――とん、とん。
 軽いノックの音にぼんやりと目蓋を上げた。
 いつの間に寝ていたのか、暗い部屋に窓から月明かりが差し、床に濃く影を落としている。天井を見上げたまま覚め切らない目をこすっていると、
 ――とん、とん。
 ゆるくくり返されるノックの音。レイはのろのろと上体を起こし、入れよ、と寝室の扉に向けて声を投げた。気配と戸の鳴らし方とで立てた予想の通り、ゆっくりと押し開けられた戸の向こうにあったのは、黒衣の塔主の姿だった。
 後ろ手に戸を閉め、ゆるやかに歩を進めて、寝台の横の椅子に腰を下ろす。三日のうちに日常となったその動作ののち、いつもならなにがしかの言葉とともに開く唇が、幾秒経っても動かなかった。
「……なんだよ」
 居たたまれずに自分から訊ねた。特に用事もなく寄ったのなら、二度も戸を叩いて来たことを知らせる必要はなかったはずだ。
 漆黒の右と虚ろの左がすうと閉じ、一瞬後赤い点光がまた現れたのをしかと認める間もなく、ぐいと肩が引かれた。長座の姿勢が崩れ、頭がヴァルナードの首元に埋まる格好になる。おい、と抗議の声を上げて離れようと身をよじる前に、相手の腕が肩を離れて後ろに回り、明確な意図を持って、背に、――翼に、触れた。
「やめっ……」
 はっとして引きはがしにかかるレイをものともせず、手は翼の付け根から先端までをするりとひと撫でし、先羽をゆるく握る。そうして、
「……まだ飛べるな?」
 はらりと宙に舞う一枚の羽とともに、低く声が落ちた。
 頭の芯が冷えるのを感じた。身じろぎをぴたりと止め、咄嗟の言葉を返すために口を開いたが、舌も喉も引きつり震えを立て、思うに任せなかった。
 幾度目かの試みでようやく絞り出した声は、ひどくくぐもって聞こえた。
「知って、たのか……?」
 問いの形にしたが、答えは明らかだった。むしろ、なぜ己がそれを隠し通せていると思っていたのか、今はそれこそが疑問に思えた。
 この羽は、と相手の返事に先んじて繕おうとして、続く言葉が出ずに唇を噛む。何を言えばいい? 良くあることだとでも言って笑えばいいのか? 二度も翼に触れる手を拒んだ後で。
 混乱をなだめるようにまた指で一度翼をゆるやかに梳いてから、ヴァルナードはそっとレイの肩を押して身体を離した。正面に顔を見合わせ、ややあって、ゆっくりと薄い唇が開く。
 ――嫌だ。聞きたくない。
 落ちる翼への問いも、懸念も、気遣いも、あるいは――『鳥』でなくなりつつある者への失意の言葉も。要らない。聞きたくない。
 想いはただ胸の内に強く響くのみで声にならず、相手の言葉をさえぎることもなかった。
 冥府の主に似る、低い、色乗らない声。
「レイ。お前は」
 翼への問いでも、懸念でも、気遣いでも、そして失意でもない。
 万に一つの予想もしなかった、短い言葉。
「お前は、天界に帰るべきだ」
 息が止まった。声は理解至らない音のまま鼓膜を揺らし、頭の芯を揺らし、その意味だけを残して消えた。
 テンカイニカエルベキダ。
「な、」
 反射に声がこぼれる。
「なに……なに言ってんの、お前。笑えねぇよ。そんな冗談……」
 言いつつ、自分の顔がいびつな笑いを浮かべているのを感じる。焦点の合わない目で男の顔を見つめた。笑ってくれればいい。いつものように、不遜で鼻持ちならない、穏やかな笑いを返してくれればいい。そう願うと同時に、思い出してもいた。
 ――そんな趣味の悪い冗談なら自ら口にしようとは思わんな。
 初めに言われたその言葉は、自分の知る限り、嘘ではなかった。揺れ動くことのない闇の奥の赤い点光が、何より雄弁に答えを語っている。
「冗談じゃ、ないなら。どういう……だって、天界にはもう戻れねぇのに。取り決めがあるんだろ? 協約が」
 あるんだろう、と続ける自分の声がひどく厭わしく聞こえた。こんな、子どものような、必死にすがりつくような声、と苦みを噛みつぶし、しかし言葉にせずにはいられなかった。
「……知っていたのか」
 協約のことを。意外の色を顔に出し、ヴァルナードが言う。
 今日聞いた、と小さく答えつつ、返った言葉に改めてその存在を確認し、同時に疑念を膨らませた。いつ交わされたのかもわからないその約定は、今も確かに力を持っているのだ。ならば、先の男の言葉はどんな意味を持つ? 不可能なことを、どうやってすべきだと言うのか?
