夜想律
「レイシスさん」
ヴァルナードの諾を受け『黒の塔』で暮らすことを決意した翌朝、二階の広間を抜けて階段を降りかけたレイは、背にかかった静かな声に呼び止められた。
足を止めて振り返ると、こちらに数歩の間を置いて、すらりとしたローブを身に着けた女性の姿があった。
被いた
綸子のヴェールに隠れ、髪や目元は見えないが、陰に覗く高い鼻梁と笑み浮かぶ唇の形には艶やかな優美が感じられる。
何にせよ、レイにとっては初めて目にする人物だが、静かな居住まいに差し迫った敵意は感ぜられない。この場で自分の名を呼んだところを見ると、警戒の必要もないのだろう。
剣の柄に上がりかけた手を横に戻し、ええと、と問いを口に乗せる前に、女性が先んじて名乗った。
「お初にお目にかかります。私はイザエラと申します」
聞き覚えのある名だった。確か、塔の小さな住人たちの話の中で語られていたものだ。ああ、と相槌を打ち、
「確か……塔の管理をしてるとかいう」
呟くと、その通りです、と言葉が返る。
「これから何か御用がおありですか?」
「いや、別に」
問いかけに首を振る。朝に目を覚ました際、既に起きていたヴァルナードにかけられた言葉は寝覚めの挨拶のみで、その後広間に降りて塔の住人たちと交わしたのも、中身のない雑談に近い会話だった。誰からも指示のひとつすらなく、レイは自分がこの塔で何をすべきなのかわからずに、ひとまず地下へ降りようとしていたところだったのだ。
塔の管理者・イザエラは、それでは、と後ろの廊下に手を示し、
「塔のご案内かたがたお部屋へお連れいたしますから、少しお時間を頂けますかしら」
そう言った。
「部屋?」
「レイシスさんのお部屋ですわ」
え、と首を傾げる。部屋には今これから戻ろうとしていたところなのだが――そう思って言うと、イザエラはまあ、と笑って言葉を返した。
「あれは正式の部屋ではございませんから。ヴァルナード様のお言いつけで、新しい部屋をご用意させて頂いたのですよ。さ、どうぞこちらへ」
紅紫色の長衣の裾がふわりと翻り、レイを手招く。口元でヴェールが揺れ、ごく薄く狭くではあるが、白い頬の上に鱗のような紋様が見えた。天使にも劣らぬ穏やかな声と物腰をしているが、やはり冥府の住人たる者の姿ではあるらしい。
(そういや、眼を見ると石になるとか言ってたな)
赤膚の妖鬼の言葉を思い出したが、それを本人の前で口にするほどレイも迂闊ではない。ああ、と短い返事をし、ゆったりと進む背を追って歩き出した。
「外から見て頂くとわかるかと思いますが、『黒の塔』は主塔と側塔から成っています。ヴァルナード様の居室がある広い棟が主塔、そして半ばの階から主塔と別れて立つのが、今私たちが歩いております側塔でございます」
前に立って歩を進め、時折手でまわりを示しながら、塔の造りについてイザエラが説明を述べていく。
「側塔はいくつかの階で主塔と渡り廊を繋げております。主塔より幾分か狭く造られていますが、高さは同じほどです。レイシスさんのお部屋は、側塔の最上階にご用意いたしました」
話を聞きつつ首を巡らせて塔の様子を眺めた。この三日ほどで少し歩いたのみだが、中心に階段が置かれ、それを回廊が囲む造りを素地としているらしい主塔に対し、今いる側塔は板敷きの廊下とその片側に面した部屋、そして吹き抜けの螺旋階段だけで造られており、確かに狭い。おそらく塔そのものが主棟よりも細いのだろう。無用に広いよりは迷う心配がない。
「こちらです」
最上部まで螺旋階段を登るのかと思っていると、イザエラは唐突に道を折れ、一枚の扉を示した。
「私の後について歩いて下さいませ」
決してお離れになりませんよう、と、問う間もなく注意を促され、反射的に頷く。イザエラは笑みを浮かべ、開いた扉の中に姿を消した。それを追って戸を抜けると、視界が黒に塗りつぶされ、かちゃりと二度目の扉の音がしたかと思った次の瞬間には、廊下に並んで立っていた。
「……ん?」
