用箋を重ねて三つ折りにし、親展の印と添え書きをつけて筆を置いた。
 机に落ちた光の柱を辿り、窓の外に目を向ける。目覚めた時にはまだ薄明けだった空は、今はもう冬晴れの澄んだ青を浮かべ、都に穏やかな陽を落としている。
 レイはまだ人通りの少ない街を端から端までゆっくりと眺め、最後にその全てを己の内に収めるように目を閉じてから立ち上がった。脇に立てかけていた二本の長剣を取り上げ、ゆるやかな所作で腰に提げる。何年もの時を友とした愛刀が、常より身に重く感じられた。
 頃合いの時間だった。

「レイシス様、まだ中には……」
「わかってる」
 大事な用なんだ、と衛兵の制止の腕の間を抜け、扉を開く。広間に囁きが抜け、朝の議場への闖入者へ一斉に視線が集まった。
 一礼をし、
「突然の邪魔を申し訳ありません。集会の最後に、聞いてほしいことがあって」
 言って、前をうかがう。主座を中心に六つ羽の天使長たちと数人の年長の四つ羽が並び、突然の申し出に怪訝の表情を浮かべつつ、天主を振り向いて言葉を待っている。
 天主は声を返す代わりにゆるりと頷き、先を促した。レイはもう一度頭を下げてから姿勢を正し、
「どう言葉を選んでも遠回りになるだけだから、そのままを言います」
 一度息を切って、まっすぐに天父の目を見つめ、濁りなく宣する。
「暇乞いをしにきました。俺は、冥界へ行きます」
 声は強く静かに主殿を満たし、場を驚愕に包んだ。レイ、何を、と震駭に揺れる天使長の声が飛ぶ。驚かれるのも無理はないと思う、とレイは頷き、それでも、と続けた。
「嘘でも冗談でもありません。今日すぐに、発つつもりです」
 動揺が広間を走り抜ける。年長の六つ羽が列を一歩進み出、問いを発した。
「なぜだ? レイ。死地を逃れて帰還したばかりのお前が、なぜまたあの忌まわしい世界へ戻ろうなどと言う?」
 そも、行こうとしたところで道はない――。兄の言葉に首肯し、
「確かに、俺が自分ひとりの手で冥界に行くことはできません。けれど、今こうしてここにいるのは、扉がまだ天と冥の間に確かに在って、繋がり得る道を残しているから。それを開いた力があるから」
 それに、と続ける。
「協約は、冥界から天使が戻るのを禁じても、天使が自ら冥界に赴くのは禁じていないはずです」
 はたと場の空気が張りつめる。言葉を急がず、無言の問いにまっすぐに答えた。
「昨日エスタルディアを訪ねて、聞いてきました。黒翼の協約のこと、冥界で起きている戦乱のこと、『無』のこと。俺が天界へ帰還することになった理由」
 どれほどの衝撃であったのか、稀なたじろぎを見せる兄たちとは反対に、レイの胸はごく落ち着いていた。ゆるやかに、ひとつひとつ言葉を確かめながら、語る。
「そして、自分の意志で、彼に依頼をしました。冥界への扉を開いてほしいと。戦いに、加わりたいと」
 馬鹿な、と誰のものともつかないくぐもった声が鳴る。その依頼に対する返事を訊ねる者はなかった。皆、かの隠者の異端の気質を良く知っていた。
 張り詰めた沈黙に促されて、レイはひとつ決意の息を吐き出してから数歩前へ進み出た。ただ胸の鼓動だけを伴に、声を紡ぐ。
「全てを言い尽くせるとは思いません。全てを理解されるとも思いません。それでも、今自分がここで伝え得る限りのことを、語りたいと思います」
 もし、許されるのならば。
 場にはひとつの音もなく、静寂が雄弁に答えを返す。
 一度目を伏せ、またゆっくりと開き、レイは語り始めた。
 口上は、天魔の大戦から幕を開けた。
 戦場で目の当たりにした魔族の異変、続く惨劇と決断。傷付き魔族の手に落ちた折の忌まわしい出来事。ありのまま簡潔に、己の情を廃して説き並べた。語られる凄惨な記憶のひとつひとつに、天主も高位の兄たちも沈痛の面持ちを浮かべたが、それでもまだ驚きを表しはしなかった。それはレイにとっても意外なことではなかった。彼らが魔の荒野で起きた変事を知らずして、他の誰が知っていたというのだろうか? 生命の樹が失われていないという事実も、天の執政者たちには暗黙の知であったはずだ。
 だが、その先は?
