いとしきず


 歌が聞こえていた。
 このところの慌ただしさですっかり放り出しになっていた部屋を何とはなしに片付け始めて数刻。一から十まで満足の通りに整えようとすれば思いのほか手がかかる作業に、やはり塔の従者に任せるのだったかと息をつきながら、埃を出そうと開いた窓の外から、その旋律は舞い込んできた。
 窓枠に手を置き、しばし聞き入る。声は夜風に乗って朗らかに厳かに響いている。正確な刻限はわからないが、もうよほど前から流れていたらしいそれに気付くのが遅れたのは、塔主の部屋と歌の元とが二塔の間を隔ててよそを向いているせいでもあるだろうが、その歌声と宿る力とが塔の日の一部になり始めている所以もあるだろう。不意に始まるやわらかな韻律に、住人たちももう首を傾げることはない。深淵なる影の根城、冥府にその名も高き黒衣の王の塔に一体何がと、わけを知らぬものは首を傾げるに違いない。昏い地の住人たちが実際に隅で囁き交わす様子を頭に浮かべ、ふと笑いを漏らした。
 時計に目をやれば既に深夜の間にある。そろそろ部屋に帰したほうが良かろうと、ヴァルナードは意識を歌声の元へと向けた。

 側塔の蔵書室から張り出した小さなバルコニーの手すりに腕と上体を預け、四つ羽の鳥はひとり歌を奏でていた。
 部屋の中へ移身したヴァルナードが窓を開くと、闇の中に複数の羽音が立った。ふっと声が途切れ、四つ羽の天使、レイが振り向いた。
「驚かせるなよ」
 言い落とす声も表情も落ち着いており、その言葉の先がレイ自身を指すものではないとわかる。
「随分遅くまで出ているな?」
 隣まで歩み寄り、そう声をかけた。ああ、と頷きが返り、
「あいつらがねだるもんだから」
 言って視線を塔の上方へ向ける。屋根にほど近いあたりに、鳥――天の者への符牒ではない、正真の鳥――が数羽、並んでこちらをうかがっているのが見えた。
 そんなに遅かったか、と訊ねてくるのに先ほど確認した時刻を告げると、やはり予想よりも回っていたのだろう、レイは少し目を見張るようにして、鳥に向き直って手を振った。冥府の聡い鳥たちは一斉に翼を広げ、声で別れを告げる代わりに一度レイの頭上を回ってから、夜空へ飛び去っていった。
「歌ってると時間が良くわからなくなるんだよな。うるさくなかったか?」
「いや」
 初めて歌を耳にした時にも聞いた律儀な問いに笑って首を振る。もとよりその妙なる調べに眉をひそめる偏屈者を探すほうが難しいだろう。興に飢える者であふれたこの地においてはなおさらだ。であるからこそ、一日聴いていたとて飽くことのないだろうその声は、闇夜に映える淡い光とともに、不逞の輩を引き寄せるものでもある。先の蜘蛛の例を待たずとも、用心に越したことはない。
 ならいいけど、と返したレイは、歌を再開するでもなくそのまま黙って高みからの景色を眺めている。風にさやりと翼が揺れる。
 犬の尾ほどまでとはいかないが、青年が背に負う白い翼は、おそらく本人も知らぬうちにその心を外へ表すようだ。気を張っている時には翼も力を張り詰めさせて起き立ち、不安や惑いに心が揺れた時には自身を守り包むように身に寄せられる。そして安静を感じ気をゆるめている時には、今もそうしているように、息を深く吸い込むように大きく広げた翼の先が、ゆうらりとひそやかに揺れ動く。
 撫でてほしい、とねだっているように見えるのは自分の都合のいい解釈に違いないが、と言ってその好ましい解釈を引くような殊勝な心は持ち合わせていない。迷わず手を伸ばし、やわらかな羽毛を撫で梳いた。
「なんだよ」
 小さく眉を寄せながら、しかしレイは腹立ちや焦りに背を振り立てるでもなく、ヴァルナードの手に翼を預けている。もはやわりない仲と呼んでもさほどの障りはないだろう男からの接触になんだもないものだ、と苦笑を漏らしつつ、するすると羽の間に滑らせる指を引きはしない。
