コイウタ


 はああああ。
 深いため息がひとつ、湯気の立つカップの中に落ちる。
 琥珀色の面に波紋が起きて消えるまでをぼんやりと眺め、ふたつめ。風に白いもやがひょうと散って、また立ち上がる。実際にはふたつどころではなく、食卓についてからもう何十回目かになるため息なのだが、その主であるところのレイは、自分がため息をついているということにさえ気付いていなかった。普段ならば飲食の時に卓に肘を付いたりはしないし、もちろんその上に頬を乗せ、背を丸めて座るようなこともないが、今日は幼い頃から天使長たちに叩き込まれた行儀もそっちのけである。
 皿から銀匙を取り上げ、紅茶に差し入れて水面をくるくると回し、口に含むでもなくまた戻す。何回となくくり返されている奇異な行動も、全て無意識のうちである。その合間合間に息が落ち、湯気を揺らす。
 食卓を挟んでしばし一連の奇行を観察していたジュジュとソランは、自分たちの紅茶を飲み終えて顔を見合わせ、ふわりと飛び上がってレイの正面に浮かび、訊ねかけた。
「ねぇレイ、どうかしたの?」
「ぼーっとしちゃって、熱でもあるんじゃない?」
 呼びかけに頭を起こすが、投げかけられた問いと少女たちの怪訝な表情の意味がわからず、何が、と首を傾げた。
「何って、せっかく淹れてあげたのに、さっきからちっともお茶飲んでないじゃないの」
 言われて、先ほどから「手元に何かある」程度の認識だった物体が、やっと意識の中で紅茶に格上げされた。ああ、と頷きつつカップを取り上げて、ぬるくなった茶を口に含む。ジュジュとソランが再び顔を見合わせる。
「ねェ、やっぱりヘンよ」
「何か悩みごとでもあるの?」
「悩み?」
 言葉をおうむ返しにして自分の胸を探るレイだが、ほかに気を取られた思考は平素の半分の速度ですら回らず、途中で面倒になって、別にない、と首を振った。一般にはその状態をこそ「悩みがある」と称するのだが、半分以下の思考力では気が付くはずもない。
「じゃあ、ナニ考えてたのよ? あんなにため息ついて」
「何って……」
 自分の思考の代わりにまた銀匙でぐるぐると紅茶を回して、何って、と頭の中身をひっくり返す。しばし間を置いてひとこと、
「あいつって、変だよな」
 胸に浮かんだ言葉を、そのまま口にした。二人の少女がきょとんと目を開く。
「ヴァルナード様のこと?」
「うん」
 頷くと、うんって、と怪訝な声が返る。
「まあヴァルナード様は確かにちょっと変わってるけど……今はアナタのほうがずっとヘンよ」
 あの『鎖の会』からもう十日近くが経つ。レイが塔に来てからそろそろ月がひと巡りしようという頃なのだ。今になって居所の主人の性格についてとやかく言い出すなどと、変を通り越して奇妙な話である。
「……だよな」
 それについてはレイとて自覚がないわけではない。大体にして、天使長たちが聞けば泡を吹いて倒れるほどの雑言でもって、ひと通りの「とやかく」は既に言い尽くしている。それが「変人」の初心に立ち戻って一体どうしようというのか、自分ながらわけがわからない。
 ――が、このあたりまで来れば、清浄の地で育った箱入りの天使にはともかく、冥界の世慣れた少女たちにはほとんど一目瞭然であった。
「やだもうレイってばー! もっと早く言ってくれたらすぐ相談に乗ったのに!」
「ちょっとちょっとぉ、いつの間にそんなふうになったわけ? ヴァルナード様ったら、最近忙しそうにしてたのにちゃっかりしてるんだからぁ」
「ね、ね、何がきっかけだったの? 真面目な横顔が格好良かったとか? あ、それとも低い声にくらっときちゃったとか?」
「……何言ってんだお前ら」
 話の当人であるはずのレイは途端にはしゃぎ始めた二人に見事に置いてけぼりを喰らい、ぼんやりの状態から抜けられないまま眉を寄せた。
「んもぉー。天使ってみんなそんなに鈍感なの?」
 ジュジュが呆れたように大きく息をつき、レイの顔に指を突きつけて、
「それはね、コイよ、コイ!」
 きっぱりと、言い放った。
「……コイ?」
 言葉をくり返して、ぽかんと口を開く。
「そこからわかんない、なんて言ったらさすがに面倒見れないわよ」
「人間の世界では、お医者様でも温泉でも治せない病気、って言うのよね」
 やいやいと続ける二人の声も耳に入らない状態で、レイは頭の中にその二文字を反復した。
 コイ、コイ。コイってのは、つまり。
 つまり……?