何かしら部屋を抜けた様子もなかったが、まわりの空気の質が明らかに変化している。はたと窓の外を見やり、景色の違いに目を開いた。つい数瞬前まで同じ高さに眺めていた木々を、今は遥か脚下に見下ろしていた。
ふふ、とイザエラが笑い、
「細長い塔の行き来は面倒ですから、こうして内や外に繋がる扉があちこちにあるのです。しかし慣れるまでは思わぬ場所に出てしまうこともございますから、しばらくは私や他の者といる時にだけお使い下さいね」
それともレイシスさんなら、吹き抜けを飛んでいかれたほうが速いかもしれませんけれど、と言う。
「……そうしておく」
どうも住んでいる者の数に対して扉の数が多すぎる気がしていたのだ。レイは塔の管理者の勧めに素直に従うことを心に決め、小さく息をついた。
イザエラによれば、扉を抜けた先はすでに側塔の最上階であるらしかった。手招かれ、短い廊下の奥へと進む。
「こちらがレイシスさんのお部屋です」
最上階にはそう言って示された一枚の扉しかなかった。促され、取っ手を回して戸を引き開ける。
造りは同じく簡素に見えながらも重厚な趣のあった塔主の居室に比べ、やわらかい木色を基調とした、静やかな印象の部屋だった。新品とまでは行かずも、使い古した跡もない家具がひと揃え並んでいる。
「中の物はご自由にお使い下さい。どこか具合の悪そうなところはございませんかしら? あまり間がなく、最低限の準備しかできませんでしたので」
声を背中に聞きながら、部屋へ足を踏み入れ、一回り見渡す。居間に並んで寝室があり、寝台に白地の寝具が敷かれていた。
「悪いも何も……」
後ろ髪をかいて、呟く。
「囚人の部屋にしちゃ、立派すぎると思うけどな」
小ぢんまりとした部屋だが、問題があるどころではない。天宮で長年暮らしていたものと比べても、使い勝手では遜色のなさそうな一室である。
レイの言葉を聞いて一瞬ほうけたように身を止めたのち、イザエラは口に手を寄せて笑い声を立てた。
「ふふふ、まあ、そういうことですの。お悪い方ですこと……。いいのですよ。ヴァルナード様がそう仰って用意したお部屋なのですから」
「……いいなら、いいけど」
むうと口角を下げつつ言葉を返す。今名前の上った塔の主といい、かまびすしい三人組といい、どうもここへ来てから笑われてばかりのような気がするのだが、そもそも勝手のわからない部外者なのだから仕方がない。
「では、何かございましたらいつでもお知らせ下さい」
その他こまごまとした説明をひと通り終え、そう言い残して部屋を去ろうとした塔の管理者を、レイはふと思いついて呼び止めた。
「あ、ちょっと待ってくれ。ええと、イザエラさん」
「はい」
なんでしょう、とイザエラが振り返る。
「俺、ここで何をしてたらいいのか良くわかってねぇんだけど……、なんかやることないか?」
言われないのならば自分から訊いてやろうと発した問いだったが、イザエラは口に笑みを浮かべたままで小さく首を傾げた。
「特別に何か、ということはないと思いますけれど」
返った答えに眉を寄せる。ここまで来て何もないのなら、本当に何もないということなのだろう。
「そうか。でもそうすると……暇だな」
天界では将の役務としての兵の稽古や、自らの鍛錬のほか、非番の折には空を翔けての遠出も頻繁にしていた。しかし今の自分には率いる部下もおらず、剣の鍛錬とて、独りで日がな一日続けていられるものではない。立場を考えれば勝手に外へ出るのもはばかられる。天界でもさほど慌ただしく過ごしていたわけではないが、もともと長い時間ひとところにぼうとしていられる性分ではなかった。用事がなければ身を持て余してしまう。
どうしようかと考え込んでいると、
「レイシスさん、本はお読みになりますかしら?」
突然、問われた。
「え、まあ。割と」
頷き答える。天の住人は古くから本や物語を好む。もともとはじっとしていない自分を決まった場所に座らせておくために躾けられた読書の習慣だったが、成長してからは、レイも自らの意志で様々な書物を手にするようになっていた。
