深焔
「――む」
「おや」
「あら……随分お久しぶりではなくて」
岩山を眺める城の一室、扉の開く音に振り向いた冥府の王たちは、戸口に現れた同輩の姿を見て一様に意外の声を漏らした。
半蛇の女王の言葉に否のそぶりも応のそぶりも返さず、するり、闇色の衣が床を滑る。頭から足先までを覆う厚い長衣の陰、白面が裂けた笑いを顔に貼り付けている。
肩にかけた大刃の鎌を我が身の内に引き戻し、空いた椅子に腰かけ、『死神』は面の下から言葉を発した。冥府の主にごく近い、低い声。
「悪いが今日は人の身を作るのが面倒だ」
進めてくれ、と言ってつと上げた広口の袖から、異形の腕が覗く。その奥には、ただ底知れぬ闇ばかり。墓穴深くに封ぜられた屍霊の立てる呼気のごとく、ゆらりゆらり、さざめいている。
昔日の禍の目覚めから十日余り。
黒の塔から鳥が故郷へ飛び立って、三日目の夜だった。
「そういえば、今夜は満月でしたね」
夜に浮かぶ真円を酒盃の面に映し、山羊の王・フレッグがふと呟く。キシュナが倣って大窓を仰ぎ、白い月だこと、と感懐を漏らす。
「あの子を思い出すわ」
天の都の綺麗な鳥を。続く言葉に鎧の王・オーヴェンダークががしゃりと兜を揺らし、同意の首肯を示した。
天頂に座る白金の月。さやかな光がいまだ溶けぬ山肌の雪を照らし、夜風に輝きを散らしている。岩山を包む一面の夜闇は白に霞むことなく、月影受けてなお色濃い。
まるで、会合の後の酒席にちらとも興寄せず、今宵は尽きたとばかりにたちまち去った黒衣の影と、その懐にあった天の愛子を見るようではないか。
「今日の死神どのには久々に寒気を覚えましたよ。さすがは玉眼王に最も近しき方と言うべきか――。あの衣の下にどれほど深い影を抱いておられるものやら。並の者が覗けば一瞬に狂ってしまうでしょうね」
愉快げにすら響く声で言う。
「うちの侍女《まかだち》たちが惜しむでしょうよ。近頃は良く顔を見せていたのに、また影の君は面をお着けになった、とね」
蛇の女王の呟きに、違いない、と黒鎧の将が笑いで応ずる。
「しかし、あの装いはだいぶん前からされていたのでしょう? 確か初めてお会いした時もあの姿でしたが」
「うむ。あれが周りよりまだ充分若い時分からだ。今日ほどの理由もなく、ただ戯れにな」
社交無精の策でもあろうが、と頷き語るオーヴェンに、キシュナが唇を妖艶に曲げて笑った。
「名にし負う冥府の死神を『あれ』と呼び捨てられるのは、地広しとも将軍と玉眼王だけでしょうね」
「やも知れん。あの頃に比べれば、世も変転した」
地や魔は言うに及ばず、光も闇も、流るる時を抱くのであれば、何ひとつ変わらぬという理はない。
冷えた風に入り混じり、大いなる力の気配が鳴る。静かに遠く、しかしかつて多くの贄をその身に滅した、避けえぬ禍として。
仰ぐ空にただ浮かぶ、黒と白。寄せる声すら躊躇わぬばかりのその美しさが終滅の兆しであるのか、それとも変転の兆しであるのか、まだ知る者はない。
◇
それはまだ光が今ほどの秩序を得ておらず、闇が今ほどの混沌を擁していない時代の一事である。
世を成す四相の一片、闇うずくまる冥府の地は原初の混迷に当座の幕を引き、力有る者たちの割拠乱立をもってゆるく編まれた均整の時、静やかに吹きしく安康の風の中にあった。
長者たちの一角は真なる闇の司たる玉眼の王の近傍に集い、おのずと築かれた居の連なりは、いつともなく『黒の城』の異名で呼ばれ始めた。漆黒の砦はいかな力にも揺らがぬ勢威を抱き、冥府の深淵に確と根を張っていた。
高みより眺める城は、いびつの環形を成す。城の芯たるべき王座は数条の歩廊のみを橋とし、外殻から半ば隔てられた場にあった。大いなる闇の力に惹かれながら、それ以上の恐れの念をもって近く遠く取りまく冥府の王の居室に、しげく訪う足は少ない。
その寡少な訪問者の姿もなく、ただ静けさだけが鳴る闇の中に今、ふっと、違和の風が過ぎる。
ひとつの、意思の気配。
中空に緑赤の玉眼が開かれる。我が形なき身のみが根を張るはずの場に、異質の気が浮かぶのを、冥府の王はそれまでにも幾度か感じ取っていた。が、ごくわずかな間の、ごくかすかな異は、しかと把握するに至るでもなく、外界の力の揺れとすれば充分に頷けるほどの、言わば前を微小な羽虫が飛んだに近い変状でしかなかった。今、この時までは。
何にも見止められることなく、恐らくは、在り始めてはや数十数百の日を送ったであろうその存在の確かなると、変状の所以を一度に悟り、全てを見通す玉色の眼は黒の間の一角に向いた。全域を覆う我が闇をするりと引いたその場に、異が、音なく在る。
『――姿を見せるが良い』
低く声鳴らす。王の闇の失せてなお、濃くとどまる形なき漆黒が、ゆらり、かすかに蠢き、可視の身を組み造り始めた。闇に近しく、しかし全くの同質ではない負の力。冥府の王はその存在を『影』と視た。
