あまおと


「昔から、雨は好きじゃなかったな」
 さあさあと落ちる雨垂れの中に、ぽつりと呟きが滑る。
 寒さにやや色薄れた唇から流れる音は、つい数瞬前まで紡いでいた歌声ほどに澄んで高くはなく、塔の主ほどに低く厳かでもない。しかし活力に満ちた快い音だ。今日ほど長く聴いていても飽くことはない。
「羽が濡れてうまく飛べなくなるし、風邪ひくのなんのって、外に遊びに出してもらえなかったもんな」
 詰まらなさそうに言いながらも、遠い日を思い出しているのか、口元にはやわらかに笑みが浮かんだ。
 彼が生まれた白の地にはまだ一度きり、ほんの数日しか訪れたことがないが、二十日あまりが過ぎた今でも鮮やかに思い起こすことのできる、風おだやかな美しい世界だった。あの地を愛し、あの地に愛され生きてきたからこそ、青年もこうして美しく伸びやかに育ったのだろう。
「お前も、毛が濡れるの嫌だろ?」
 ああでも、お前ならすぐ乾いちまうのかな。そう言って優しく首すじを撫でてくる手は、白くかたち良いが、決して華奢な指ではない。銀の長剣を振るい戦場を翔ける、傷絶えない戦士の手だ。
 そう、実際に「美しい」という賞辞を得る機会は、この塔においては実は己が最も多いのだと知っている。彼の見目を飾るにはいささか外れた言葉であることもわかっている。それでも、この青年は真から美しい。我が主人の断言してはばからぬその辞に、猛き冥府の黒馬・ゼルギオンは一より同意であった。
「雪になればまだいいのに、冬の雨なんて寒いだけでしょうがねぇし……」
 焔馬の逞しい肩に添い立って、青年――天のいとし子・レイはほつほつと言葉を続ける。
 冥府の気まぐれな空は朝から冷雨をしのつかせていた。滝のようにとまではいかないが、厩舎の屋根を叩く雨音もいささか耳障りなまでに強い。
 そんな雨の日に、レイはわざわざ暖かい炉端を離れて一人、こうして厩舎へ訪れ来ている。前触れなく朝からふらりと現れたかと思えば、厩舎の掃除をし、ゼルギオンの身の手入れをし、それが終われば何刻も飽かず歌い。冷えるからと幾度か呼びに来た塔の住人たちも、青年がかたくなに心配ないと言い通すので、昼過ぎにはまぁ屋根も壁もあるのだし、と諦めてしまった。
 そうして、厚い雲の向こうに見えない陽が落ち始めたかという今時分になってやっと、レイは口を開いて己の心を語り始めた。
 とは言え、先から並ぶその言葉も心底からのものではない、ごく婉曲な語りであることを、ゼルギオンは知っている。

 本当ならば、今日この時、レイは塔にはいないはずだった。ゼルギオンもまた、ここにはないはずだった。遠駆けの予定を立てたのは五日ほど前のことだ。レイと、自分と、そして、我が主たる影の王・ヴァルナードと。
 しかしこの通り、明け方よりの雨である。外を走るのが目的の遠駆けに、かまびすしい塔の住人たちの許可が下りようはずがない。あまつさえレイには雪の日に一度寝込んだ前科があるのだ(実際には風邪のためではなかったが)。
 かくして予定は頓挫したが、予定の内であったヴァルナードは、では他をこなしてくるかとばかりに早々に別件での外出を決め、ひとり影に消えてしまったのだった。ともすると帰りは明日になるかもしれない、と軽く言い残して。
 ヴァルナードが出てよりすぐに、ばしゃばしゃと水を鳴らす足取りも荒くレイが厩舎に訪れ来た。そうして、今に至る。
「アイツも一人でとっとと出かけやがってよー。薄情だと思わねぇか? なぁゼルグ」
 つんと口を尖らせて言う。
 詰まるところ、楽しみにしていた外出を止められ、置いていかれて、この青年は拗ねているのだ。
 ゼルギオンとて、主人とレイとの久々の遠駆けが流れて、残念と思わぬではない。しかし先んじてこうも素直に拗ねられては、逆にどこか愉快にも感じてしまうというものだ。
 まあまあそう眉を寄せるのはおよしよと低く息鳴らして顔を寄せれば、肯定を得たと思ったのか、だよなぁ、と笑って額を撫でられた。
 生きた日の数ばかりを考えればそう変わらぬはずだ。しかしこの微笑ましいまでの無邪気はなんであろう。
 もし天の民が皆このような気性の者ばかりであるならば、なるほど冥府の住人を避け逃げるのが正解であろうと、我が主とその同輩の王たちの顔を胸に浮かべつつ思う冥府の魔獣である。