 ぴたり、思考が停止し、一瞬後、傍らの少女たちが宙で一回転するほどの勢いで、レイはがばりと立ち上がった。
「こっ……! こ、ここ、こ、恋っ?」
 いささか鶏じみた声を上げて、その場に棒立ちになる。まさに青天の霹靂であった。
「こ、恋、恋って、だだだ誰が」
「だからレイが」
「ヴァルナード様に」
 ご丁寧に相手の名前まではっきりと告げられて、頭の中がもう一度真っ白になる。
「う……嘘だろ」
「こんなつまらないウソつかないわよぉ」
 ねぇ、と頷き合う二人の言葉に、それでもまだ嘘だと首を振った。肩をすくめる少女たちだが、レイにしてみれば当たり前の反応であった。
 言葉の意味は知っていた。天界と言えど色恋沙汰は確かにあったのだし、若い天使たちが自分の恋うている者について囁き交わしているのを耳にしたこともある。
 だがまず第一に心寄せるものと言えば剣と武であったレイにとっては、それは遠い世の、ほとんど絵空事のようなものでしかなかった。大体、自分にそんな話を投げかけてくる者など一人もいなかったし、とも思う。自分がそれにごく近い心でもって、隊長に恋情を向けるなどとそんなことは、と敬慕されているか、弟のように愛でられているかの二択しかない、おそれ多くも『天のいとし子』であった事実は、そもそも生まれてすぐに思慮の外であったのだから仕方がない。
 だからして、レイに言わせればそんな事態は全くの嘘である。恋などとそのようなこと、絶対にありえない。ありえない、はずなのだが――
「……うぅ」
 落ちるように椅子に座り直し、頭を抱える。
 そんなことがありえないのだとしたら、では、今己の胸に巣食っているこの心は一体なんなのだ。広間の椅子に座って翼を梳かれていた時に感じたものほど激しくはないが、おそらくそれと同種の、ひりつくような痛みは一体なんだというのだ。
 レイが知っているのは、その二文字の言葉の意味だけだった。
「……わかんねぇ」
 ぽつり、蚊の鳴くような声を漏らす。
「え?」
「わかんねぇよ。だって、俺、……こ、恋とか、したことねぇもん」
 幼い頃に初めて六つ羽の兄たちから「コイ」の話を聞いた時、じゃあ自分はコイをしている、とレイは誇らしげに言ったのだ。自分は空も好きだし、鳥も好きだし、天馬も好きだし、もちろん兄たちも天主もみんな好きだからと。兄たちは天使長の威厳が音立てて崩壊せんばかりの目尻の下がった顔でそうかそうかとレイの頭を撫でながら、しかし、それは「コイ」ではないのだと言った。もっと大人になればわかるものなのだと。
 そうして大人になったレイは、しかし「コイ」を知ることはおろか、その言葉を頭に浮かべてみることさえほとんどなかった。あまつさえ、故郷を遠く離れた身慣れぬ土地で、もはや忘れかけていた子どもの頃の会話を思い起こすことになろうなど、塵ほども考えたことがなかった。
 常になく弱々しい声を落として翼を身に寄せる青年の姿は、色恋の話とあれば箸が転がっても、ならぬ箸が恋しても飛びつかずにはいられない、世話焼きな少女たちの心をいたく刺激したらしい。
「もーっ、レイってば可愛い! お姉さんなんでも教えちゃうから相談して!」
「このぐらいで参っちゃうなんて、まだまだ若いわねェ」
「俺はお前らより年上だ……」
 一応の反論はするが、どうにも声に覇気を乗せることができない。
 ――なんか、すげぇ悔しい。