間の主に似た、黒の異形であった。王のそれよりも形薄く硬質な闇は、一度妖しの姿を取った後さらに収束し、やがて生身の人の姿を織り上げた。細身に黒の衣をまとう男。成年とも見えないが、過ごした日の短さを感じる幼さはない。銀の髪を頂く端整の顔の左、深い虚ろがはまり、闇の中に赤い点光が浮かび見える。強大な力を前にたじろぐこともなく、非対称の双眼が黙して前を見据える。
世に立って一年に満たぬだろう存在が、二つの相を苦もなくおのが身に統べている。それは潜む力の深さを証すものにほかなく、ふむ、とひとつ感心を示したところに、王間の口を抜ける足音が届いた。
重い金鳴りと床を滑る長衣の布擦れ、二種の音の主は、冥府にその名も高き武の求者、黒鎧の将オーヴェンダークと、双璧の名を成す知の求者、魔術師ナズラムであった。黒の間の常客である二人の長者は、冥王に辞儀を示す前に見慣れぬ人の影に気付き、足を止めた。
空の兜の下、ほう、と声が響く。
「我らの前に客があるとは珍しい」
言葉を受け、黒衣の若者は半身を返して二人の訪客に視線を移した。生身の欠けた大鎧を目にしても、異容の瞳が怪訝に揺らぐ様子はない。
『客ではない』
ほつり、冥王が声落とす。
「と、申されますと」
白髯の魔術師が闇を仰ぎ、問うのに、
『新しき者だ』
簡明に、答えがあった。
「新しき者」
語をくり返し、すると、この場で? と魔術師の訊ねる声に、緑赤の玉が肯定の瞬きを返す。黒鎧の将オーヴェンが興深げに笑いを立てた。
「成る程、客ではない。では王のご令息、とは行かずも――縁戚の君と言えようかな」
やも知れぬ、と応える王の玉眼が、黒衣の若者を正面に見据える。やがて、問いが鳴る。
『在り始めし者よ。その影なる身に名を持つか?』
新たな冥府の住人は身を取りまく『影』の衣を揺らし、数瞬の思考の間を見せてから、
「ヴァルナード」
――名に意味はない。お好きに。
そう、問われた声に似た低い音で返した。
至高の王と二人の長者の前、不遜と取れるまでの静かなふるまいに、オーヴェンが愉快の声を上げる。
「肝の据わった若人だ。王の膝元に生まれただけのことはある」
では我々も挨拶といこうか、と名乗りかけるのを、相手は「知っている」と告げてさえぎった。
「黒鎧の武神オーヴェンダーク。百識の術祖ナズラム。城に集ううちでただ二つ傑出の力と心得ている」
淡然と言う。オーヴェンは鎧を揺らし、ナズラムは長い白髯をひねり、それぞれに意外と感興の念を表した。人の身を治めているばかりか、己の立つ場の概況にすら理解を伸ばしている。自我を得て二日三日の者が成しうることではない。
この深い闇の地に生きる者の多くは、世に出でた瞬間から己のみを寄るべに立ち、過ごす。力ある者ほどことさらに他者の掌上にあることを避け、干渉を嫌う。しかし王の間に生まれたこの『新しき者』は、あえて今日まで至高の存在の下に身を沈め、理解を磐石のものとするまで能う限りの知識を集めていたと見えた。名を言い当ててみせた二人の長者と冥王が語り合う折々にも、黙したまま声を聞いていたのだろう。
「これは良い」
空ろの鎧が呵呵と笑う。
「久方振りに興ある変事よ。差しづめ、この間にただひそみ留まるに、そろそろ飽いたというところであろう。どうだ、百識よ。今日は王に退座の失礼をして、我らは新たな者に外界の案内と洒落込むかな」
「私は構いませぬ」
若君がよろしいのなら、と続く老爺の声が終わる前に、ヴァルナードと名乗った黒衣の若者は二人の横へ進み来ていた。
「ではゆこうぞ。うむ。造作も王に似て秀でておるな。幾人が誘いの声をかけてくるか楽しみだ」
「お暇でおられたのですな、将軍」
ナズラムが苦笑を鳴らして冥王に会釈をし、歩廊へと向かうオーヴェンを追う。促されてそれに続きながら、半身返して目礼を示した影の虚眼の点光が、闇の中についと赤い軌跡を残した。
◇
かねてより高名な長者二人の並びに、かつて見ぬ新参の顔が加わっているとあって、城をただ歩く間にも投げ寄こされる好奇の視線は絶えなかった。
周りに関心を寄せているのかいないのか、かけらほどの戸惑いも見せずゆるやかに歩むヴァルナードに、ナズラムが丁寧な案内を語る。相槌にまざり淡々と披露される、世に落ちて間もない若者が今日までに「仕入れた」知識に、オーヴェンはそのたび声上げて笑った。
長い回廊を過ぎ、四つ角にさしかかった折である。
「これは、将軍。ナズラム翁も」
呼び声にオーヴェンが横手を振り向き、続く二人も足を並び止める。左方から近付く重い足音が四つ角の前まで進み出、歩廊に広く影が落ちた。
