大気はあの日の戦場ほどには澱んでおらず、風も荒れていなかった。天界で見るそれよりも色薄く熱のない陽が雲に照り返り、時折その切れ間から遥か眼下の無彩の地が覗く。
 霧の向こうに姿を消した黒の塔を背に、高く飛び続けた。行くあてはもちろん、当座の目標すらなかった。ただ闇の気配の少しでも浅いほうへと向かって翼の舵を取り、力の続くまま羽ばたいた。
 昔から空を飛ぶのが好きだった。まだ年端の行かない子どもの頃、世話人の目の離れた隙に天宮を飛び出し、雪積もる天の峰に沿って渡りの鳥たちと並び一昼夜飛び続けたこともあった。誰よりも高く、誰よりも速く飛べる自信があった。
 だが今の自分には、共に遊んでくれる鳥たちも、血相を変えて探しに来る兄弟たちも、彼らの家に手を引かれ帰る家もない。速く飛べるからといってそれが何になると言うのだろう。いずれ翼は力を絶え、尽くことを知らぬ空の中に朽ち落ちるだけだ。
 そこまで考えて、ふとあの窓を蹴った理由の一端に思い至った。
 そうだ。自分はこの空を飛んでみたかったのだ。
 今己が身を置く異界の地を、隠された真実の世界を、この目で見降ろしてみたかったのだ。


 どれほど飛んだのかはわからなかった。
 紅く陰り始めた陽が左手にぼやりと浮かんでいる。身の下を流れていた灰色の雲が途切れ、空から見通せるようになった地上に、町なのだろうか、建物が並び、集落を成している様子が目に入った。道を行く生き物の影も小さく見える。空中で静止し、しばし思考を巡らせてから、レイは一度地上に降りてみることに決めた。
 翼をたたんで集落の外れに降り立つ。町の名を示す札も門もなく、くすんだ色の煉瓦や石で造られた家が雑然と立ち並んでいる。ゆっくりと足を踏み出し、首を回してその様子を眺めながら歩いていくと、道端に獣人が腰を下ろし、長いパイプで煙草を吹かしているのに行き会った。獣人と言っても、形からそう判ぜられるだけで、服の外に見える身は全てが骨でできている。牙の並ぶ口から吸いこまれた煙が目の穴から抜けて空にゆらゆらと立ち昇っていく。
 横で足を止め、少しためらってから声をかけた。
「あの」
 獣の頭骨がちらりとレイへ向く。言葉を続けようと息を吸ったところで、しかしその顔は興味なさげにまた正面に戻った。煙が牙の間からひゅうと吐き出され、それきりこちらに応えは返らなかった。あまりにも自然なその所作に気圧されて二の句を継ぐこともできず、レイは無言でその場を離れ、また歩き始めた。
 町の住人は人に近い身体をした者もあれば、魔族のような異形を持つ者もおり、多様な姿をしていたが、みなレイを遠巻きにしている点では同じだった。隣に至れば目がひょいとこちらを向き、行き過ぎた後にひそひそと囁きが交わされ、突如住みかに現れた天の士の姿を珍しく思い、ひそやかな関心を寄せている様子はうかがえたが、ただそれだけだった。
 誰に何を訊ねることもできず、居心地の悪さを抱いたままレイは町を歩いた。奥に進むにつれ道は次第に細くなり、道脇の建物も家の体を成さない洞穴じみた物が増え始めた。あちらこちらから黒煙が立ち昇り、澱んだ風が足元を流れている。暗い町並みの中でレイが身にまとう大気だけが、我知らず淡い白光を放って見えていた。
 正面にぬぅと巨体が現れたのは、そんな裏町に入ってすぐのことだった。
 レイは足を止め、脇道から歩き出てきた影を見上げた。ただれた皮膚、崩れた貌、太く長い手足。表通りにいた町の住人たちとはやや毛色を違える鬼の姿を持ち、また、身に抱く力の質もわずかに異なっている。それはどちらかと言えば、魔族に近い存在であるようだった。
 鬼は一人ではなく、同じような姿を持つ数体がまた後から現れた。そのうちの一体が、道を譲ろうと脇にのいたレイの姿に気付いた。
「ん? なんだてめぇ、新入りか?」
 吐き落とされた嗄れた声もが、戦場で相対した魔族たちのそれと同じ響きを持っており、レイは不快な記憶に翼を震わせた。
「おい、そいつ四つ羽だぜ」
