「アラ、おはよーレイ!」
「今日も寒いわね。良く眠れた?」
「食堂にお茶が入ってるよぉ。きしし」
顔を合わせるなり浴びた三つの言葉に階段の半ばで立ち止まり、
「……おう」
眉を寄せることもできず、それだけを答えた。
冬の短い日も既に昼半ばを回っている。そんな時間にひとつの疑問も差し挟むことなく投げられる寝覚めの挨拶は、つまりは塔主の部屋で遅寝をしていたレイへのささやかな、とは収めがたい冷やかしである。頭から丹念に湯を浴び身を整えて、閨事の気配をしっかりと消したつもりで降りてきただけに、けろりと言われて返す言葉もなかった。
朝の陽に目をこする中、もう少し寝ていろと言われた言葉に素直に従ったのは己であるし、昨日の今日での言い訳はかえって滑稽だとわかっている。軽い揶揄が、彼らなりに親愛を込めた祝福であることも。
それでも決まり悪さに変わりはなく、口を横に引き結んで黙っていると、すました顔でレイを覗き込んでいた小さな住人たちが、遂にくすくすと笑いをこぼし始めた。忍び笑いは次第に弾み、狭い階段に反響を起こす大笑に変わる。
「笑うなよ」
そうようやく不平を立てながら、自分もつられて笑ってしまっているのだから世話はない。
涙混じりの「お帰り」や「ただいま」より、軽口のやり合いの方がよほど今に似合っていると、我が身のある場所をしみじみと噛みしめながら思った。
「けどちょうどいい時間だったんじゃない? ヴァルナード様もついさっき帰ってきたみたいだし」
歩みを再開したレイの前を飛びながら、ジュジュが言う。
「え?」
あいつ出てたのか、と問いを発しかけたが、それより先に紅茶の種類を訊ねるソランの声が落ち、その場の話題は流れた。
食堂で軽い食事を済ませ、またひとり階段を降りていくと、下からやってくるイザエラに行き会った。
止まって脇にのいたレイに微笑みかけ、広間に行かれるのですか、と訊ねてくる。
「うん、まあ」
特に目的もなく足を進めていたのだが、どこへ向かうにしろ、このまま階段を降りれば広間に着くことになる。曖昧に頷くと、イザエラは笑みのままちらと後ろを見、
「扉は静かに開けて下さいませね」
そう言った。
え、うん、と反射的に答えてから、その言葉の奇妙さに目を瞬かせた。日中の広間への扉は普段から開け放されているはずである。理由を問う前に、では、と塔の管理者は階段の上へ去り、レイは首を傾げながら再び足を動かした。
果たして、階段から広間へと続く戸は閉め切られていた。疑問を浮かべつつも、イザエラの頼みに従ってそっと扉を開き、閉める。向き直って踏み出す前に奥の長椅子に腰掛けている黒衣の塔主の姿が目に入り、おかえり、と言いかけて開けた口を、思い直してそのまま閉じた。靴音を抑えてゆっくりと歩み寄り、数歩手前から覗き込む。いまだ相手の動きはない。
(寝てる……?)
顔の前で静かに手を振る。かすかな空気の揺れにも反応を示すことなく、ヴァルナードは長い脚を組んで椅子に深く腰掛け、眼を伏せたままでいる。
イザエラの言葉に納得して手を引き戻しながら、意外の念も覚えていた。それが本当に珍しいことであるのかどうかはわかっていないが、少なくとも自分が塔で過ごした数月の間、この男がうたた寝をしている姿など見たことがなかった。
起こそうと声をかけるでもなく、といって場を去るでもなく、ただ黙って前に立ち尽くしているだけの自分に気が付き、特に考えもないまま歩をさらに進めて、少し間を空けつつ同じ長椅子に腰下ろしてみる。二人分の重さに座面が沈んだが、ヴァルナードが目を覚ます様子はなかった。
昼の暖炉に火は入っておらず、広い部屋はやや肌寒い。
(火入れたら臭いで起きるかな……毛布でも持ってきてやるか? けどそもそもこいつ寒いとか暑いとか感じてんのかな)
つらつらと考え巡らせながらも行動は起こさず、傍らをただ眺めていた。うたた寝どころか、普段の寝顔すらまともに見たことがなかったのだと今さらながら思い至る。共寝の折にも必ず後に寝て先に起きている男の無防備な寝姿が隣にあり、それを伸ばした手が触れるほどの間近から自分が見つめているという事態に、ひそやかな優越感を覚えた。
そうしてふと落とした視線の先、男の膝向こうの座面に、畳んだ書状が落ちているのに気付いた。階段でのジュジュの言葉を思い起こし、何か朝の用事で取り交わしてきたのだろうかと考え、傍らのうたた寝の理由に行き当たる。
