5
数日の間、慌ただしく時が過ぎた。
帰還の翌日は朝から代わるがわる人が訪れ、口々に再会の喜びを語った。天宮を出る間もなく夜になり、宴を歓喜と祝福の歌が彩った。やがて夜宴は都の住人たちのやまぬ往訪に応えて場所を宮城の外に移し、時を忘れて続いた。遊興の用で夜を徹したのは初めてのことだった。
軍の所属部隊に戻って自らの鍛錬と兵卒たちの訓練を再び日課とし、その合間に天界のあちらこちらを訪ねて帰還の挨拶を届け、夜は早く宮城に帰って兄たちと不在の間を埋める言葉を交わす―― 一日一日、ゆっくりと確実に、日は巡った。
帰還の日からすぐに失った力を戻し始めた翼は、七日が過ぎる頃には完全に平常の状態に回復し、羽が落ちることもなくなっていた。
時は何も語らずただ流れるままに流れる。寄せる言葉も返る言葉もなく、身がゆるやかに静穏に埋もれていくのを感じながら、半月の間、レイは漠として故郷の日を過ごした。冬はしんしんと深まり、風を冷たい透色に染めて雪を散らした。
春はまだ、遠いように思えた。
朝から非番の一日、持て余す時間をどうやって潰そうかと考えるうちに、レイは天宮を発って都から離れた僻地の上空を独り飛んでいた。特に行く当ても定めず、高度を保ち、気流に任せてゆったりと翼を動かす。
魔の荒野を遠く右手に眺め、雪に覆われた高原の空を南下しながらふと前方の地上に目を落としたところで、一面の白の上にぽつり、生き物の影があるのに気がついた。鹿か何かだろうか、こんな広い高原の真ん中に珍しい、と思いながら風の中に目を凝らすが、前を行く生き物の姿形は明らかに四つ足の獣のものではない。
首を傾げかけるのと同時に、かすかな人の声が耳に届いた。
悲鳴だ、と理解を全身に回すよりも先に、翼を速めていた。ぐんと速度を上げ、目標に向けて斜めに降下していくと、徐々にその急事が近付き露わになる。
獣と見えた黒い影は一体の魔族だった。雪を蹴散らす巨体の先に幼い子どもが走っているのが見える。懸命に駆けているが、レイが降下する間にも両者の距離は縮まり、ついに限界が来たのだろう、小さな身体は新雪に足を取られ、白い地面の上に投げ出された。魔族は成す術ない獲物に見せ付けるように太い腕を頭上に掲げ、咆哮と共に振り下ろした。
柔らかい肉に突き立つはずの爪が空を裂き、一瞬遅れて、手首ごと宙へ舞い飛ぶ。
苦悶の叫びと噴き出す血を避け、雪の上を滑るように距離取って降り立つ。突如現れたレイに目を丸くしている子どもの身体をそっと地面に下ろし、その前に立ち塞がって強く声放った。
「ここは天の領分だ。頭の方を斬り飛ばされたくないなら、早くてめぇのねぐらに帰れ」
双剣を抜いて構えながら周囲に目を走らせたが、見通しのいい高原の上に他の同族の姿は見えない。何事につけ群れなす習性を持つ魔族、まして境を越えてやって来た侵入者にしては珍しいことだった。
ゆらりと魔族の上体が起き上がる。その動作と身から感じる力にも、何か異様な気配があった。そもそも、単体ではまず勝ち目のない高位の天使に一喝され、逃走を図らないところから既に奇妙だ。
もっと離れるようにと背後の子どもへ用心の声をかける前に、魔族がきしんだ咆哮を上げて地を蹴った。自分だけ横に避けることはできない。咄嗟に左の剣を投げ放ち、空いた手で再び子どもの体を抱えて空に飛び上がる。急襲を受けてたたらを踏んだ魔族の頭上高くで身を返し、一気に降下して、剣身を延髄にまっすぐ突き立てた。厚い肉に抵抗を受けながらも体重をかけて刃を通し、がくりと巨体が前に揺れたのを認め引き抜く。子どもの体をかばい包んだ翼が噴き出た血に濡れた。
魔族が倒れ伏す前にその肩を蹴って離れ、子どもを再び腕から降ろす。
「大丈夫か?」
声をかけられ、いまだ事を飲み込めない様子で震えながらも、まだ十歳ばかりに見える少年はうん、と答えて頷いた。栗色の髪をした、翼を持たない天人である。おそらく近くの集落の子どもなのだろう。
家はどこかと訊ねかけたその瞬間、はたと子どもの目が驚愕に開いた。