堅固に身を造るオーヴェンの大鎧を越え、さらに半倍ほどの丈を誇る岩の体が、高い天井の下にかろうじて収まっている。後ろに従えた牛頭の鬼の隆々とした肉体すら貧しく見えるほどの、城塞の柱にも似た太く頑強な四肢をゆるやかに動かすその姿は、まさしく意思持つ巨山のごとくであった。
「ダイラス公」
「鬼岩のか。久しいな」
二人の長者の声に応え、鬼岩公・ダイラスは巨躯を曲げて礼を示した。岩肌に刻まれた幅広の口が開き、重い声音を鳴らす。
「ご無沙汰をしておりました。変わらずあの岩屋におられるのですかな、将軍」
「岩屋とは随分だな」
オーヴェンは気を悪くした様子もなく笑い、そのうち砦にでもしよう、と答えた。
「お二人ここに住まわれれば、黒の城の権勢もより固きものとなりましょうに」
「いや鬼岩の。誰がどれほど集まったところで王の存在以上にはなるまいよ」
オーヴェンとナズラム、折々に冥王を訪れる屈指の長者の双方とも、この城に常の居を構えてはいない。老魔術師のほうはここ数月ばかり留まっているが、城に集う知を求めるための仮の寝床である。派を成そうともせず、ただ随意の暮らしを送る二人の在なきを惜しむ声も、先ごろは折々に交わされていた。
「時に将軍、そちらの若者は?」
巨体を揺らし、オーヴェンの肩越しに廊下の奥を見やって、ダイラスが問う。オーヴェンはうむと頷いてから半歩身をずらし、会話に興寄せるでもなく佇んでいた影を前へ示した。
「驚くべきことにな、鬼岩の。王のもとに生まれた新しき者だ」
「王のもとに……?」
オーヴェンの言葉に、ダイラスのみならず後ろに控えていた牛鬼たちもが驚きを浮かべ、その姿を見ようと体を乗り出した。一度に集まった目にも身じろがず、ヴァルナードは涼しげな顔のままその視線を見返している。
「……成る程」
数秒の沈黙を置き、岩の首が重々しく頷く。その容貌にか、まとう力にか、冥王に繋がる何かを認めたものらしい。かがめていた背をぎしりとすれた音立てて伸ばし、
「王のもとに住まわれるのか?」
そう言った。
「そうか。それはまだ話しておらなんだな」
「まだ決まった当てがないならば、城の西の一角に空いた部屋がある」
使われてはいかがかな、とヴァルナードに声かけるが、ゆるやかな目瞬きだけがそれに戻る。鬼岩公も押して言葉を続けるでなく、もう一度『新しき者』の姿をさらり眺めてから、別れの辞を置いてゆっくりと歩き去っていった。
「鬼岩にはこの廊も狭いな」
再び歩き出しながら、オーヴェンが呟く。まさに、と返してから、ナズラムは隣を歩む若者に横目をやった。影を根とするらしいその身体は、岩の魔人を見上げた後では非常な細身にも見えた。
これはさぞ、将軍語るところの「変事」が起こるであろう。誰にとって興あるものになるやは、いざそれまで判ぜられまいが。
完全に整えられた人の身のただひとつの異容、左面にうがたれた深い洞の奥に、赤い点光がかすかの揺れもなく浮いている。冥王の緑赤の玉と同じ、確かに瞳であるのだろうそれは、しかし全てがこの『新しき者』にすれば珍しくあるはずの外界において、何を見据えているものやらわからなかった。
◇
長者二人が城の回廊で行き会ったのは、それから三日後のことであった。
「あの若人はどうしている?」
常なら十日に一度でも来訪多いと言える武神が、挨拶を終えるなり口にしたその言葉に、これは相当に暇を囲っているらしいと百識の師祖は笑った。尽きぬ世の知を求める魔術師よりも、今は相手を探すにも難ずる、武を極めた将の方が、よほどこの日々に飽いているようだ。
こちらへ歩き来た道から、じかに「若人」を訪れようとしたことがわかる。先に交わした話のとおり、黒衣の若者は西の棟の一室を居としていた。
「部屋に姿がないのならば、書庫やも知れませぬな」
「ほう?」
本か、と問うのに、白髯を揺らして頷く。
「術士もかくやの速さで読んでおられますよ。教える文字も一刻ごとに減っていく」
百識を教師にするとは贅沢な若者よ、と愉快げに言ってから、しかしとオーヴェンが思案に鎧を揺らす。
「術より先に剣を教えるのだったな。良き相手が欲しいのだが」
予想通りの言葉をナズラムは笑って受け、私も術の求者が増えれば良く思いまするが、と置き、続けた。
「剣も術も、今の若君が求むるにはこと小さき様子」
謎かけのごとき魔術師の言葉に、表情を持たない鎧の武神は、ふむ、と息を鳴らしたのみであった。
城の最北、主なき本が流れ集まり、いつしか書庫と呼ばれるようになった一室に、果たしてその姿はあった。
埃の舞う棚の間に常よりも人影が多いのは、オーヴェンやナズラムと同じものを目当てに訪れた住人のためであろう。至高の王のもとに生まれた新しき者の噂は、既に城中に知れわたっていると見えた。遠慮のない目が隅の席についた黒衣の若者・ヴァルナードを取りまいている。それでいて、周囲になんら頓着を見せない若者は、部屋に全くの一人であるようにも見えた。