ひょっとすると、この男は疲れているのかもしれない。
似つかわしくない言葉ではあったが、その想像は意外なほど確からしく思えた。無論、疲れているそぶりなど見せてはいない。そうと自分で語るわけもない。だがこのひと月あまりの慌ただしさを考えれば、疲れを感じていないほうがかえって妙に思える。千年を経て再起した禍を押し止め、魔軍を牽制し、戦が終わったのちもゆっくりと腰落ち着けることなく、身に馴染まぬ天の地を訪れて交渉を進めーー。全て顔色ひとつ変えずやりのけていたが、大儀でなかったはずがない。形無き力に正面から対峙した折の、人の相を崩しながらも揺るぎなく自分を包んでいた異形の影の姿を、まだ憶えている。
そうと仮定してみれば、今朝の用事もこの書状も、何か己に関することだったのではないだろうか。王の名を冠される冥府の長者とは言え、遥か異界の者を、この地では『物』とすら見なされもする存在を、公に我がもとに迎えるという行いに、面倒が一切つきまとわないと考えられるだろうか。
涼やかな横顔を見ながら、レイはふと息を落とした。
つくづく、自分は様々なものをこの男に与えられて生きているのだ、と思う。今さら思い悩んでも詮無いことだとはわかっている。まず存在の格に差があり過ぎるのだから、それを嫌だ、情けないと言って駄々をこねたところで、事実を変えようはない。
ならばせめて、自分も何かを返したい。以前にも言葉にして伝えたことがあるその想いが、より大きく強く、内から胸を揺らす。それは天の規範というのみのものではない、純粋な個としてのレイの願いだった。
(疲れてるなら疲れてるって言やいいんだ。そうしたらもう少し労わってやるのに)
肩でも揉んでやろうか、影に肩凝りも何もないだろうか。つらつらと考えてから、再び苦笑の息をついた。自分でさえ滑稽だと感じるのだから、実際に口にすれば笑われるのは目に見えている。
進まない思考をひとまずは捨て、ぼんやりと寝顔を眺めた。不恰好に寝乱れることもなく、両の目蓋を伏せているほかは常と変わらぬ印象を張った横顔(虚ろの目も伏せている限りは人と同じ形に見えると知ったのは、そう前のことではなかった)。微動だにしない体からは呼吸の音さえ聞こえてこない。
(ほんと、綺麗な顔してるよな。こいつ)
綺麗という言葉よりも、やはり端整という言葉のほうが似合っているだろうか。天の同胞たちの流麗な目鼻立ちを絵画のごとき美しさだと言うなら、男性的な彫りの深い顔は、鋭い刃に刻んだ彫刻のようだ。天においても冥府においてもほかに目にしたことのない銀の髪の閃きは、美や芸術の素養に欠けた身でも素直に美しいと思える。
そんなことを考えながら、自分がその髪に手を伸ばしかけていることにレイは気付いていなかった。体重の移動で椅子が沈んだ拍子に指が耳横の銀髪をかすめ、ゆっくりと目蓋が上がるのを見て初めて、はたと気を取り戻して動きを止めた。
目がかち合った。
「……あの、……悪い、起こして」
硬直して手を半端に上げた姿勢のまま、回らない舌で言う。ヴァルナードはゆるやかに伸ばした腕でレイの指を取り、ああ、とだけ答えた。
「眠れたか」
「え、あ、ああ、うん。お前は、出てたんだろ」
それ、と膝向こうの書状を目で示す。少しな、と短く答えが返るのに、
「……悪い」
もう一度、先とは別の意味で呟きを落とした。
組んだ脚を解きながら、ヴァルナードが数度目を瞬かせる。
「謝罪させるようなことは何もないはずだが」
「けどなんか、無駄に働かせてるだろ」
寝姿を眺めていたことへの気後れとともにぽそぽそと言う。ヴァルナードはふと笑いをこぼし、事もなげに答えた。
「無駄とは思わん。好きでしていることだ。お前が気を遣うことはない」
「わかってるけど、どうしても気になるんだよ。なんか無精者に鞭打ってるみてぇで」
レイの喩えに、今度は声立てて笑いが鳴る。
「その無精者が働いているのだから、先になんと健気なことだと褒めてもらいたいな」
「誰が健気だよ。花より似合わねぇよ」
声をはじき返してから、またこのままでは軽口に呑まれてしまうと話の先を戻し、
「お前、俺に何かして欲しいこととかねぇの?」
言って、相手からまた笑いが返る前に続けた。
「妙なこと言ってるってわかってるよ。俺にできることでお前にできないことなんて、むかつくけどほとんどねぇし。……それでも、ずっと寄りかかりっぱなしじゃ俺が嫌なんだよ。傍らって言ったのはお前だろ。ちゃんと自分で立って、隣で歩きたいんだよ。たまにはその、俺が」