 少女たちに自分の無知を笑われているのも悔しいが、それより何より、このわけのわからぬ感情の矛先が、塔の主たるあの男に、強引で人の話を聞かない不遜な笑いを常の表情とするあの男に向いているのだという事実が、悔しくて仕方がなかった。力では敵わないことがはっきりしているその上に、さらにもう一度負けたような気がするのだ。感情の尺度を勝ち負けで見ているあたり、はなはだ奇天烈な思考なのだが、本人はいたって真面目である。
 そうして、悔しい、認めたくない、と思っても、あれから――蜘蛛の糸を解かれた時からか、開いた塔の窓を示された時からか、それとももっと前からなのかはわからなかったが、日ごとに胸に蔦を張るようになった感情は、もう少女たちの言葉に頷かざるを得ないところにある。
 混乱極まって、今ここにあいつがいたら迷わず斬りかかってやるのに、と頓狂なことを半ば本気で思っていたが、ヴァルナードは折しも朝から不在であって、どちらかと言えばそれはレイにとっての幸運であったろう。
「だったら」
 小さく呟く。
「こ、恋とかいうんだったら、じゃあ、どうすればいいんだよ……」
 えっ、と弾んだ声が返る。もし、もしもそうだったら、の話だぞ! と慌てて強調した。仮定の話であろうがなんであろうが、胸にこんな消化不良の熱を抱えたまま暮らすことなどできない。もはや藁にもすがる思いである。
 そうねぇ、と浮き立って考えるジュジュとソランだったが、少しの沈黙ののち、頭をひねり始めてしまった。
「……考えてみたら、なんだかすごくおかしい悩みなんじゃないかしら」
「これ以上ナニをどうしろって、て感じよね」
 その出会いのいきさつゆえに、既にあれこれに済を付けてしまっている関係である。そもそも相手のほうは初めからレイに単刀直入な心を示していたわけで、恋も何もな状況ではないのか。
「そうねェ、手っ取り早いのは……」
 ジュジュの声に、うん、とレイが真剣の面持ちで頷く。
「ヴァルナード様の部屋に押しかけていきなり抱きついてみる、とかじゃない?」
「……」
 できるわけがない。
 仮に実行したとして、自分はその三秒後には本気で剣を抜いているか、窓から飛び降りているかのどちらかだろう。
「お、おれは真面目に訊いてるんだ。真面目に答えろよっ」
「だって」
「ねェ」
 レイの抗議にジュジュとソランは何度目かの顔を見合わせた。真面目に考えれば考えるほど、どうにも馬鹿らしいというものである。
 我が故郷ではない彼方の世界というのはなるほど常識外れなところらしいと、すっかり冷めてしまった紅茶の前で、三者ともそれぞれに同じようなことを思っていた。


      ◇


 その後、「帰宅時に飛びついてキスする」だの、「上目遣いでご主人様と呼ぶ」だの、「全裸で寝起きドッキリ」だの、地界から仕入れたのだという意味のわからない単語が並ぶ珍妙な提案をいくつもされ、レイはもうお前らには頼まないと食堂を後にした。
 と言って独りで考えていても埒が明かない。ふらふらと歩くうちにたどり着いたのは側塔の蔵書室である。古今東西の書物を集めたこの部屋には、冥界の品のみならず、天界や地界で書かれた本も取りそろえられている。何か助けになるようなものがないかと足を踏み入れ、目録をめくった。
 レイが昔から好んで読んでいたのは、歌集を除けば歴史書や戦記物語の類であった。心躍る本ではあるが、今の状況の役には立たない。ほかに何かないだろうかと探すうちに、恋愛を主題とした恋物語の題名に目が止まった。
 恋物語。まさしくそれ以上でも以下でもない恋の話である。天界にいた頃は、「コイ」のなんたるかをまるで理解していなかったレイの食指をぴくりとも動かさなかった種の本だが、今こそ何か手がかりを求めるべき物なのではないだろうか?
