかな誘いの波に身をゆだねてしまいかけるが、一瞬後、警備システムの排熱ファンが回り始めた音で、はたと我に返った。
「な、何するんだ。仕事中だぞっ」
突き放すような声を作ったつもりだったが、多分に動揺が混じり、しかもインフェルノが来てからはほとんどモニターを注視できていなかったのだから、あまり説得力がないのはわかっていた。いくら敵の気配が薄いと言ってもこれでは、と恥じ入る。一方のインフェルノは悪びれもせず、
「いいや今のはお前が悪いね。あんな顔されて何もしないでいられるほうがおかしい」
そんな理不尽をのたまうので、馬鹿を言うなと反論しかかるが、叱責の代わりに口から漏れたのは、うわ、という意味なさない反射の声だった。傍らの影が大きく動いたかと思うと急に椅子から体が持ち上がり、慌てて伸ばした腕が大きな手に捕まえられて、気付けば隣の椅子、インフェルノの膝の上に座っていた。
「なっ……」
「寝ちまえよ、アラート」
背後に落ちた唐突な言葉に、なんだって、と首をねじって見上げる。その顔には、思いのほか真面目な表情が浮かんでいた。
「お前、さっきからずっと眠そうなんだよ」
「え……」
言われて初めて、ブレインを断続的に訪れる波形が、休眠前に感じるそれと酷似していることに気付いた。ほうけているうちに、インフェルノは話を先に進めてしまう。
「交代要員が戻るまで、俺が監視の中継ぎを務めます。何か引き継ぎ事項は、主任?」
「い、いや、特には」
「なら問題ない」
お前の今日の仕事はこれで終わり、と断言され、背に回った腕で優しく抱き込まれる。触れ合う機体が伝える熱と音を心地よく受け止め、今度ははっきりと休養をうながす警告を聞き、眠りにいざなう波形を捉えた。
「……眠い」
「そらみろ」
ぽつりと漏らした呟きに笑い、咄嗟に胸に抱き込んでいた羊のぬいぐるみをアラートの手ごと撫でてきた。
「お守りが効いたか?」
「いや……」
――お前がいるせいだよ、インフェルノ。
答えはあえて口にせず、ひとつゆっくりと排気をして、その大きな体に身を預ける。
良く寝付けないのだろう、とインフェルノは言った。確かに、昔から少々仕事中毒の気がある自分は、警告を無視して動き続け、強制スリープに陥ることもままあるから、あまり良い睡眠を得られているとは言いがたい。しかし、彼が指摘した、そして例の羊の話にある、睡眠に至るまでの導入、つまり「寝付き」の部分に関しては、特に問題があるわけではない。人間がどうなのかは知らないが、科学者の講義にもあったとおり、自分たちは己の意思ひとつでスリープモードへ入れるのであり、寝ようと思えばすぐに寝られるのだ。
アラートの睡眠の問題は、そうして寝付いたあとに訪れる。高精度の知覚センサーそのもののようにして生まれた機体は、どんなかすかな異変をも逃さず拾い上げ、警報を発する。その働きはシステムの核に根付いたもので、たとえ任務外の睡眠中であれ例外はない。異音を捉えてはスリープが強制解除され、異常なしを確認してまた寝付く。それをひと晩に十回も二十回もくり返し、ノイローゼに陥ったこともかつてはあった。
かつて。そう、かつてだ。
インフェルノが記憶していたのだろう、はるか昔のいつの日にか、憔悴した自分がふと表へこぼしてしまった苦悩は、今はもうここにはない。
もはや聞き馴染んだ機体の駆動音に心地よく耳傾けながら、身を包む腕をそっと指で撫ぜる。
「……あの時の傷はもう平気か?」
「ひと月も前だぜ。すっかり治ったさ」
「本当に、あまり無茶してくれるなよ」
わかってるって、と軽い声音で返されるが、この無鉄砲な部下のことだ、舌の根も乾かぬうちにまた何度も無茶をやって、そのたびアラートを震え上がらせるのだろう。そうして凍えてしまった心を包み、あたためてくれるのもまた同じ相手なのだから、因果な恋をしてしまったものだ。