訪問を告げるようにがしゃりと鳴ったオーヴェンの具足の金音に、視線が囲みを崩して戸口を向く。ヴァルナードも顔を上げ、そのまま本に戻るかと思えば、正対とまでは行かずも少しく背を伸ばして、二人の長者に目礼を寄こした。
知る顔であったゆえの挨拶とするなら、その幼いとも言うべき実齢に相応しい仕草であり、何やら逆に面白い。しかし、長者二人のみを正面に相対すべき者と見、ほかをまさしくただそこにある「物」とでも見ているがゆえの行為であったのなら――それもまた、面白い。
笑いこそ立てはしなかったが、すぐさまそちらへ踏み出した歩調から、黒鎧の将が非常な愉快を感じていることは明らかに知れた。
「城の住み心地はどうだな。若き影どの」
机の横に足を止め訊ねかけるのに、ヴァルナードは瞳のみで一渡り部屋を見回し、
「そろそろ興も尽きました」
淡々と言いのける。さもあろう、とオーヴェンは大笑で応じた。
「近頃は胸騒ぐ風もなかなか起こらぬのでな。まるで天のごとき穏やかさではないかと王とも話していたところだ」
「天――」
「その本の山の様子では、世の四相はとうに学び修めたのであろうな。至高の美の誉れ高い鳥たちの住む、恐るべき清廉の地だ」
落ちた呟きにそう繋げ、一度訪れてみるのも良いぞ、と勧めるが、ヴァルナードは関心の湧いた様子もなく軽く頷くのみにとどめた。
「百識を師としていることは聞いたが、ほかの者との付き合いはどうだな」
「特には」
「ほう」
短い答えに意外を示し返す。問いを重ねる前に、横合いから別の声が飛んだ。
「仰るとおりなのですよ、将軍」
書庫の先客であろう、囲みを離れて歩き進んできたのは、肌に鱗を持つ一体の水魔であった。長者二人の馴染みとまではいかぬも、確かに城で行き会ったことのある、それなりの力と位を持つ住人のはずだ。
「オーヴェン様からも若君にお口添え頂けませぬか。方々の者が代わるがわるに掻き口説いておりますが、実につれなくていらっしゃる」
厚い唇を苦笑に曲げ、主にせつかれているものでして、と言う。
「おぬしは西の湖主の眷属の者かな」
「左様にございます。五日先の朔の宴にと遣わされまして」
「朔の宴というと、剣鱗公が宴主をなされるものですな。何やら大がかりに構えられている様子でしたが」
若君を賓客にされる心積もりであったのなら合点が行きましょう、と説くナズラムの言葉に、ふむ、とオーヴェンが息を鳴らす。そうしてがしゃりと鎧の向きを戻し、よそごとを見るようにしていた若者に声投げた。
「どうだな、影よ。一度参じてみぬか。この地の者は生なかにはへこたれぬでな、そのごとにかわすのでは誘いも増すばかりよ。大宴に顔出せば周りの熱も少しはおさまろう。おぬしが宴を気に入ったのなら、それはそれで良い」
儂も久方ぶりに冷やかしの酒が呑みたくなった、と言うのに、隣立つ水魔と、書庫にあった種々の影が静やかに快哉を上げる。
「なれば、私も」
大方、最後の言葉が一の本音であろうと笑いを噛みながら、ナズラムも提案に声乗せる。確かに興深かった。
話がこう流れてはもはや断れまいと承知であろう、若者は少しの息をつき、短く応諾を唱えた。
午過ぎに流れた噂は瞬きのうちに城を駆け、その夜には、ただ廊を歩くばかりの姿に、これまでの沈黙の鬱憤を晴らそうと、色さまざまの声が降りかかるほどになった。そこここで聞いた声によれば、当のヴァルナードはそのどれも歯牙にかけることなく、すいとかわしていたようである。
しかし、中には首尾よくその背を呼び止めた者もいたらしい。オーヴェンが今日は帰ると城を出て少しののち、人絶えた書庫に座していたナズラムは、張り出しの外廊に立つ岩の魔人と、黒衣の若者の姿を見た。
二度目の邂逅となるはずの鬼岩公は、偶然ではなく自らやってきたものか。後ろに従者の姿はない。話は挨拶のみに終わらぬようだった。時に鬼岩公の笑う様子が見てとれたが、そのままに和やかな場とも見えなかった。
黄昏の中に濃くにじむ二つの立ち姿は、やはり多分にちぐはぐであり、高い窓から見下ろすぶんだけ互いの差が際立って映る。
ナズラムは求知心のまま指先に陣を描き、遠耳の呪言を唱えた。
『では、若君の求むるものは?』
岩窟に響く、魔人の声。対するは、低く静やかな、影の声。
『頂いた時に答えましょう』
その言葉が交渉の結実を表すのか、決裂を表すのか、判ずることはできなかった。会話は絶え、しばしの沈黙を挟んで、成る程、と頷いた魔人の声を最後に、双方が別の道へ歩み去ることで終わった。
歩く様さえ良い対称であった。オーヴェンならば獅子と猫が向き合っていたようではないかと笑ったろう。
にしても、その岩獅子と黒身の猫が何を話していたものか。
断ずるにはまだ足りないが、察せられるところはある。早くも新たな鎖が伸び始めている。