 とやかくやと不平をこぼしつつも、この鳥は他人との触れ合いを、意識的にしろ無意識のうちにしろ、割に好いているのではないかと思う。翼を梳けば表情がやわらぐ。頭を撫でればうるさそうに口を尖らせながら、ふわりと身にまとう空気をゆるめる。それは半ば、天の都でそうされていたことへの癖の反応なのだろう。随分と愛され慈しまれて育ったようだから。
 翼に触れてやらずとも、少しずつレイはこの場所に身を馴染ませ始めている。当初から物怖じの態度を見せることなく、塔の住人たちともすぐ親しげに言葉を交わしてはいたが、隣に立てば全身の気が油断なくこちらを向き、動きを測っているのが感じられていた。それがうっすらと、しかし確実に変わったのは、本人に言えばまたひとくさり悪態を連ねて否定するだろうが、青年がなんとも奇異でまたなんとも愛らしい行動を見せて、己でも理解し得ていないだろう勢いのまま、ヴァルナードに想いを告げてきたあの日からのことであるのは間違いない。
 目に見えて生じた変化ならば、どんな時にも常に腰に提げていた聖銀の長剣が、ほんの時折にではあるが、外されるようになった点も挙げられる。現に今、鞘に納まった双剣は使い手の一歩後ろの壁に立てかけられているが、そこに用心の手が伸びることはない。溌剌とした青年の姿にも、すっくと力込めて立ち、剣帯びて毅然と構えている天将の姿にも心惹かれるが、そうしてやわらかな光に身をひたしている、おそらくは天の者の本来の性状なのであろう姿を間近に見るのは、また違った意味で喜ばしい。
「くすぐってぇよ、もう」
 翼から離した指で左頬の傷を撫でると、さすがに苦言を投げられた。まったく、と呟いて自分の手を寄せ、ごしごしとこするようにしている。刺激に過敏なひと筋の深い傷は、だいぶん古いもののように見える。
「その傷は治さなかったのか?」
 先頃から『鎧の王』に剣の教えを乞うているレイは、たびたび生傷を作って塔に帰ってくるが、もともと力持つ天使の身、一日そこらのうちにはほとんどが消えている。青年自身治癒の法を心得ているし、天界にはさらにその術に長けた施療師もいただろう。呪いを帯びていたとも見えない傷が、ここまではっきりと残っているのも妙な話だ。
「ああ、これか?」
 問いかけに首を向け、隠すようにしていた傷から手を離して指でついとなぞりながら、
「これは、わざと残したんだ」
 そう事もなげに言う。
「ほう?」
 言葉を促すように相槌を打つ。レイは小さく首を傾げて考える素振りを見せ、やがて顔を正面に戻してひとつ頷いてから、口を開いた。
「もう百年近く前になるな。これは、俺が初めて戦場に出た時にできた傷なんだ」
「例の大戦か」
 言うと、ああ、と首肯が返る。
 途中幾度もの休戦を挟みながら、百年以上の長きに渡って続いた天魔の大戦。先日の苛烈な戦とはまた別にその様子を語り継がれるだろう争乱中の、最も後ろの戦期に、青年は初陣を飾ったのだと言う。くだんの大戦にレイが参加していたことはヴァルナードも知っている。そも、天軍の勝利の立役者の一人こそが彼であるのだし、華々しい戦果の噂とともに、『天のいとし子』の勇名が冥府の地にまで届いたのもその折である。
「俺は最後の戦期と、その前の戦期のちょうど間に生まれたんだ。もうそのまま終わったことになるんじゃねぇかってぐらい長く休戦が続いてた頃だったから、かなり平和だったな」
 俺、甘やかされて育った自覚はあるんだ。ぽつりと言う。
「その頃はものすごく天宮の子どもが少ない時期だったし――俺、天宮生まれの一番歳の近いやつでも、上も下も二十年以上離れてるんだ。四つ羽が生まれたのも久しぶりだってんで、ほんと、べたべたに構われて暮らしてたな」