「ここからの話は、禁忌とされるものなのかもしれません」
 魔よりもさらに昏い深淵の地。協約以前より既に遠く別たれていた、天の相克たる闇の領分。
 強い不可侵を保ち、忌避され続けてきた世界の在りようは、おそらく――
「俺は、あの戦いから今日まで、数え切れないほど多くのことを知りました。変わらず天界で暮らしていたら絶対に知り得なかったこと、知るはずではなかった――知るべきではなかったことも。帰還の許しに甘えて、ここにこうして立っている今でも、きっと、俺には皆と同じ天使の位を名乗る資格はないのだと思います」
 簡単に、事実だけを言います。
 突飛とも取られかねない謂いへの反駁が飛ぶ前に、レイは言葉を重ねた。
「魔族に捕らえられてすぐ、俺はある男の手で牢獄から出されました。その男は冥界の住人で、最も力があるとされる存在に次ぐ冥府の長者、王と呼ばれる者たちの一人でした。俺は男の居城に連れられて、帰還までの日をそこで暮らしました」
 記憶の糸をゆっくりと手繰り寄せていくように、語る。
「魔族に捕らえられて、故郷を遠く離れた闇深い冥府の地に落ちて、どれほどつらい目に遭ったのかと、皆、そう思って気を遣ってくれているのは良くわかるし、感謝しています。思い出したくもないぐらいにつらいことも確かにありました。けど、俺は」
 一度息を止め、また目を伏せた。目蓋の裏、過ぎた日の景が、いまだ褪せぬ色を抱いて鮮やかに巡る。
 つくろいなど必要ない。そう、恥辱に満ちた忌まわしい出来事も、つらく苦しい出来事も、全て闇の地の真だった。何を言おうとも、その全てが消えて無くなるということはない。
 だがそんな昏い記憶さえ塗り替えてしまえるほどにこの胸を満たしたのは、闇深い世界の日々が、自分に与えてくれたのは、そう。
「幸せ、でした」
 その心、ただひとつ。
「冥界が讃すべき世界だと言うつもりはありません。信じがたい異様の世だという印象は、今も変わっていません。天の、そして地界や魔界の物差しでも計りようのない混沌の地です。力を持つ者たちの膝元は特に。それでも、俺はそこで偽りない平穏を得ました。俺を牢獄から連れ出した『影の王』と呼ばれる男も、男の元にいた幾人かの冥界の住人たちも、俺を虜囚としてではなく、ともに暮らす仲間として扱ってくれました。――そう、きっと許されない心なのだと思います。俺は彼らを愛しました。男を、『影の王』を、愛しました。……ずっとその傍らにいたいと、願いました」
 唯一の存在に胸囚われ、焦がれ、執着の痛みを知り、捨てられない想いに涙を流した。
 もはや隠し背を向けることではない。全て、受け止め認めるべき己の真実の心。
「どれだけ理解し難いことなのか、自分でもわかっています」
 目を見張り言葉を失った兄たちへまっすぐに向き合い、声を急くことも強めることもなく、淡然と、しかし揺るぎなく、続ける。
「天界は間違いなく俺の故郷で、まだそう名乗ることが許されるなら、俺は天の秩序を、世の理を護るべき天の騎士です。けれど、離れても心を寄せ、恋しく想うのが故郷なのだとしたら、あの闇の世界も、今の俺にとってはもうひとつの故郷です」
 我が意思でそこに留まることを選び、そこに在るものを愛した。痛みも苦しみも深い世界だと知りながら、帰りたいと、願った。
「俺は無知だし、力もない。行ったところで何にもならないかもしれない。それでも、あの地に災いが降りかかっているのを知って、ただ黙って見ていることはできません。彼らの力になりたい。……そばに、行きたい。全て俺ひとりの勝手な考えで、勝手な決断です。軽蔑されても仕方のない行いだと理解しています」