「騎士さま!」
叫び声より一瞬早く、レイの耳は後方から迫る風音を聞きつけていた。子どもを突き倒すのと一緒に自らも雪の上に転がる。腕の横を何かが過ぎ、鋭い痛みが走った。その正体を確かめる暇もなく今度は前から飛びかかってくるのを、素早く上体起こして剣で横に薙ぎ払った。鈍い音と共に左右に落ちたのは、初めに斬り飛ばしたはずの魔族の手だった。
仰向けに倒れた少年がレイの後方を見、かすれた声でまた騎士さま、と呼ぶ。振り向くと、首に剣を突き立てられて一度は確かに倒れた魔族が、ゆらりと雪の上に起き上がるところだった。
「な……?」
思わず声を漏らしてその様を見つめる。魔族はふらつきながら再び二本の足で立ち上がり、こちらに頭を向けた。息を呑んだ。
(死んでる)
虚ろに開いた目には意思も感情も宿っていない。身体は緩慢に動いているが、確かに絶命している。死にながら、なお立ち上がり、獲物を探している。
足が一歩こちらに向かって動いた。理由を考えている暇などなかった。剣を構え直し、聖銀の刃に雷光をまとわせる。子どもにその場を動かぬよう言い置いてから先手を打って地を蹴った。魔族は眩い光の刃にたじろぎ――と言うよりも獣の反射に近い身震いを見せたが、もはや防御の手は間に合わなかった。
「はあっ!」
気合いと共に一閃を放つ。
剣は胴を左から右にまっすぐ切り裂き、レイの真言に応えて縦横に流れる雷光が巨躯を焼く。血すら流れ出ることなく傷口から炭化が始まり、ぐらりと後ろに倒れた身体が雪原に灰を散らして崩れた。
レイは剣を身に引いた動きのまま子どもの元に駆け戻り、斬り飛ばした手首の残骸を同様に浄化した。手は元の身体を離れふたつに割られながら、なおかすかに動きを立てていた。
呆然としながら剣を鞘に納めたちょうどその時、子どもを呼ぶ声が遠くから聞こえてきた。
レイの応答の声を聞いて駆けつけてきたのは子どもの母親と、同じ集落の住人なのだろう二人の男だった。母親は翼に返り血をつけたレイの姿と雪上にくすぶり残る魔族の残骸を見て驚愕の色を浮かべ、震える叱責の声をかけながら子どもを抱きしめた。
子どもは柵から逃げてしまった仔馬を探して独り集落を離れ、道を外れて魔の荒野との境に近付いてしまったようだった。足跡を辿るうちに魔族が子どもを追い始めたのを知り、男手を呼んで必死に駆けてきたらしい。魔族への恐怖と興奮の覚めやらぬまま幾度も頭を下げる母子を促し、若い男を先頭に集落へ向かって歩き出す。
最後列に立って周囲に気を配りつつ進みながら、レイは隣を歩く壮年の男に訊ねかけた。
「この辺りに魔族がああやって一匹だけで入ってくるのは珍しくないか?」
荒野との境が近い以上、魔族の侵入の恐れがない土地ではない。しかし秩序なく群れで行動する魔族は目につきやすく、強い負性と血の臭いを隠そうともしない悪鬼たちの侵攻は、よほど大がかりなものでもない限り、境の番兵にあっけなく阻まれるのが常だった。ことに今は、先の戦を受けて境界の警護が厳しくなされているはずである。それをすり抜けて単体でこちら側に渡ってくるなど、実際に我が目にしたのでなければにわかには信じがたかった。
男はレイの言葉にええ、と頷き、
「普段ならそのようなことはほとんどないのですが……実は少し前にも同じようなことが起きまして」
そう答えた。
「同じ? 魔族が入ってきたのか?」
「はい。私が知る限りでは二回、魔族が一体きりで現れました。二回とも物見台から境の辺りをうろついているのを見ただけで、集落のほうに近寄ってくるようなこともなくどこかへ行ってしまいましたが」
何かあるのでしょうか? と不安げな面持ちで問い返してくる。このあたりは先に実際の戦場になった土地ではないが、悲劇の報は生々しく届いているのだろう。レイは努めて声を平静に保ち、
「俺も今初めて知ったんだ。いつ頃からなんだ?」
重ねて訊ねた。
「確か、十日か……半月ほど前だったように思います」
半月、と口の中で繰り返し、そのまま声を続けず閉じる。