 しばしじゃれ合っていると、平らな屋根を滑った多量の水が厩の口に落ち、したたかに地面を打ち鳴らす音が届いた。レイがついとゼルギオンを離れ、数歩足を進めて外を覗く。
「やみそうにねぇなあ」
 あーあ、と不満げな息とともに漏らした言葉の通り、雨は尽く様子を見せず、その足も朝よりいくらか増しているようだった。蒼炎まとう毛皮にも、この陽気ではいささかばかり寒さが沁みる。
 レイは四枚の翼で肩を包み、しかし寒いと言って走り戻ってくることもなく、
「――こんな雨の日に、出かけることねぇのにな」
 外を向いたまま、ほろり、声落とした。
 おやと思い青年を見れば、特段に表情を揺らすこともなく、ゆっくりときびすを返してこちらへ帰ってくる。
「昨日もおとといも出てたくせに」
 またひとつ呟き。
 確かに、この異界生まれの青年は完全に拗ねている。ぽて、と温もりを求めるようにゼルギオンの肩に伏せられた顔の下から、噴き出し始めた愚痴がやまず聞こえてくる。
「いつも暇人ヅラしてるじゃねぇか、なぁ?」
 しかしどうやら自分は、少しばかりそのわけを思いたがえていたようだ。

 人ならぬ鋭い五感に「それ」を捉えたのは、ちょうどその折である。
 かつりと蹄を鳴らして前へ出る。レイが顔を起こし、どうした、と言いながら横をついてくる。
 暮れてなお強い雨であった。少し逡巡をしたが、意を決して戸口を抜けた。
「ちょ、おいこら、止まれって」
 濡れるだろ、とたしなめつつ、それを厭わず隣に従い歩くレイも、そして向こうも、やがて互いの姿に気付いたらしい。一方は立ち止まり、一方は足の進みを早めた。
 けぶる雨の中に浮かぶ、鮮やかな黒。
 足元に跳ねる水も一顧だにせず、まっすぐこちらへ歩んでくるのは、黒の塔の主、ヴァルナードその人であった。
「……どうした?」
 怪訝の声で問われ、レイはぽかんとした顔で前に立つ長身を見上げた。その間にどこからか外套が取り出され、呆けた天使を頭から包む。
「どうしたって、お前こそ」
 なんでいるんだよ、とこぼすのに、
「自分の屋敷にいては悪いのか」
 小さな笑いとともに、短く答えが返った。
「だってお前、今日はもう帰らねぇって」
「かもしれん、とは言った」
「早ぇだろその割には……」
「面倒な用に無駄に時間をかける道理はないだろう」
「そりゃ、そうだけどよ」
「帰らないほうがいいわけでもあったか?」
「べ、」
 別に、と視線をそらす背の後ろ、外套の下で翼がはたはたと落ち着きなく揺れている。つくづくこのまっすぐな青年は、心を隠すのが下手だ。
「……らしくなくずぶ濡れじゃねぇか」
 話の先をそらすためにか、自分を棚に上げてレイが呟く。確かに、濡れるまま雨の中に立つ主人の姿は珍しい。いつもは緩く後ろへ撫で上げている銀糸の髪も、水を含んではらはらと額に流れ落ちている。常に増して艶めいて見えるその様を、蛇の女王の侍女まかだちたちにでも見られたなら、また大層な浮名が立つに違いない。
 その姿が、厩舎にこもった愛鳥の気配に気付き、自らの足で迎えにきての故だと知れれば、黄色の声もなおさら響くだろう。
「それは互いごとだな」
 随分冷えている、と言ってよそを向いた頬を指に包み、前へ戻させた。それきり影に融けることもなく、じとレイを見下ろしたままでいる。
「お前の手の方が冷てぇよ」
「そうか?」
「明日やんでから帰ったほうが利口だったんじゃねぇの」
「つまらん相手の屋敷に長居する気はない」
「そんなつまらねぇ相手のところに行く日和じゃなくねぇか?」
「そうだな」
 皮肉の言葉にくつくつと笑い、
「だが、次の晴れを潰す相手でこそない」
 次はこっちだからな、と言う手元にふわりと取り出した何かを、レイの胸元に差し出す。
「うわ」
 慌てて手を出し受け取ったのは、茎を布でゆるくまとめた、花束とも言いがたい数本の小さな切花だった。
 客先の部屋の花立てから拝借してきたとうそぶくそれを、レイもゼルギオンも見誤りようがない。いつかの日に訪れた、そして今日の遠駆けの行く先であった、深緑の草原に咲く白の花。
「約印の代わりだ」
 さらりと言われ、しばし目を丸くして数秒、ぽんと頬を赤く染める。
「……だからお前、花とか似合わねぇって言ってんだろ」
 恥ずかしい奴、とこぼしながら、花が雨にさらされないよう、しっかりと胸に抱きこんでいる。
 ゼルギオンも以前からその花を好いていたが、レイに出会って以来、主人はさらにこの無垢な白の花を気に入ったらしい。鮮やかとも華やかとも言えないが、凛として美しい、天の子の姿に良く似た野の花を。
「つーか、ほんと何やってんだよ。いい大人が二人濡れ鼠で」
 寒い、羽が重い、髪が濡れてうっとうしい、とぶつぶつ不満を落とすレイを、ヴァルナードはなだめもせず愉快げに見ている。すぐに並べる言葉を尽きさせた正直な天使は、きょときょととためらいの視線を回した後、観念したように息を吐き出し、小さく、言った。
「……おかえり」
 帰宅の言葉が返る代わりにぱしゃりと水が跳ねる。さあさあと鳴り落ちる雨の中、ふたつの影はしばし重なったままでいた。