 けれど、これだけは信じてほしいんです。心が叫ぶままに言いつのる。
「この想いは、一時の迷いでも、惑いでもない。――決して、偽りのものではないと」
 真摯な言葉は朗と主殿に響き、種々様々な怪訝と問いの気配を生みながら、天主にも天使長にもその句を継がせなかった。
 思いを受け止め、続ける。
「俺は、行きます。今朝は許しを貰いにきたわけではありません。ただ、別れを告げにきました。せっかく帰還を許して頂いたのに、皆を裏切るようなことになって、本当に申し訳ないと思っています。けれどいずれにしろ、俺はもう、以前のように天界に暮らすことはできそうにありません。……心の半分を、向こうに置き残してきてしまったから」
 忘れることなど、消してしまうことなどできない。
 ただそこに預けた想いごと、この身が心が欠けてしまうだけ。
「今まで本当に、お世話になりました」
 ぐっと息を鎮め、故郷への、家族への情を呑み込み、深く礼をする。
「レイ――」
「失礼します」
 呼びかけを振り切りきびすを返す。卑怯なやり方だとわかっていた。だがどんな言葉をかけられようとも、もはやこの決断を覆すことはないと、固く胸に決めていた。
 長剣の柄に手を伸ばし、強く握り締める。二度目の呼びかけを背に、扉へと進みかけた、その時だった。
 門扉の合わせ目が動いたかと見えた次の間に、両の戸が大きく開け放たれる。衛兵の制止の声をくぐり、主殿に踏み入ってきた十数の人影は、戦着に身を固めた天兵たちだった。レイは突如行く手をさえぎった同胞たちの姿に瞠目して足を止め、先頭に並び立つ我が副官と、最も親しい兄の顔を呆気に取られて見つめた。
 問いを待たず、四つ羽の天軍長・ファラエルが口を開く。
「突然の立ち入りの非礼、お詫び申し上げます。主の許しをうかがいに来ました」
 一礼し、決然と、言う。
「天軍長ファラエル以下、ここに参じました兵の、冥界への遠征の許可を頂きたく存じます」
 驚倒が場を襲った。レイもまた思いがけない言葉に次の行動を忘れ、その場に立ち尽くした。天の為政者たちとともに息呑んで見つめる天軍長の手に、数枚の紙片があった。
 視線をその手の中に落としたまま、ファラエル、と呟きを漏らす。ファラエルはレイに身を向けて頷きを返し、紙片を前に示した。それは自室の机の上に置き残してきたはずの、今目の前にいる兄その人へ宛てた手紙だった。今日この場で告白した真実と自分の想いを、より詳細に、より克明につづり、吐露した長い書置き。自分が天界を去った後に見つけられるだろうと思っていた別れの便りは、既によれて紙面に皺を浮かべていた。
「独り行こうと思うなら、もう少し部下の性格を気にかけねばな」
 ふと息を落とし、ファラエルは言う。
「だが今回はそれが幸運だった。今朝、ここに来る前に隊に顔を出したそうだな? お前の様子がおかしいと、リュードが血相を変えて私のもとに来たぞ。部屋へ向かってこの手紙を見つけたところに、兵たちも集まってきた。悪いとは思ったが、とても隠し切れなかった。私も、彼らと同じ思いだったからな」
 後ろに並ぶ兵たちが揃って首肯し、無言の決意を示す。
「我らも、ともに行く」
 レイは口を開いたまま、ただ呆然と兄の顔を見つめ返した。声が出なかった。
「ファラエル」
 主座の傍らに立つ天使長が口を開く。