 今思い返すと笑っちまうぐらい、と言って笑む。塔の小さな住人たちにせがまれて語る昔話を聞いていれば、なるほどその言葉は嘘ではないし、そうして接した天の住人たちの心も充分にわかる。
 けど、とレイは言葉を続ける。
「楽しかったし、幸せだった。けど、周りがみんな大人で、自分だけが力の弱いガキで、そのぶん、すげぇ焦ってたし、もどかしかった。成人の儀の前にまた戦が始まって、軍が戦場に出始めて。何度連れてってくれるようせがんだかわからねぇけど、ずっと許してもらえなかった。怪我して帰ってくる兄貴たちの見舞いをして、剣の鍛錬をして……ようやく参軍を許可された途端、このザマ」
 ぴん、と指で傷をはじき、情けねぇよな、と笑うその声に、翳りはない。
「どうにかして戦功を立てたい、兄貴たちに追いつきたい、それしか考えてなかった。敵に囲まれてる兵――天宮の兄貴じゃなくて、外で生まれた俺と同じ歳ぐらいのやつを見つけて、がむしゃらに突っ込んでって、そいつを助けたは助けた、で、自分が斬られた」
 叱られたなんてもんじゃなかったぜ。苦笑の息をつき、もう雷落とされた数も憶えてない、と指を折る。
「たとえ人を助けるためとは言え、後先考えずに自分勝手な行動を取る者が将と言えるのか。立場をわきまえず、己の功のために剣を振るう者が戦場に立つ資格はない……。まぁほかにも色々、一日がかりで、いや二日ぐれぇかかったかな。説教されて、俺、それまでの一生にしたうちの十倍は謝って、二十年分ぐらい大泣きしたな。しょうもねぇガキだったな、ほんと」
「それで残したのか?」
 しみじみと語るレイの頬を指して問う。
「ああ。ま、薬っつーか、教訓」
 すげぇ止められたけど、と言うのに、そうだろうと内心で頷く。平静に考えて、そんな不名誉な傷跡を誰が進んで残したいと、残させようと思うだろう。まして、この清廉な鳥、『天のいとし子』の顔の上に。
 だがレイは変わらず翳りのないその顔に、満足の色すら浮かべて続けた。
「残したのは、そのためだけじゃないんだ。そうやって諭されて、説教されて……すげぇ厳しかったけど、それがみんな、俺のことを大事に思って、心配して言ってくれた言葉だったのは知ってたから。そうやって大切にされてるんだってことを忘れないように。それを俺も大切に思って、返すために剣を振るうこと、生きることを忘れないように」
 そのために、残したんだ。
 この傷は俺の誇りなんだと、天使は穏やかに笑った。
 しばし、風のみが過ぎた。
「……ヴァル?」
 怪訝な声で名を呼ばれ、考えるより先に腕を伸ばした。警戒のゆるんだ身体を捕らえ、背に手を回して引き寄せる。わ、と漏れた声が続きを音にするのを待たず、その息ごと呑むように口付けた。
「ん、……ちょ、ぅんっ……」
 こちらはいまだ接触に慣れず逃げようとする舌を絡め取り、熱を伝える。
 止まり木で良いかと思うこともあった。籠に入らぬ鳥が帰る場。すぐ人に気を許しはしても、それ以上の一歩を知らない青年がそれでも心を寄せ安寧を示すのが、我が傍らであれば。
 だが――心の奥底では、それでは満足のならない己もいる。否、満足するはずがない。昏い慾を身の核に抱く冥府の者、全てを呑み込む影である自分が、青年自身理解至らず親愛の域に混ぜ留めているのであろう、そのような穏やかな情で満足を得ようはずがないのだ。『黒の間』に連れるのでさえ、先日のように誰かがそう言って訪ねてこなければ、まだずっと、ともすると、続く限り永遠に先送りにしていたかもしれない。
 傍らではない。この腕の中に、懐深くにその存在が欲しいのだ。
「んぅ……ぁ、」
 幾度も深さを変えて重ねた唇を息の切れてきた頃合を見て解放し、肩を押して身を離そうとすると、わぁ、と小さな叫びが上がり、逆に服の胸元を掴んで引き寄せられた。ぽすんと額が肩口に埋まる。