「では、こちらへおいで下さい」
言いながら、ついてくるよう手振りで示される。レイは状況のわからぬままイザエラの歩みを追って部屋を後にした。
案内の足が止まったのは、階段をふたつ降りた先の部屋の前だった。他の部屋の物とはやや造りを違えた、広い両開きの扉がある。
「ここは、塔の蔵書室です」
重い音を立てて扉が開かれ、古い紙の匂いが鼻をかすめた。入り口から壁の見通せない広い一間の中に、天井へ届こうかという大型の棚が整然と並んでいる。
「凄いな」
どの棚にも大小様々の本が一杯に納められており、その数は天宮の書庫にも劣らぬほどに見えた。思わず感嘆の声を漏らすと、
「ヴァルナード様とヌグマ様のご趣味なのですよ。中のほとんどの本はお二人が集められた物です」
そうイザエラが説明した。
「ふぅん。俺が読んでも大丈夫なのか?」
「ええ、もちろん。奥に椅子と机を置いていますからこちらでもお読み頂けますけれど、部屋へ持ち帰って下さっても構いません」
部屋の中に歩を進めて説明を述べるイザエラの声を聞きながら、レイは入り口近くの棚から目についた赤表紙の本をなにげなく手に取り、分厚い大判の半ばをぱたりと開いた。
「……ん?」
黄褐色に焼けた紙の上には一語の文字もない。封じをかけた術技書のたぐいか、と首傾げて本を閉じかけたその時、かすかな魔力の波とともに、白紙の上に幻影の窓が開いた。奥に、像が揺らぐ。
反射的に視線を戻し、目をこらす。そうして目の当たりにしたものに、――絶句した。
「レイシスさん?」
しんとなった空気にイザエラが振り向く。訝しげに名を呼ばれ、我に返った瞬間、
「……っぎゃああああぁっ!」
止まっていた息が、絶叫となって喉をかけ上った。
「なになになに、ちょっとどうしたのよォ?」
「上げるなら嬌声にして欲しいねぇ、きしし」
「本から虫でも飛び出してきたの?」
塔に響き渡るほどの叫び声に、住人たちがばたばたと蔵書室に駆けつけてくる。翼の少女たちの後ろから、巻き上がる影と赤い光とともに、ヌグマとヴァルナードもが姿を見せた。
レイは四枚の翼で身体を包んで床に座り込み、震えを誤魔化すように声を上げた。
「な、なんなんだよ、その本……!」
床に投げ出された本をヴァルナードが取り上げ、ほかの五人が横から覗き込む。しばしの沈黙を置いて、気抜けた声が場にこぼれた。
「あらー」
「体位本だねぇ、きしし」
「子どもだましの仕掛け絵ねェ」
ずばり落とされた言葉にも理解が及ばず、レイは動転した頭を振った。天界にも裸身を描いた絵はあるが、それはあくまで芸画としてのものである。この程度で叫ぶことないのに、と少女たちは言うが、色事の知識などまるでないところに、慾を満たすための裸像どころか、奇っ怪な法で絡み合っている性技図絵をなんの心構えもなく見せられたのだから、咎められるいわれはない。
本を棚に戻したヴァルナードに腕を取られ、どうにか立ち上がる。
「なんだって、あ、あんな本置いてるんだよ……」
気を張って抗議を上げたつもりであったが、ほとんど涙声であった。相手は悪びれる様子もなくふっと笑いを落とし、
「選り好みをしていたら収集にならんだろう」
趣味のいい本とは思わんがな、と言って、乱れたレイの髪をなだめるように撫でつけた。
「災難じゃったの。レイ、蔵書の目録があるんじゃよ。何せこの数じゃからの。それを見れば目当ての本も探しやすいし、妙な失敗も起きぬよ」
「こちらですわ」
そう語って棚の一角を示すヌグマもイザエラも声に笑いがにじんでいる。あとの三人は三人で今の騒動をいい話の種と視界の隅に花を咲かせている始末で、わかったと頷きを返しながら、今後何があっても、絶対に塔の中で悲鳴なぞ上げたりはしない、とレイは心に固く誓いを立てた。
ヴァルナードたちを追い払うようにして戻らせ、独り蔵書室で本を眺めるうちに、その日は終わっていた。