たどり着いた集落で浴びた感謝も耳半分のまま、あまり境へ近付かないようにとだけ言い残し、レイは深い思案を連れて空の道をまっすぐ天宮へと翔け戻った。
◇
二階の外廊に直に降り立ち、主殿を目指して足を速めた。何か胸騒ぎがした。魔族の侵入という慮すべき事案はもとより、侵入してきた魔族そのものの奇妙さが気にかかった。斬り離した手が爪を立てて飛び、確かに死んだはずの体が再び立ち上がり動く。並の魔族では有り得ようはずのない力。
あれはまるで、まるで――
大きな騒ぎにまで繋がっていないとは言え、天界の中でのこと、まだ報告がなされていないとは思わなかった。だがレイは足をゆるめなかった。報せが既に入っているのなら、今わかっている事情を聞けばいい。そうやって何かに背を押されるようにして、ついには駆け出しかけたところで、向こうから曲がってきた同胞と鉢合わせになった。
寸前で衝突を避けて空足を踏み、悪い、と頭を下げてそのまま行こうとすると、ぐいと肩が押しとどめられた。上げた視線の前にいたのは、目付け役の兄だった。
「げ」
思わず漏らした声にため息の音が返る。
「げ、じゃあないだろう。廊下を走るなと何度言えば」
「いやその、ファラエル、俺急いで……あ」
始まりかけた小言を慌ててさえぎり、ふと言葉をつぐむ。どうした、と訊ねるファラエルの袖を引いて元の道を戻り、外廊の隅に立った。
まっすぐ顔を見上げ、声潜めておもむろに言う。
「ついさっき、境のこっち側で魔族を見つけた」
ファラエルがわずかに表情を動かすのを確かめ、言葉を続けた。
「普通の魔族じゃない。群れを作ってもない一匹だけだ。妙な奴だった。斬っただけじゃあ死なねぇし、切り離した手が勝手に動きやがった」
何か知らないか、と問いながら、答えが返る前に確信を持った。幼い頃から幾度も見た顔が眼前にあった。言うべきか言わざるべきか迷う顔。若い弟への気遣いのために躊躇う顔。指摘はせず、報告を重ねる。
「最近になってちらほら出てきたって聞いた。俺は、それよりずっと前に、似たような奴らを見た気がする。あれは」
あれはまるで、『生命の樹』によって力増した異形のようだった。
「レイ」
「それだけじゃない」
呼びかけを割り、言いつのる。
「妙な魔族たちが出始めたのは、半月ぐらい前だって、聞いた」
半月前。
それは、自分が故郷へ戻った時分のことだ。
数秒の沈黙の後、レイは視線を落として呟いた。
「……偶然じゃないって、お前の顔見ればわかる。教えたくないと思ってるのも、わかる」
でも、と続ける。
「知りたいんだ。俺、どうしても――」
なぜか、を己に問う必要はないように思えた。答えることもできそうになかった。ただこの糸の口を放してはならないと、知りたいと、強く思った。
一歩後ろに足を引いて離れ、頼む、と深く頭を下げる。ややあってから、ふっと頭上に息の音が鳴り、肩に手が置かれた。
「着いてきなさい」
姿勢を戻し、どこへ、と問う前に、ファラエルがきびすを返して歩いていく。レイは一度深く呼吸し、その背を早足に追った。
無言のまま廊下を歩き続けた。ファラエルの足は迷いなく主棟を過ぎ、宮城の裏に位置する離れを奥へ奥へと向かっていた。ひと気のない古い造りの建物は、今はほとんど使われていないはずだった。
「この先の扉は全部閉め切られてるんじゃなかったか?」
確認の問いを発すると、
「少し前まではな」
短く答えが返り、声の終わりと同時に足が止まった。
前にあるのは別棟の最奥に位置する平建ての小さな部屋だった。その規模に似合わぬ重々しい両開きの扉が中を閉ざしている。昔から探究心の旺盛だったレイは、自分が行くことのできる場所とできない場所を良く知っていた。それは確かに、自分だけではなく、全ての同胞に対して、立ち入りの許されていない扉のはずだった。
「私が生まれた頃から既にこの門は閉ざされていた」
扉の前に手をかざし、ファラエルが言う。
「だが、今は違う。後でお前にも教えよう」