「今の自分の言葉が何を成すことになるか、わかっているのか? 天軍の長たるそなたが、正規の兵を連れてかの地へ向かうことはまかりならぬ。かの地の争乱は、天の者には関わりないものだ」
 ファラエルは主座に向き直り、承知しております、と返した。
「先の請願は、万が一にそれが可能であるならばのこと。もとより、お許し頂けるとは思っておりませんでした。みな覚悟はできております。天軍長としての、天宮の守護に当たるべき騎士としての位を身に戴いたまま行くことが許されないのであれば、我々はここにその位を置いていきます」
 そんなこと、と誰よりも先に発したのはレイだった。平然と言い放ったファラエルに詰め寄り、声を荒らげる。
「何言ってんだよ、馬鹿! なんでお前らまでそんなことしなきゃならないんだよ。俺は、お前らを巻き込むためにその手紙を書いたんじゃねぇよ!」
 思わず掴みかかりかけた手を軽く受けられ、
「自分が勝手をしようというのに、私たちの勝手は許さないのか?」
 そう、子どもを諭すように言われて、ぐっと唇を結ぶ。
「レイ。あの魔族との戦いのあと、私たちがどれほど深い悔いを得たか、どれほど己を責めたか、きっとお前は知らないだろう。血を恐れ穢れを恐れ、大義を言い訳に本当の信念に背き、光を失った絶望を、知らないだろう」
 レイひとりに聞かせるのではなく、この場の全てへ語りかけるように、静かに強く、ファラエルは弁じる。
「無慮にお前を追うつもりはない。信ずるもののために死にに行くのではない。信ずるものを守るために行く。皆、そのために集っている。ここでお前を見過ごせば、今度こそ我々は天の騎士としての誇りを失うだろう」
 断然と言い落とし、主座へ正対して、父よ、と天の王に呼びかけた。
「私は弟の頑固さを昔から良く知っています。引きとどめたいのは皆同じです。しかし、もはやどう言葉を尽くしても、それは叶わないでしょう。共に、行かせて下さい。孤独のまま飛び立たせぬように。……あの日の愚を、我らがくり返すことのないように」
 一時、場は騒然となった。
 六つ羽の天使長たちが発する言葉の大半は異議ではなく困惑だった。レイもまた戸惑いに身を浸しつつ、しかし口を結んだまま黙して待った。はやる思いはあったが、この争議が自分のためのものであり、当事者として、途中で逃げ出してはならないものだと理解していた。同時に、いかなる決が採られたとしても、自分の心が変わることはもう決してないと、理解するよりも先にただ知っていた。
「レイ」
 横合いから呼びかけられ、沈思を解いて兄の顔を見上げる。ファラエルはレイを間近に見つめ、端的な問いを落とした。
「最後に一度だけ、確かめておきたい。……本当にいいのだな?」
「ああ」
 どうしても一発殴ってやらなきゃ気がすまない奴がいるんだ、と口調を崩して言うと、兄はわずかに気をやわらげたが、表情をゆるめはしなかった。言葉が続く。
「異界で剣を取ることの危険については、もう問いはしない。だがかの地へ自ら赴くこと、あの闇の世界に戻るという行いそれ自体が、己に何をもたらすことになるのか、全てわかっているんだな」
 レイは自分と同じ翠碧色の眼をまっすぐに見返し、もう一度、はっきりとした音で、ああ、と答えた。
「決めたんだ。もう、迷わない」
 相克の白と黒、どちらか一方を選ぶべき時が来たとしても。
 腰の長剣の柄に指伸ばしたその時、議論の声の間を縫ってぎいと木音が鳴り、三たび、主殿の扉が開き始めた。場の言葉が絶えた。