 上がった一体の声に、ほかの鬼がほぉ、と息を鳴らす。
「また上物が流れてきたもんだ。どっからか逃げ出してきたのかァ?」
 品定めをするようにじろじろと不躾な視線で見下ろされ、無視されるよりもまだ苛立ちを覚えた。無言で脇を行き過ぎようとし、
「お、なんだぁ? 待てよ、おい」
 巨体に歩みをはばまれ止まる。
「どけよ」
 反射に険こもった声で言うと、一瞬間があり、やがて、ぎゃはは、と嘲りの色を宿した高笑いが上がった。愉快げに鬼が言う。
「どけ、と来たもんだ」
「いいねェ、跳ねっ返りも嫌いじゃねぇぜ」
 そしてまた笑いが上がる。レイは剣の鞘を腰に持ち上げ、次に侮辱の言葉を投げられたなら抜剣しての威嚇も辞さない、と構えた。
 と。
「こいつ、お仲間の鳥を助けに来てやったんじゃねぇかァ?」
 聞き捨てならない言葉が流れ、レイは声を発した鬼の顔を瞠目して見返した。その仕草を見止め、牙の突き出る口がにたりと哂う。
「当たりか? お探しの鳥なら向こうにいるぜ。オイ、誰か連れてきてやれよ」
 言われて一体の鬼が脇道に消え、すぐに戻る。その手元に見たものにレイは息を呑んだ。鉤爪に掴み上げられていたのは、紛れもなく、あの清浄の地の住人、我が同胞たる一人の天使だった。
「な……」
 信じがたい光景に首を振る。気を失した天使は、もはや服とも呼べない破れた布切れしか身に着けておらず、長く伸びた金髪と背の翼はぼろぼろに枯れ朽ちている。肌には痛々しい傷が古いものから真新しいものまで幾本も刻みこまれ、その身体全体が、血と泥と、つい今しがた吐き出されたのだろう白い精にまみれ、無残に汚れている。
 眼を伏せた顔に見憶えはなかった。まだ若く、隊に属する兵ではなかったのかもしれない。だが白翼を背に負う同胞の痛ましい姿は、たとえ知己でなくとも、声無くすほどの衝撃を身に与えるには余りあるものだった。
「何年前だったかなァ? おおかた魔界の牢で捨てられたんだろうよ。カワイソウだから、この町で飼ってやってるのよ」
 もうほとんど壊れかけだけどな、と鬼が言い、痩せた天使の顔を平手で打った。ひくっとその顔が反応して目蓋が開き、我が身を掴む鬼の姿を目にすると、嘲笑を張った相手へおもねるように、へらり、虚ろな笑みを浮かべた。
 怒りと強烈なおぞ気が身を走り抜けた。矢も盾もたまらず、腕に天使を掴み上げた鬼の前に走り出た。
「なんだ、文句があるなら言ってみな」
 レイの気勢にたじろぐ様子もなく、にやにやと笑いながら声を落とす。
「それとも、てめェも可愛がって欲しいってか?」
 言って伸ばされた腕を、閃光が絶ち割った。
「っぎゃああああっ!」
 耳障りな叫び声とともに鮮血が噴き上がる。レイは前へ放り出された天使の身体を受け止めて素早く脇に寝かせ、双剣を抜いて構えた。
 憤怒よりもむしろ心は忘我の状態にあった。剣を握る手ががくがくと震えた。
 目の前に突きつけられた真実は、盾のない身ひとつには重く、昏く、残酷に過ぎた。
 憤激に眼を燃やす冥府の鬼たちがまわりを囲み、手にした武器を構える。見目は同じでも、一体一体の持つ力は並の魔族の比ではない。朝晩欠かさず剣を振るって鍛錬に精を出していた時分ならいざ知らず、何日も寝台に伏して力衰えた今の身で、果たしてどれほどの立ち回りを演じられるのか定かではない。翼を広げ、空へ逃げを打ってしまうのが最善の策であるとは理解していた。
 だが。
「てめェ」
 鬼がレイを囲む輪をじりじりと狭める。
「身の程がわかってねぇみてぇだなァ」
 落とす言葉に、いや、とゆるり首を振った。
「今、わかった」
 だが――ここで背を向けてしまえば、その闇の深さに耐えられず、心が割れ砕かれてしまうだろうこともまた、わかっていた。
 相手を測る一瞬の間が過ぎ、怒号とともに鬼の腕が振り上げられる。レイは重い攻撃に備え、重ねた双剣を前に構えた。
 その時だった。
「おい、待て!」