お前にも知る権利がある。そう続けた後の声は耳慣れぬ真言だった。手に宿った光が幾本もの線に分かれて扉の表面を渡り、やがて合わせに隙間が現れたかと見えた次の瞬間には、両の戸が内側へ音なく開いていた。
中へ、と促され、ゆっくりと足を踏み入れる。背後でファラエルが扉を閉ざすと一面に暗闇が落ちた。窓も灯かりもないようだった。
しばし目瞬きを繰り返し、次第に闇に慣れた目で部屋を見回す。四方を壁に囲まれた狭い部屋。初めに目についたのは、扉の数歩先に設えられた、腰ほどの高さの台座だった。台座の上にはこぶし大の水晶が据えられており、どこからか漏れ入るかすかな光を集めて照り返している。
それは見るからに強い力の宿る秘石であったが、台座を辿って視線を徐々に床に進めたレイは、部屋の主がその水晶ではないことに気付いた。
「……これは?」
台座の先の床が不意に一段下がり、窪みを成している。窪みは部屋の中心に縦に広がる方形をかたどり、その中に水が張り満たされていた。
「鏡だ」
「鏡?」
傍らに落ちた声をおうむ返しにしつつ、語の意味を辿る。
鏡――魔鏡。
あ、と漏らした言葉にファラエルが首肯を示す気配がした。
「遥か古の時代から天界と冥界を結んでいた。また遥か古に閉ざされ、封じられた」
そして時は巡り、冥界からの報せが再び扉を開かせた。
「先日、私は天使長たちと共にここで冥界の様子を見た。そのとき映ったものが何を示しているのか、何が起こっているのか、詳しくは知らない。お前の帰還に関わることなのか、それもわからない」
静かに説きながら、ファラエルは台座に手を伸ばした。真言が紡がれ、水晶が淡い輝きを帯びる。
「自分の目で確かめてみるといい。私が鏡を冥界へ繋ぐことはできないが、短くともあの地に身を置いていた者にならその力があるはずだ。水晶に手を触れ、念じてみなさい」
兄の勧めに頷きを返し、レイはそっと水晶の上に手を持ち上げた。ぼやりとした輝きを覆うように手のひらを置き、目を伏せて遠い闇の地を胸に思い描く。いくらも経たぬうちに、指の下で小さな衝撃が爆ぜた。落ちた床の中心に白い光が宿り、さざめきを起こしながら水面を四方に渡っていく。見る間に白光を全域に満たした水の板は、暗い部屋の天井を映す方形の魔鏡と化した。
やがてその鏡の中に、じわり、陰がにじみ始めた。
薄い翳りは次第に色深めて濃い線を紡ぎ、ひとつの情景を水面に描き出していく。まず初めに鈍色の空が、次いで切り立つ岩山が見えた。異界を覗く鏡は岩肌に沿ってゆっくりと視線を下ろし、やがて、峡谷の乾いた砂地と、ある騒乱の火をその身の上に浮かび上がらせた。
いつかこの目で見下ろした光景と、その画は良く似ていた。耳映ゆい唸り声さえ水面を通して聞こえてくるように思えた。数十数百の魔族の群れが雑然と列を成し、峡谷に詰め寄せていた。
一瞬何を視たのかわからなかった。繋ぐ先を間違ったか、と戸惑いとともに覗き込む鏡の中、不意に像がぶれ、並ぶ魔族の一団が巨大な衝撃の波に吹き飛ばされるのが見えた。魔鏡の目は衝撃の元を追い、ひと振りの大剣を映した。
人の背ほども丈のある幅広の黒い刃。握っているのは、冥府の王の一柱、黒鎧の将軍・オーヴェンダークだった。
慮外の景に言葉を漏らす間もなく、鏡はさざめきを立てて画を送る。寄せる魔族の群れをひと薙ぎで払い散らすオーヴェンの後方に、幾足かの人の形をした者たちの姿がある。冥界の住人とおぼしきその一座には、またいくつも、見知った顔が紛れていた。
オーヴェンから少し後へ離れ、討ちもらした魔族をさばいている者たちの中に、長柄の槍を携えた彫像族の姿がある。そのさらに後方、交戦の様子がかろうじて見て取れるほどの距離を置き、頭に山羊の角を戴く青の衣装の男、彩色の魔絵。
そして、その間に立つ長身。黒の塔の主、『影の王』・ヴァルナード。
「っ……」
こぼれかけた名をすんでで喉の奥にこらえた。指を硬く握り、意識して震えを抑える。
鏡が映し出しているのは確かに冥界の景だった。起伏成す岩山はあの帰還の日、空の道程で見下ろしたものに見えた。峡谷に並び立つのは、見誤りようもない冥府の住人、闇の地の王たちだった。