 よし、と決めて何冊かの本を見つくろい、書机について、牙持つ敵に相対するほどの気合いをもって紙をめくり始めた。
 ――そして半刻後。
 一冊の本の半分も読み終わらないうちに、レイは机の上に頭を抱えてうなっていた。
 最初に選んだ本は、愛し合う二人が望まぬ別れを強いられ、数奇な運命を経て再びめぐり合う、というまさに古き良き恋物語の王道をひた走る感動的な物語であったが、話の筋などレイにとってはもはやどうでも良かった。それよりも、恋人たちのあいだに交わされる愛の言葉の数々の衝撃がただひたすらに強く、読んでいるだけで穴があったら入りたくなるほどの甘たるい会話の連続に、レイは文字に目を落としながらほとんど泣き出しそうになっていた。
 あるいはこの物語だけが特殊なのでは、とほかの本もぱらぱらとめくってみるが、紙に並んでいる言葉はどれも大差ない。
 コイってこんなものなのだろうか、と表紙を開くまでの気合いはどこへ消えたのか、急激に怖気づきながら考える。だとすれば、もし本当に自分が恋をしているのなら、同じようにこんなことごとを口にしなければならないのだろうか?
 試しに、適当に開いたページから恋人が主人公に囁いている言葉を取り上げて、胸の中でくり返してみる。
 ――どれほど永い時が過ぎようとも、どれほど高い壁が、どれほど深い河が二人を別とうとも、心は永遠に貴方のもとにあります。たとえこの道の先に何があろうと、私は貴方を愛し……
「無理! ぜってぇ無理!」
 叫んで首を強く振り立て、ばたりと天板の上に突っ伏す。
 今選び出したのはいささか抒情的な修飾のなされた台詞だったが、どの場面のどの言葉でも同じである。
(何考えてんだよ、恥ずかし過ぎるだろ! 敵に追われてるんだから、そんな悠長なこと言ってねぇで用件だけ伝えてさっさと逃げろよ!)
 照れの勢いで愛し合う二人に盛大にケチを付けるが、ここで本当に「それでは、次は例の湖で」、「はい、敵は手練れですのでお気をつけて」などといった会話のみで別れれば、感動の恋物語が一転殺伐とした戦争譚である。
 ともかく、自分にこんなことが言えるわけがない。口に乗せる言葉がいちいち回りくどいあの男なら平気で言ってのけるのかもしれないが、とこれまでに渡された様々な言葉を思い出し――はたと気付く。
 ――言われてない。
 ここ十日ばかり、そうした類の言葉を言われた記憶がない。先の食堂での会話でジュジュが漏らしていた通り、確かに何やら用事があるような素振りをしていたが、それにしても、会話すらあまりしていない。
 そうだ、先ほどから自分ばかりを気にかけていたが、まず相手……非常に悔しいが、相手であるらしい男の考えを先に確かめるべきなのではないだろうか? ここに来て、実は冗談だったの、この十日でどうでも良くなったのと言われたらとんだ道化ではないか……と、恋物語からの逃避を求める思考が一段飛びに道を外れていく。ここに小さな住人たちがいれば腹を抱えて笑われていたところだが、止める者のいない思いは飛躍するばかりである。
 ちょうどつい先ほど、ゼルギオンの蹄の音とともに塔の主が帰ってきた気配があった。そうだそうしよう、とひとまずの方針だけを固め、引っ張り出した本を腫れ物に触るようにまたそっと棚に納めて、レイは早足に広間へと向かった。


      ◇


 ヴァルナードは長椅子に脚を組んで腰かけ、何やら出先で取り交わしてきたらしい書状を眺めていた。広間には横から騒がしく口を挟んできそうな塔の住人たちの姿はない。これぞ勝機、とレイはほとんど戦場での奇襲に臨むような心構えでひとつ大きく息をつき、つかつかと歩いて男の隣――と言ってもだいぶん離れた隣――に、どす、と勢いよく腰かけた。
