The end of the Prelude
確かに美しい、と思った。初めはただそれだけだった。
無論、『天のいとし子』の名はこれまでにも耳にしていた。双剣を振るう白妙の騎士。天の主の秘蔵の寵児。物々しい二つ名とともに、そうして百年ほど前から囃され始めた言葉にも、影の王ヴァルナードはさして興味を寄せなかった。
天の住人たちはみな美しい。それはもはや言うにも及ばぬ自明の事実だ。全き清浄の地に生まれ育った、穢れを知らない鳥の姿は、魔の地においてもその深淵たる冥界の地においても、昏い欲をかき立てずにはいられぬ存在であるのだ。
哀れにも魔の闇に堕ちて流れ来た白の鳥に鎖をつけ、我が手に飼いひけらかしている冥府の住人の姿を、ヴァルナードは幾度も目にしたことがある。
幾十年かぶりに天魔の大きな戦があると噂が流れ、久しい見もの、と他の王たちとともに見物をすることとなった。これほどに大きな戦場ならば参陣するだろう、と戦の幕が落とされる前に語り交わした通り、名高き『天のいとし子』は魔鏡の向こうにその姿を現した。
口々に賛辞を贈った王たちに同じく、なるほど美しい、と思った。疾風とともに降り立った四つ羽の天将は、自信と誇りに満ちて輝き、速き翼とたぐい稀なる剣の腕をもって魔族たちを討ち伏せていく。並の天使たちの完全なる美とは色を違える、しかし確かな美しさがその身にはあった。
戦況が一変し、傷付いた白の天将は魔族の手に堕ちて、粗悪な処刑台での拷問が始まった。陰惨な光景とは言え、珍しいものでもなかった。魔の鬼どもの残忍の性は、何百何千の年向こうからその血に染みついたものであり、迷い込み捕らえられた天使や人間たちが絶えずその贄となっていた。
『天のいとし子』は剣を落とし翼を折られ、見るも無残な姿をさらし、その身に容赦のない責めが始まる。常ならばそこで閉じられたも同じの演幕が、だがその時、揺らぎを見せた。淫らな熱に呑まれ激痛に悶えながら、白き将は己を保ったままでいた。
魔鏡を通して影を伸ばし、魔族たちを追い散らしたのは、後の再慮はともかく、その時は気まぐれのつもりでいた。天将は処刑台での責め苦から解放され、ヴァルナードはその身を追って魔界の牢獄を訪れた。
そうして三日ののち、牢の格子の向こうに見下ろした天の子は、――それは確かに驚くべきことであったが――心を壊してはいなかった。どころか、翼を折られ、四肢を縛められた身で強い威嚇を示し、太刀打ちできる相手でないことは理解しているだろうヴァルナードの顔を、きっと睨み上げてみせた。
その眼に宿る強い光を覗いた瞬間、正しく心底から、その鳥をうつくしいと思った。
この手に得たいと、そう思った。
理屈をかわすのは不得手らしく、舌先で軽々と説き伏せ、まだ陽の入りきらぬうちに自分の寝台に伴わせた四つ羽の天将、『天のいとし子』・レイシスは、不承不承の表情で今ヴァルナードの腕の中に納まっている。
眉間に皺を寄せるのが習い性になっているらしい。その身に目まぐるしく降りかかった出来事を思えば妙な様子とも言えないが、不満げな顔ばかりさせるのも面白くはない。ほぐしてやろうと頭を引き寄せ眉間に口付けると、唇の下でさらに眉が寄り、笑いに誘われた。
得たいと思ってその身を腕に引き上げた時には、おそらくほかの冥界の住み人たちと同じように、枷をはめて身体を縛り、手の内に閉じ込めて、全てを我が物としようとも考えていた。闇深い占有の慾は冥界に生きる者の自然の性であり、異端と言われるヴァルナードとて、それに反することはない。
清浄を尊ぶ身体を思うままにねじ伏せて、泣きむせびながら身も心も他者の物としていくのを見るも少しの慰みだろうと、そう思って腕を取った。だが、すぐにその思惑の間違いに気付いた。
あのまま牢獄に押し込められ辱めを受け続けていたら、自分はほかの天使たちと同じように心壊していただろうと、レイは語った。ヴァルナードもそう思っていた。だからこそ、ほかの者に壊されてしまう前にと、自ら赴いてその身を救い上げようとしたのだ。
しかしこうして鳥を腕に抱いた今、それは万にひとつもあり得ないことだと、そう自分は断言できる。
気高き天のいとし子は、己以外の何者に屈することも決して無い。どんな責めを受け、どんな恥辱にまみれようとも、この白き鳥は闇に染まり血に穢れることなく、己を己としたまま空を求め羽ばたき続けるだろう。