かつての己では考えられなかった、因果で面倒で、そして幸せな日々だ。
(お前がいない夜の寝方を、俺は忘れてしまったよ)
彼に出会い、恋をして、想いを通い合わせてから(それは奇跡の出来事であったのだと今でも思っている)、アラートはこの世に出でて初めて本当の眠りというものを知った。同じ基地で、同じ部屋で、傍らで、腕の中で。おやすみの声を交わし、あたたかな心に、時に燃え盛るようなその身の熱に触れれば、安らぎとともに深い眠りが訪れる。別の場所にあって切なさを得ることもあるが、我が軍の副官流に言うなら「それも想いを育てるひとつの調味材だろうさ」ということだ。アラートは塩気も辛味もそう好まないし、これ以上に心が育ってしまっては少々困る気もするが、次に会う日を思えば前を向いていられる。
ビーチコンバーによれば、羊はとても臆病な動物らしい。だからなぞらえるなら勇ましい救助員などより、自分のほうがよほど似合いだ。羊は眠れない夜に何を数えるのだろう。空に浮かぶ星だろうか。群れの仲間たちだろうか。それとも恋しい者を想うのだろうか。
「もしお前が、二人も三人もいたら」
「ん?」
「想いが湧いてき過ぎて、俺は壊れてしまうかもしれないな……」
だから一人で充分だと、低下し始めた意識レベルそのまま、半ば無自覚に唱えてから、愛しい赤の機体の腕に口付け、頬を寄せる。頭上でひゅっと吸気の乱れる音が鳴り、次いで、ああもう、とうめくような声が落ちた。
「そういう可愛いことは、仕事が終わって部屋に帰ってからしてくれよ」
「引き受けたのはお前だろう。俺の仕事はもう終わったんだ」
ちゃんと監視してろよ、とうまく回らない舌で釘を刺したのがおかしかったのか、笑い混じりに返事があり、身じろぎで傾いだ背を支え直された。
「じゃ、後は任せて寝ちまってくれ」
「ん……もう少し……」
強制的なスリープ移行時はともかく、平常時であれば、ロボット生命体の就寝にも段階がある。全身の機器や回路の反応を確認しながら、少しずつシステムを落としていくのだ。その際に流れる独特な波形の信号、一種のノイズでありながら、どこか心地よくもある意識の揺れが、人間の感じる眠気と同質のものであるのならば、自分たちの眠りも科学的に定義されているほどはっきりとしたものではないのかもしれない。
一夜のうちに望まぬ覚醒と眠りをくり返していた頃は、そうした迂遠な工程がわずらわしかった。安全のためとわかっていればこそ無視もできず、余計に心身を尖らせてしまい、結局無駄な時間を費やしてしまう。
けれども今は、もう少しこのまどろみが長ければいいのにと、まったく反対のことを考えている。この、かつての夜に比すればまさしく夢のような、幸福な時間を離れて、眠りに落ちてしまうのが惜しい。
「インフェルノ……」
ああ、でも。
「いいから寝ろって。また明日聞くから」
そうだ。この夢は、明日も、あさっても、何度目覚めても、ずっとここに、彼と重ね合わせたこの手の中に、あってくれるのだから。
「おやすみ、アラート」
「……おやすみ、インフェルノ」
(何頭の羊の群れも、故郷の風景もまるで目じゃないくらい、お前はその存在ひとつで俺に安心を与えてくれる)
低く身の内に沁み入る声と、頭部のセンサーに落とされたやわらかな口付けの感触に優しく手を引かれるようにして、明日へと続く幸せな眠りに向かい、アラートは静かに意識を手放した。
それから数日が経つ頃には、人と機械の眠りにまつわる話も基地ではとんと聞かれなくなってしまったが、その丸く愛くるしい見目にはいささか似つかわしからぬ猛々しい業火の名をひそかに与えられた羊は、サイバトロンの誇る厳格な保安部長の部屋、寝台の頭の片隅に、独り寝の夜を慰む友として、今日もちょこんと身を据えている。
Fin.