原初の時より生きる者にとって、今この地、ことにこの黒の城の在りようは、一種奇妙の様とも感ぜられていた。湖主に仕える水魔のように、血族に結ばれたものはいざ知らず、まるで種を異にする者たちが主従として権謀の友として、我から繋がりを求むる潮。我が立つ場を確かに占めようと渦巻く、暗い水底での競り。宴の賑わいの下、いくつの意が絡み牙を立て合っているものか。
あたかも話に聞く地界の人の世のごとくではないか。いずれこの競り合いが収まれば、一人の至高の王のもと、確固たる国が築かれるのであろうか? それこそ、あの清廉な白の世界のように。
流るる時を抱くのであれば、それは全くの戯言ではない。黒の将が飽いているこの奇妙な日こそが、今の冥府の真なのだ。
『新しき者』は、宴の座からこの真をどう眺め、そしてどの鎖を掴むものであろう。
◇
夜宴の座は我先にと集った者で弾けんばかりとなった。
常なら「おもねり」の目当てとなる二人の長者に集まる姿も今日は少なく、始まりからのべつ声に視線に取りまかれているのは、至高の王のもとに生まれた黒衣の若者ひとりであった。
「堂々としたものだな」
あえて離れた座につき、横目に喧騒を眺めるオーヴェンが隣の魔術師に呟きかける。まさにその言葉のとおり、今日を宴初めとするはずの若者は、老練な権威者たちの舌にも取りまきたちの不躾な雑言にも一切ふるまい乱すことなく、ただ黙々と杯を進めている。
表情のないその顔はまだ未熟の過程ながら冷ややかに美しく、色好みの宴客たちが褒めそやし、ほうと息つくのがそこここに聞こえた。
「さて、皆様方」
酔いが場にまわり始めた時分、宴の主、鋼のごときその身に名を借る剣鱗公がおもむろに立ち上がり、裂けた爬竜の口を開いて宴中の挨拶を始めた。
「今宵は我が夜宴へのご足労、感謝至極にござる。冥府の二雄たるオーヴェンダーク殿、ナズラム殿、そして我らが至高の王のご縁戚の若君をお迎えすることが叶い、皆様もご充足の趣かと存じます。――御三方の名には到底届かぬながら、加えてひとつ、我より宴に華をお添えいたそう」
そうして奥に手配が命ぜられた酒肴は、かねてより予定のものであったと見え、いざやとばかりに客のほうぼうから喝采が上がる。やがて披露の場がととのい、ゆるやかに幕の開かれた宴席の裏手から、その「華」は現れた。
ざわめきが広間を渡る。
二体の半竜人にかかえられるように座に進み出たのは、遠き天峰の鳥、白の地に住まう二つ羽の天使であった。
鎖に引きずられ、力絶えて弱々しく立つ天使は、しかしなお至高の美の誉れに反することなき美しさをたたえていた。流れ落ちる清流の金糸、輝石のごとき翠碧の瞳、そして何より背に負う折れた一対の白翼が、その存在の根を、冥府の相克なる眩き天を語っていた。
口々に賞賛が鳴る。二人の長者は顔を見合わせ頷いた。奴僕として、愛玩の道具として、権威の飾装として、古来より変わらず異界の鳥は珍重されている。この華々しき大宴にて、剣鱗公の名もさらに強く広まるであろう。
しばし鳥についての問いと賛辞が続き、ふと喧騒の絶えた間に、宴主の眷属とおぼしき爬竜族が一の客の座についたヴァルナードの後ろへ歩み寄った。あたりの耳目を集めるように、声高に問う。
「いかがかな、若君。鳥を目にするのは初めてのことと思うが、まこと美しいであろう。貴公が望むのならあれを譲っても良いと、我が主は仰せられているが……」
再び、場がざわめく。オーヴェンが肩当てを揺らして笑った。
「成る程、剣鱗も考えることよ。名を売るに飽きたらず、さらなる名を買うか」
ヴァルナードはわずかに首をねじり、長身の爬竜を見上げるようにした。その冷たく整えられた横顔は、誰の目にも若く見える。水底の競りなど何ひとつ知らぬ、子どものように見える。
いかに、と先を待ち構える宴客たちの胸鳴りを斬ったは、
「結構」
戸惑いもためらいもない、ただひとつの言葉。
「それは」
どちらの、と続く前に、場の全員が若者の口にした言葉の意を悟った。すと身体を前に戻した若者の目は、鳥などわずかにも見てはいなかった。
呆気に取られて開いたままの口に気付き、ぎりと爬竜が歯を噛む。その横から巨体を揺らして進み出てきたのは、何やら繋がりがあるものか、過日の廊下で鬼岩公ダイラスに従っていた、牛頭の鬼であった。
「ちいと、つれないに程があるんじゃないか。若君さま」
胴張り声が響く。
「それとも、今のは俺たちの聞き違いだったか? 鳥を欲しがらない奴なんぞ、見たことがない」
粗略な言葉だが、確かだった。オーヴェンやナズラムのような誰もが認める長者であればいざ知らず、異界の鳥を楽に手にできるとあらば、冥府の住人たちに否やのあろうはずがなかった。鳥の価値は、今やその美にのみあるものではない。