 入り口近くに控えた兵たちが横に分かれて道を作る。扉を抜け、ゆったりとした足取りで歩を進めてきたのは、天の隠者、エスタルディアだった。
「予想通りと言うべきか」
 急がず足を送って広間の中央に立ち止まり、言う。
「廉直な者たちの場だからこそ、決まらぬこともあるというわけだね。さて、水を差すようで悪いけれども、廉直とは言いがたい者に、少しのあいだ舞台回しの役を譲ってもらえるだろうか?」
 静黙が肯定を返し、全ての目が隠者の灰色の瞳を見つめた。隠者はふと口の端に笑みを浮かべ、物言わず座していた天主に向かい語りかけた。
「もしこの紛議の責を求めるとしたら、レイから話があっただろうとおり、源は私にある。それは先に謝っておこう。こうなるとわかってしたことだから、いくら咎めてもらっても構わない。だが、私は自分の行い自体を悔いてはいない。ある意味では、私はここに集う誰よりも冷淡に合理に沿うたちなものでね。するべくしてしたことと考えている」
 そして、それは貴方もわかっているはず。音ひそやかに、しかし意はあくまで明快に、説き語る。
「我々は、過ぎた日と再び向き合う時を迎えたのだろう。これまでにそうと試みなかったことを誤りだとは思わない。黒翼の協約により光と闇とが別たれ、力が隠され鎮められていたのは、確かに至当の選択だった。だが至当は至当であり、至善ではない。主どの、偶然であるにしろ必然であるにしろ――天も冥府も、今を見、前に歩みを進めるべき日が来たのかもしれない」
 言葉を促す静寂が落ちた。
 六つ羽の天使長たち、年嵩の四つ羽、二つ羽の天兵、そしてレイとファラエル。天の子の視線を一身に受け、王がゆっくりと口を開いた。
「私は皆の父であり、支配者ではない。その意志を力ずくに退けることはできない。……だが、天を統べる者として、騎士の位とその任を棄てていく者に許しを与えることもまたできない」
 ファラエルが一歩進み出て声挟みかけるのを、横からエスタルディアの手が制する。レイシス、と静かに落ちた呼びかけにはいと応え、レイは姿勢を正して父の顔を見た。
「あの地で己に起きた変事の理由を、エスタルディアから聞いたことと思う。闇の地に鎮められた大いなる災いは、お前の身体を深く蝕んだ。天に帰って清浄の気に触れ、見た目にはほとんど癒えてはいるが、受けた障りはまだ身深くに確かに残っている。今冥界に戻れば、力増した災いは再び刃をその身の上にかざすだろう。次は、一度倒れるだけでは終わらぬかもしれぬ」
 後ろに立つ天兵たちがはっと息を呑み、レイに視線を集める。レイは反駁をせず、はい、と頷きを返し、明朗な声で答えた。
「魔族たちにも、冥府の昏い風にも、『無』にも、多くの力に相対しなければならない。今度こそ本当に翼を失うかもしれない。全て覚悟の上です。世界のために、なんて身の丈に合わない口を利こうとは思いません。ただ自分の心のために、咎を受けるべきこの決断をしました。だから俺の体のことは忘れてください」
 ひとつ呼吸を挟み、それでも、と続ける。
「俺もただ無為無策に死にに行くつもりはありません。自分に成しうることを、成しに行きます」
 言葉が主殿の端から端まで鳴り渡り、余韻が沈んで消えるまでの間を置き、皆の心はわかった、と厳かに声が落ちた。
「だが、ここにある全てを叶えることはできぬ。天を護る者に、天を誇る者に、天を発つ者とそれを慕う者たちに。我が友に。皆、それぞれにそれぞれの願いがあろう。私にもまた、願いがある。何を決断としても、隠者の手で冥府への扉は開かれるだろう。そして私は、天の秩序を預かる王として、その行いにひとつの制約を課さねばならぬ」