 訥々と並べた問いに、
「特例だ」
 短い音が返る。特例、とくり返すレイに首肯を示し、ヴァルナードは静かに言葉を紡いだ。
「玉眼王を通して、――私が、天の主にお前のことを報せた」
「っ……!」
 声なく目を見張り、跳ね起きようとする身体を肩に置かれた手にぐっと押しとどめられた。
「お前は、羽が落ちるのを自分の責だと思っているようだが」
 揺らぎなく、声が続く。
「それは違う。お前自身に理由があるとするなら、それは血の由だけだ」
「血……」
「天使の血、天使の性だ。羽が落ち、力を失って倒れたのは、この地の故」
 お前が光を源とする天使で、この地が闇を源とする冥府であるが故だ。
「……違う」
 幾度も首を振る。違う。そんなはずはない。だって、
「羽が、抜けるのは……俺が」
 天使の心を失ったから。天使の理と命を失って、堕ちつつあるから。
 恐れ隠し続けた言葉を声にし、強く言いつのる。ここにおいて――今夜部屋を訪れて初めて、ヴァルナードがふっと口の端に笑みを浮かべた。
「いかなる時であれ、その評釈を信じる者がいるとは思えんな。お前は天の存在だ。何にも侵されない、強くうつくしい光だ」
 だからこそ、とゆるやかに言葉を続け、
「もう、ここにいるべきではない。このままいれば幾月も経たないうちに、身も魂も、滅びる」
 これはその兆しだ、と翼を撫で下ろした。
 レイは抗いをやめ、黙って口を閉じた。その身が倒れず自力に起きているのを確かめるようにしてから、ヴァルナードが肩を掴んでいた手を戻す。そのまま横手を向き、暗闇に声をかけると、一瞬の静黙のあと、ゆらりと立ち昇る赤い光とともに、塔の参謀、彩識の魔術師・ヌグマの絵姿が隣に現れた。冷える心の中でレイはぼんやりと得心した。彼らは知っていたのだ。そして知っているのだ。己よりも深く、何もかも全てを。
 レイの心を察してかどうか、解を示すように、男がまた口を開く。
「羽が落ち始める前から気が付いていた。お前の言う通り、天界と冥界は数千年前に協約を結び、交わりを制じた。もっとも、冥府においては玉眼王がその威と力をもって約を果たしているだけだが――本来なら、たとえ白の都の出の者とは言え、天に戻ることはできない。それを承知で報を送った。お前が生きて冥府にいること、そしてこの地の負性の故に、危局に瀕していることを報せた」
 届くのにも返るのにも、相当の間があったがな、と言う。
「……それで、なんて」
 語られる言葉を呑み込むことができないまま、呟くように問う。声に否定の色がにじんだ。まさか、あの正と理を、ほころびのない秩序を尊ぶ天父が、闇を魔を忌避する天の民が、それを許すはずがない。
「簡潔に言えば」
 今夜、返る答えは、
「承知と承諾だ。お前を、再び天に迎えると」
 全て慮の外、嘘のように鳴る。
 ひとつの声も返せずに黙り込む。話で聞くよりも実を見たほうが早い、と男が参謀に呼びかけ、絵姿の魔術師がふわと前へ進み出た。方形の額の中の紋様が波立ち、鏡のごとき光沢を張ったかと見えた次の間に、鏡面の上にじわりと文字が浮かび上がる。
「……親父の、字」
 丁寧につづられた文の中に、自分の真名が見えた。
「これは天主の手による物ではないが」
 ヴァルナードが言い、影の衣から数枚の紙を手に取り出す。
「魔鏡から映した、天主からお前に宛てた伝言だ。経緯と、今後について、全て書いてある」
 差し出された書状を緩慢な動作で受け取り、目を落とした。いつの間にか灯されていた明かりの下に並ぶ天の法による文字が、もう何十年も久しく目にしていなかったもののように感じられた。
 手紙はまずレイの無事への慶びと、謝罪を語る言葉から始まっていた。大戦について、生命の樹について、冥界について。贅言のない悔悟と陳謝を述べたのちに、話題は冥界からの報せに移った。何百年と互いに働きかけのなかった冥府からの突然の便りに、そしてレイの無事と、その身に迫る危急の報せに、どれほどの驚愕が天宮を見舞ったか、どれほど長く協議の場が持たれたか、事細かに記されていた。
 やがて至った結論は、ヴァルナードの言葉の通りだった。
『お前は私を許さないだろう』
 長い文章の末尾に、そう書かれていた。
『どんな謗りも罵りも受けよう。二度と私を父と呼ばぬと、そう決めても構わない。ただひとつだけ、最後の許しを乞いたい。この身の恥を知りながら、お前をまた天に迎える許しを。お前の無事を願う許しを。
 ――愛する我が子へ』
 書状を持ったままの手を膝の上に落とす。混濁した心はいくつもの言葉を浮かべては消し、ひとつも音にはさせなかった。
 ふっと絵が彩色の紋様に戻り、隣に低く声が落ちる。
「……勝手だとは思うが」
「勝手だろっ!」
 ぐしゃりと手の中に紙を握りつぶし、言葉をさえぎって叫んだ。
「なんで、こうなるんだよ! 勝手に世界を隠して、勝手に地下に押し込めて、勝手に鎖をつけて、全部、勝手に決めて、なんでこんなこと、今さらっ……ふざけんな!」
 遥か空の彼方、記憶の中の天父に吼え立て、今ここにいる影の王の顔を睨み上げる。烈しい怒気に臆することなく、ヴァルナードが応える。
「反論はしない。弁明もない。お前の言う通りだ。今度のように、多少の無理をすれば天界と交信できることも、報せが届けば天の主が帰還を拒むわけがないことも、私は知っていた。知っていて、己のために隠し、今になってやっとそれを伝えた」
 滔々と流れる言葉に、小さく首を振った。
 違う。
 今さら。その言葉は、天界に自分の身を報せなかったことを責めるものではない。今、なぜこの時になって、想いを寄せてしまった今になって、こんなこと。
 では責めるべきは、責められるべきは――
 嗚呼、己だろうか?