威の競り合いを知らぬがゆえかと囁きかわす客たちを一顧だにせず、酒を一口含み、淡々と、ヴァルナードは返した。
「死骸を愛でる趣味はありません」
「死骸、だと?」
連れ出された天使は確かに弱ってはいるが、死に瀕しているわけでもない。おうむ返しの問いに、ええ、とごく涼やかに、答えが返る。
「形がどれほどに見事でも、翼折れて飛ばぬ鳥など骸も同じ。その骸に比べれば、生きた皮翼の化鳥の方がよほどに美しい。他人の趣向にとやかく申し上げるつもりはないが、私は結構」
牛鬼がぎょろりと目を剥く。宴客たちのどよめきも、今度は音沈めてひそやかにさざめいた。場を高く通るほどの音となったのは、オーヴェンが兜の面当てを降ろした金鳴りのみだった。眼前で若者の独壇場がまだ続いているのでなければ、厚い面当ての下で笑いを爆発させているのだろう将軍にならい、ナズラムも笑ってしまいたかった。
「……分をわきまえた方が身のためだぜ。若君さまよ」
鬼の分厚い手が、黒衣の肩を背後から掴む。
「ここは冥界だ。血の繋がりなんぞ最後にはなんの力もない。十日もここにいりゃあ、わかってるはずだ」
憤怒を抑えた声。獣の指がヴァルナードの頬を滑り、白い首を撫で下ろす。ぎり、とその手が力込めるのも構わず、指を締めれば簡単に折れ砕けてしまうような細身を微動だにせぬまま、若者はただ座している。
「そのお綺麗な顔も、もう何度か盾に使ったろう。誰に何回乗られた? その大層な服をひっぺがしたら中もこの首みてぇに細っこくてお麗しいのか? 俺もいつかお相手願いたいもんだが――」
つうと、指が進み、襟を割って黒衣の胸元に忍び入ろうとした、その瞬間だった。
けたたましい音を立てて台の上の皿が弾み、割れた。呑んだ息を最後に、宴客のどよめきが一瞬にして絶えた。静寂の中にぐしゃりと肉が落ちて砕けた皿を彩り、雨が降り注いで空の杯を満たす。もとの形も判ぜられぬほどに斬り刻まれた鬼の首であり、胴であり、腕であり、噴き出た血と臓物であった。
大鎌のごとき黒の刃がするりと影の中に引き戻される。場の全ての視線を受けてわずかの身じろぎもせず、血煙の中ゆるやかに立ち上がった『新しき者』が、自ら一人舞台の幕を引く。
「中座にて、失礼いたします」
黒衣を翻し立ち去るその身は、宴に参じた初めの姿のまま、血の一滴にも汚れていなかった。
深夜であった。
「若君」
影さえ形を失う朔の闇を震わせ、声が靴音を止める。振り向く先に、城壁に紛れるようにして、岩の巨人がうそりと立っている。
「見事に剣鱗公の顔を潰しましたな」
探るように発された言葉に、
「あれ以上に潰れる顔でもないようですが」
さらりと返る。ダイラスは巨躯を揺らして笑った。
「では、僕を斬られた私の顔も、これ以上潰れる憂いはないというわけでしょうな」
なお低い声。ヴァルナードがちらと岩の身を見上げた。漆黒の右と、虚ろの左。
「恨み言を申し上げる気はない。愚かなふるまいであった。だが、あれが語ったは虚言ではない。先の夜にも語ったとおり」
淡然と言う。
「分をわきまえよとはいささか粗雑な言葉だが……言い得てはおりましょう。この五日、十に余る者が城から消えた。どうやら、宴の客より先に拝した様子」
その刃を。岩壁にうがたれた眼が、揺らめく黒衣を見つめた。
「この闇の下に、幾条もの鎖が絡んでいる。いかに鋭い刃をもってしても斬りえぬ鎖。立つ場を誤ればすぐにも足を取られましょう。ことに、いまだこの鎖の全てを見尽くされていない、あなたほどに若く血気盛んな方は」
「足をとられる前に、自ら鎖に引かれよと?」
たじろぎもせず問う。それも一つの術、と魔人は答える。
「我が求むるものを申し上げよう。力が欲しい。この鎖を束ね、やがて引きちぎるだけの力。冥王のもとに鉄石の城を築き、天を、地を、魔を、意の下にできるほどの力が。そのために、若君、あなたが欲しい。至高の王の縁たる、その名、その力」
ぎしりと重い音を立て、岩の腕が差し伸べられる。
「今宵は外れたが、この望み果たせばいつかは差し上げられるだろう。あなたの求むるものを」
ゆらり、風が吹き過ぎ、黒衣を闇にたなびかせた。
薄い唇が開き、朗と語る。
「先の夜にもお答えした。鎖にはかけらの興も引かれない。得るつもりも、なるつもりもない」
常と変わらず響き、消えた声に、ダイラスが追って重ねる。
「それが今この地の真であるぞ、若君」
「流転の中の一瞬の真におもねられるのか」
冷ややかに言い、きびすを返しかけるのを、地鳴りが止めた。
床を豪腕が砕き、石のかけらが舞い上がった。一瞬前に退った黒衣が伸びて大刃と化し、闇を横凪ぎにする。隆々とした鬼の身さえ目瞬きの間に肉塊と帰した鋭い影は、あやまたず魔人の首をとらえ――しかし傷ひとつつけぬまま砕けた。
