冷えた大気の中に花が咲き誇っている光景というのも奇妙なものではあったが、もうこの地の不思議をひとつひとつ取り上げ声にして騒ぐまいと、レイは二度ほど目を瞬かせるのみで驚きの表明を終えた。
思い起こせば、初めてこの草原に訪れた日、すでに秋を迎えた空の下にも花は咲いていたのだから、今さらに目を見張るようなことではない。冷たい風が葉を撫でようと、雪がその上に舞い落ちようと、冥府の小さな白い花は、凛として美しい。
秋に咲いて、冬を過ごし、春には去る。この花の一生をそう聞いたから、もう一度訪れたいと自ら切り出した。やがて訪れる暖かな季節の前に、少し自分を強くしてくれた優しい風景を、もう一度ゆっくりと眺めたかった。
森にまるく切り取られた空の下には、自分と、少し離れたところで草を食む焔馬と、後ろに立つ黒衣の男の姿しかない。以前来たときにはもう日が暮れ夜が落ちていたから、男の服も闇に紛れてそう浮き上がっては見えなかった。だが、こうして昼の日が差す中に眺めると、やはり花の咲く草原に立つ『影の王』の姿は異様だ。
まぁ花が白なだけまだましかと、故郷の隠者の森での光景を横に思い並べておかしさを噛み潰す。その意が伝わったのか、ヴァルナードは反論もせずふっと笑いの息だけを返し、愛馬の背から外した鞍に背を預けて草の上に腰下ろした。
身にまとう影の衣が風になぶられ、ゆるやかにさざめく。
この男はやることなすこと過激で唐突なのに、こうして何もせず悠々としている姿が一番画になるから不思議だ。自分などあまり大人しくしていると「具合でも悪いのか」と心配されることさえあり、どうにも釈然としない。
こいつ、ガキの頃にはしゃいで走り回ったこととかねぇんだろうな、などと勝手に決めつけながら見るその身の横に、花ではない緑がひょこりと立ち上がっている。
「あ、樹だ」
ヴァルナードが首を傾げる。ほらそこ、と鞍の横を手で指し示し、樹の若芽が生え出していることを教えた。
「摘むか?」
草原の中に樹が伸びることを慮っての問いだろう。レイは少し考え、首を振った。
「別に樹が一本ぐらいにょっきり生えてても悪くないだろ。いい日陰になるし」
「冥界の夏はそう暑くないがな」
「いいんだよ。こう、葉の影から少し光が差して、風と一緒に揺れて……。その下で本読んだり、昼寝したり、鳥とか兎とか鹿とかに歌聴かせたりしてさ」
故郷の高原を思い返しながら、語る。
「ここにも、春になったらそういうやつ来るか?」
「まだわからんな。私がこの地をを買い取ったのはお前が塔へ来る少し前だ」
とすると、夏ももう終わりか、秋の初めだ。獣たちが姿を消す季節ではないが、そもそもこの男が草原にひとり顔を出したら、どんな生き物もおびえて隠れてしまうだろう。
そうか、と頷くレイに、ヴァルナードが愉快げに続ける。
「冥府の獣は気が荒いものが多い。そうそう懐かんぞ」
「ゼルグは大人しいじゃん」
例に出した塔の焔馬はもうだいぶ離れたところを歩いていたが、耳さとく自分の名を聞きつけたのか、頭を上げ、こちらに首を傾げてみせた。ヴァルナードがなんでもないと笑って手ぶりを示す。
「生まれた時から人に慣れていたからな。特別だ。将軍から譲り受けたのはあれの先々代だが……とんだ暴れ馬だった」
「ふぅん。けどまぁ、獣ってみんなそうだろ。天馬とかだって力があるぶん気位が高いから大変だしな。ちっこいやつはすぐ逃げるし。それでも少しずつ知り合って、仲良くなったらこっそり赤んぼ見せてくれたりするんだ。可愛いんだぜー。ちび兎とか、丸くて毛がふわふわしててさ」
冥界にはどんなやつがいるのか楽しみだな、と静かな草原を見渡し、一人うきうきとして、ふと我に返る。
「……お前、今ガキみてぇとか思ったろ」