その事実に気付いて失望するよりも先に、今までにない昂揚に胸が満たされた。欲しい、と思った。戦場を駆け空を舞う猛きその身を、強い光をたたえたその眼を、何者にも侵されないその心を、その存在の全てを欲しいと思った。それは強烈な矛盾の念でもあり、と同時に、歪みないただひとつの望みでもあった。
今強いて手元にくくりつけても、本当に得ることはできない。その気高さと空を求める心を欲し、愛したなら、それが最もうつくしく在れる場所へ離してやればいい。心のまま羽ばたかせてやればいい。
一度この手の内にして甘い声で啼くのを知った身体に触れ、慾を注ぐのをやめることこそ考えなかったが、そうして、傷を癒させ、服と剣を与えた。自分が籠に納めぬとは言えほかの者の手に渡してやるつもりも毛頭なく、身を護る盾の代わりに、『影の王』の印章を刻んだ。
窓を蹴って遠ざかる翼を全く惜しまなかったと言えば、それは嘘だ。真実の重さに震えることとなるだろう清浄の姿を思い、その日は飽かず窓の外を眺めていた。夜更けに戻った気配を感じ、すぐその身を抱きに行こうとする慾を呑んだ。
昨日からの己を振り向き、苦笑を漏らす。あの天魔の大戦より始まった短い日のうちに、微塵にも予想していなかったことばかりが我が身に起きている。
涙の伝う顔を上げ、ここに置いてほしいと求める弱い声を聞いた瞬間、確かに自分の胸は歓喜に震えていた。
腕に抱き込んだ身体を撫で、顔に唇を降らせていると、レイはぱたぱたと背の翼を振り立て、抗議の声を上げた。
「もうお前、ごちゃごちゃしてねぇで寝かせろよ! 俺は眠いんだ。今日は寝る!」
一夜を徹した眠気の苛立ちに声を荒げ、目をこするその様子は、幼い子どものようにも見える。笑って耳に口を寄せ、
「今日は、ということは、明日は手を出してもいいということか?」
低く囁いてやると、がばりと上体が跳ね起きた。唇がわなわなと震えている。
「眠らんのか」
「……寝る」
見上げて訊ねると、ぶつぶつと不平をこぼしながら布団の中に戻る。きつく目を閉じ、語気も荒く「おやすみ!」と言い放った。粗野で跳ね返りの強い性格をしているが、育ちの良い真面目さと素直さが言動の端々に見え隠れする。
真実を知らなかった己を恥じ、涙を流していたが、天の主や他の高位の天使たちがそれを隠した理由が、ヴァルナードにはわかる気がした。世の穢れをことさらに教え、敢えてその純粋を翳らせまいとするほど、理を尊ぶ天の住人たちにそんな独善を是とさせるほど、慕われ慈しまれていたのだ。
幼い頃にそうされていたのか、翼を指で梳かれると表情がゆるむことに、自身は気付いていないだろう。
翼を取ろうと手を伸ばす。と、腕の下で片目が開いて翠碧の瞳を覗かせ、
「お前の物なんだから、好きに扱えばいいだろ」
ぽつりと呟いて、枕に顔をうずめた。
手を止めて見下ろす。身を固く包む白の服地を引きはがしてしまいたい衝動に駆られたが、背を抱き込むのにとどめた。腕の中の身体はもう抗いを示すこともなく、すぐに寝息を立て始めた。
どんな扱いでもいいと語った通り、己はヴァルナードの虜囚であり所有物であると信じているのだろう。それは間違いではない。野に独りでいるより、影の王たる自分の物であったほうが冥界での分は高い。それは驕りでも自惚れでもなく純然たる事実だ。だが天峰で自由に空を翔けまわっていたのだろう身が、その遇を受け容れるとあっさり口にするのは、いささか突飛でもある。
まだこの愛しき鳥は、自分の新たな主の怖さをわかっていないのだろう。
何にも執心を示さないなどと噂されているようだが、それはむしろ逆の謂いで、おそらく自分は誰よりも慾が深いのだろう。並のものでは満足を覚えることができないのだ。そうして得たものは、懐に抱き込んで全霊で愛し、ほかの何にも触れさせようとは思わない。顔に穿たれた虚眼よりもなお深く濃い闇を抱くこの心に触れれば、鳥はそれだけで気を失するのではないだろうか。
そしてまた、この幼い天使は、己自身のこともわかっていないのだ。その身がどれほど他者の情欲を駆り立てるか、まとう光がどれほど眩くうつくしいか。
どれほど自分が冥府の影の王に焦がれられているのか、わかっていないのだ。
白い頬を指で撫でる。古傷は刺激に過敏に応え、伏せた金の睫毛がふるりと揺れる。
「……部屋を用意してやらねばならんな」
ずっと臥所を共にしていれば、己を御すことができなくなるのもそう先ではないだろう。いずれ帰結は同じだとしても、急いて要らぬ恐怖を与えることはない。
少しずつ教えてやればいい。滾つ心も、穏やかな口付けも、甘美な熱に身を任せる夜も、全て。
時はまだ、永いのだから。
Fin.