寄りかからせてやりたい――。言い並べるうちに、自分の言葉が奇妙な頼みや願いと言うよりもむしろ子どもじみたわがままであることに気付き、小さくつぼんだ最後の声は前に閉じ合わせた翼の中に落ちた。
(……消えたい)
羽の下で念じるが、それは冥府の影であるところの相手のお家芸である。
ぽんと翼の隙間から頭を撫でられる。気恥ずかしさを感じたままおずおずと見上げた顔に、呆れの色はない。
「私からお前への望みが欲しいと言うなら、ひとつある」
え、とこぼれた間の抜けた声の上に、
「お前が私に望んだ一番の願いを、私も貰おう」
淡然と、言葉が落ちた。
その意味を脳が咀嚼するより先に、胸底で心が鳴る。
ーーずっと傍にいたい。共に、在りたい。
声を失くして異相の眼を見つめる。首元から熱が顔をせり上がっていくのを感じた。
「おま、……お前、ほんと馬鹿じゃねぇの」
「問いに答えただけで馬鹿はないだろう」
「だって、そんなん」
基本だろう、だの、当たり前だろう、だのと言い改めるほうがうら恥ずかしく、もごもごと口の中に言葉をぼかす。再び閉じかけた翼を指に梳き止められ、低い声を間近に聞いた。
「もう離せと言われても離せんのでな」
額に柔らかく唇が落ち、そのまま寄せられた頭がとんとレイの肩に乗る。預けられた体重に身が傾きかけ、照れの勢いとともに肩を押し返した。
「ちょ……重いっての! 物理的に寄っかかれって言ったんじゃねぇよ俺はっ」
元の体勢に押し戻されたヴァルナードは、顔に落ちた前髪を指で軽くかき上げ、不満を述べるでもなく再び目蓋を閉じた。
「……なぁ、眠いなら部屋で寝ろよ」
ここ寒いし、と言うが、返るのは頷きのみで、立ち上がる様子も影を動かす様子もない。もはや睡眠と言うよりも不可欠な瞑想のようなものなのだろう。
「布団でも持ってくるか?」
仕方がないと息落とし、訊ねかけつつ腰を上げようとした動作が、ぐいと腕引き掴まれて半端に止まった。回転した視界に目が慣れるより早く、翼ごと懐へ抱き込まれ、耳のすぐ横で声を聞く。
「これでいい」
「……俺の羽は布団じゃねぇし、懐炉でもない」
面映ゆさにごにょごにょと呟きながら、早まる鼓動を悟られまいと身を離そうとするが、上体のねじれた体勢では力もろくに入らず動きようがない。もがくうちにヴァルナードが椅子の背から一度体を起こし、そのままどさりと座面に寝倒れた。腕に抱かれたままのこちらは自然に仰向けの胸元へ突っ伏す格好になる。
「おい、本気で布団扱いかこらっ」
抗議の声も意に介さず胸の上の獲物を抱き直した男の口から、
「――」
ほつり、ひと繋ぎの耳慣れない言葉が流れた。
レイは身じろぎを止めて首を反らせ、男の顔を見返した。声は先へ続かず、薄い唇は既に目蓋とともに閉じられている。
それは今は使われていない、冥界の古い言葉だった。実際の会話の中にはまだ耳にしたことがない厳とした響きの言葉を、レイは冥府の古歌の詩文と重ね合わせることで、その意味とともに理解した。
――我が、白い鳥。
それをレイが理解し得たことを男が知っていたのかはわからなかった。どちらでも良かった。ただその胸元に頬を落とし、ばぁか、と呟いた。
誰が離れてなどやるものか。重いと思われようが息苦しさで夢にうなされようが、自分から起きるまではずっと上に乗っていてやる。
このまま日が傾き沈んでしまっても、どうせまた夜は明けるのだ。
夜が明けて、朝が来て、陽が昇って、暮れて、また深い闇が落ち、次の夜明けが来ても、自分はずっと、ここにいるのだ。
「……ヴァル」
好きだよ。お前が好きだ。
今はまだこの想いをさらりと口にすることはできないけれど、百回ぐらい、次の夜明けが来たら、言えるようになるかもしれない。
たとえ言えなくても、またきっと、夜は明ける。昨日の夜が、今日の朝が、確かに幻ではなかったように。
ずっとここにいる。ずっと、共に。
その頃閉じた扉の向こうでは、
「――ま、いいんだケドね」
「完全に他に住んでるヒトのことは忘れてるねぇ」
「……とりあえず、ほっとくかァ」
「もー、凄くおめでとうって言ってあげたい景色なのにぃ」
小さな翼の住人たちと塔の伝使が顔つき合わせ、明日には広間に入れるだろうかと、ひそやかに語り交わしていた。
Fin.