sweetness1
左の虚眼を除けばただの人間となんら変わりない姿を持つヴァルナードだが、実際にはもうひとつ、目に見えない異容を有している。正確には有しているのではなく、ひとつ、欠けている。影の具象たる身体に、生者の「におい」がないのだ。さらに言うならば死者のにおいもない。体臭というものをかすかにさえ持たず、外からにおいが付くこともない。
世に在り始めたときからの当然として、特に気に留めていなかった事実をことさら指摘して思い出させたのは、ついこの年から共に過ごし始めた異界出の青年であった。
二対四枚の翼を背に負った天の子、レイは、ヴァルナードとは逆に、やわらかな羽毛に周りのにおいが移りやすいようだ。当人にとってはかなりの不満ごとらしく、お前に全くにおいがないから自分のものが余計に気になるのだ、などと愚痴を言い、ことあるごとに湯を浴びている。
今日も鎧の王・オーヴェンに師事する剣の修練から帰った足で早々に汗を流しに向かったようで、昼過ぎから浴場で湯を使う気配があった。それから一刻あまりが過ぎた頃、レイは湯のにおいではなく、甘い食べ物のにおいを腕に抱えてばたばたとヴァルナードの部屋へやってきた。
本から顔を上げたヴァルナードに軽く声をよこし、勝手知ったるとばかりにすぐ居間の中に歩き進んでくると、レイは手にした浅い木かごを机に置いた。
清潔な布の敷かれたかごの中には、十個ほどのパンが入っている。
うちのひとつを取り上げ、ほい、と渡してくるのをそのまま受け取る。拳よりも少し小さいサイズのパンは、焼き上げたばかりらしく、まだ充分に温かい。甘いにおいの元は表面にも浮き出ているくるみのようだ。
「さっきイザエラさんが作ってくれたんだ。いっぱいできたから持ってきた」
俺も焼くの手伝ったんだぜ、と言って自分もひとつ手に取り、机に重ねていた歌集も取って前の椅子に座りこむ。次の間には、パンを頬張りながら目で詩を追い始めている。
躊躇のなさが逆にらしいと、ヴァルナードは音ひそやかに笑いを漏らした。
そのまましばらく黙ってそれぞれの本を読み進める。
紙をめくる合間にもレイはかごからパンを次また次と取り上げ、もくもくと口に運んでいた。食い盛りの歳はとうに過ぎているだろう青年は、さほど食を必要としない力ある天使の身の割に、普段から良くものを食べる。冥界の見慣れない食材にも臆せず興味を示し、料理達者な塔の管理者がふるまう毎日の夕食を楽しみにしているようだ。
小さな住人たちと賑やかに言葉を交わしながら、いきいきと食事を進める姿がほほえましく、レイが塔に暮らし始めてからこっち、その風景を眺めるためにヴァルナードも夜の食卓に顔を出すことが多くなった。
本をめくる手を止めてレイの所作に目を向け始めると、当の相手もひょいとこちらに顔を上げ、視線がかち合った。
「あ」
まさか目が合うとは思っていなかったのだろう、気まずげな声が落ちる。ことによると、ヴァルナードが目を向ける前から何度かこちらをうかがっていたのだろうか。そそくさと視線を外したレイだったが、ややあって口を難しく曲げつつもう一度顔を上げ、
「……喰わねぇの」
ぽつりと言った。
それ、と指差された、初めに受け取ったパンは、受け取った形のまま机の紙束の上に置かれている。
「腹を空かせた者の分がなくなるだろう」
朝早くから鍛錬へ繰り出し、帰って休む間もなくパン作りを手伝っていたというレイは、先ほどの様子から見るに相当な空腹のはずである。受け取った一個も機を見てかごの中に戻しておく心づもりだった。
図星を突かれたらしく、さっと顔を赤くしながらも、レイは首を大きく横に振りたてた。
「お、俺はいいんだよ。下に行きゃまだ残ってるし……」
温かいうちに喰えよ、と木かごを押してくる。妙な強情さに内心で首を傾げつつ、かごを見下ろしたまま手を伸ばさずにいると、
「……くるみ入ってんのに」
ぽそりと落ちた声の意味を聞き返す間もなく、ほら、とパンを掴んだ手が顔の前に突き出された。
「喰え」
真面目な顔で、有無を言わせぬ言葉ひとつ。こうまで来れば、わけを訊ねるほうが無粋というものだ。
笑いの息をつき、
「甘いにおいだな」
言うと、旨いぞ、と自信ありげな声が返る。
「喰っていいのか?」
「そのために持ってきたんだぞ」
「全部もらっていいんだな」
「だから、いいって言ってんだろ」
早くしろ、とばかりにもう一度こちらに押し出された腕を掴み、
「では、頂くとしよう」
ぐいと引き寄せた身体を影に通して移動させ、膝のあいだに降ろして背から抱き込む。混乱で硬直した翼の付け根に顔を寄せ、歯を立てて柔らかく噛みついた。
「ぎゃー!」
艶のない叫びと瞬時の大暴れに構わず、指で羽毛を撫で梳き、舌でつうと翼のふちを舐め上げていく。
「ひっ……おい、ちょ、何やってんだ馬鹿!」
「遠慮なく甘いにおいのする食事を味わっているところだが」
「違う違う違う! 俺が言ったのはパンだ!」
必死の声に、そうだったか? と白々と囁いてやる。
ずっとそのにおいをかいでいた当人は気付いていなかったのだろうが、部屋の戸が開いた時から既に、レイの翼はやわらかな芳香を振りまいていた。かごの中に漂うにおいよりよほど強く、甘やかに。
「全部もらっていいのだったな」
囁き、首筋に唇を落とすと、ぎしりと腕の中の身体がこわばる。
――もちろん、駄目だと言われても全て食べてやるのだが。
くつくつと笑いを鳴らす息の下で、わけのわからぬうちに食材にされた青年が身を真っ赤に茹で上がらせている。
本日の主菜:若鳥くるみ風味(丸ごと)
Fin.