適当に――もちろんいかがわしい物は意識して除いて――取り出した十冊近い本を腕に抱え、与えられた自分の部屋へと戻る。椅子に腰かけ、机の上に一冊ずつ置いていくと、ふと、最後の本の表紙に目が吸い寄せられた。中を開き、ぱらぱらと頁をめくっていく。にじんだ墨で綴られた文字と、その横の記号の列を目で追いながら、自分でも気づかぬうちに笑みを口の端に漏らしていた。
紙を繰る手を止め、記された文字と記号を一度指でなぞってから、深く静かに、息を吸いこんだ。
遥かの地に心馳せ 迷い人は霧辺に道を求む
風間に言葉 遠き丘に寄せ
浮かぶ灯を捕らえ
朝を歩む
うち降る雨の下 ただ鳴るは声なり
昔日は遠く我が胸を揺らし 願い音なく渡り響きぬ――
◇
夜闇を通して届いたその声は、側塔から流れてくるもののようだった。
ヴァルナードは手にしていた書簡を置いて椅子から立ち上がり、影を通って自室から広間へと身を転じた。地上近い広間にも音は鮮明に渡り来ており、平素は騒がしい塔の住人たちが窓辺に肩寄せ合って耳を澄ませている。
絵姿の参謀がヴァルナードの隣に浮かび、感心の声で言う。
「レイですかな?」
「そのようだ」
以前からの住人に側塔に居室を置く者はなく、外からの侵入者の気配も感ぜられない。また、そんな推察によらずとも、高く低くやわらかな律をもって響く歌声は、普段の会話の折よりだいぶん中性的な音を奏でてはいるが、聞き違えようもなく、確かにあの白き鳥のものだ。
「ちょっとぉ、すごいじゃないレイってば」
「綺麗な声ねぇ」
「ケケケ、これは鳥乙女の姉さんたちも裸足で逃げ出すね」
口々に賞賛が上がる。千年を生きた長者としても異論ない、見事な唄いだった。まず初見であろう詞と譜を、楽奏の助けもなく完璧に掴み奏でている。塔を巻く風までもが色を変え、歌声を闇の地に似つかわしからぬ穏やかさで包んでいるかのように聞こえた。
「今ちょうど、門の前を魔界から流れてきた力の弱い魔族が歩いていたのですけれど」
外へ続く階段を上がってきたイザエラが、広間の口から進みながら告げる。
「唄が流れてきた途端に、身体が溶けて死んでしまいましたわ」
翼の住人が揃って声を上げ、ヴァルナードとヌグマは笑いを立てた。
「今の唄があれば、あの樹と戦の末も違っていたかもしれんな」
もっとも、それを惜しく思いはしない。あの一連がなければ、この見事な唄いを我が城で聴くこともなかったのだから。
――客席に入れてもらうとするか。
意図に気付いてずるいと頬を膨らませる住人たちを横目に、白翼の歌い手の居室に向けて影に身を融かした。
遥かの空に心馳せ 幼子は雲間に翼を求む
川面に想 深き海に寄せ
沈む陽を追い
夕を駆ける
去りゆく時の下 ただ還るは唄なり
昔日は遠く我が胸を染め 祈り声なく巡り紡ぎぬ
ちょうど一曲が終わるところで部屋の前に立った。声が切れるのを待ち、扉を叩く。勝手知ったる己の城、部屋の中に直接身を運ぶこともできたが、間違いなく部屋主の機嫌を損ねるとわかって手間を惜しむこともない。
はい、という応えとともに扉が開き、歌集を手にしたレイが顔を見せた。ヴァルナードの姿を見止め、首を傾げる間を置いてから、あ、と声を漏らす。
「悪い。もしかしてうるさかったか?」
思い切り声出しちまったから、と続けるレイに首を振り、
「いや、良い歌だった。中で聴かせてもらおうかと思ってな」
そう言うと、きょとんとした視線が返った。果たしてと言うべきか、自分の唄の効に気付いていないらしい。重ねて問う。
「部屋に入れてもらえるか」
「え、ああ、うん」
怪訝な顔をしつつも、入れよ、と中を示して椅子を勧めてくる。まったくどこまで躾が届いているのかと、口の中で笑いを噛み潰した。
「慣れた声だったが、天界ではいつも歌っていたのか?」
勧められた部屋の隅の椅子に腰かけ、同じく机の前の椅子に座って向き合ったレイに訊ねる。
詩や唄を愛する天の住人たちのことであるから、そうあっても決して驚くべきことではないが、どちらかと言えば優美より勇壮という言葉の似合う撃剣の名手である。他の穏やかな天使たちに並び、楽を奏でている姿というのは、いささか想像するに難い。