「な……なあっ」
「なんだ?」
 呼びかけに男の顔がこちらを向いた瞬間、ようやくレイは自分が問うべきが言葉を用意していなかったことに気付いた。
 あれ、なんて言えばいいんだ、としばし固まり、渦を巻く思考の中からここに来た目的を拾い上げる。そうだ、こいつが何考えてるのか訊きにきたんだと思い直し、男の眼をきっと睨むようにして見つめ、
「お、お前、俺のことどう思ってるんだ?」
 なんのひねりもなく、ずばりそのままを口にした。
 問いを発した当人はごく真剣であり、その顔に浮かぶのも冗談を言う者のそれではない必死の表情であったが、この場にほかの住人たちがいればやはり大声上げて笑ったはずで、問われたヴァルナードにしてみれば、え、今さらそんなこと訊かれんの? というのが偽らざる心境であった。
 「例のあの件はどうお考えで?」だの、「ところであそこにいるのが新しい奴隷だが、いかがかな?」だのといったきな臭いやり取りならば数知れないが、冥府にその名を馳せる四王の一柱、『影の王』その人に向かって「俺のことどう思ってる?」などと訊いた者は世にこのかた一人もなく、自分が今まさにその記念すべき初めの者となったことをレイは知らない。
 折から、先のゾゾ大公の件を省察し、この青年に手を出そうという不埒な輩の芽をあらかじめ摘んでおこうと、そうした「きな臭いやり取り」ばかりを続けて面倒を覚えていた頃合である。せっかく手にした鳥を十日も構えてやれていないところにこの問いだ。
 思慮と決断をほぼ同時に行い、ひょいとその頬に手を伸ばし引き寄せ、口付けをしようと身を近付けたが、
「っぎゃあああ!」
 泡を食った叫び声とともに、ぼふ、と音がし、青年は腕をすり抜けてばたばたと広間を駆け去っていってしまった。
 奇異な行動に首を傾げつつ、まったく見ていて飽きない、と笑いをこぼす。
 ちなみに『影の王』に身を寄せられてその顔面にクッションを投げつけ、ぎゃあと叫んで逃げ出した者も今までにいなかったが、混乱してわけもわからず階段を駆け上がるレイはもちろんそれも知らなかった。


「ああもう、何やってんだよ……」
 気付けば蔵書室の階まで戻ってきていた。戦場ならば敵前逃亡で奇襲失敗である。だが相手の唐突な行動にどう対処すればいいのか、その瞬間まるでわからなくなってしまったのだ。
 もはや何をすべきかも思いつかず、深々と息を落とす。二人の少女の言葉は参考にならなかったし、ならばもっと過激な言葉を吐くだろうギィには最初から期待できない。イザエラなら真面目に相談に乗ってくれそうだが、彼女にこうした話題を持ち出すのはいささか気恥ずかしい。
 こんな時にファラエルがいてくれたら彼に相談するのに、と昔馴染みの天軍長のことを思うが、実際に天界の兄たちに「俺、なんか恋とかしてるみたいなんだけど……」などと打ち明けようものなら、レイの知らぬところでたちまち天宮総会議が開かれることは必至であった。
 どうしよう、と俯きがちに歩いていくと、開いた蔵書室の扉の奥にヌグマの姿を見つけた。足を止め、少し考える。絵姿の術師は穏やかで落ち着いているし、年の功と言うだけあって非常な博識である(塔で一番の年長者は実はヴァルナードであるらしいが、まさか本人に相談などできるわけがない)。何か良い案をくれるのではないだろうか、とレイは再び書庫へ足を踏み入れた。
「なあ、ヌグマのじいさん」
 歩み寄りながら静かに呼びかける。平板な身体がくるりとこちらを向き、ん、レイか、と相槌を打った。
「えっと、ちょっと相談が、あるんだけど」
 正面に立って言う。ヌグマはほうと絵の彩色を回し、なんじゃな、と言葉を促した。
「うん、あの……その、な。ええと」