 高く上がった一体の声とともに、ぴたりとほかの鬼たちの動きが止まった。驚愕に見開かれた眼がレイに視線を注いでいる。剣を構えたまま怪訝に身を止めていると、揺れる声が場に落ちた。
「鎌の紋……『影の王』の刻印だ」
 はっとして自分の身体を見下ろす。右の胸元、首まで肌を覆う戦着の服地を透かして、二本の鎌の紋様が表に浮き出し、黒い輝きを放っていた。
 ちっ、と舌打ちが落ち、鬼の足がレイから離れ始める。
「おい、引き上げるぞ。さすがに黒の塔の大将の持ちもんには手が出せねぇ」
 命は惜しいからな。憎々しげに言い捨てて、冥府の鬼たちは呆然とするレイを背に残し、裏町のさらに奥へと去っていった。
 剣を鞘に納めることも忘れ、レイはしばし声なく立ち尽くしていた。と、その頭上に、不意の声が落ちた。
『疾く去るがいい。鳥よ』
 顔を上げ、あたりを見回す。人影は見つからなかった。しかしそこに巻く力の波で声の主がわかった。それは、道の端に立った年経た一本の木であった。
 木に正対したレイに向かい、言葉が続く。
『ここは流民の場。在るのは魔に近き者と、力無くした者と、その骸だけ』
 淡然と語る老木の声の向こうから、入り組んだ路地を渡り、鬼の野卑な叫びと、虐げられる者たちの苦悶の――あるいは狂った悦びの声が聞こえてくる。
『天の者よ。冥界は深き闇の地。冥界の住み人が認めるのは、己と、己ではない冥府の他者。あとは全て、ただの「物」だ』
 木の冷厳とした囁きに、嘘だと声を上げることも首を振り立てることもなく、ただ小さく頷きを返した。眼前に突きつけられた真実を振り払うことは、もはやできなかった。
 ふらりと歩を進め、道脇に倒れ伏した天使の前にしゃがみ、そっと肩をゆする。眼が薄く開いた。己と同じ、しかし苛烈な被虐のために濁り果てた、翠碧の瞳。
「大丈夫か? 俺は天軍第二中隊の長、レイシスだ。わかるか?」
 口を寄せ、耳に声を送りこむように言うが、反応はない。最後の灯の尽きたその身も心も、いかな施療を尽くしたところでもはや救いようがないことはわかっていたが、差し伸ばした手を離すことはできなかった。
 湿った風が過ぎ、木がざわめく。
『無駄だ。天の子よ。お前たちが暮らすには、この地は闇深すぎる』
 傷付いた天使の口がかたりと開き、
「殺……して」
 同胞の腕の中にあることを知らぬまま、ただ願い紡いだきり、目蓋とともに閉じた。
『主があるなら帰るがいい。白き鳥よ』
 無情の声が、断然と落ちた。

 レイは両膝を地につき、片方の剣を鞘に納め、片方を身の前に構えた。口を開き、天よ、と舌に言葉乗せようとして、やめた。
「冥府の空よ。その胸が遠き故国の空に続いているのなら、この者にどうか、安らかな眠りを――」
 祈りを紡ぎ、剣の切っ先を天使の胸に突き通す。こぽ、と口から血が溢れ、貫いた剣の先からその身体が融け崩れて、淡い光とともに消えた。
 がくりと脚が折れ、砂塵立つ地面の上に座りこんだ。剣を離した手を胸元に寄せ、今はなんの輝きも乗せない白の服地を、震える指で強く握り締めた。



 10

「レイ!」
 地上の門を抜け、塔の中に足を踏み入れたレイを最初に迎えたのは、小さな住人たちの驚喜の声だった。
「もう、ホンットに心配したんだから! ねェ、どこに行ってたの? ケンカとかしてない? その格好、ここじゃすっごく目立つんだからね。……レイ?」
 口々に語りかけてくる声を横耳に、レイは黙って顔を俯けたまま足早に歩を送って、地下へ続く階段を下りた。鉄の扉を開き、追う呼び声をさえぎって後ろ手に閉ざす。そのままずるずるとその場に崩れ落ち、闇落ちた部屋の中、冷たい壁を背に膝を抱えて座り込んだ。脚上に組んだ腕の中に顔をうずめ、全てを拒むように翼で自分の身体を覆い隠した。
 闇の中にいくつもの言葉と心が浮かび上がっては音なく消えていった。身の震えが止まらなかった。
 眼を閉じても眠りは訪れず、いつしか朝を迎えていた。