「いや」
横から返る声が明らかに笑っている。気恥ずかしさを誤魔化そうとわざと声荒げ、別に大人になってからも毎日そんなことしてたわけじゃねぇからな、と早口に言ってヴァルナードへ向き戻った。
そうして顔を正面に見下ろし、
「なに、お前」
眠いのかよ、と続けかけ、後を飲み込む。
確かに心地の良い日和だが、細めた眼は眠気のためのものではない。
時折この男は、こうしてひどく眩しげに自分を見る。
「……あの」
「ん?」
「いや」
なんでもない、と小さく落とし、それでもそのまままっすぐ視線を受けるのは居たたまれず、回り込むようにして横まで歩き、隣に座った。二人乗りの大造りの鞍は、並んで背を預けても狭くはない。
初めのうちには、そうした態度で自分を見る理由を訊こうかと思ったこともあった。今ではもうそんな考えが浮かぶことはなく、結局訊かないままでいて良かったと思ってさえいる。
魔界に堕ちて冥府に流れ着き、故郷へ帰り、またこの地に戻って、沢山の苦しみと、哀しみと、喜びに出会って。自分の心と自分を包む心に触れて、なおその意味を受け取れないほど意固地ではない。そして、その意味を勘違いするほどの自惚れでもないと思う。不可解なところは、まだ多々あるけれど。
手を持ち上げて眺めてみる。華奢な造りではない。まあ綺麗とも言えないだろう。この場に鏡があれば、映るのは格別に心砕くほどのものでもない、見慣れた勝気な顔だ。
己を卑下するわけではないが、造作だって、頭の中身だって、故郷にはよほど優れた天使がごまんといる。そうは負けないと自負する剣技と翼の早さも、野の隼や、冥府の黒の将には比べるべくもない。
まあ良いのだ。誰よりも優れたところを持つ者のほうが、世には少ないのだから。
それでも男が自分を見るというなら、若芽が育って空に枝葉を広げるまで、こうして傍らに在れるというなら、それでいいではないか。
――にしても、自分は欲が深いのなんと語る言葉に、男の嗜好や行動は全く見合わない、とレイはさらに思考を深める。
本と、草原と、塔と、一握りの従者。そして、異界の小さな鳥。望んで手の中に収めているのは、その程度のものだ。仰々しい二つ名の割に、実はさほどの大望を持ってはいないのではないだろうか。それも、この地の長者らしいと言えばらしい。
幼い頃、空にかかった虹が欲しいと、兄に駄々をこねたのを思い出した。今なら笑ってしまうそんな馬鹿げた思い出など、きっとこの男は持っていないのだろう。
ちらと横を見ると、視線が合った。漆黒の右と、虚ろの左。その異相に覗き込まれることに、嫌悪を感じていた日もあった。
「……変な眼」
その視線についての思いも含めて、呟いた。
それでも別に厭ってはいないと、口には出さなかった言葉も、この聡い相手には簡単に伝わってしまうのだろう。
そうかと涼しげに笑う顔の、闇の奥に浮かぶ一点の赤。奇妙と冷たい恐怖の対象でしかなかったその瞳が、確かにあたたかく揺らぐ瞬間があるのを、もう自分は知っている。
「お前、なんか欲しいもんとか……あ、やっぱりいい」
問いを投げかけて、すぐに自ら打ち消す。言葉の瞬間に今さら何をと言いたげにしたヴァルナードの顔を見て、これは藪の中から毒蛇の尾を引きずり出すようなものだと気付いた。
「だからその、大戦の前だ。お前がガキの頃。何が欲しかった?」
質問の中身を変えて、再度訊ね直す。
「そうだな」
本だのなんだのと言ったら思い切り馬鹿にしてやろう、などと考えて待ち構えるレイの身を背から回した腕の中に抱き込み、ゆるりと、影が笑う。
「――貰ってから、答えようか」
闇の奥に焔が揺れる。
奇妙な言葉を問い返す前に、もう次の息は深い口付けに呑まれていた。
Fin.