 口ごもりながらなんとか相談の問いを発しようとするが、言葉が見つからない。下手なことを言って笑われるのも嫌だし、やはりどこか決まりが悪い。ジュジュたちは単なる「塔の住人」だが、ヌグマは「塔の主の側近」なのである。あの、その、とくり返すうちに、考えが迷走し、自分が一体なんの答えを求めているのか、そもそも本当に「恋」などというものをしているのかどうかすらわからなくなってきてしまった。何せ生まれてから今まで一度も直に触れたことのない感情である。少女たちの言葉につられて、何か思い違いをしているだけなのではないだろうか、などと、そんな考えまでもが浮かんでくる。
「……悪い。やっぱり、いい」
 呟きを落として自ら思考を断ち切る。はあ、とため息をつくと、ヌグマが笑い声を立てた。
「ほほ、何か困っておるようじゃの」
 そう濁して言いながら、明敏な魔術師はその悩みの大要を既に察していた。まったく我が主ながら罪作りなお人だと内心に苦笑をする。
「お前さんはまっすぐで良い気性だが、少し物事を難しく考える癖があるようじゃの。自分の思う通りにしてみればいいんじゃよ、レイ。それで嫌われるとか、厭われるとか、そんなことは絶対にない。それは儂が保証するよ。自分が何をしたいのか、何をしてほしいのか考えてみるといい。少しぐらいわがままを言っても平気じゃよ」
 少しどころか、この白き天将のためなら我が主はそれこそ玉眼王にさえ刃を向けるだろうと思うのだが、口にはしないでおく。
「思う通り、か……」
 返される言葉にうむと頷き、翠碧色の瞳に決意が浮かんだのを見ながら、さぁこれでヴァルナード様もご満足じゃろう、と思うと同時に、言うのではなかったかな、とも思う、複雑な感情を覚えた。
 塔の地下で初めて顔を合わせた折から、このまっすぐで純粋な天使の青年のことを好もしく思っていた。昏い冥府の地にあっても、明るさを失うことなく平穏に生きてほしいと思ったものだった。その想いは主も同じなのだろうし、『影の王』はそれを彼に与えてやれるだけの力と器を備えている。
 だが、そうあれかしと願いながら、ヌグマは主が青年の全てを手にするのをなんのわだかまりもなく歓迎することはできなかった。それは彼の幸せを望みながら、心の奥底でその変化を憂える矛盾した心であった。
 というかぶっちゃけて言えば、「かわいい孫を嫁に出す祖父」の心境だった。
「ありがとな、じいさん。少し整理がついた」
 言って朗らかに笑うレイの姿に、あああ、やっぱり早まったかも、と思いつつ、しかし今のはナシじゃ! などと言おうものならヴァルナードに呪詛をかけられかねないので、レイ、と書庫を後にしようとする背に最後に呼びかけ、
「……イヤならイヤだとちゃんと言うんじゃぞ」
 そんな今さらな忠言だけを口にして、訝しげに首傾げられる彩識の魔術師であった。


      ◇


 こんこん、と指の背で戸を鳴らす。入室を促す声を板一枚隔てて聞き、レイはひとつ息をついてから、塔の主の部屋の扉を開けた。次に目にした景に、ああ、前もこんなだったな、と思い返す。あの日はまだ陽は落ちておらず、男は机の前に立っていた。昨日のことのようだが、あれから既に半月が経っている。
 暖炉の前の肘掛け椅子に座っていたヴァルナードは、適当に掛けてくれ、と部屋の中を示した。頷いて一番近くの丸椅子に座り、まずは広間でのやり取りを謝った。
「昼間はその、悪かった」
 後で思い返せば、唐突に妙な質問をして枕をぶつけて逃げただけである。なんの事の解決にもなっていないどころか、ほとんど通り魔じみている。
「構わんが、質問に答えたほうがいいのか?」
 問われ、首を振る。
「も、もうそれはいい」