レイはそうだな、と一度首をひねってから答えた。
「天宮では、そうしょっちゅうってほどでもなかったんじゃねぇかな。親父さんとか天使長の兄貴たちの前では多かったけど、真言まがいのもあるってんで、最初のうちはそういうとこでしか許してもらえなかったし。けどまぁ、歌自体はガキの頃から好きだったから、抜け出した先の草っ原とかでは、鳥と一緒になって良く歌ってたよ」
ふむ、と頷きを返し、遥か異界の地に思量を寄せる。
天の主は、我が子の妙なる歌声を永らくその手の内にしていたのだろう。できるならば外へ出さず、限られたものにしておきたいと願うほど、愛し慈しんでいたのだろう。そのいとし子を深き闇の地に失って、どれほど嘆き悔やんでいることか――。同情の念が湧かぬでもないが、今こうして手の届く場所にいる青年の存在に比すれば、それとて塵ほどの想いにもならない。
「天に帰りたいか?」
短く問う。レイはえ、と顔を上げてヴァルナードの顔を見つめ返した。
今レイが奏でていたのは望郷の詩であった。遠き故里を想い、帰りたいと願う者の唄であった。だが意外の表情を浮かべているのを見ると、無意識の選であったらしい。
「……帰りたくねぇって言えば、やっぱり嘘だな」
足先の床に視線を落とし、ぽつりと呟く。
「長いあいだ暮らしてきた場所なんだから、どうしたって懐かしい。魔族との戦いがどうなったのか……戦慣れしてない若いやつらが無事なのか、ずっと気になってる。けど、帰れないのは知ってるし、今更うだうだ言ってたって仕方がない。それに、あんなことがあった後で、どんな顔して帰ればいいのかわからねぇし……。そもそも天界に入るのを許してもらえるかどうかすら怪しいしな」
最後の気がかりは全くの杞憂に思えたが、口にしたところで詮無いことだ。返す言葉を考える前に、けど、とレイは言葉を続けた。
「けど、その、……ここにいるのがすげぇ嫌だとか、そういうわけじゃない。あの三人組とか、全然気兼ねがねぇから、正直逆に助かってる。ヌグマの爺さんとか、イザエラさんとか、色々気ぃ遣ってもらってんのもわかる。ここに置いてもらえて、良かったと、思ってる」
ひとつひとつ言葉を確かめるように口にし、最後にちらとヴァルナードの顔を見上げ、
「お前も、その、まだ、部屋を用意してもらった礼を言ってなかったから」
言って、
「あの、あ、……ありがとな」
口ごもりながら頭を下げ、何か自分がこの塔でできることがあれば言ってほしい、と言葉を継いだ。
また口の端に笑いが漏れる。いったい、こんな愛おしいものを放り出しておくことなどできるだろうか? 手の内に入れて慈しんでやりたいと思うのが、理を持つ者の当然の心だ。自分も彼の父なる天主もそれに変わりはない。
だが――自分は天の主のように、ただ傍に置いてあやしてやっているだけで足りるほどの穏やかな存在ではない。ひときわに慾深い、闇に近い性を持つ者であるのだ。
顔を起こしたレイに笑いを向け、言う。
「そうだな、では、礼代わりに歌をひとつもらおうか」
「歌?」
「お前の持っている本の、最後に載っている唄だ」
レイは手にした歌集の最後の唄を開いた。詩と譜を確認しているのだろう、指が紙の上を滑り、
「別にいいけど」
そう返した。
「では、頼む」
問いが投げられる前に声落として促す。レイは首を傾げながらも息を吸い、静かに歌を紡ぎ始めた。
彼は蒼穹に心宿し旅せし者
融け結う雲の織間に移ろいて
夜を唄い 天に言葉寄する
者みなその白きに焦がれ
その妙なるを恋う
杯に浮かびしに爪を払い
問いたるは猛き獣
Lia, Yell Fuega Alcaxia La?
風に鳴りてただ去りぬ
誰ぞその声の届きけるを知りぬや
彼は暗海に光宿し巡りし者
さざめく星の波間に輝きて
朝を唄い 地に想い寄する
者みなその白きに偲び
その儚きを嘆く
海にたゆたいしに牙をかけ
問いたるは黒き獣
Lia, Yell Fuega Alcaxia La?