「レイ?」
 奇妙な行動に声をかけると、
「は、離れんな、馬鹿っ」
 荒い息の下から言葉が返るが、顔は上がらない。金の髪の隙間から覗く耳が赤く染まっている。惚けた顔を見られまいとしているのだろうが、矜持を保とうがためなら逆効果である。思いのまま背に手を回して両腕に抱き包み、
「……離れないのなら、何をするかわからんぞ?」
 赤い耳に口を寄せ、低く囁いてやる。腕の中の肩がびくりと揺れたが、暴れ出しはしなかった。
 本当に――。伏せた顔の下からくぐもった言葉が聞こえる。
「本当に嫌なら……羽に触らせたり、あんな情けない話したり、しねぇよ、馬鹿」
 思いがけない言葉にはたと金の髪を見下ろす間にも、ぼそぼそと声は続く。
「世話になってるし、……っ、冗談で、す、好きだとか、言わねぇんだっつうの……だから」
 俺は、お前にも、何か返したいんだ。

 不覚にも、一度息を止めてしまった。
 すぐに思量をまとめ、肩口に寄せたレイの頭上にふと笑いを落とす。何笑ってんだよ、と胸に埋まったままの口から不満げな声が届いた。
「いや、大したものだな」
 響きだけを取れば含み持つ誘いの言葉にも思えるが、まさか当人がそうと図って口にしたとは考えがたい。また何やら気ぜわしい少女たちに背を押されたいきさつでもあるのだろうか。いずれにせよ、冥府に根を張る『影の王』の思考をこうまで揺るがした者など、他に例を見ない。
 果たしてどこまで自分に意外を覚えさせてくれるのだろう。この愛しい鳥は。
「つまりお前は、私がお前のことを大切にしていると捉えていると――そう思っていいわけだな?」
「た……大切、とかそうまで言葉ではっきり思ってねぇ、けど。……違ぇのかよ」
「いや、光栄だ」
 敵意には敵意を、好意には好意を、なるほどこの青年らしい、まっすぐなものの捉え方だ。そして彼はその好意のさらに一歩先の情を、並ほどにとはまだ達せずとも、ヴァルナードが思ったよりもだいぶんはっきり意識に置いてはいるらしい。
 よろしい前言は撤回しよう。思い違いを、ことに自分の願うほうに正すのに早すぎるということはない。
 背を抱く手で翼を梳きながら、もう一方の手を下へもぐらせ、隠れた頬を捕らえて指を滑らせる。爪で傷をかすめると、こぼれた吐息が手のひらに熱を伝わせた。
 傷を負わせたくないと願う心が「大切にする」ことだと言うのならば。
 では傷付けたいと思う心は、一体どのような言葉で語られるのだろうか?
 この腕の中に閉じ込めたい。誰にも見られぬように、何者にも触れさせぬように。
 傷付けたい――。修練の中に負うどんな傷よりも、天への想いを宿したその頬の傷よりも、深く深く消えない傷を、己という存在をこの白い翼の上に刻み込みたい。
 昔語りをするレイの晴れやかな顔を前に湧き上がったそんな淫靡な衝動の一方で、護り慈しみ、自由に羽ばたかせてやりたいと思う心もまた、同じほどの強さを持ってこの胸に在る。よほど前から自覚しているその矛盾は、不愉快なものではない。ことによると、それは矛盾ですらないのかもしれなかった。
「レイ」
「……何」
「はっきり言葉で伝えるか?」
「だから、何が……」
「愛している」
「っ、う」
 全てその言葉にまとめられてしまう、それだけの想いなのだから。
 もはや完全に顔を上げられなくなっている青年の様子に笑いをこぼし、そっと囁く。
「私の部屋に来るか……?」
 肩がまたびくりと跳ね、たっぷりのためらいの間を置いてから、探るように伸ばされた白い指が弱げな仕草でヴァルナードの袖を掴んだ。
 ――了承のしるしだと、思い違いでもそう都合よく取らせてもらおうか。
 朔を過ぎてまた満ちゆくさなかの傷にも似た細い月が、白黒ふたつの人姿が影に融けるまでを物言わず見下ろしていた。


Fin.
NOVEL MENU