 全くいいわけではないが、今はとにかく、自分の思うことを先に口に出さねばと思う。
 ちらとヴァルナードの顔を見上げ、
「その、俺はお前のこと、嫌いじゃ……」
 ない、と続けようとして、ぱたりと口をつぐみ、違う違う、と首を振る。思う通りと決めたではないかと、半ば義務感に駆られているレイである。
 膝の上でぐっと拳を握り、言う。
「お、お前のこと、好きなんだ」
 ……たぶん、と付け加えるのは、自分ながらに自分の心が良くわかっていないためであったが、もはや頭の中は退いては負けだ、という敵陣突入前の将の状態にあり、すなわちレイとしては今の状況はほとんど戦であった。しかし、当人以外には誰がどう、たとえ戦場に飛び交う怒号の中で聞いたとしても、その言葉は単なる告白のほかの何ものでもなかった。
 部屋の前まではヌグマの忠告をしっかりと胸に容れ、それなりにまともな心理状態にあったのだが、扉を開いた瞬間に出遭った既視感に今までに相対したことのない強烈な緊張が弾け、常は堅調な常識的思考が、自分でも気付かないほど静かにしかし思い切り吹き飛んだのであった。
 今や完全に戦時の高揚状態にあるレイは、半分以上無意識の状態で話を続ける。術師の忠告だけはしっかり頭に残っているので、「思う通り」に口からこぼれるのは、言葉というよりほとんど意識の流れの羅列である。
「す、好きってのはあれだぞ、俺は鳥も動物も天界の兄貴たちも好きだけど、ここに住んでるやつらも好きだけど、そうじゃなくて、いやそうなんだけど、少し違うっつーか、なんかもっと別の意味の……。く、悔しいけど、むかつくしすっげぇ悔しいけど、俺、お前には敵わないと思うし、でもだから言うこと聞くっていうんじゃなくてだな」
 変人で強引で不遜な態度を崩さない男に、しかしどういうわけか自分は憧憬のようなものを抱いているし、その手元にいさせてほしいと、いたいと、思ったのだ。つまり――  つまり――それが「恋」というやつ、なのか?
「う、うあああっ、言えるわけねぇだろ、そんなん!」
 実際はとっくの初めにそれと同義のことを口走っているのだが、自分の中の熱を顧みるので精一杯な今の青年には酷な回想である。
「駄目だ。やっぱり駄目だ。もう俺の負けでいい……」
 頭を抱えてふらりと立ち上がる。勝手に戦の幕を切って勝手に敗北宣言をし、戦線離脱を試みたレイの身体がぐいと何かに引き掴まれてその場に止まった。視界がふっと暗くなったかと思うと、次の瞬間には、敵――ヴァルナードの腕の中にいた。しかも、後ろから抱き込まれて膝のあいだに座るという、考えられない姿勢である。
「は、離せっ」
「離さん」
 じたばたともがくが、肩の上から翼ごと身体を抱え込んだ腕の力はゆるまず、そうきっぱりと言い落とされてしまう。
「まったく本当に、予想がつかんな。お前のお守の者たちはさぞ幾度も肝を冷やしたことだろうな?」
 愉快げな声とともに、あいだに挟まった翼がゆるやかに撫でられた。十日前のあの騒動を思い出し、ぐっと身の動きを止める。
 ここにいたい。あの日から胸に居座るその想いは、嘘でも思い違いでもない。この塔にいたい。この男の手元に――この手の中に、いたい。
 それは天に戒められる執着という感情であるのかもしれなかった。もとより男は、天界の清浄とはまるで相容れないところに寄する存在であるのだ。
 だがもう駄目だ。敵わない。男の存在にも、自分のもてあます心にも。
「レイ」
「……うぅ」
 だって、男の腕は、耳に注ぎ込まれる低い声は、身に心地すぎるのだ。
 緊張と混乱に揺れるまま全く相手の心の機微を捉えられていないレイであったが、降参するほかない、と思っていたのは、双方同じだった。