 昔から雨は好きではなかったと、青年は語った。
 確かに、活発な彼の幼い日に、雨は不快な敵でもあったろう。しかし今も心から嫌いだとまでは言わなかった。いまだ無邪気のさまだが、もはや子どもとは言えない成年である。雨を聴きながら部屋に座り、穏やかに静かに時を過ごす楽しみも、今は充分に知っているはずだ。異端と呼ばれていれど、やはり和を愛する天使なのだと、普段の振る舞いからも伝わってくる。
 だから、拗ねていたのは外出が取りやめになった故ではない。共に過ごした数月でわかったことがまだある。この快活で明るい青年は、それでいて割合に寂しがりなのだ。人が好きで人の輪が好きな彼は、独りにされるのが物憂いのだ。
 雨なら雨で、ゆっくりと過ごせばいい。心静かに、慕う者の傍らで。
 だから、拗ねていたのだ。出て行けなかったことよりも、出て行かれたことが嫌で。

 しかしまあ、と、ようやく雨を逃れて戻った厩舎の中、身体を拭かれる心地良さを感じながら、ゼルギオンは考える。
 レイも大層わかりやすいけれども、我が主人も以前では考えられないほどに感情を表に出している。まぁこのお人の場合、わかりやすいと言うよりただ隠していないだけなのだろうけれど。
 ずぶ濡れで、服にも翼にも泥が跳ねて、お世辞にもしゃんとしているとは言えない天使の姿を眺める目の、信じがたい甘やかさといったらどうだろう。元より身近の存在に寛大な気質ではある。にしても、これが世に出てすぐに冥府の巨頭たちを幾足いくたりも屠り、『死神』の名を冠された影と同一の君であろうか。
 この存在が愛おしくて仕方がないと、瞳の入らぬ虚眼さえもが語っているように見える。
 影の王の初めの乗騎、今は亡き祖父に聴いた武勇伝に首傾げたくもなるが、おそらくどちらもが我が主の本性なのだろう。淡然として冷徹で、熱のない鋭利な刃のようでいて、情深く穏やかな熾火のようでもある。まったく、良い対称の二人だ。

「よし、ゼルグは終わりな。……あー、これ少し拭いたぐれぇじゃ駄目だよな……。ったく、なんで俺の羽は四枚もあるんだよ」
「こう濡れているなら、乾かすよりも先に風呂だな」
「……そう言ってなんでこっち来るんだ」
「浴室まで行って洗ってやろうとしているだけだが」
「一人でいいっての! って近ぇよ! 馬鹿、濡れるっ」
「もう濡れているだろう」
「つめてっ、おいバカ何す……ちょ、待てって! ひゃ」
「一人がいいのか?」
「へ?」
「夕餉も前だ。その様子では何も腹に入れていないだろうからな。無理強いはない」
「や、別に、どうせ風呂は行くし、お前も濡れてるし、効率悪いだろ。つーか、今さら腹減ってるとかどうでも、いや今さらっていうか……折角早く帰ってきといて、俺はそんなん、あの、だから。……二人で入りゃいいだろ」
「そうか」
「ん」

 ふわりと背を抱きこむ手は優しく、それに身を寄せる青年の顔も、先ほどまでの不機嫌はどこへ消えたのか、やわらかにほころんでいる。
 交わす声音の甘さといったら、束にした花の蜜もかくやのほど。
 もう勝手にやってなさい、と塔の小さな住人たちなら呆れて逃げ出していく場面だろうけれども、慕う二人が睦まじくしているのは喜ばしいと思うので、邪魔をせぬようそっと木戸の中に戻る。
 外はさあさあと、まだやみそうにない。
 冬の雨は春の先触れ。
 早春宿る塔の一夜、黒衣の王と白翼の青年の耳には、この雨音も届かぬだろう。


Fin.
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