 制約は――
 張り詰めた大気を通し、天命は静かに告げられた。


      ◇


 混沌が満ちていた。
 石の翼を羽ばたかせて前線を脱し、峡谷の後方へ戻る。長くこの地に生きる彫像族の目にも、今の戦乱の様はきわめて異容に映っていた。
 戦線に加わってから五日ほどが経つが、幾十幾百も屠ったはずの魔族は一向にその数を減らす様子を見せず、進撃の勢いもまるで衰えていない。どころか、軍勢に宿る奇妙な力が日に日に増しているような気配すらある。打ち倒されるたび死したまま立ち上がる魔族の群れに、常なら歯牙にもかけない愚かで鈍重な生物たちに、チャックは心からの恐怖を感じさえした。
「一体いつになったら終わるんですかい?」
 後方で戦況を眺める絵姿の魔術師の隣に身を据え、訊ねかける。そのさらに隣には『山羊の王』、そして『蛇の女王』の姿がある。数月前までは幻の中の存在であった冥府の長者たちが、当たり前のように共に戦場に立っている。めまいを覚えるような景色だが、確かな現実であった。
「うむ。まさかここまで巨大な力を得ているとは思わなんだ。魔族を核としていなければ、まだこれほどの苦労もなかったろうが……」
 老爺の声が答えるのに、そこんところが良くわかんねぇんですけど、と呟く。
 なかばなりゆきで戦乱に加わった折、この戦いの根についての講釈を軽く受けはしたが、『無』などという曖昧模糊としたものに対する理解は深めがたく、そんな掴み得ない存在よりも、目に見える魔族どものほうがよほど与しやすいように思えた。が、そう簡単な話ではないらしい。
「具象の存在には我々も具象の力で相対せねばなりませんからね」
 魔絵の向こうで山羊の王・フレッグが語る。
「あの魔族たちに我々が再生の余地もないほどの損傷を与えるには、相当の力が必要です。無慮に振るえば、この辺りの山どころか冥府の地そのものを揺るがしかねない」
 まったく厄介、と言葉の中身にそぐわぬ軽い調子で言う。
「じゃあ、全然打つ手がねぇってことなんで……?」
 おそるおそるに問うと、ふむ、と声が鳴り、
「まあ、いざとすればまた『無』そのものを封じてしまえばいいだけです」
 そう答える。簡潔に過ぎる策にかくりと肩落とし、どうやって、と訊ねるでもなく漏らした声に、誰かがやりますよ、とさらに頭痛ませるような不明瞭な言葉が返った。
「今回は塔の参謀さんの時のようには済まないかもしれないわね」
「災厄の上に名を残すのも一興、というところですか」
「『名を無くす』のほうが似つかわしいのではなくて」
 語り交わす冥府の王たちを、チャックは戸惑いとともに見つめた。笑いの色さえにじむ言葉に指された「誰か」は、膨張し続ける『無』を鎮めるために、巨大な力を行使することとなる。おそらく、王と呼ばれる者でさえその中に身を滅ぼしかねない力を。
 まるで理解至らぬ次元の会話に怪訝な顔を作っていると、ヌグマが彩色を揺らめかせて笑い、励ますように言った。
「ともあれ、今しばし時はあるよ」
 はあ、と覇気のない相槌を打ったところに、『鎧の王』・オーヴェンが現れた。
「魔族どもの数が増えてまた動きが激しくなってきたようだ。儂の剣だけでは面がちと狭い。誰か前で手を貸してくれぬか」
 呼びかけに、では私が、とフレッグが進み、術陣の軌跡とともに前線へ消える。ヌグマがくるりと絵身を回してオーヴェンを振り向き、黒鎧の将の隣にいたはずの主人の所在を訊ねた。