「これでも急くのはよそうと思っていたのだがな」
 苦笑交じりの言葉が早いかくるりと身体が半回転させられ、頭が肘掛けについた相手の腕に倒れたかと思う間もなく、男の上体が折れて近付く。重なった唇が軽い音を立てて離れ、囁きが落とされた。
 ――愛している。
 きょとんとして、直前の行動と短い言葉をゆっくりと咀嚼したのち、内心でぎゃあと悲鳴を上げた。こういう時どうすればいいんだった? と昼間の記憶をたどる。恋物語のうちの様々な言葉がよぎったが、どれも一考の余地なく却下だ。剣を抜く? この体勢では無謀に過ぎる。
「ま、待て、待て!」
 果たして何を待たせようというのかわからなかったが、一度、とにかく一度止めねばと声を張る。ヴァルナードは不満も漏らさずすぐに自分とレイの身体を起こし、初めの体勢に戻った。そのまましばし肩で息をついて、どうにか落ち着きを取り戻そうとする。ひとつ大きく呼吸をして視線を上げると、机の上の大窓が目に入った。陽が落ちたばかりの空は、深色の層を成している。赤く紅く燃え、やがて紫紺に暮れゆく刹那の情景。
 ふっと、意識が途絶えたようだった。一瞬後に胸を埋めていたのは、いくつかの言葉とひとつなぎの音律だった。ただ想う通り、心のまま、口に乗せる。


 風の荒れ巻く朝に鳥独り
 翼を散らして翔ける
 大樹は問う 何ゆえに飛ぶと 目指す地はいずこにやと
 鳥は風に応え
 あの空ゆえに飛ぶのだと奏づる

 雨の降りしく夜に鳥独り
 翼を濡らして翔ける
 大海は問う 何ゆえに行くと 目指す夢はいずこにやと
 鳥は雨に応え
 あの空ゆえに行くのだと奏づる

 ただ、あの空ゆえに焦がるのだと。


「天界の唄か?」
 問いに小さく頷く。何かわけを言わねばと口を開き、言葉を継げずに舌を固めた。歌いたい気分だったから? 妙を越して異常である。子どもでもあるまいし、人の腕の中で、それもこともあろうにこんな場面の間に歌の衝動に駆られるなど、突飛もいいところだと、さすがに自分でも理解していた。
 天で織られるほかの多くの唄と同じく、この唄も天父と天の士たちとの繋がりを謳ったものとされていた。だがそうした精麗な心で唱えるより、何か今のような混濁した心で唱えたほうが、よりふさわしく響くように思えたのである。とは言え口にしたのはまったくの気まぐれ、不可解な気まぐれであるはずだった。はずだったが――背後でそうかと頷くヴァルナードの声が、喜色を帯びているように聞こえた。
 ……ひょっとして自分は今、何かとんでもないことをしてしまったのではないだろうか?
 正確には今どころではなく部屋に入った時からとんでもないことを重ねており、じわじわとそれに気付き始めたレイだったが、全ては後の祭りである。
 逃げたい。
 堰を切ったような強烈な恥ずかしさと居たたまれなさに襲われてまた身をよじったが、籠の中ならぬ腕の中の身体はやはりぴくりとも動かない。
 に、逃げたい逃げたい! つーか俺、何やってんだっ?
 この部屋で交わされた言葉も行動も、全て本の中での出来事ではなく、紛れもない現実である。しかも話を進めていたのはほぼ自分である。今からでも窓から飛び降りたい。できるなら斬りたい。
 剣呑な手段にまで思い巡らすレイは、この夜のうちにそんな最終手段さえ浮かばなくなるような、今とは比較にならないほどの照れと羞恥の極みに達することになるのだが――それを知るのはまだ数刻先の話である。
 真っ赤に染め上げられた天使の耳元に、いじらしい恋歌を受け取った王の笑い声がくつくつと落ちた。


Fin.
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