その地に魔族が群れ集い、槌を振りかざしている。戦いが、起こっている。
「何があったんだ? なんで、魔族が」
ただひとつの画がいくつもの問いを連ねて浮かび上がらせる。己が棲み処の深淵に在る強大な力、闇統べる王たちの名を魔族は知っていた。いかな欲望が秤にかかろうと決して触れるべからざるものとして畏れていた。どれほど厚顔に生まれついた者であっても、冥界に攻め入るなどと、そんな無謀を思い立つとは到底信じがたかった。
しかし鏡が映すのは幻ではない。戦乱は確かに起こっている。血のこびりつく武器を携えた悪鬼たちが、確かな意図のもとに戦いをしかけ、その群れに冥府の長者が相対している。
「ファラエル」
説明を求めて兄の名を呼んだ。どんな仮定を並べても理解に至らなかった。
ファラエルは首を振り、自分にもわからない、経緯は何も聞いていない、と先の言葉を繰り返した。
「私が知っているのは、この争乱がつい先ごろになって始まったということだけだ」
「最近、いきなりってことか?」
「十日ほど前、この鏡の間で様子を見たときには、既に魔族が冥界に入り込んでいた」
聞けば聞くほど奇妙なことばかりだった。いかに多勢であっても、力ある冥府の者から見れば烏合の衆にも劣る魔族など、数刻のうちに退けられるはずだ。それが十日経っても収まらず、あまつさえ王の名を持つ者たちが幾人も交戦の地に集まっているなどと――
思量を深めて答えとなるべき言葉を探していると、
「レイ、魔族たちをもう一度良く見てみてくれないか。全体ではなく、それぞれの様子を」
ファラエルがやにわに切り出し、鏡の一角を指し示した。指差す先を追い、峡谷に波立てる群れに視線を向ける。水晶に手をかざしたまま意を伝えると、絵が切り取られ、魔族の一団が大写しになった。
一見での違和感はなかった。これまで幾度も剣の相手にしてきた悪鬼たちと同様に、鋭い乱喰いの牙を?き、無秩序に武器を爪を振りかざしていた。眺める間に烈風が巻き、おそらくオーヴェンが放ったのだろう斬撃が群れを裂いて、十数体の魔族の体を斬り伏せる。
呼びかけの意図を問おうと、兄へ向かって口を開きかけた、ちょうどその時だった。
断ち割られた鬼の体が地面の上でひくりと蠢き、大きく震えを立てながら、その場にゆっくりと起き上がった。脚を失った上体が巨大な斧をなお腕に構え、潰れ崩れた頭が地面を這い始めた。一匹二匹の異変ではない。吹き飛び、倒れてはまた蠢き立つ妖しの群れ。全ての目の中に虚ろな死が宿り、もはや生物と言うよりも動く肉塊に近しい。
それは荒野との境界で見た魔族と同じだった。生命の樹による異常の進化と良く似た、しかし全く質の異なる力が場を満たし、勝機などないはずの戦に群れを駆り立てていた。
ふつり、水晶の灯かりが絶え、部屋に再び暗闇が落ちた。魔鏡は床に張られた水の板に姿を戻した。
「――思うに」
沈黙を割き、ファラエルが言う。
「境に現れる魔族は、群れをはぐれて流れてきた者ではないだろうか。今日お前が遭遇したように幾度か目撃の報告がなされているが、いずれも明確にこちらへ攻め入る様子はなかったとのことだった。あの奇妙な魔族たちの本来の目的の場所は、天界ではなく冥界なのだろう。理由はわからない。あの闇の地については、おそらく私は今のお前より知識を持っていない。自分が知りもしない、決着に至る前のことを教えるのは、まだ早いようにも思った。だが――」
一度言葉が切られ、ふっと場にそぐわぬ笑いの音が鳴った。
「私はお前に甘いように思っていたが、天主や天使長たちの方がよほどに甘いのだな。助けになるどころか、悩みを増やしたようだ」
すまない、と言うのに、首を振る。
「そんなことねぇよ。教えてもらえて良かった。また俺、親父や六つ羽の兄貴たちに突っかかりにいくところだったからさ」
だが、天主からも天使長からも、もうこれ以上の答えを得ることはできないだろう。不穏な争乱の噂が広まるのを、天を律し守るべき彼らは善しとしないだろう。