「レイ」
 言葉を失ったレイに、沈黙に徹していた老爺の穏やかな声がかかる。
「お前さんの憤りはもっともじゃよ。もっと早く話せればよかったが、天界に戻れるかどうかわからぬうちに教えることはできなかった。儂らにとっても予期せぬことでの。お前さんは高位の天使じゃから、負性の障りが強く出たのかもしれん。もうあまり……時間が、ないんじゃよ」
 事を噛み砕くように語ってから、ふわり、平板な身が浮き上がる。
「あとはお前さんが決めることじゃ。だが、儂らも同じじゃよ。レイ、お前に無事であってほしい。安らかに穏やかに、生きてほしい。それは、今この地では適わぬことじゃ」
 それを憶えていておくれ、と言い残し、絵姿の魔術師は赤い光とともに部屋から消えた。
「……そうだな。時間がない。レイ」
 ヌグマの言葉を継ぎ、ヴァルナードが口を開く。
「天界と交わした今度の約定は、天とこの地とを繋ぐ道を一度限り開き、お前が独り抜けること。道が開くのは、――二日後だ」
 告げられたあまりにも近い日限にはたと顔を見返すが、訂正もなく、声は続く。
「天への道までは案内をさせる。明日のうちに荷造りを済ませてくれ。ヌグマはああ言ったが」
 ひとつ呼吸の間を置き、
「お前の出す結論がどうあっても、私はお前の身を天へ帰すつもりだ。ここまで来たなら、最後まで勝手を貫かせてもらおう」
 冗談のように吐く声は、言葉そのものの意味とは裏腹に、まるで平坦に鳴った。
 その意、闇の世界の王と光の世界の王の心を、その深みまで汲み取ることができないほど、ここまで明瞭な真を見て見ぬ振りして憤り叫んでいられるほど、レイは愚かではなかった。
「……わかった」
 短く諾を唱える。ほかにも言わねばならないことは様々にあるような気がした。最後なのだから。きっと、そう、男がこうして隣にいるのは、今夜が本当に、最後なのだから。
 それでも舌に絡まり唇を滑り落ちるのは、あの日――山羊の王の居を訪ね、冥府の住人の言葉に心打たれたあの日から、ずっと胸に巣食っている卑小な想いだけだった。
「わかってたんだ。いつかこうなるって」
 立てた膝に腕を置き、顔をうずめ、震え混じりの声を落とす。
「俺は、天界の人間で、ちっぽけな鳥で。どうやっても、冥界のものにはなれない。何もかも違い過ぎて、ずっとこのままでいることなんて、ずっと、そばにいることなんて……絶対できない、あり得ないんだって、わかってたのに」
 わかっていた。わかっていたはずだった。
 だのに、いつの間にかそのあり得ないことが日常になって、それがあり得ないのだということのほうをこそ、信じたくなくなって。
 わかっていたはずの「いつか」に、今こうして、無様に傷付いている。
 ぎしりと寝台が鳴る。伏せていた頭を起こされ、顎を引き上げられ、目蓋を開ける前に口付けられていた。
 一瞬、男の薄い唇に歯を立ててやろうかと思った。肉が裂け、血が流れ込んでくるのを想像した。赤い血の色を想い、錆びた鉄の味を想い、その熱さを想って、やめた。浅く深く唇を食まれ、息を呑まれるたびに、胸が突き刺されるように痛んだ。
「――私は」
 ついと、前触れなく顔が離れ、声が落ちる。
「私は、そうは思っていなかったがな」
 意味を問う前に肩が押され、力の抜けた身が寝台に倒れた。長い指に髪が梳かれる。明かりが絶え、今日は寝ろ、と短く声が鳴った。
 ひとつ目瞬きをした次の間には、男の姿は消えていた。
 耳元に残った低い声の穏やかさ――優しさに、今度は鈍く深く、胸が痛んだ。



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