眉を寄せたヴァルナードが体勢をととのえるよりわずかに速く腕が伸び、その巨体に見合わぬ敏で、影の刃とともに細身を壁に縫いつけた。
轟音を立てて石壁がひしゃげ、叩きつけられたその身ごと砕ける。ごぽりと口から血があふれ、薄い唇を赤く染めた。
「分をわきまえられよ。お若いの」
巨躯と同じ高さに張り付けたヴァルナードへ向かい、言う。
「いかに鋭き刃でも、斬れぬものはある。そして、お教えしよう若き方。流れ去るものではない、この地の永劫の真を」
――それは、力。
「力なき者は、力ある者に抗い得ぬ。それがこの地の何よりの真」
しばし時のみが流れ、形勢わずかにも動かぬ場で、しかし魔人は目を見張った。千々に砕いたはずの身が、腕の中かすかに揺れている。流れ出るのは呻きでも、命乞いの嘆願でもない。
くつくつと、笑い声。
「ご教示、感謝する」
前に垂れていた首がゆるやかに起き、わずかな乱れもない言葉を紡ぐ。冥府の王に似るという見目良い面に苦痛の色はない。そろり、紅い舌で血を洗った唇が、ダイラスの前で初めて明らかに歪む。
それはもはや、端整の優雅のという言葉で飾ることのできる景ではなかった。身を壁にはりつけにされたまま、若者は胸の底から笑っていた。凍てつく美しさをたたえた、淫靡で陰惨な笑みであった。
はたと引き離しかけた腕は、既に動かなかった。
「これが真なら話は早い。ご忠言の礼にお答えしよう」
我が求むるものを――。言葉のごとに、その身が変容する。
「私は、世界が欲しい」
人の身が崩れ、影に融ける。冥府の王に似るという面がはがれ落ち、虚眼の闇が広がって、裂けた笑いの貼る異形の貌を形作る。
「四相の世ではない。剣も、術も、策も、全てが小さくかすむほどの、この胸を満たし騒がせる世界が欲しい。永劫に飽くことのない、輝きに満ちた唯一の世界を、この腕に、この身の深くに欲しい」
確かに手中に捕らえた獲物は、狩猟者であったはずの魔人の身体を我が手に捕らえ返していた。それはもはや役者の転倒ですらなかった。若者は鑑賞のための美しい幼獣ではなく、初まりの瞬間から牙持つ捕食者であった。衣の中に隠されていたのは細い人の身ではなく、尽きせぬ闇の力、深遠なる影であった。
四方から伸びた黒の衣は、岩の巨躯をいとも容易くねじり、折り、砕く。
『我が望み、頂けるか? 鬼岩公』
返すべき言葉はもはや音にならなかった。冥府の主に似て低い、愉悦に満ちた冷たい声音に、ただ恐れだけが身に寄せた。
なんと漠として途方ない望みなのか。この力の深さに足るものなど、いずれにあるというのか。
大気をざわりと揺らし、影が膨らむ。もはや壁も床も見えない。揺らめく黒衣でも、鋭い刃でもない。全てを呑み、喰らう、底知れぬ影。
(何故、消えぬ――)
いずことも知れぬ深みの中に落ち込みながら、問いを鳴らす。
(何故、王の闇の中で、これほどの影が在り続けられる?)
終わりに見えたのは、一切の黒と、その中に爛と浮かぶ、一点の赤だった。
◇
『鬼岩が消えたか』
闇の間にほつり、言葉が落ちる。
なお続く宴の喧騒を後に、『新しき者』の独演を語りかわしていた二人の長者は、笑いを納めて王の玉眼を見上げた。
「鬼岩のが?」
『うむ。気配が絶えた』
断然と語るのに、ナズラムは白髯をひねり、
「若君……でありましょうかな」
問う。
『であろうな』
「ほう?」
オーヴェンが身を乗り出し、鎧の腕を広げた。
「儂だけ除け者とは詰まらぬぞ。何事かあったか、百識よ」
ナズラムは書庫の窓から眺めた先の日の出来事を王と将軍に伝えた。興深げに頷きが返る。
その剛直な容《かたち》を裏切るごとく、かの魔人が柔軟にして鋭敏な策謀家であることを、城の大家たちは知っていた。冥王の縁戚の若者に外から何かしら働きがあるのは必定であった。
「鬼岩も目の付けどころは良いが、ちと浅きところで見誤ったな。あの若者、初めの予想以上に儂らに性質が近いようだ」
言って笑う。それは力や姿の質ではなく、向かうところ、よって立つところの質――周りから「変わり者」と称される性質を指す謳いであろう。褒め言葉になるやらもわからぬが、確かに、とナズラムも同意する。さしあたりしばらくは、あの若者がいずれかの威の下に属し、鎖の一端となることはないだろう。
「しかし鬼岩公が欠けたとなると、城の版図にも動きがありましょう」
「ふむ。騒がしくなるのなら、儂はまた岩屋にこもるとするか」
渦中にいて面白みのあるものではない事態に息をつくと、
『そう遠からぬうちに、この城も崩れよう』
ゆらりと闇が動き、端倪を述べた。
『我が冠する王の名は位にあらず。いずれは皆それを悟ろう。形ばかりの王城、名ばかりの秩序は意味を成さぬ。我はただ在り、ただ眺むる』
この世界を、この世界の子らを――。言葉は声よりも先に思念として闇の間を満たし、大いなる意思を紡ぐ。