 廊下を奥に進み、開け放たれた扉の前に足を止める。部屋の主はこちらに背を向けて机の前に立ち、手にした本をめくり眺めていた。来客に気付かぬわけではないだろう黒衣の背に呼びかける代わりに、開いた扉をこつこつと指で叩いた。
 本が机に置かれ、その身がゆっくりと振り向く。交わした視線に驚きの色はなく、代わりにふと笑みを浮かべた口が、低い声を鳴らした。
「よく眠れたかと言うつもりだったが……訊くまでもないようだな」
 あの部屋の空気は天界とはほど遠い。お前には向かなかったな。悠然と男は言う。
 レイは声も頷きも返さず、短く訊ねた。
「入ってもいいか?」
「ああ」
 承諾を受け、部屋に踏み入り、扉を後ろに閉める。そこから足を動かさぬまま俯いたレイと部屋主のあいだにしばし沈黙が流れた。
 ちらと相手を見上げる。わずかの身じろぎもない立ち姿を目にしてひとつ深い息をつき、俺は、と決意の声を発した。
「俺はたぶん、……お前に礼を言う必要と、謝る必要が、ある」
 強い声音ではなかったが、部屋ひとつに鳴り渡るには充分だった。
「それほど格式ばって言われるようなことはないと思うがな」
 むしろ、無体を強いたのは私のほうだからな、と笑う男に首を振り、言葉を続ける。
「いいから、独り言だと思って聞けよ。……確かに、お前のしたことに全面的に頷いてやろうとは思わねぇ。勝手だし、人の話全然聞かねぇし、妙なことばっかりしてきやがるし、余裕ぶっててすっげぇむかつく。そんな汚い言葉使うなって兄貴たちに言われてっけど、むかつくもんは仕方がない」
 何より今さら遠慮して言葉を選んだところで同じだろう。ずけずけと並べて顔をうかがうと、気に障った様子もなく、興味深げにこちらの話に耳を傾けている。
 ふうと息を落とし、それでも、とレイは言う。
「それでも、俺はお前に助けられた。……それは、確かなんだ」
 男は魔界の牢獄から圧倒的な力でもってレイを連れ出し、有無も言わせず手元に置いた。その思惑と勝手さはともかく、確かに自分はその行いによっていつ果てるとも知れない恥辱から救い上げられ、深い傷を癒した。思い返してみれば、あの「処刑台」での忌まわしい加虐を中断させたのも、大いなる影の力だった。
「もし、あのままあそこにいたら――」
 呟いて、裏町で出会った同胞の虚ろな笑いを思い出す。もし男が牢獄を訪れず、この身が魔族の手に堕ちたままであったなら、全てを失い闇に心をゆだねたあの天使の姿は、己のものであったかもしれない。
 震える手を握って正面から男の顔を見据え、
「だから、お前には礼を言う」
 毅然と言い落とし、深く一礼をした。
 ふっと部屋に笑いの息が鳴る。
「構わん。お前の言うように、勝手にしたことだからな。礼を言う必要はない。――では」
 頭を上げるようレイを促してから、男は問いを発した。
「謝罪とは、なんだ?」
 肩が跳ねる。顔を上げ、また落とし、目を伏せて、ぽつり、答える。
「考えなかった、から」
 ほぅ、と意外の色をにじませる声が返る。顔を床へ向けたまま、レイは続けた。
「俺は、世界を自分の足元からしか見てなかった。天があって、地があって、魔がある。魔族たちは残虐で心のない、剣の相手とするべき敵で、尊ぶべきなのは天主の心、理と聖とほころびのない秩序だった。力は弱い者のために振るわれるもの、知恵は平穏をもたらすためのもの、皆に分け与えられるものだった。翼と剣があれば、何にも縛られずに、全てに立ち向かっていけると思ってた」
 しかし真実は覆された。魔のさらに深きにもうひとつの世界があり、力持つ禁樹はその種を隠し残されていた。
「翼も剣も折られて、何にも頼ることのできなくなる日が来るなんて、思ったこともなかった。自分が物と同じように見られる世界があるなんて考えたこともなかった。他者をかえりみない世界が、闇と混沌に覆われた世界があるなんて」
 理解を超えた、信じがたい在りようの地。そこに暮らす者たち。それでも、
「それでも……その世界は正しいんだ。正しいものはこの世にたった一つで、それは自分の信じる正しさだと、そう思ってた。けど、違う。とんでもない世界だ、理解できない世界だと思う。それでもここでは、それが正しい世界なんだ。俺は」