「ヴァルナード様はどうされましたかな」
「玉眼王のもとだ」
 答えの一瞬後、峡谷の先で太い咆哮が響き、地鳴りが岩山の間を駆けた。
 声を発する前にオーヴェンが大剣を構えて崖を跳ぶ。チャックも槍を肩に抱え直し、翼を広げて地を蹴った。最前線に行き着かぬうちに空から魔族の軍勢を見、思わず宙に止まって息を呑んだ。
 それはさながら、蟲の巣を縦に断ち割って覗くかのごとき奇景であった。左右に膨らみを成した、決して狭いとも言えない崖と崖の間に、それでも収まりきることのない、この幾日かの全てを足した数をなお上回ろうかという量の魔族がひしめいている。手にする大振りの剣斧が天頂に浮かぶ陽を返して鈍く閃き、牙がぎりぎりときしんだ音を奏でる。
 呆然と見下ろす間に咆哮は突撃の鬨に変わり、一斉に、まさしく一糸の乱れもなく波と成し、軍勢が峡谷を走った。
 猛進を切り裂く『鎧の王』の剣撃にチャックはようやく気を戻し、鋭い波動が打ち漏らした敵を仕留めるべく降下した。――とは言え、将軍の剣も、自分の槍も、ほかの誰の武器であれ、完全に魔族を滅ぼすには至らないのだ。胴を絶ち首を絶てばその場は倒れて動きを止めるが、半日も経てば鬼は歪に長じた体で戦場へ戻り、血濡れの牙を剥く。
 もどかしさと苛立ちのつのるまま振るった槍の遅れと、予想だにしなかった魔軍の身ごなしの速さが、一瞬の隙を生んだ。
 下方から重い一撃を受けた槍の穂先が跳ね上がり、体勢が崩れる。どうにか石突きを回して前の魔族は打ち倒したが、後ろが全くの無防備になった。まずい、と石の翼を飛翔に構えるものの、地を蹴る前に巨躯が空をさえぎり、鋭い爪が視界を覆った。
 反射にきつく目をつぶった身の横を、熱はらむ烈風が過ぎた。重い衝撃の代わりにかすかな痛みが翼を薄く裂いた。わけのわからぬまま防御に固めた姿勢を解き、目蓋を上げる。魔族の身体は一瞬の間に黒い炭と化していた。その様は、負の性を有する冥府の住人の力によるものでは有り得なかった。
 信じがたかった。しかし考えられることはひとつしかなかった。ゆっくりと見上げる空に、その姿はあった。取り落としかけた槍の柄をなんとか握り直す。
 銀の長剣に眩い光が爆ぜている。半月以上前に別れを交わしたはずの異界の友人、災厄の障りを避けて故郷へと帰っていったはずの四つ羽の天使・レイが、冥府の空に飛び、戦場を見下ろしていた。
 レイはチャックの視線に応えるように雷光を宿した剣を振り、そのまま後ろを振り向いて、誰かへ呼びかけるようなそぶりを見せた。
 力強い羽音が聞こえた。
 それは奇妙な、血臭に満ちた戦場に似つかわしからぬ、雄々しくもうつくしい光景だった。光の刃が峡谷のよどんだ空気を裂き、長弓から放たれる白羽の矢が風巻いて魔族の群れを貫く。力を散らされた悪鬼たちの体が融け崩れて地に沈む。地鳴りは羽ばたきの音に変わり、陽光を返す翼の白が暗い岩山の間に輝いた。
 戦着に身を固めた天の騎士たちが整然と陣を作り飛び翔ける中、聖銀がひときわ強く閃く。
「全軍に告ぐ!」
 冥府の王たちが見上げる空に剣を掲げ、天将は決然と声を放った。
「我が名は天軍第二中隊隊長レイシス。父なる天主の御名のもとに、天使長以下五十名、冥軍の助勢として今ここに戦線への参陣を宣ずる!」



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