『力は広く散り、強き者は強き者のための座に、弱き者は弱き者のための地に身を収め、やがて確たる秩序が生まれよう。闇の地のための、深き混沌から成る秩序が』
語る未来をもはや視たかのごとく、緑赤の玉が一層の深色を帯び、閃いた。
「混沌による秩序……面白い」
ゆるりと言い、空の兜が深く首肯する。
「変革の糸口を斬ったが王の若君というのも、面白い」
王の口振りでは、早かれ遅かれ、いずれその時は来たのだろう。が、この場に生まれた若者が混沌の始まりを早める鍵となったのは確かだ。
影か、と玉眼が瞬き、
『あれの眼は―― 焔であるな』
静かに、紡ぐ。
「焔?」
あの涼やかな見目には似合わぬ言葉に、音のまま問い返す。うむ、と闇がうべなう。
『本性《ほんじょう》は確かに影だ。が、一切の闇の中に影は生まれぬ。影が在るには灯火が要る』
初めに一点の焔があり、影が身を成した。
『あれの核は、影であるとともに、焔であるのやも知れぬ』
闇が深いほどに、焔が燃え立つほどに、影もまた濃く、昏い。
「焔、か」
王の間を辞して数歩、オーヴェンは感深げに先の語を繰り返した。
宴はまだ尽きぬのだろう、回廊に人の影はない。床に壁に夜だけが深くうずくまっている。
「まさに変革の火、変転の火種となるか……ぬしはどう見る、百識」
「充分に識なきものを、断ずることはできませぬが」
置いて、言う。
「遠からず、あの方は冥府の核の一柱となりましょう。冥王や、将軍とともに」
「おぬしはならぬのか?」
呵呵と笑う相手へ笑み返してゆるり首を振り、
「術師が求むるのは知なれば、高きに過ぎる名と位は邪魔にもなります。王や将のもとに仕えて世を識るが至上の行」
言い説いてから、ふと、思案に首をひねる。
「近く一族に新しき者が生まれる気配ですが……」
「うむ。孫すじの者だそうだな」
「あの方にお遣い頂くのは、どのようなものでしょうかな」
オーヴェンは一瞬身を止め、やがてこれぞ愉快とばかりに鎧を揺らした。
「苦労するぞ」
「まさに。しかし、見難きものを見、知り難きものを知り得るやも知れませぬ」
「良いな。実に愉快よ。儂もあの若人に何かやりたくなってきた。何が良い?」
「なまなかのものでは、喜ばれませぬでしょう」
「であろうな。影が求むるものか……。おそらく儂らの思いもつかぬものであろうよ」
さていかにするか、と笑う武神の声は、宴の場に届かんばかりに高く響いた。
○
かつての城の王座であり、今なお冥府の核である闇の間に、ふらりと客が訪れたのは、天頂の月が傾き始めた時分であった。
たゆたう力の中に緑赤の玉が開く。音なき来訪者は灯かりのない道を迷いなく歩き、奥の壁まで進んだ。
そうして、
「寝床をお借りする」
言って、間の主の承諾を待たず、床に腰下ろした。
揺らめく黒衣は四方の景に融け、一切の黒の中、笑いの貼り付いた白面だけがほかりと浮かんでいる。
返事の代わりに身を広げる。影はためらわず大いなる力――我が揺籃であった深い闇に背を持たれかけさせた。失った鳥求める身を持て余し、存分に力伸ばせる場へ訪れきたのだろう。「親」ならば、その珍しき姿に慰めの声でもかけるものであろうか。
しかしその白面の下に、おそらく憂える顔はない。黒衣の中の身は、哀しみに震えてはいない。
「王」
ひそり、声が鳴る。かつてその位を冠されるのが唯一であった頃の、短い呼び名。
この禍が過ぎたのちに――。淡々と言葉が紡がれる。
「私が天の主に刃を向けたとしたら、王は止められるか」
その面の下にあるのは、憂いでも、哀しみでもない。
ただ闇の中に燃える、一点の焔。
『いや。止めぬ。我はここに在り、見よう』
「左様か」
白面がちらと玉眼を見上げ、また戻る。
「今は少し、在るばかりの貴方が羨ましい」
ほつりと言った。
「この腕を腕と感ずるがために、そこに無きもの、あったものが気にかかる」
黒衣の袖が上がり、異形が覗く。
『いや、影よ。我も想い、感ずる。その折あらば憂いもしよう。だが我はそなたらのようには求めぬ。我が世界は我が内にあるゆえな』
王の言葉に、知っています、と影は昔の口調で答えた。
「私はここで生まれたのですから」
その世界を知っていたからこそ、その世界とともに在ったからこそ、そして一度はそれに等しき輝きを得たからこそ――なおさらに、今の腕の空虚が重い。
言葉は絶え、影はその非対称の瞳を閉じたようだった。閉じてなお、その内に火があるのが感ぜられていた。
変革の焔、とかつて武神が語った言葉を思い出す。大いなる変転の根となろう者が、またしてもこの影であったのは、偶然か、必然か。いずれにせよ――時は近い。
子を抱くように身を広げたまま、冥府の王もまた、その異容の瞳を静かに閉じた。
Fin.