 俺は、真実なんて何も知らなかったんだ――
 最後の言葉はほとんど慟哭だった。いつの間にか頬を幾すじもの涙が伝い、床にはたはたとこぼれ落ちていた。声を紡ぐたびに己の驕りが露わにされるのを感じ、ただただ情けなさばかりが身につのった。生命の樹の秘匿を天主の不実ともみなした自分は、きっとその心の半分をも理解していなかったのだ。
 そして、自分は――
「真実を」
 レイの自責をさえぎり、低い声が鳴る。
「全てを知る必要が、どこにある?」
 涙の伝う顔をゆっくりと上げる。口の端から笑いの影を消し、影の王ヴァルナードがその虚眼でレイをまっすぐに見据え、静かに語っていた。
「天には天の、地には地の、魔には魔の、冥府には冥府の真実と秩序がある。確かにお前が今までに知り、信じていたのは、世の全てを語るものではない。しかし、それは虚でもない。真の諸相のひとつだ。天があり、地があり、魔があり、その深淵があって世界は成り立つ。それぞれの真実とともに世界はある」
 世とは真と虚の皮膜でできているものだ、と闇の地の王は言う。
「お前が愚かだと言うなら、地界の人間たちはどうだ? 己の世界の真実さえ知らん。魔族どもが世の真の全てを知っていると言えるか? 世に生きる者は、自分の立つ世界にさえ身を馴染ませていればいい。まして、お前のような天の住人は、完全なる秩序のもとに生まれたがゆえに、闇と混沌の真の下で生きる術を知らない」
 その言葉に、レイはあの闇深い黒の間で男の紡いだ声を思い出した。
『この地では、何かに所有されていたほうが身を処しやすい。ことにその身体ではな』
 剣を折られ盾を失くした身では、魔の者たちの振るう暴虐にも、冥府の闇の深さにもとても耐えられない。その真実の昏さに向かい、羽ばたくことはできない。ゆえに天の士たちは、魔を、その深淵の闇の地を忌避し、身から遠ざける。
 そう語り、ふっと、男はまた笑みを口に乗せた。
「だがお前は、籠に入る鳥ではないようだな」
 傷付き翼を負って地に落ち、度し難い恥辱を受けてあざ笑われながら、身に負う光を絶やすことなく、昏い地の下にあってなお、その眼は空を求めていた。自ら真実に向かい、涙を流し叫びながら、心壊すことなく耐えてみせた。
 静かに笑い、男は言う。
「お前は、私がこの永き生のうちに目にした中で一番うつくしいものだ。真実を知り、それでもまだ飛ぼうと言うなら……塔の窓は開いている。内にも、外にもな」
 レイは声を失ったまま、ただその顔を見つめていた。返す言葉が見つからなかった。
 ところで、と薄い笑みのままヴァルナードは続ける。
「真実を知らなかったとお前は言ったが……『考えなかった』ではないな」
 あ、とレイは声を漏らした。謝罪すべき理由として述べた、己のもうひとつの非。
「何か違いがあるのか?」
 問われ、また目を背けかけるが、首を振って想いを決し、口を開いた。
「お前、が」
 揺れる声を叱咤して、告げる。
「お前が、なんで、こんなことするのか……自分ばっかり、正しいと思ってた、から」
 今置かれた場所を、立場を、全て呪うべきものとみなしていたから、何かを認めようという思いを抱くことすらなかった。自分に相対する男の姿勢の是非どころか、その行為そのものを端から捨て、「わからない」と、まじないのようなその言葉ばかりを貼っていた。
「何故、という問いには答えたはずだが」
「だから、……からかわれてるとか、なんか違う、馬鹿にされた意味なんだろうとか、思って」
 考えなかったんだ、と小さくこぼす。
 天に育った者の自然として、レイ自身は他者の思いを慮ることのできる心を備えていたが、目の前の男が示したような言葉とは、まるで無縁に生きてきてもいた。何より、初めの印象がその後の全てに幕をかけてしまっていた。
 しかし、考えなかった、あるいは、強いて考えまいとしていた心の底、無意識の部分では、わかってもいたのだ。