「確かに何が起きてるかわかったとは言えない。四か月も向こうにいたけど、俺は結局、あの世界についてほとんど理解できねぇままだったし。それに、……今さら、だもんな」
魔族たちが異様のふるまいを見せていても、戦乱の中に見知った顔があったとしても、自分の帰還に何か関係のあることだったのだとしても――既に事は閉ざされた道の向こう、遠い世界の内で生じているもの。別れを告げ、その懐を飛び去った今の自分に、もはや関与できることなどない。
ありがとう、と兄に礼を述べ、それ以上の言葉を続けず自らきびすを返して部屋に背を向ける。
扉を開いて鏡の間を後にしながら、レイは開錠と魔鏡の真言をファラエルに教わった。それを次に唱える日があるのかもわからぬまま、文言の一字一句を魔除けの護符のようにしっかりと胸に刻みつけた。
ファラエルは城下に用があると言い、主棟に戻る途中で道が分かれた。じゃあ、と手を振って角を折れたファラエルの背を見送っていると、不意に前を行く足が止まり、半身が振り返って、レイ、と声を投げ寄こしてきた。
「隠者にはもう会ったか?」
え、と漏らした声が問いに変わる前にファラエルはまた足を前に向け、答えを待たずに去っていった。首を傾げる間もなく残され、レイはしばしその場に立ち尽くしていたが、やがて気を戻し、自室へと歩き出した。
それなりの時間を鏡の前で過ごしたように思っていたが、実際はまだ夜までも間のある時刻だった。横になる気も起きず、椅子に腰掛けてぼんやりと部屋を眺める。ひと巡りさせた目の端に、戸の横に置かれた包みが映った。冥界から持ち帰った、重くかさばる荷物。
そういえばまだ開けていなかった、とひとり頷く。忙しさに取り紛れ、気にするともなく気にしながら手をつけずにいた。立ち上がって足を進め、荷の横に膝をついて固く結んだ紐を解き、中身を床に並べ始める。
塔で仕立ててもらった服の下に、世話焼きの少女たちが入れた餞別が詰め込まれている。ほとんど使い道のないような、それでも懐かしさの宿る物のひとつひとつをぼうとした意識のまま取り出していくうちに、中を探った指が、紙か布かのような、ざらりとした硬い物体に触れた。
ひとつ首を傾げる。紙の類を入れた憶えはない。最後に確認した荷の中身を脳裏に並べるが、思い当たらなかった。ともかくと、上にかぶさった細かな餞別を脇に寄せ、荷の底近くに入れられた物を掴んで表面に引き出し――取り落としかけるのを、辛うじてこらえた。
喉が引きつれ、息が止まった。心臓の鼓動さえ絶えたように思えた。
目瞬きを忘れて見入る、手の中の本。灼けてくすんだ紙。金糸で題の縫いこまれた赤い表紙。見間違えようがなかった。
それはあの出立の日、机の上に置き残してきたはずの、古い歌集だった。
幼い頃、天の士としては人一倍に情の起伏の激しかったレイは、人一倍の泣き虫でもあった。少しの憤りのたび、悲しみのたびにうるさく泣き立てては、困り顔の父や兄たちに諭され、なだめられていた。それでもやがては長じ、一人前の騎士として、人の上に立つ者として自らを律するようになってからは、そうした性も影をひそめた。声上げて泣くことなどほとんどなかった。
だが今、レイはにじみかすれた自分の声をはっきりと耳にしていた。涙とともに耐え得ぬ嗚咽が手の中に本の上にこぼれ落ちていた。固い将の矜持よりもなお強い激情に身の底を揺さぶられ、止めることができなかった。胸を占めるのはただひとつ、昏い闇の世界、影住まう塔の孤然と建つ、遠い冥府の地だった。
――山ひとつと交換したんじゃなかったのかよ。あの馬鹿。
赤い表紙の本を腕に抱え、翼を寄せて我が身を包み、止まぬ涙を落とす。絶え間なく湧き出す想いに身を震わせてレイは泣き続けた。
嫌だ。あたたかな日が、時間が、全て消え失せてしまうなんて。
この想いをいつか忘れてしまうなんて、絶対に嫌だ。
戻りたい。闇深い地の、優しいあの場所へ、もう一度戻りたい。
もう一度、会いたい――