波に落ちてただ消えぬ
誰ぞその声の帰りけるを知りぬや
一語一語を愛おしむようにゆるやかに奏でられた歌声は、閉じ切られた部屋に豊かな風の流れさえ感じさせた。もとより、その手に持つのは力ある唄を集めた古い写本である。これほどの歌い手の声に乗れば、なるほど下賤な魔族など耐えようもないのは頷ける。
「変わった詩だな」
歌を終え、本に目を落としながらレイが言う。
望郷の詩を唄った青年への軽い意趣返しの念も含めて選んだ唄だったが、詩の意味をじっくりと取って唄うようなことはあまりないのだろう。こうまで来れば、意図が伝わっていないのも逆に予想の通りである。
「そうだな。だいぶ古い唄だ」
言うと、ああ、と頷き、
「途中の文、聞いたことがない言葉だと思った。この世界の古い言葉とかなんだろ。音だけ取って歌っちまったけど、どういう意味なんだ?」
そう訊ねてくる。
少し考える。言葉の通りに教えてやることもできるが――それでは本意とやや外れる。何より面白くないと悪戯心を芽生えさせ、
「知りたいか」
「え、まぁ、そりゃ」
「どうしても知りたいんだな?」
わざと相手の嫌がるような意味深な笑みを浮かべて、椅子から立ち上がった。レイははっとして顔を引きつらせた。
「い、いい。やっぱりいい」
「そうか? 唄の意味を知るのもひとつの習いだと思うがな」
さっさと歩いてレイの前に立つ。レイは腰を上げる間を逸して、椅子に座ったまませめてもの盾にとでもいうのか、手にした本を身の前に構えている。
「あれは、月の唄だ」
顔が同じ高さになるように膝を折り、そう教える。
「月?」
「うむ」
古来、ある地では月の満ち欠けは巨大な獣によるものだと考えられていた。獣がその身を追い、牙をかけて覆い隠しているのだと。
説明に、レイがふぅんと頷く。
「言葉の意味だが……」
「だ、だから、いいって言ってるだろっ」
声を落としながら身を近付けると、慌てた叫びとともに肩を掴まれる。構わず逆に手を伸ばして頭の後ろに回し、ぐいと強く引き寄せた。
「本当は私がお前に贈るべき唄だったのだがな」
言って、疑問の色を浮かべる間に顎へ指をかけ、口付けた。
「ちょ、んぅっ……う、やめ……んん……っ」
抗議を上げかけて開いた唇から舌を滑りこませ、優雅に音を紡いでいた歌い手の舌を絡め取る。
「んぅ、ふ、ぁ……」
黒の間での契約から、意識して深い口付けはしてこなかった。翠碧色の瞳に涙をにじませ、荒い息をつく唇の間から紅く濡れた舌を覗かせている様子は、ともすると情交の間よりも支配欲を駆り立てる。
唇を離して上気した顔を見下ろし、
「ではひとつだけ教えておこう。『Alcaxia』とは、月が完全に欠けた様子のこと――つまり、新月のことだ」
そう伝えてやる。レイは力の抜けた調子でいいよもう、と弱く答えたが、その目には不満とともに、絶対に調べてやる、という決意の色が浮かんでいる。
地上の者たちが、あるいは共に天に浮かぶ陽や星たちが彼を慕い心寄せているから、獣もその身を全て隠してしまいはしない。爪を研ぎ牙を立てて追いつつ、全てを我がものとする前に、またそれを空に戻してやるのだ。
だが獣もそれを心底から欲している。胸の中深く得たいと願っている。だから堂々巡りの中、我が腕にかけた月に問うのだ。
Lia, Yell Fuega Alcaxia La?
こうと決めたらそれを貫く気性の青年のことであるから、明日は一日書庫にこもって古語の意味を調べるだろう。そしていつかはその真意にたどり着くだろう。
果たしてその時、この純心の鳥はどんな顔をして自分に知らせにくるだろうか?
「なに、笑ってんだよ」
腕の中で眉を寄せ、レイが不平の声をこぼす。
「いや」
笑いを浮かべたまま、ヴァルナードは抱き寄せた耳に静かな囁きを送りこんだ。
「Lia, Yell Fuega Alcaxia La?」
――さて、お前を喰い尽くしてしまっても良いだろうか?
Fin.