 毒の開放、食事、話し相手、剣と服。冥府の鬼たちを退けた刻印。男の向ける行為も言葉も、自ら語る通りに勝手ではあったが、いずれも決してレイを傷付けようとするものではなかった。それどころか、確かな優しさを――天の同胞たちが寄せてくれていたものと似た、しかしどこか根を違える優しさを、男は自分に与え続けていた。
 そして今、異界の王は、居所の窓を開け、一度はその手に堕ちた自分に空を示した。
「その……あ、有難う、な」
 震える唇で、言葉を紡ぐ。
「けどやっぱり、俺は、この世界では生きていけないと思う」
 塔の主の言葉に甘え、窓を蹴って空に飛び、闇が染みる前に戻って翼を休め、また飛び立つ。そうして日々を送れるほど、この身と心が強いとは思わない。
「それがこの世界の秩序なら、物でも、奴隷の扱いでもいい」
 だから。
「だから、お前さえいいなら、ずっとここに置いてほしい」
 ほつり、声が落ち、数秒の沈黙が過ぎた。
 眉を寄せ、駄目か? と上げた目の間近に、ヴァルナードの顔があった。
「う、わ」
 驚いて引きかけた腰を掴まれ、いつの間に近付いたのか、半歩も置かず立つ身体にぐいと引き寄せられる。
「断ると思うのか?」
 耳元に低い囁きが鳴り、深く抱きすくめられた。肩に額を押し当ててもがきながらも、あたたかい、と思う。
 裏町で若い天使の胸に剣を突き立ててその最期を看取り、知らしめられた真実に翼を震わせながら思い出したのは、口の端に不遜な笑みを張った銀の髪の男の顔と、その低く静かな声と、塔を発つ前夜、寝台の中に知った、他人の腕のあたたかさだった。
 初めにそれを自覚した時、レイは首を振り立て、己の心を否定した。牢獄での絶望から救い上げられ、一時の情を覚えているだけだ。処分の直前に拾われた獣が、差し出された手に反射のようにして懐くのと同じようなものではないか。
 だが、と胸を反問が揺らす。
 だが――そうして情を寄せることの何が許されないのだろう? そのきっかけや成り行きは、確かにある種の歪みをはらんでいたかもしれない。しかし、そうして抱く情を、その想いそのものから歪んでいると言うことが、果たしてできるのだろうか?
 その腕は、言葉は、あれほどに苛立ちを覚えた笑みさえ、示された心を真と知ってしまった身にはあたたかい。たとえ血が闇に穢れ、故郷の教えに背くことになろうとも、しばしこの場所に羽を休めたいと願うほどに。
 背にする扉の向こうで少女たちのはしゃぐ声が遠く聞こえた。いつから聞き耳を立てていたのだろう。我知らず笑みが漏れる。
 この地には天の清浄も大いなる秩序もない。だが、この穏やかさの中に身を置くことができるなら、まだ自分は自分のまま生きていける。
 そうして安息の場所を得たレイの胸に湧き上がったのは、しかしあたたかさだけではなかった。ほっと息をついた途端、これまでの言動と、今この部屋で交わした言葉がない交ぜとなって身の内に揺れ、不意に強い困惑が立ち現れるのを感じた。
「も、もう離せよ」
 胸に手を突っ張って離れようとする。つと首を起こした男の非対称の双眸に見下ろされた瞬間、困惑が極みに達し、ものが言えなくなった。力の強い獣を間近にした時のような、畏れにも似た、しかしより高い熱をはらんだ感情に全身を捕らえられていた。
 その困惑に名を与えることはレイにはできなかった。いくら必死に考えを巡らせてみても、明瞭な答えに行き当たらなかった。天の都で全てのものに変わらぬ情を注いできた幼い天使の心は、何かひとつのものに特別に憧憬を抱き、焦がれることなど、今日まで一度もなかったのだ。
 大窓の向こうに薄い明かりが差している。濃い夜闇の中まで続くこの地の長い一日は、まだ始まったばかりだ。
 混乱に肩を震わせるいとし子の想いを知ってか知らずか、冥府の大いなる影の王は、ほの赤く染まったその頬に、羽触れるかのごときやわらかな所有の口付けを落とした。


Fin.

←BACK

NOVEL MENU